恐怖の泉

2chの怖い話「師匠シリーズ」

引用元⇒『「ウニ」のプロフィール [pixiv]

僕のオカルト道の師匠は当時家賃9000円の酷いアパートに住んでいた。
鍵もドラム式で掛けたり掛けなかったりだったらしい。

ある朝目が覚めると見知らぬ男の人が枕元に座ってて
「おはようございます」
というので
「おはようございます」
と挨拶すると宗教の勧誘らしきことをはじめたから
「さようなら」
といってその人おいたまま家を出てきたという逸話がある。

防犯意識皆無の人で、僕がはじめて家に呼んでもらった時も当然鍵なんか掛けていなかった。

酒を飲んで2人とも泥酔して、気絶するみたいにいつのまにか眠っていた。
僕が夜中に耳鳴りのようなものを感じて目を覚ますと、横に寝ていた師匠の顔を除き込むようにしている男の影が目に入った。
僕は泥棒だと思い、一瞬パニックになったが体が硬直して声をあげることもできなかった。

僕はとりあえず寝てる振ふりをしながら、薄目をあけてそっちを凝視していると男はふらふらした足取りで体を起こすと玄関のドアのほうへ行きはじめた。
『いっちまえ。何も盗るもんないだろこの部屋』
と必死で念じていると男はドアを開けた。
薄明かりの中で一瞬振り返ってこっちを見た時、右頬に引き攣り傷のようなものが見えた。

男が行ってしまうと僕は師匠をたたき起こした。
「頼むから鍵しましょうよ!」
もうほとんど半泣き。しかし師匠とぼけて曰く
「あー怖かったー。でも今のは鍵しても無駄」
「なにいってるんすか。アフォですか。ていうか起きてたんすか」
僕がまくしたてると師匠はニヤニヤ笑いながら
「最後顔見ただろ」
頷くと、師匠は自分の目を指差してぞっとすることを言った。

「メガネ」

それで僕はすべてを理解した。
僕は視力が悪い。眼鏡が無いとほとんど何も見えない。
今も間近にある師匠の顔でさえ、輪郭がぼやけている。
「眼鏡ナシで見たのは初めてだろ?」
僕は頷くしかなかった。そういうものだとはじめて知った。

結局あれは行きずりらしい。何度か師匠の部屋に泊まったが2度と会うことはなかった。

師事

僕がド田舎から某中規模都市の大学に入学した時。
とりあえず入ったサークルにとんでもない人がいた。

大学受験期にストレスからかやたら金縛りにあって、色々怖い目にあったことから、オカルトへの興味が高まっていた時期で、そんな話をしているとある先輩が「キミィ。いいよ」と乗ってきてくれた。

その先輩は院生で仏教美術を専攻している人だった。
すっかり意気投合してしまい、見学にいったその日の夜ドライブに連れて行ってもらった。

夜食を食べに行こうと言って、えらい遠くのファミレスまで連れていかれた。
そこは郊外のガストで、「なんでここなんですか?」って表情をしてたら先輩曰く
「ここな、出るよ。俺のお気に入り」

アワアワ…

ファミレス自体始めての田舎者の僕は、それでさえ緊張してるのに出るってアンタ。
「俺が合図したら俯けよ。足だけなら見えるはず」
そんなことを言われて飯が美味いはずがない。
もさもさ食ってると、急に耳鳴りが・・・・・
冷や汗が出始めて、手が止ると先輩が
「オイ。俯けよ」
慌ててテーブルに目を落した。
しばらくじっとしてると、ていうか動けないでいると、視線の右端、テーブルのすぐ脇を白い足がすーっと通りすぎた。
いきなり肩を叩かれて我に返った。

「見たか?」

リングの公開前だったが、のちに見ると高山が街で女の足を見るシーンがこれにそっくりだった。
僕が頷くと
「今のが店員の足が一人分多いっていう このガストの怪談の出所。俺はまるまる見えるんだけどな。顔は見ない方が幸せだ」
なんなんだ、この人。
「早く食べろ。俺嫌われてるから」
俺もわりに幽霊は見る方なんだが、こいつはとんでもない人だとこの時自覚した。

そのあと空港へ向う山道の謎の霧だとか、先輩お気に入りの山寺巡りなどに連れまわされて、朝方ようやく解放された。
以来俺はその先輩を師匠と仰ぐことになった。
それは師匠の謎の失踪まで続く。

そうめん

これは怪談じゃないが話しておかなくてならない。

僕のオカルト道の師匠が、急にサークルに顔を出さなくなった。
師匠の同期の先輩がいうには大学にも来てないとのこと。
心配になって僕は師匠の家に直接いってみた。

すると案の定鍵が開いていたのでノックして乗り込むとゲッソリした師匠が布団に寝ている。
話を聞いてみると
「食欲が無くてもう1週間そうめんしか食べてない」
そりゃやつれるわ。と思い、僕が「何か食うもんないんですか? 死にますよ」といって部屋をあさったが何も出てこない。

「夏バテですか?」
と聞いたが答えない。何も答えてくれないので、もう知らんわい、と僕は薄情にも家を出た。

僕は師匠を恐れてはいたが、妙に彼は子供っぽいところがあり、ある面僕はナメていた。その頃にはため口もきいたし。

二日後にまた行くと、同じ格好で寝ている。
部屋から一歩も出ずに1日中ゴロゴロしているそうだ。
「そうめんばっかりじゃもちませんよ」
と僕がいうと師匠は急に うっぷ と胸を押えてトイレにかけこんだ。
背中をさすると、ゲロゲロと吐き始めた。
それを見ながら僕は
「白いそうめんしか食ってなくても、ゲロはしっかり茶色いんだなぁ」
と変なことを考えていたが、ふと気付いた。
そういえば・・・

もう一度あさったがやはり何もない。そうめんさえこの部屋にはないのだ。
「なに食ってるんスか先輩」
と詰め寄ったが答えてくれない。
なにかに憑かれてんじゃねーのかこの人?と思ったが、僕にはどうしようもない。

取りあえずむりやり病院に連れて行くと、栄養失調で即入院になった。
点滴打ってると治ったらしく4日後には退院してきたが、あの引きこもり中に何を食べていたのか、結局教えてくれなかった。

ただなぜかそれから口調が急に変わった。
「俺。オイコラ」から、大人しい「僕。~だね。~だよ」になり、子供っぽさが加速した。
その一回生の夏、僕は師匠とオカルトスポットに行きまくったのだが、おかげで頼りがいがなく色々ヤバイ目にあう。

失踪

俺が3回生(単位27。プw)の時、師匠はその大学の図書館司書の職についていた。
そのころ師匠はかなり精神的に参ってて、よく「そこに女がいる!」とか言っては何も無い空間にビクビクしていた。
俺は何も感じないが、俺は師匠より霊感がないので師匠には見えるんだと思って一緒にビビっていた。

変だと思いはじめたのは、3回生の秋頃。
師匠とはめったに会わなくなっていたが、あるとき学食で一緒になって同じテーブルについたとき
「後ろの席、何人見える?」
と言いだした。
夜九時前で学食はガラガラ。後ろのテーブルにも誰も座っていなかった。
「何かみえるんすか?」というと「いるだろう?何人いる?」とガタガタ震えだした。
耳鳴りもないし、出る時独特の悪寒もない。俺はその時思った。
憑かれてると思いこんでるのでは・・・・・
俺は思いついて
「大丈夫ですよ。なにもいませんよ」
というと
「そうか。そうだよね」
と安心したような顔をしたのだ。

確信した。霊はここにいない。
師匠の頭に住みついてるのだ。
『発狂』という言葉が浮んで俺は悲しくなり、無性に泣きたかった。

百話物語りもしたし、肝試しもしまくった。
バチ当たりなこともいっぱいしたし、降霊実験までした。
いいかげん取り憑かれてもおかしくない。
でも多分師匠の発狂の理由は違う。

食事をした3日後に師匠は失踪した。
探すなという置手紙があったので、動けなかった。
師匠の家庭は複雑だったらしく、大学から連絡がいって叔母とかいう人がアパートを整理しに来た。
すごい感じ悪いババアで、親友だったと言ってもすぐ追い出された。
師匠の失踪前の様子くらい聞くだろうに。結局それっきり。

しかし俺なりに思うところがある。
俺が大学に入った頃、まことしやかに流れていた噂。
「あいつは人殺してる」
冗談めかして先輩たちが言っていたが、あれは多分真実だ。

師匠はよく酔うと言っていたことがある。
「死体をどこに埋めるか。それがすべてだ」
この手のジョークは突っ込まないという暗黙のルールがあったが、そんな話をするときの目がやたら怖かった。
そして今にして思い、ぞっとするのだが、師匠の車でめぐった数々の心霊スポット。
中でもある山(皆殺しの家という名所)に行ったときこんなことを言っていた。

「不特定多数の人間が深夜、人を忍んで行動する。そして怪奇な噂。怨恨でなければ、個人は特定できない」

聞いた時はなにをいっているのか分らなかったが、多分師匠は心霊スポットを巡りながら埋める場所を探していたのではないだろうか。
俺がなによりぞっとするのは、俺が助手席に乗っているとき、あの車のトランクのなかにそれがあったなら・・・・・・

今思うとあの人についてはわからないことだらけだ。
ただ「見える」人間でも心の中に巣食う闇には勝てなかった。
性格が変わった、あのそうめん事件のころから師匠は徐々に狂いはじめていたのではないだろうか。

師匠の忘れられない言葉がある。
俺がはじめて本格的な心霊スポットに連れて行かれ、ビビリきっているとき師匠がこういった。

「こんな暗闇のどこが怖いんだ。目をつぶってみろ。それがこの世で最も深い闇だ」

東山ホテル

強烈な体験がある。
夏だからーという安直な理由でサークル仲間とオカルトスポットに行くことになった。東山峠にある東山ホテルという廃屋だ。
俺はネットで情報を集めたが、とにかく出るということなのでここにきめた。

とにかく不特定多数の証言から
「ボイラー室に焼け跡があり、そこがヤバイ」
などの情報を得たが特に
「3階で人の声を聞いた」
「何も見つからないので帰ろうとすると3階の窓に人影が見えた」
と、3階に不気味な話が集中しているのが気に入った。

雰囲気を出すために俺の家でこっくりさんをやって楽しんだあと12時くらいに現地へ向った。
男4女4の大所帯だったので、結構みんな余裕だったが東山ホテルの不気味な大きい影が見えてくると空気が変わった。
隣接する墓場から裏口に侵入できると聞いていたので、動きやすい服を来てこいとみんなに言っておいたが、肝心の墓場がない。
右側にそれらしいスペースがあるが広大な空き地になっている。
「墓なんてないぞ」
と言われたが、懐中電灯をかざして空き地の中に入ってみると雛壇のようなものがあり、変な形の塔が立っていた。
「おい、こっち何か書いてある」
言われて記念碑のみたいなものを照らして見ると
「殉職者慰霊塔」
ヒィィー

昭和3×年 誰某 警部補
みたいなことが何十と列挙されていた。
もうその佇まいといい、横の廃屋といい、女の子の半分に泣きが入った。
男まで「やばいっすよここ」と真剣な顔してい出だす始末。

俺もびびっていたが帰ってはサブすぎるので、なんとかなだめすかして奥にある沢を越えホテルの裏口に侵入した。

敷地から、1ヵ所開いていた窓を乗り越えて中に入ると部屋は電話機やら空き缶やら様々なゴミが散乱していた。
風呂場やトイレなど、汚れてはいたが使っていたそのままの感じだ。
部屋から廊下にでると剥がれた壁や捲くれあがった絨毯でいかにもな廃屋に仕上がっている。
懐中電灯が2個しかないのでなるべく離れない様にしながら各個室やトイレなどの写真をとりまくった。
特に台所は用具がまるまる残っていて、帳簿とかもあった。噂だがここはオーナーが気が狂って潰れたという。

1階を探索して少し気が大きくなったので2階へ続く階段を見つけて、のぼった。
2階のフロアについて、噂の3階へそのまま行こうかと話していた時だ。

急に静寂のなかに電話のベルが鳴り響いた。3階の方からだ。
女の子が悲鳴をあげてしまった。
連鎖するように動揺が広がって何人か下へ駆け降りた。
「落ちつけ。落ちつけって」
最悪だ。パニックはよけいな事故を起こす。
俺は上がろうか降りようか逡巡したが、ジリリリリリという気味の悪い音は心臓に悪い。
「走るな。ゆっくり降りろよ」
と保護者の気分で言ったが、懐中電灯を持っている二人はすでに駆け降りてしまっている。
暗闇がすうっと下りてきて、ぞっとしたので俺も慌てて走った。

広くなっている1階のロビーあたりで皆は固まっていた。
俺が着いたときに、ふっ、と電話は止った。

「もう帰る」
と泣いてる子がいて、気まずかった。男たちも青い顔をしている。
その時一番年長の先輩が口を開いた。俺のオカルト道の師匠だ。
「ゴメンゴメン。ほんとにゴメン」
そういいながらポケットから携帯電話を取り出した。
「こんなに驚くとは思わなかったから、ゴメンね」
曰く、驚かそうとして昼間に携帯を一台3階に仕込んでおいたらしい。
それで頃合をみはからってこっそりそっちの携帯に電話したと。
アフォか! やりすぎだっつーの。
もうしらけてしまったので、そこで撤退になった。

帰りしな師匠が言う。
「あそこ洒落にならないね」
洒落にならんのはアンタだと言いそうになったが師匠は続けた。
「僕たちが慰霊塔見てる時、ホテルの窓に人がいたでしょ」
見てない。あの時ホテルのほうを見るなんて考えもしない。
「夏だからDQNかと思ったけど、中に入ったら明らかに違った。10人じゃきかないくらい居た。上の方の階」
「居たって・・・」
「ネタのためにケータイもう一個買うほどの金あると思う?」
そこで俺アワアワ状態。

「あれはホテルの電話。音聞いたでしょ。じりりりりり」
たしかに。
みんなを送って行ったあと、師匠がとんでもないことを言う。
「じゃ、戻ろうかホテル」
俺は勘弁してくれと泣きつき、解放された。しかし師匠は結局一人でいったみたいだった。

後日どうなったか聞いてみると、ウソか本当かわからない表情で
「また電話が掛かってきてね。出ても受話器からジリリリリリリ。根性なしが!!って一喝したらホテル中のが鳴り出した。ヤバイと思って逃げた」

コジョウイケトンネル

師匠には見えて、僕には見えないことがしばしばあった。
夏前ごろ、オカルト道の師匠に連れられてコジョウイケトンネルに深夜ドライブを敢行した。

コジョウイケトンネルは隣のK市にある有名スポットで、近辺で5指に入る名所だ。
K市にはなぜか異様に心霊スポットが多い。道々師匠が見所を説明してくれた。

「コジョウイケトンネルはマジで出るぞ。手前の電話ボックスもヤバイがトンネル内では入りこんでくるからな」

入りこんでくるという噂は聞いたことがあった。

「特に3人乗りが危ない。一つだけ座席をあけていると、そこに乗ってくる」

僕は猛烈に嫌な予感がした。
師匠の運転席の隣にはぬいぐるみが座っていた。僕は後部座席で一人観念した。
「乗せる気ですね」
トンネルが見えてきた。

手前の電話ボックスとやらにはなにも見えなかったが、トンネル内に入るとさすがに空気が違う。
思ったより暗くて僕はキョロキョロ周囲を見まわした。
少し進んだだけで、これは出る、と確信する。耳鳴りがするのだ。
僕は右側に座ろうか左側に座ろうか迷って、真ん中あたりでもぞもぞしていた。
右側の対抗車線からくるか、左の壁側からくるのか。
ドキドキしていると、いきなり師匠が叫んだ。

「ぶっ殺すぞコラァッァ!!!」

僕が言われたのかと縮みあがった。
「頭下げろ、触られるな」
耳鳴りがすごい。しかし何も見えない。
慌てて頭を下げるが、見えない手がすり抜けたかと思うと心臓に悪い。
「逃げるなァ!! 逃げたらもう一回殺す!」
師匠が啖呵を切るのはなんどか見たが、これほど壮絶なのは初めてだった。

「おい、逃がすな、はやく写真とれ」
心霊写真用に僕がカメラを預かっていたのだ。しかし・・・
「どっちっスか」
「はやく、右の窓際」
「見えませんッ」
「タクシーの帽子!見えるだろ。逃げるなコラァ!殺すぞ」
「見えません!」
ちっ、と師匠は舌打ちして前を向き直った。
ブレーキ掛ける気だ・・・
俺は真っ青になって、めったやたらにシャッターを切った。

トンネルを出た時には生きた心地がしなかった。
後日現像された写真を見せてもらうとそこには窓と、そのむこうのトンネル内壁のランプが写っていた。
師匠は不機嫌そうに言った。
「俺から見て右の窓だった」
よく見ると窓にうつるカメラを構えた僕の肩の後ろに、うっすらとタクシー帽を被った初老の男の怯えた顔が写っていた。

奇形

俺にはオカルト道の師匠がいるのだが、やはり彼なりの霊の捉え方があってしばしば「霊とはこういうもの」と講釈をしてくれた。

師匠曰く、ほとんどの霊体は自分が死んでいることをよくわかっていない。
事故現場などにとどまって未だに助けを求めているやつもいれば、生前の生活行動を愚直に繰り返そうとするやつもいる。
そういうやつは普通の人間が怖がるものはやっぱり怖いのさ。
ヤクザも怖ければ獰猛な犬も怖い。キチガイも。
怒鳴ってやるだけで、可哀相なくらいびびるやつもいる。

問題は恫喝にもびびらないやつ。
自分が死んでいることを理解しているやつには関わらない方がいい。

といったことなどをよく言っていたが、これは納得できる話だしよく聞く話だ。
しかし、ある時教えてくれたことは師匠以外の人から聞いたことがなく、未だにそれに類する話も聞いたことがない。
俺の無知のせいかもしれないが、このスレの人たちはどう思うだろうか。

大学二年の夏ごろ、俺は変わったものを立て続けに見た。
最初ははじめて行ったパチンコ屋で、パチンココーナーをウロウロしていると、ある台に座るオッサンの異様に思わず立ち止まった。
下唇が異常なほど腫れあがって垂れ下がっている。
ほとんど胸に付くくらい、ボテっと。
そういう病気の人もいるんだなあと思い、立ち去ったがその次の日のこと。

街に出るのにバスに乗り、乗車口正面の席に座ってぼうっとしていると前の席に座る人の手の指が多いことに気付いた。
肘掛に乗せている手の指がどう数えても6本あるのだ。
左端に親指があるのはいいのだが反対の端っこに大きな指がもう一本生えている。多指症というやつだろうか。
その人は俺よりさきに降りていったが、他の誰もジロジロみている気配はなかった。
気付かないのか、と思ったがあとで自分の思慮のなさに思い至った。

そしてまた次の日、今度は小人を見た。
これもパチンコ屋だが、子供がチョロチョロしてるなあと思ったら顔を見ると中年だった。
男か女かよくわからない独特の顔立ちで、甲高い声で「出ないぞ」みたいなことを言っていた。
足もまがってるせいか、かなり小さい。背の低い俺の胸までもないくらい。
こんどはあまりジロジロ見なかったが、奇形を見るのが立て続いたのでそういうこともあるんだなあと不思議な気持ちになった。

このことを師匠に話すと、喜ぶと思いきや難しい顔をした。
師匠は俺を怖がらせるのが好きなので「祟られてるぞ」とか無責任なことを言いそうなものだったが。
暫く考えて師匠は両手を変な形に合わせてから口を開いた。

「一度見ると、しばらくはまた他人を注意して見るようになる。そういうこともあるさ。蓋然性の問題だね。ただ、さっきの話でひとつおかしいところがある。」
「乗車口正面の席は右手側に窓があるね」

何を言い出すのかと思ったが頷いた。

「当然その前の席も同じだ。さて、君が見た肘掛に乗せた手は右手でしょうか、左手でしょうか」

意味がわからなかったので、首を振った。

「窓際に肘掛があるバスもあるけど、君によく見え、また他の人が気づかないのを不思議に思うという状況からしてその肘掛は通路側だ。ということは親指が左側にあってはよくないね」

あっ、と思った。

「左手が乗ってなきゃいけないのに、乗っていたのはまるで右手だね。6本あったことだけじゃなく、そこにも気付くはずだ。聞いただけの僕にもあった違和感が、ジロジロ見ていた君にないのはおかしい」

これから恐ろしいことを聞くような気がして、冷や汗が流れた。

「他の2つの話では、女なのか男なのか容姿に触れた部分があったけどバスの話では無い。席を立ったのだから、見ているはずなのに。
見えているものの記憶がはっきりしない。君はあやふやな部分を無意識に隠し、それをただの奇形だと思おうとしている。
もう一度聞くがそれをジロジロ見ていたのは君だけなんだね?」

師匠は組んだ手を掲げた。

「いいかい。利き腕を出して。君は右だね。掌を下にして。その手の上に左の掌を下にしてかぶせて。親指以外が重なるように。そうそう。
左の中指が右の薬指に重なるくらいの感じ。左が気持ち下目かな。
残りの指も長さが合わなくても重なるように。すると指は6本になるね」

これはやってみてほしい。

「親指が2本になり、左右対象になったわけだ。どんな感じ?」

不思議な感覚だ。落ち着くというか。安心するというか。
普通に両手を合わせるよりも一体感がある。そのまま上下左右に動かすと特に感じる。

「これは人間が潜在意識のなかで望んでいる掌の形だよ。左右対象で、両脇の親指が均等な力で物を掴む。僕はこんな『親指が二本ある幽霊』を何度か見たことがある」
「あれは俺だけに見えていた霊だったと?」
「多分ね。たまにいるんだよ。生前のそのままの姿でウロつく霊もいれば、より落ちつくように、不安定な自分を保とうとするように、両手とも利き腕になっていたり、左右対象の6本指になっていたり・・・
本人も無意識の内に変形しているヤツが。」

師匠はそう言って擬似6本指で俺にアイアンクローを掛けてきた。

不思議な話だった。
そんな話は寡聞にして聞いたことがない。両手とも利き腕だとか・・・・
怪談本の類はかなり読んだけどそういうことに触れている本にはお目にかかったことが無い。
師匠のはったりなのか、それとも俺の知らない世界の道理なのか。いまは知りようもない。

歩くさん

僕の畏敬していた先輩の彼女は変な人だった。
先輩は僕のオカルト道の師匠であったが、彼曰く
「俺よりすごい」

仮に歩くさんとするが、学部はたしか文学部で学科は忘れてしまった。
大学に入ったはじめの頃に歩くさんと、サークルBOXで2人きりになったことがあった。
美人ではあるが表情にとぼしくて何を考えているかわからない人だったので僕ははっきりこの人が苦手だった。
ノートパソコンでなにか書いていたかと思うと急に顔を上げて変なことを言った。
「文字がね、口に入ってくるのよ」
ハア?
「時々夜文章書いてると、書いた文字が浮き上がって私の口に入りこんでくるのよ」
「は、はあ」

な、何?この人。

「わかる? それが止らないのね。書いた分より多いのよ。いつまでも口に入りつづけるのよ。そのあいだ口を閉じられないの。私はそれが一番怖い」

真剣な顔をして言うのだ。
当時は電波なんて言葉は流通してなかったがモロに電波だった。しかしただのキチ○ガイでもなかった。
頭は半端じゃなく切れた。師匠がやり込められるのを度々見ることがあった。

歩くさんはカンも鋭くて、バスが遅れることを言い当てたり、「テレビのチャンネルを変えろ」というので変えると巨人の松井がホームランを打つところだったりしたことがしばしばだった。
ある時師匠になにげなく歩くさんってなんなんですかねーと言ってみると
「エドガーケイシーって知ってるか?」
と言う。
「もちろん知ってますよ。予知夢だか催眠状態だかで色々言い当てる人でしょ」
「それ。たぶん、歩くも」
「どういうことですか」
「あいつの寝てるところを見せてやりてえよ。怖いぞ」
どう怖いのか、よくわからなかったがはぐらかされた。
「エドガーケイシーはちょっと専門外だが、やつみたいな後天的ショックじゃなく、歩くはおそらく先天的な体質だ」
「予知夢見るわけですか?」
「よく分らん。起きてるのかどうかも分らん。ただあたりもするし、外れもする。お前が金縛り中にみるっていう擬似体験に近いのかもしれん」

僕は金縛り中に「起きたつもりがまたベットの中」という、わりによく聞く現象にしばしばあっていたのだが、それが時に長時間、ひどい時は丸1日生活したあげく巻き戻るということがあり、自分でも高校時代に金縛りノートを作って研究していた。
師匠がそのノートをやたら気に入り、くれくれうるさいのであげてしまっていた。
今思うと、歩くさんの体質を調べる資料として欲しがったのではないだろうか。

「先輩は歩くさんを一人じめしてるわけですか」
師匠はニヤっと笑って懐からフロッピーを出して振ってみせた。
それはタイミングが良すぎたのでたぶんハッタリだが、師匠がなんらかの形で歩くさんファイルみたいなものを作っていたのは間違いない。

そんなことよりも僕がぞっとしたのは、歩くさんが卒業する時「洪水に気をつけろ」みたいなことを僕に言ったことだ。
そのことをすっかり忘れていたが、僕は就職に失敗して今田舎に帰っているのだが、実家はモロに南海大地震が来たら水没しかねない立地条件にあるのだ。
次の南海地震の死者は県内で最大3万人と最近の推計が出ている。
勘弁してくれ。マジで怖い。
あと何年で来るんだよー。メソメソ

これは俺の体験の中でもっとも恐ろしかった話だ。
大学1年の秋頃、俺のオカルト道の師匠はスランプに陥っていた。
やる気がないというか、勘が冴えないというか。

俺が「心霊スポットでも連れて行ってくださいよ~」と言っても上の空で、たまにポケットから1円玉を4枚ほど出したかとおもうと手の甲の上で振って
「駄目。ケが悪い」
とかぶつぶつ言っては寝転がる始末だった。
それがある時急に「手相を見せろ」と手を掴んできた。
「こりゃ悪い。悪すぎて僕にはわかんない。気になるよね?ね?」
勝手なことを言えるものだ。
「じゃ、行こう行こう」
無理やりだったが師匠のやる気が出るのは嬉しかった。

どこに行くとは言ってくれなかったが、俺は師匠に付いて電車に乗った。
ついたのは隣の県の中核都市の駅だった。
駅を出て、駅前のアーケード街をずんずん歩いて行った。

商店街の一画に『手相』という手書きの紙を台の上に乗せて座っているおじさんがいた。
師匠は親しげに話しかけ、「僕の親戚」だという。
宗芳と名乗った手相見師は「あれを見に来たな」というと不機嫌そうな顔をしていた。
宗芳さんは地元では名の売れた人で、浅野八郎の系列ということだった。
俺はよくわからないままとりあえず手相を見てもらったが、女難の相が出てること以外は特に悪いことも言われなかった。
金星環という人差し指と中指の間から小指まで伸びる半円が強く出ているといわれたのが嬉しかった。芸術家の相だそうな。
先輩は見てもらわないんですか?と言うと、宗芳さんは師匠を睨んで
「見んでもわかる。死相がでとる」
師匠はへへへと笑うだけだった。

夜の店じまいまできっかり待たされて、宗芳さんの家に連れて行ってもらった。
大きな日本家屋だった。手相見師は道楽らしかった。

晩御飯のご相伴にあずかり、泊まって行けというので俺は風呂を借りた。
風呂からでると、師匠がやってきて「一緒に来い」という。
敷地の裏手にあった土蔵に向うと、宗芳さんが待っていた。

「確かにお前には見る権利があるが、感心せんな」
師匠は硬いことを言うなよ、と土蔵の中へ入って行った。

土蔵の奥に下へ続く梯子のような階段があり、俺たちはそれを降りた。
今回の師匠の目的らしい。
俺はドキドキした。師匠の目が輝いているからだ。
こういう時はヤバイものに必ず出会う。

思ったより長く、まるまる地下二階くらいまで降りた先には、畳敷きの地下室があった。
黄色いランプ灯が天井に掛かっている。
六畳ぐらいの広さに壁は土が剥き出しで、畳もすぐ下は土のようだった。
もともとは自家製の防空壕だったと、あとで教わった。

部屋の隅に異様なものがあった。
それは巨大な壷だった。
俺の胸ほどの高さに、抱えきれない横幅。
しかも見なれた磁器や陶器でなく、縄目がついた素焼きの壷だ。
「これって、縄文土器じゃないんスか?」
宗芳さんが首を振った。
「いや、弥生式だな。穀物を貯蔵するための器だ」
そんなものがなんでここにあるんだ?と当然思った。
師匠は壷に近づくとまじまじと眺めはじめた。
「これはあれの祖父がな、戦時中のどさくさでくすねてきたものだ」
宗芳さんは俺でも知っている遺跡の名前をあげた。
その時、師匠が口を開いた。
「これが穀物を貯蔵してたって?」
笑ってるようだ。
黄色い灯りの下でさえ、壷は生気がないような暗い色をしていた。
宗芳さんが唸った。

「あれの祖父はな、この壷は人骨を納めていたという。見えると言うんだ。壷の口から覗くと、死者の顔が」

俺は震えた。
秋とはいえ、まだ初秋だ。肌寒さには遠いはずが、寒気に襲われた。

「ときに壷から死者が這い上がって来るという。死者は部屋に満ち、土蔵に満ち、外から閂をかけると町中に響く声で泣くのだという」

俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
くらくらする。頭の中を蝿の群れが飛び回っているようだ。
鼻をつく饐えた匂いが漂い始めた。

まずい。この壷はまずい。

霊体験はこれでもかなりしてきた。
その経験がいう。

師匠は壷の口を覗き込んでいた。
「来たよ。這いあがって来てる。這いあがれ。這いあがれ」
目が爛々と輝いている。
耳鳴りだ。蝿の群れのような。
今までにないほどの凄まじい耳鳴りがしている。

バチンと音がして灯りが消えた。
消える瞬間に青白い燐が壷から立つのが確かに見えた。

「いかん、外に出るぞ」

宗芳さんが慌てて言った。
「見ろよ! こいつらは2千年立ってもまだこの中にいるんだよ!」
宗芳さんは喚く師匠を抱えた。
「こいつら人を食ってやがったんだ! これが僕らの原罪だ!」
俺は腰が抜けたようだった。

「ここに来い。僕の弟子なら見ろ。覗き込め。この闇を見ろ。
此岸の闇は底無しだ。あの世なんて救いはないのさ。
食人の、共食いの業だ!僕はこれを見るたびに確信する!
人間はその本質から生きる資格のないクソだと!」

俺はめったやたらに梯子を上り、逃げた。
宗芳さんは師匠を引っ張り出し、土蔵を締めると今日はもう寝て明日帰れと言った。
その夜、一晩中強い風が吹き俺は耳を塞いで眠った。

その事件のあと、師匠は元気を、やる気を取り戻したが俺は複雑な気持ちになった。

降霊実験

大学一年目のGWごろから僕はあるネット上のフォーラムによく顔を出していた。
地元のオカルト好きが集まる所で、深夜でも常に人がいて結構盛況だった。

梅雨も半ばというころにそこで「降霊実験」をしようという話が持ち上がった。
常連の人たちはもう何度かやっているそうで、オフでの交流もあるらしかった。
オカルトにはまりつつあった僕はなんとか仲間に入りたくて
「入れて入れて。いつでもフリー。超ひま」
とアピールしまくってokがでた。
中心になっていたkokoさんという女性が彼女曰く霊媒体質なのだそうで、彼女が仲間を集めて降霊オフをよくやっていたそうである。

日にちが決まったが、都合がつく人が少なくて
koko みかっち 京介 僕
というメンバーになった。
人数は少ないが3人とも常連だったので
「いいっしょー?」
もちろん異存はなかったが、僕は新入りのくせにある人を連れて行きたくてうずうずしていた。
それは僕のサークルの先輩で僕のオカルト道の師匠であり、霊媒体質でこそないがいわゆる「見える」人だった。
この人の凄さに心酔しつつあった僕はオフのメンバーに自慢したかったのだ。
しかし師匠に行こうと口説いても頑として首を縦に振らない。
めんどくさい。ばかばかしい。子守りなんぞできん。
僕はなんとか説得しようと詳しい説明をしていたら、kokoさんの名前を出した所で師匠の態度が変わった。

「やめとけ」

というのである。

なぜですか、と驚くと「怖い目にあうぞ」口振りからすると知っている人のようだったが、こっちは怖い目にあいたくて参加するのである。
「まあ、とにかく俺は行かん。何が起きてもしらんが、行きたきゃ行け」
師匠はそれ以上なにも教えてくれなかったが、師匠のお墨付きという、思わぬ所からのオフの楽しみが出てきた。

当日市内のファミレスで待ち合わせをした。
そこで夕食を食べながらオカルト談義に花を咲かせ、いい時間になったら会場であるkokoさんのマンションに移動という段取りだった。
kokoさんは綺麗な人だったが、抑揚のないしゃべり方といい気味の悪い印象をうけた。
みかっちさんはよく喋る女性で、kokoさんは時々それに相槌をこっくり打つという感じだ。
驚いたことに2人とも僕の大学の先輩だった。
「キョースケはバイトあるから、あとで直接ウチにくるよ」
とkokoさんがいった。
僕はなんとなく恋人どうしなのかなあ、と思った。
そして夜の11時を回るころみかっちさんの車で3人でマンションに向かった。

京介さんからさらに遅れるという連絡が入り、もう始めようということになった。
僕は俄然ドキドキしはじめた。

kokoさんはマンションの一室を完全に目張りし、一切の光が入らないようにしていた。
こっくりさんなら何度もやったけれど、こんな本格的なものははじめてだ。
交霊実験ともいうが、降霊実験とはつまり霊を人体に降ろすのである。
真っ暗な部屋にはいると、ポッと蝋燭の火が灯った。

「では始めます」

kokoさんの表情から一切の感情らしきものが消えた。

「今日は初めての人がいるので説明しておきますが、これから何が起こっても決して騒がず、心を平静に保ってください。心の乱れは必ず良くない結果を招きます」

kokoさんは淡々と喋った。みかっちさんも押し黙っている。
僕は内心の不安を隠そうと、こっくりさんのノリで「窓は開けなくてもいいんですか?」と言ってみた。
kokoさんは能面のような顔で僕を睨むと囁いた。

「窓は霊体にとって結界ではありません。通りぬけることを妨げることはないのです。しかしこれから行なうことは私の体を檻にすること。うまく閉じこめられればいいのですが、万が一・・・・」

そこで口をつぐんだ。僕はやりかえされたわけだ。
逃げ出したくなるくらい心臓が鳴り出した。しかしもう後戻りはできない。
降霊実験が始まった。

僕は言われるままに目を閉じた。
蝋燭の火が赤くぼんやりと瞼にうつっている。
どこからともなくkokoさんの声が聞こえる。
「・・・ここはあなたの部屋です。見覚えのある天井。窓の外の景色。
・・・さあ起き上がってみてください。伸びをして、立つ。
・・・すると視界が高くなりました。あたりを見まわします。
・・・扉が目に入りました。あなたは部屋の外に出ようとしています」

これは。
あれではないだろうか。目をつぶって頭の中で自分の家を巡るという。
そしてその途中でもしも・・・という心理ゲームだ。

始める直前にkokoさんがいった言葉が頭をかすめた。

『普通は霊媒に降りた後、残りの人が質問をするという形式です。しかし私のやりかたでは、あなた方にも<直接>会ってもらいます』

僕は事態を飲みこめた。恐怖心は最高潮だったが、こんな機会はめったにない。
鎮まれ心臓。鎮まれ心臓。
僕はイメージの中へ没頭していった。

く。
という変な声がしてkokoさんが体を震わせる気配があった。
「手を繋いでください。輪に」
目を閉じたまま手探りで僕らは手を繋いだ。
フッという音とともに蝋燭の火照りが瞼から消え、完全な暗闇が降りてきた。
かすかな声がする。

「・・・あなたは部屋をでます。廊下でしょうか。キッチンでしょうか。
いつもと変わりない、見なれた光景です。あなたは十分見まわしたあと、次の扉を探します・・・」

僕はイメージのなかで下宿ではなく、実家の自室にいた。
すべてがリアルに思い描ける。
廊下を進み、両親の寝室を開けた。
窓から光が射し込んでいる。畳に照り返して僕は目を細める。
僕は階段を降り始めた。キシキシ軋む音。手すりの感触。
すぐ左手に襖がある。客間だ。いつも雨戸を降ろし、昼間でも暗い。
僕は子供の頃ここが苦手だった。

かすかな声がする。
「・・・あなたは歩きながら探します。・・・いつもと違うところはないか。・・・いつもと違うところはないか」
いつもと違うところはないか。僕は客間の電気をつけた。

真ん中の畳の上に切り取られた手首がおちていた。
僕は息を飲んだ。

人間の右手首。切り口から血が滴って畳を黒く染めていた。
この部屋にいてはいけない。
僕は踵を返して部屋を飛び出した。
廊下を突っ切り、1階の居間に飛びこんだ。
ダイニングのテーブルの上に足首がころがっていた。
僕はあとずさる。

まずい。失敗だ。この霊は、やばい。
もう限界だ。僕は目を明けようとした。
開かなかった。僕は叫んだ。

「出してくれ!」

だがその声は誰もいない居間に響くだけだった。
僕は走った。家の勝手口に僕の靴があった。
履く余裕もなく、ドアをひねる。だが押そうが引こうが開かない。
「出してくれ!」
ドアを両手で激しく叩いた。
どこからともなくかすかな声がする。しかしそれはもう聞き取れない。
僕は玄関の方へ走った。途中で何かにつまずいて転んだ。
痛い。痛い。本当に痛い。
つまづいたものをよく見ると、両手足のない人間の胴体だった。

玄関の扉の郵便受けがカタンと開いた。
何かが隙間からでてこようとしていた。
僕はここで死ぬ。そんな予感がした。

そのときチャイムの音が鳴った。
ピンポンピンポンピンポンピンポン
続いてガチャっという音とともに明るい声が聞こえた。

「おーっす! やってるか~」

気がつくと僕は目を開いていた。
暗闇だ。だが、間違いなくここはkokoさんのマンションだ。

「おおい。ここか」

部屋のドアが開き、蛍光灯の眩しい光が射し込んできた。
kokoさんと、みかっちさんの顔も見えた。
「おっと邪魔したか~? スマン、スマン」
助かった。安堵感で手が震えた。
光を背に扉の向こうにいる人が女神に見えた。
その時kokoさんが、邪魔したわと小さく呟いたのが聞こえた。
僕は慌ててkokoさんから手を離した。僕は全身に嫌な汗をかいていた。

僕は後日、師匠の家で事の顛末を大いに語った。
しかしこの恐ろしい話を師匠はくすくす笑うのだ。
「そいつは見事にひっかかったな」
「なにがですか」
僕はふくれた。
「それは催眠術さ」
「は?」
「その心理ゲームは本来そんな風に喋りつづけてイメージを誘導することはない。いつもと違うところはないか。なんてな」
僕は納得がいかなかった。しかし師匠は断言するのだ。
「タネをあかすと、俺が頼んだんだ。お前が最近調子に乗ってるんでな。ちょっと脅かしてやれって」
「やっぱり知りあいだったんですか」
僕はゲンナリして臍のあたりから力が抜けた。
「しかしハンドルネーム『京介』で女の人だったとは。僕はてっきりkokoさんの彼氏かと思いましたよ」
このつぶやきにも師匠は笑い出した。
「そりゃそうだ。kokoは俺の彼女だからな」

翌日サークルBOXに顔を出すと、師匠とkokoさんがいた。
「このあいだはごめんね。やりすぎた」
頭を下げるkokoさんの横で師匠はニヤニヤしていた。
「こいつ幽霊だからな。同じサークルでも初対面だったわけだ」
kokoさんは昼の陽の下にでてきても青白い顔をしていた。
「ま、お前も霊媒だの下らんこといって人をだますなよ。俺が催眠術の触りを教えたのはそんなことのためじゃない」
kokoさんはへいへいと横柄に返事をして僕に向き直った。
「芳野 歩く といいます。よろしくね、後輩」
それ以来僕はこの人が苦手になった。

その後で師匠はこんなことをいった。
「しかし、手首だの胴体だのを見たってのはおかしいな。いつもと違うところはないか、と言われてお前はそれを見たわけだ。お前の中の幽霊のイメージはそれか?」
もちろんそんなことはない。
「なら、いずれそれを見るかもな」
「どういうことですか」
「ま、おいおい分るさ」
師匠は意味深に笑った。

不可解な記憶がある。

僕は小学生のころ団地に住んでいて、すぐ近くにあった田んぼが休耕している季節にはそこでよく遊んでいた。
乾いてひび割れた地面からは雑草が顔を出していて、カエルをを踏んづけてしまうこともあった。

独特の生臭いような空気を吸いながら駆けまわった。
僕の原風景だ。

仲良しだったケンちゃんと2人で、夕暮れのなか田んぼでボールを蹴りあっていた時だった。
ケンちゃんがボールを蹴り返してこない。
おーい、ケンちゃん。と呼んでもぼーとして突っ立っている。

「あれ」

ケンちゃんが僕の後ろを指差した。
ふり返ると真っ赤な夕焼けの向こうに巨大なキノコ曇が立っていた。
山のはるか彼方。けれど見上げるほど大きい。
僕は驚いてベソをかいた。ケンちゃんが言う。

「原爆がどこかに落ちたんだよ」

僕は逃げるように家に帰り、布団に頭を突っ込んで泣いた。
いま思い出すたび不思議な気持ちになる。
あれはなんだったのだろう。

水の音

大学1年の夏の始めごろ、当時俺の部屋にはクーラーはおろか扇風機もなくて毎日が地獄だった。
そんな熱帯夜にある日電話が掛かって来た。

夜中の一時くらいで、誰だこんな時間に!と切れ気味で電話に出た。
すると電話口からはゴボゴボゴボ・・・という水のような音がする。
水の中で無理やりしゃべっているような感じだ。
混線かなにかで声が変になっているのかと思ったが、喋っているにしては間が開きすぎているような気がする。
活字にしにくいが、あえて書くなら
ゴボゴボ・・・ゴボ・・・シュー・・・・ゴボ・・・・シュー・・・シュー・・・ゴボ・・・・ゴボリ・・・

いつもならゾーっするところだが、その時は暑さでイライラしていて頭から湯気が出ていたので
「うるせーな。誰じゃいコラ」
と言ってしまった。
それでも電話は続き、ゴボゴボと気泡のような音が定期的に聞こえた。
俺も意地になって、「だれだだれだだれだだれだ」と繰り返していたが10分ぐらい立っても一向に切れる気配がないので、いいかげん馬鹿らしくなってこっちからぶち切った。

それから3ヶ月くらいたって、そんなことをすっかり忘れていたころに留守電にあのゴボゴボゴボという音が入っていた。
録音時間いっぱいにゴボ・・・ゴボ・・・・シュー・・・・ゴボ・・・・

気味が悪かったので消そうかと思ったが、なんとなく友人たちの意見を聞きたくて残していた。
それで3日くらいしてサークルの先輩が遊びに来ると言うので、そのゴボゴボ以外の留守録を全部消して待っていた。
先輩は入ってくるなり、「スマン、このコーヒー飲んで」自販機の缶コーヒーを買ってくるつもりが、なぜか『あったか~い』の方を間違えて買ってしまったらしい。まだ九月で残暑もきついころだ。
しかし例の留守電を聞かせると、先輩はホットコーヒーを握り締めてフーフー言いながら飲みはじめた。

先輩は異様に霊感が強く、俺が師匠と仰ぐ人なのだがその人がガタガタ震えている。
「もう一回まわしましょうか?」
と俺が電話に近づこうとすると「やめろ!」とすごまれた。

「これ、水の音に聞こえるのか?」
青い顔をしてそう聞かれた。
「え? 何か聞こえるんですか?」
「生霊だ。まとも聞いてると寿命縮むよ。今も来てる。首が」

俺には心当たりがあった。当時俺はある女性からストーキングまがいのことをされていて相手にしないでいるとよく睡眠薬を飲んで死ぬ、みたいなこを言われていた。

「顔が見えるんですか?女じゃないですか?」
「そう。でも顔だけじゃない、首も。窓から首が伸びてる」
俺はぞっとした。

生霊は寝ている間本人も知らない内に首がのびて、愛憎募る相手の元へやってくると聞いたことがあった。
「な、なんとかしてください」
俺が泣きつくと先輩は逃げ出しそうな引き腰でそわそわしながら
「とにかくあの電話は掛かってきてももう絶対に聞くな。本人が起きてる時にちゃんと話しあうしかない」
そこまで言って天井あたりを見あげ、目を見張った。
「しかもただの眠りじゃない。これは・・・へたしたらこのまま死ぬぞ。見ろよ、首がちぎれそうだ」
俺には見えない。
引きとめたが先輩は帰ってしまったので、俺は泣く泣くストーキング女の家に向った。

以降のことはオカルトから逸脱するし、話したくないので割愛するが、結局俺はそれから丸二年ほどその女につきまとわれた。
正直ゴボゴボ電話より、睡眠薬自殺未遂の実況中継された時の電話ほうが怖かった。

魚男

ああ、夏が終わる前にすべての話を書いてしまいたい。
もう書かないといった気がするが、そうして終わりたい。

俺色々ヤバイことしたし、ヤバイ所にも行ったんだけど、幸いとり憑かれるなんてことはなかった。
一度だけ除けば。

大学1年の秋ごろ、サークルの仲間とこっくりさんをやった。俺の下宿で。それも本格的なやつ。
俺にはサークルの先輩でオカルト道の師匠がいたのだが、彼が知っていたやり方で、半紙に墨であいうえおを書くんだけど、その墨に参加者のツバをまぜる。
あと、鳥居のそばに置く酒も2日前から縄を張って清めたやつ。
いつもは軽い気持ちでやるんだけど、師匠が入るだけで雰囲気が違ってみんな神妙になっていた。

始めて10分くらいしてなんの前触れもなく部屋の壁から白い服の男がでてきた。
青白い顔をして無表情なんだけど、説明しにくいが「魚」のような顔だった。

俺は固まったが、他の連中は気付いていない。
こっくりさん こっくりさん
と続けていると、男はこっちをじっと見ていたがやがてまた壁に消えていった。
消える前にメガネをずらして見てみたが、輪郭はぼやけなかった。
なんでそうなるのか知らないが、この世のものでないものは裸眼、コンタクト関係ない見え方をする。

内心ドキドキしながらもこっくりさんは無事終了し、解散になった。
帰る間際に師匠に「あれ、なんですか」と聞いた。
俺に見えて師匠が見えてないなんてことはなかったから。
しかし「わからん」の一言だった。

その次の日から奇妙なことが俺の部屋で起こりはじめた。
ラップ音くらいなら耐えられたんだけど、怖いのは夜ゲームとかしていて何の気もなく振りかえると、ベットの毛布が人の形に盛りあがっていることが何度もあった。
それを見てビクッとすると、すぐにすぅっと毛布はもとに戻る。
ほかには耳鳴りがして窓の外を見ると、だいたいあの魚男がスっと通るところだったりした。

見えるだけならまだいいが、毛布が実際に動いているのは精神的にきつかった。
もうゲッソリして師匠に泣きついた。

しかし師匠がいうには、あれは人の霊じゃないと。
人の霊なら何がしたいのか、何を思っているのか大体わかるが、あれはわからない。
単純な動物霊とも違う。
一体なんなのか、正体というと変な感じだがとにかくまったく何もわからないそうだ。
時々そういうものがいるそうだが、絶対に近寄りたくないという。

頼りにしている師匠がそう言うのである。こっちは生きた心地がしなかった。
こっくりさんで呼んでしまったとしか考えられないから、またやればなんとかなるかと思ったけど、「それはやめとけ」と師匠。
結局半月ほど悩まされた。

時々見える魚男はうらめしい感じでもなく、しいて言えば興味本意のような悪意を感じたが、それもどうだかわからない。
人型の毛布もきつかったが、夜締めたドアの鍵が朝になると開いているのも勘弁して欲しかった。

夜中ふと目が覚めると、暗闇の中でドアノブを握っていたことがあった。
自分で開けていたらしい。
これはもうノイローゼだと思って、部屋を引っ越そうと考えてた時、師匠がふらっとやってきた。
3日ほど泊めろという。
その間、なぜか一度も魚男は出ず怪現象もなかった。

帰るとき「たぶんもう出ない」といわれた。そしてやたらと溜息をつく。体が重そうだった。
何がどうなってるんですか、と聞くとしぶしぶ教えてくれた。

「○○山の隠れ道祖神っての、あるだろ」

結構有名な心霊スポットだった。かなりヤバイところらしい。
うなずくと

「あれ、ぶっこわしてきた」

絶句した。
もっとヤバイのが憑いてる人が来たから魚男は消えたらしい。
半分やけくそ気味でついでに俺の問題を解決してくれたという。
なんでそんなもの壊したのかは教えてくれなかった。師匠は「まあこっちはなんとかする」と言って力なく笑った。

月の湧く沢

大学2年の夏休みに、知り合いの田舎へついて行った。
師匠と仰ぐオカルト好きの先輩のだ。

師匠はそこで何か薄気味の悪いものを探しているようだったが、俺は特にすることがなくて、妙に居心地の悪い師匠の親戚の家にはあまり居ず、毎日なにもない山の中でひたすら暇をつぶしていた。

4日目の夜は満月だった。
晩御飯を居候先で食べ終えた俺は、さっそくどこかに消えた師匠を放っておいて、居づらいその家から散歩に出た。
特にあてもなく散策していると、ふと通りがかった場所でかすかな違和感を覚えて立ち止まった。

やや奥まった山中とはいえ月明かりに照らされていて、昨日も一昨日も通りがかった小さな沢なのだが…枯れ沢だったはずが今は不思議なことにキラキラと光が揺れいてる。
近くに寄ってみると、確かに昨日まで枯れていた沢に水が湧いていて、綺麗な月が水面に映っていた。
このところ雨も降っていないのになァ…と首をかしげながら居候先の家に帰ると、師匠も帰ってきていた。

さっそくそのことを話すと、「それは月の湧く沢だよ」という。
どうやらこのあたりでは有名な沢で、普段は枯れているが満月の夜にだけ、湧き水で溢れるのだという。
どうしてそんな不思議なことが起こるんだろうと思っていると、師匠はあっさりといった。

「この村から標高で300メートルくらい下がったところにダム湖があるんだけど、たぶんそのせいだと思う。あれが出来てから、湧き水の場所も随分変わったと年寄りはいってる。地下水脈の流れが変わったんだよ」

しかし、湧いたり枯れたりというのは変な気がする。
しかも満月の夜にだけ湧くというのは出来すぎている。
ところが「潮汐力だよ」とまたも師匠はあっさりいった。
月の引力が地球に与える影響はわずかなものだが、液体である海などはモロにその影響を受ける。
潮の満ち干きがその代表で、その力を「潮汐力」と呼ぶ。
そして満月の日はその力が最大になり、大規模なダム湖もまたその影響を受けたのではないか、と師匠はいうのである。

「湖水のわずかな圧力の変化が、ダム湖に流れ込む地下水への圧力の変化となり、湧き水に微妙な影響を与えたんじゃないかな」
「なるほど」

ひっかかるところもあったとはいえ、俺はその答えに素直に感心した。

「ただね、この村ではあの沢はあくまでも『月の湧く沢』であって、そんな無粋な構造によるものじゃない。こんな言い伝えがあるんだ。
『あの沢に湧いた月を飲んだ者には霊力が宿る』」

ロマンティックな話だ。
でも、霊力、という響きに不吉なものを感じたのも確かだ。
案の定、師匠はいった。
「じゃ、行こうか」

暗がりの中を、懐中電灯をしぼって俺たちは進んだ。
沢はそんなに遠くない。よそ者の二人がこんな時間にこそこそ出歩いているのを見られたらますます居づらくなりそうだったが、幸い誰ともすれ違わなかった。

沢に着くと俺はほっとした。
ひょっとすると、幻のように水が消えているのではないかという気がしていたのだ。
山の斜面に寄り添うような水面に満月がゆらゆらと揺れている。
師匠は沢の淵に屈みこんで、目を爛々とさせながら眼下の月を見ている。
俺は「潮汐力だよ」といった師匠の答えに抱いた、ひっかかりのことを考えていた。

理科は苦手だったが、たしかにそんな力が存在することは知っている。
しかし…
潮汐力が最大になるのは満月の日だけだっただろうか?
おぼろげな記憶ではあるが、確か月の消えた「新月」の日にも潮汐力は最大になるのではなかったか。
では、満月の日にだけ湧くというこの沢はいったい何だ?
師匠の目が爛々としている。
なにより師匠の目が、「潮汐力」という答えを否定しているようだった。
俺は得体の知れない寒気に襲われた。

チャポ という音を立てて、師匠が沢の水を掬っている。
飲む気だ。

師匠は掬い取った手の平に満月を見ただろうか。
一心不乱に水を飲みはじめた。何度も何度も手を差し入れて。
俺は立ち尽くしたままそれを見ている。
やがて信じられないものを俺は見て、ヘタヘタと座り込んだ。
気がつくと師匠の手が止まっていて、その下には水面が揺れている。
月が、もう映っていなかった。
消えた。
俺は逃げ出したくなる気持ちを抑え、この出来事に合理的な解釈を与え ようとしていた。
『潮汐力だよ』
というそんな力強い言葉のような。

動けないでいると師匠が何事もなかったかのように歩み寄ってきて、「もう月も飲んだし、帰ろう」といった。
その瞬間わかった。
へたりこんだまま空を見上げて、俺はバカバカしくなって笑った。
いつのまにか空は曇って、月は隠れていたのだ。
本当にバカバカしかった。
新月の謎さえ忘れていれば。

次の日、師匠があっさり教えてくれた。
「あのダムはね、30日ごとに試験放流をするんだ」
その周期と満月の周期とがたまたまかぶっているというのだ。
月の満ち欠けが一周するまでの期間を朔望月といい、平均するとおおよそ29.53日。30日ごとの試験放流では一年間で6日ほどズレが生じるはずだが、放流予定日が休日だった場合はその前日に前倒しすることになっており、その周期が朔望月に近づくのだという。
「でもぴったり満月の日にあの沢が湧くのはめずらしいらしいけどね」
力が抜けた。地下水の圧力変化の原因は潮汐力ですらなく、ただのダムの放流だった。
ようするに担がれたわけだ。

しかし、あの夜起こったことの本当の意味を知った時にはもう、師匠はいなかった。
数年後、師匠の謎の失踪のあとあの夜のことを思い出していて、まだひとつだけ解けていない謎に気がついたのだ。
あの夜、俺と師匠は懐中電灯をしぼって沢に向かった。月の湧くという沢に。

空はいつから曇っていたのか。

人は死ぬとどうなる?

大学時代、よく散歩をした公園にはハトがたくさんいた。
舗装された道に、一体なにがそんなに落ちているのか、やたら歩き回っては地面をくちばしでつついて行く。
なかでも、よく俺が腰掛けてぼーっとしていたベンチの近くに、いつもハトが群れをなしている一角があった。
何羽ものハトがしきりに地面をつついては、何かをついばんでいる。

(このベンチに座って、弁当の残りカスでも投げている人でもいるんだろう)
と思っていた。

2回生の春。
サークルの新入生歓迎コンパを兼ね、その公園の芝生に陣取って花見をした。綺麗な桜が咲いていた。
別に変なサークルではなかったが、ひとりオカルトの神のような先輩がいて、俺は師匠と呼んで慕ったり見下したりしていた。
その師匠がめずらしく酔っ払って、ダウンしていた。

誰かがビール片手に
「最初に桜の下には死体が埋まってるって言ったのは、誰なんだろうなあ」
と言った。
すると師匠がムクっと起き上がって
「桜の下に埋まってる幸せなヤツばかりとは限るまい」
と、ろれつの回らない舌でまくしたてた。

すぐに他の先輩たちが師匠を取り押さえた。
暴走させると、新入生がヒクからだ。
俺は少し残念だった。
「ちょっと休ませてきますよ」
と言って、いつも座っているベンチまで連れて行き、横にならせた。
しばらくしてから、水を持って隣に腰掛けた。

「さっきはなにを言おうとしたんです?」
師匠は荒い息を吐きながら
「そこ、ハトがいるだろ」
と指をさした。
ふと見ると、すでに日が落ちて暗い公園の中にハトらしい影がうごめいていた。
一斉にハトたちは顔を上げて、小さなふたつの光がたくさんこちらを見た。

「おまえに大事なことを教えてやろう」

酔っているせいか、師匠がいつもと違う口調で俺に話しかけた。
思わず身構える。

「いや、前にも言ったかな・・・人間が死んだらどこへ行くと思う?」
「はぁ? あの世ですか」
師匠は深いため息をついた。

「どこにも行けないんだよ。無くなるか、そこに在るかだ」

よくわからない。
師匠はいろいろなことを教えてくれはするが、こんな哲学的なというか、宗教がかったことをいうのは珍しかった。

「だから、隣にいるんだ」
人間にとっての幽霊とか、そういうもののことを言っているのだと気づくまで少し時間がかかった。

「そこでハトに食われてるヤツだって、無くなるまで在って、それで、終わりだ」

え?
目をこすったが、なにも見えない。

「すごく弱いやつだ。もう消えかかってる。ハトはなにを食ってるか分かってないけど、食われてる方は『食われたら、無くなる』って思ってる。だから消える」
「わかりません」

たいていの鳥はふつうにヒトの霊魂が見えるんだぜ、と師匠はつぶやいた。
いつもハトが集まっていたところで、むかし人が死んだと言うんだろうか。
「ほんの少し離れてるだけなのになあ」
ハトに食われるより、桜に食われた方がマシだ。
酒くさいため息をつきながらそう言ったきり、師匠は黙った。芝生の向こうではバカ騒ぎが続いている。

「師匠は自分が死ぬときのことを考えたことがありますか」
いつも聞きたくて、なんとなく聞けなかったことを口にした。
「おんなじさ。とんでもない悪霊になって、無くなるまで在って、それで、終わり」
ワンステップ多かったが、俺は流した。

首をもがれたバッタ

子どものころ、バッタの首をもいだことがある。
もがれた首はキョロキョロと触覚を動かしていたが、胴体のほうもピョンピョンと跳び回り続けた。
怖くなった俺は首を放り出して逃げだしてしまった。

その記憶がある種のトラウマになっていたが、大学時代にそのことを思い出すような出来事があった。

怖がりのくせに怖いもの見たさが高じて、よく心霊スポットに行った。
俺にオカルトを手ほどきした先輩がいて、俺は師匠と呼び、尊敬したり貶したりしていた。
大学1回生の秋ごろ、その師匠と相当やばいという噂の廃屋に忍び込んだ時のこと。
もとは病院だったというそこには、夜中に誰もいないはずの廊下で足音が聞こえる、という逸話があった。

その話を仕込んできた俺は、師匠が満足するに違いないと、楽しみだった。しかし
「誰もいないはずはないよ。聞いてる人がいるんだから」
そんな森の中で木を切り倒す話のような揚足取りをされて、少しムッとした。
しかるにカツーン、カツーンという音がほんとに響き始めた時には、怖いというより「やった」という感じだった。
師匠の霊感の強さはハンパではないので、「出る」という噂の場所ならまず確実に出る。
それどころか火のない所にまで煙が立つほどだ。

「しっ」

息を潜めて師匠と俺は、多床室と思しき病室に身を隠した。
真っ暗な廊下の奥から足音が均一なリズムで近づいてくる。

「こどもだ」
と師匠が囁いた。
歩幅で分かる。と続ける。

誰もいないのに足音が聞こえる、なんていう怪奇現象に会って、その足音から足の持ち主を推測するなんていう発想は、さすがというべきか。
やがて、二人が隠れている病室の前を足音が。
足音だけが、通り過ぎた。
もちろん動くものの影も、気配さえもなかった。ほんとだった。

膝はガクガク震えているが、乗り気でなかった師匠に勝ったような気になって、嬉しかった。
ところが微かな月明かりを頼りに師匠の顔を覗き込むと、蒼白になっている。

「なに、あれ」

俺は心臓が止まりそうになった。
師匠がビビッている。はじめてみた。
俺がどんなヤバイ心霊スポットにでも行けるのは横で師匠が泰然としてるからだ。
どんだけやばいんだよ!
俺は泣いた。

「逃げよう」

というので、一も二もなく逃げた。
廃屋から出るまで、足音がついて来てるような気がして、生きた心地がしなかった。
ようやく外にでて、師匠の愛車に乗り込む。

「一体なんですか」
「わからない」

曰く、足音しか聞こえなかったと。
いや、もともとそういうスポットだからと言ったが、「自分に見えないはずはない」と言い張るのだ。
あれだけはっきりした音で人間の知覚に働きかける霊が、ほんとうに音だけで存在してるはずはないというのである。
俺は、
(この人そこまで自分の霊感を自負していたのか)
という驚きがあった。

半年ほどたって、師匠が言った。
「あの廃病院の足音、覚えてる?」
興奮しているようだ。
「謎が解けたよ。たぶん」
ずっと気になっていて、少しづつあの出来事の背景を調べていたらしい。
「幻肢だと思う」
と言う。

あの病院に昔、両足を切断するような事故にあった女の子が入院していたらしい。
その子は幻肢症状をずっと訴えていたそうだ。なくなったはずの足が痒い、とかいうあれだ。
その幻の足が、今もあの病院にさまよっているというのだ。
俺は首をもがれたバッタを思い出した。

「こんなの僕もはじめてだ。オカルトは奥が深い」

師匠はやけに嬉しそうだった。
俺は信じられない気分だったが
「その子はその後どうなったんです?」
と聞くと、師匠は冗談のような口調で冗談としか思えないことを言った。
「昨日殺してきた」

夢の鍵を求めて

大学2回生の夏休み。
オカルトマニアの先輩に「面白いものがあるから、おいで」といわれた。

師匠と仰ぐその人物にそんなことを言われたら行かざるを得ない。
ノコノコと家に向かった。
師匠の下宿はぼろいアパートの一階で、あいかわらず鍵をかけていないドアをノックして入ると、畳の上に座り込んでなにかをこねくり回している。
トイレットペーパーくらいの大きさの円筒形。金属製の箱のようだ。表面に錆が浮いている。

「その箱が面白いんですか」
と聞くと
「開けたら死ぬらしい」
この人はいっぺん死なないとわからないと思った。

「開けるんですか」
「開けたい。けど開かない」

見ると箱からは小さなボタンのようなでっぱりが全面に出ていて、円筒の上部には鍵穴のようなものもある。
「ボタンを正しい順序で押し込まないとダメらしい」
師匠はそう言って夢中で箱と格闘していた。

「開けたら、どうして死ぬんですか」
「さあ」
「どこで手に入れたんですか」
「××市の骨董品屋」
「開けたいんですか」
「開けたい。けど開かない」
死ぬトコ見てみてェ。
俺はパズルの類は好きなので、やってみたかったが我慢した。

「ボタンは50個ある。何個連続で正しく押さないといけないのかわからないけど、音聞いてる限りだいぶ正解に近づいてる気がする」
「その鍵穴はなんですか」
「そこなんだよ」
師匠はため息をついた。
2重のロックになっていて、最終的には鍵がないと開かないらしい。

「ないんですか」
「いや。セットで手に入れたよ」
でも落とした。と悲しそうに言う。

「どこに」
と聞くと
「部屋」
探せばいいでしょ。こんなクソ狭い部屋。
師匠は首を振った。
「拾っちゃったんだよ」
「ハァ?」
意味がわからない。
「だから、ポケットに入れてたのを部屋のどっかに落としてさ。まあいいや、明日探そ、と寝たわけ。その夜、夢の中で玄関に落ちてるのを見つけてさ、拾ったの」
バカかこの人は。
「それで目が覚めて、正夢かもと思うわけ。で、玄関を探したけど、ない。あれー?と思って部屋中探したけど出てこない。困ってたら、その日の晩、夢見てたら出てきたのよ。ポケットの中から」
ちょっとゾクっとした。
なんだか方向性が怪しくなってきた。

「その次の朝、目が覚めてからポケットを探っても、もちろん鍵なんか入ってない。そこで思った。
『夢の中で拾ってしまうんじゃなかった』」
やっぱこぇぇよこの人。
「それから、その鍵が僕の夢の中から出てきてくれない。いつも夢のポケットの中に入ってる。夢の中で、鍵を机の引き出しにしまっておいて、目が覚めてから机の引き出しを開けてみたこともあるんだけど、やっぱり入ってない。どうしようもなくて、ちょっと困ってる」

信じられない話をしている。
落とした鍵を夢の中で拾ってしまったから、現実から鍵が消滅して夢の中にしか存在しなくなったというのか。
そして夢の中から現実へ鍵を戻す方法を、模索してると言うのだ。
どう考えても、キチ○ガイっぽい話だが、師匠が言うとあながちそう思えないから怖い。

「あー!また失敗」
と言って師匠は箱を床に置いた。
いい感じだった音がもとに戻ったらしい。

「ボタンのパズルを解いても、鍵がないと開かないんでしょ」
と突っ込むと、師匠は気味悪く笑った。
「ところが、わざわざ今日呼んだのは、開ける気満々だからだよ」
なにやら悪寒がして、俺は少し後ずさった。
「どうしても鍵が夢から出てこないなら、思ったんだよ。夢の中でコレ、開けちまえって」
なに?なに?
なにを言ってるのこの人。
「でさ、あとはパズルさえ解ければ開くわけよ」
ちょっと、ちょっと待って。
青ざめる俺をよそに、師匠はジーパンのポケットを探り始めた。そして・・・
「この、鍵があれば」
その手には錆ついた灰色の鍵が握られていた。

その瞬間、硬質な金属が砕けるような物凄い音がした。
床抜け、世界が暗転して、ワケがわからなくなった。

誰かに肩を揺すられて、光が戻った。
師匠だった。
「冗談、冗談」
俺はまだ頭がボーッとしていた。師匠の手にはまだ鍵が握られている。
「今ので気を失うなんて・・・」
と、俺の脇を抱えて起こし
「さすがだ」
と言った。やたら嬉しそうだ。

「さっきの鍵の意味が一瞬でわかったんだから、凄いよ。もっと暗示に掛かりやすい人なら、僕の目の前で消滅してくれたかも知れない」

・・・
俺はなにも言えなかった。
鍵を夢で拾った云々はウソだったらしい。
その日は俺をからかっただけで、結局師匠は箱のパズルを解けなかった。
その箱がどうなったか、その後は知らない。

麻雀

師匠は麻雀が弱い。
もちろん麻雀の師匠ではない。

霊感が異常に強い大学の先輩で、オカルト好きの俺は彼と、傍から見ると気色悪いであろう師弟関係を結んでいた。
その師匠であるが、2、3回手合わせしただけでもその実力の程は知れた。
俺は高校時代から友人連中とバカみたいに打ってたので、大学デビュー組とは一味違う新入生としてサークルの先輩たちからウザがられていた。
師匠に勝てる部分があったことが嬉しくて、よく麻雀に誘ったが、あまり乗ってきてくれなかった。弱味を見せたくないらしい。

1回生の夏ごろ、サークルBOXで師匠と同じ院生の先輩とふたりになった。
なんとなく師匠の話しになって、俺が師匠の麻雀の弱さの話をすると、先輩は「麻雀は詳しくないんだけど」と前置きして、意外なことを話し始めた。

なんでも、その昔師匠が大学に入ったばかりのころ、健康的な男子学生のご多聞に漏れず麻雀に手を出したのであるが、サークル麻雀のデビュー戦で役満(麻雀で最高得点の役)をあがってしまったのだそうだ。
それからもたびたび師匠は役満をあがり、麻雀仲間をビビらせたという。

「ぼくはそういう話を聞くだけだったから、へーと思ってたけど、そうか。弱かったのかアイツは」

いますよ、役満ばかり狙ってる人。
役満をあがることは人より多くても、たいてい弱いんですよ。
俺がそんなことを言うと

「なんでも、出したら死ぬ役満を出しまくってたらしいよ」
と先輩は言った。
「え?」
頭に九連宝燈という役が浮かぶ。

一つの色で1112345678999みたいな形を作ってあがる、麻雀で最高に美しいと言われる役だ。
それは作る難しさもさることながら、「出したら死ぬ」という麻雀打ちに伝わる伝説がある、曰く付きの役満だ。
もちろん僕も出したことはおろか、拝んだこともない。
ちょっと、ゾクッとした。

「麻雀牌をなんどか燃やしたりもしたらしい」
確かに九連宝燈を出した牌は燃やして、もう使ってはいけないとも言われる。
俺は得体の知れない師匠の側面を覗いた気がして、怯んだが、同時にピーンと来るものもあった。
役満をあがることは人より多くても、たいてい弱い・・・さっきの自分のセリフだ。
つまり、師匠はデビュー戦でたまたまあがってしまった九連宝燈に味をしめて、それからもひたすら九連宝燈を狙い続けたのだ。
めったにあがれる役ではないから、普段は負け続け。
しかし極々まれに成功してしまい、そのたび牌が燃やされる羽目になるわけだ。
俺はその推理を先輩に話した。
「出したら死ぬなんて、あの人の好きそうな話でしょ」

しかし、俺の話を聞いていた先輩は首をかしげた。
「でもなあ・・・チューレンポウトウなんていう名前だったかなあ、その役満」
そして、うーんと唸る。
「なんかこう、一撃必殺みたいなノリの、天誅みたいな」
そこまで言って、先輩は手の平を打った。
「思い出した。テンホーだ」
天和。俺は固まった。

言われてみればたしかに天和にも、出せば死ぬという言い伝えがある。
しかし、狙えば近づくことが出来る九連宝燈とは違い、天和は最初の牌が配られた時点であがっている、という完璧に偶然に支配される役満だ。
狙わなくても毎回等しくチャンスがあるにも関わらず、出せば死ぬと言われるほどの役だ。その困難さは九連宝燈にも勝る。
その天和を出しまくっていた・・・

俺は師匠の底知れなさを垣間見た気がして、背筋が震えた。
「出したら死ぬなんて、あいつが好きそうな話だな」
先輩は無邪気に笑うが、俺は笑えなかった。
それから一度も師匠とは麻雀を打たなかった。

別の世界へのドアを持っている人は、確かにいると思う。
日常の隣で、そういう人が息づいているのを僕らは大抵知らずに生きているし、生きていける。

しかしふとしたことでそんな人に触れたときに、いつもの日常はあっけなく変容していく。
僕にとって、その日常の隣のドアを開けてくれる人は二人いた。それだけのことだったのだろう。

大学1回生ころ、地元系のネット掲示板のオカルトフォーラムに出入りしていた。
そこで知り合った人々は、いわばなんちゃってオカルトマニアであり、高校までの僕ならば素直に関心していただろうけれど、大学に入って早々に師匠と仰ぐべき強烈な人物に会ってしまっていたので、物足りない部分があった。
しかし、降霊実験などを好んでやっている黒魔術系のフリークたちに混じって遊んでいると、1人興味深い人物に出会った。
「京介」というハンドルネームの女性で、年歳は僕より2,3歳上だったと思う。

じめじめした印象のある黒魔術系のグループにいるわりにはカラっとした人で、背が高くやたら男前だった。
そのせいかオフで会ってもキョースケ、キョースケと呼ばれていて、本人もそれが気にいっているようだった。

あるオフの席で「夢」の話になった。予知夢だとか、そういう話がみんな好きなので、盛り上がっていたが京介さんだけ黙ってビールを飲んでいる。
僕が、どうしたんですか、と聞くと一言
「私は夢をみない」
機嫌を損ねそうな気がしてそれ以上突っ込まなかったが、その一言がずっと気になっていた。
大学生になってはじめての夏休みに入り、僕は水を得た魚のように心霊スポットめぐりなど、オカルト三昧の生活を送っていた。
そんなある日、目を覚ますと見知らぬ部屋にいたのだった。

暗闇の中で、寝ていたソファーから身体を起こす。
服がアルコール臭い。酔いつぶれて寝てしまったらしい。
回転の遅い頭で昨日のことを思い出そうと、あたりを見回す。
厚手のカーテンから幽かな月の光が射し、その中で一瞬、闇に煌くものがあった。
水槽と思しき輪郭のなかに、にび色の鱗が閃いて、そして闇の奥へと消えていった。
なんだかエロティックに感じて妙な興奮を覚えたが、すぐに睡魔が襲ってきてそのまま倒れて寝てしまった。

次に目を覚ましたときは、カーテンから朝の光が射しこんでいた。
「起きろ」
目の前に京介さんの顔があって、思わず「ええ!?」と間抜けな声をあげてしまった。
「そんなに不満か」
京介さんは状況を把握しているようで、教えてくれた。

どうやら、昨夜のオフでの宴会のあと完全に酔いつぶれた俺をどうするか、残された女性陣たちで協議した結果、近くに住んでいた京介さんが自分のマンションまで引きずって来たらしい。
申し訳なくて、途中から正座をして聞いた。
まあ気にするなと言って、京介さんはコーヒーを淹れてくれた。
その時、部屋の隅に昨日の夜に見た水槽があるのに気がついたが、不思議なことに中は水しか入っていない。
「夜は魚がいたように思ったんですが」
それを聞いたとき、京介さんは目を見開いた。
「見えたのか」
と、身を乗り出す。
頷くと、「そうか」と言って京介さんは奇妙な話を始めたのだった。

京介さんが女子高に通っていたころ、学校で黒魔術まがいのゲームが流行ったという。
占いが主だったが、一部のグループがそれをエスカレートさせ、怪我人が出るようなことまでしていたらしい。
京介さんはそのグループのリーダーと親しく、何度か秘密の会合に参加していた。

ある時、そのリーダーが真顔で「悪魔を呼ぼうと思うのよ」と言ったという。
その名前のない悪魔は、呼び出した人間の「あるもの」を食べるかわりに、災厄を招くのだという。
「願いを叶えてくれるんじゃないんですか?」
思わず口をはさんだ。普通はそうだろう。
しかし、「だからこそやってみたかった」と京介さんは言う。
京介さんを召喚者として、その儀式が行われた。
その最中に京介さんとリーダーを除いて、全員が癲癇症状を起こし、その黒魔術サークルは以後活動しなくなったそうだ。

「出たんですか。悪魔は」
京介さんは一瞬目を彷徨わせて
「あれは、なんなんだろうな」
と言って、それきり黙った。

オカルト好きの僕でも、悪魔なんて持ち出されるとちょっと引く部分もあったが、ようは「それをなんと呼ぶか」なのだということをオカルト三昧の生活の中に学んでいたので、笑い飛ばすことはなかった。
「夢を食べるんですね、そいつは」
あの気になっていた一言の、意味とつながった。
しかし京介さんは首を振った。
「悪夢を食べるんだ」
その言葉を聞いて、背筋に虫が這うような気持ち悪さに襲われる。

京介さんはたしかに「私は夢をみない」と言った。
なのにその悪魔は、悪夢しか食べない・・・
その意味を考えて、ぞっとする。

京介さんは、眠ると完全に意識が断絶したまま次の朝を迎えるのだという。
いつも目が覚めると、どこか身体の一部が失われたような気分になる・・・
「その水槽にいた魚はなんですか」
「わからない。私は見たことはないから。たぶん、私の悪夢を食べているモノか、それとも・・・」
私の悪夢そのものなのだろう。そう言って笑うのだった。
京介さんが眠っている間にしか現れず、しかもそれが見えた人間は今まで二人しかいなかったそうだ。

「その水槽のあるこの部屋でしか、私は眠れない」
どんな時でも部屋に帰って寝るという。
旅行とか、どうしても泊まらないといけない時もあるでしょう?と問うと
「そんな時は寝ない」
とあっさり答えた。
たしかに、飲み会の席でもつぶれたところをみたことがない。

そんなに悪夢をみるのが怖いんですか、と聞こうとしたが、止めた。
たぶん、悪夢を食べるという悪魔が招いた災厄こそ、その悪夢なのだろうから。
僕はこの話を丸々信じたわけではない。京介さんのただの思い込みだと笑う自分もいる。
ただ昨日の夜の、暗闇の中で閃いた鱗と、何事もないように僕の目の前でコーヒーを飲む人の、強い目の光が、僕の日常のその隣へと通じるドアを、開けてしまう気がするのだった。

「魚も夢をみるだろうか」

ふいに京介さんはつぶやいたけれど、僕はなにも言わなかった。

将棋

師匠は将棋が得意だ。
もちろん将棋の師匠ではない。大学の先輩で、オカルトマニアの変人である。

俺もまた、オカルトが好きだったので、師匠師匠と呼んでつきまとっていた。
大学1回生の秋に、師匠が将棋を指せるのを知って勝負を挑んだ。俺も多少心得があったから。しかし結果は惨敗。角落ち(ハンデの一種)でも相手にならなかった。
1週間後、パソコンの将棋ソフトをやり込んでカンを取り戻した俺は、再挑戦のために師匠の下宿へ乗り込んだ。
結果、多少善戦した感はあるが、やはり角落ちで蹴散らされてしまった。
感想戦の最中に、師匠がぽつりと言った。

「僕は亡霊と指したことがある」

いつもの怪談よりなんだか楽しそうな気がして、身を乗り出した。

「手紙将棋を知ってるか」
と問われて頷く。
将棋は普通長くても数時間で決着がつく。1手30秒とかの早指しなら数十分で終わる。
ところが手紙将棋というのは、盤の前で向かい合わずに、お互い次の手を手紙で書いてやり取りするという、なんとも気の長い将棋だ。
風流すぎて若者には理解出来ない世界である。
ところが師匠の祖父はその手紙将棋を、夏至と冬至だけというサイクルでしていたそうだ。
夏至に次の手が届き、冬至に返し手を送る。
年に2手しか進まない。将棋は1勝負に100手程度かかるので、終わるまでに50年はかかる計算になる。

「死んじゃいますよ」

師匠は頷いて、祖父は5年前に死んだと言った。

戦時中のことだ。
前線に出た祖父は娯楽のない生活のなかで、小隊で将棋を指せるただひとりの戦友と、紙で作ったささやかな将棋盤と駒で、あきることなく将棋をしていたという。
その戦友が負傷をして、本土に帰されることになったとき、二人は住所を教えあい、ひと時の友情の証しに戦争が終われば手紙で将棋をしようと誓い合ったそうだ。
戦友は北海道出身で、住むところは大きく隔たっていた。

戦争が終わり、復員した祖父は約束どおり冬至に手紙を出した。『2六歩』とだけ書いて。
夏至に『3四歩』とだけ書いた無骨な手紙が届いたとき、祖父は泣いたという。
それ以来、年に2手だけという将棋は続き、祖父は夏至に届いた手への返し手を半年かけて考え、冬至に出した手にどんな手を返してくるか、半年かけて予想するということを、それは楽しそうにしていたそうだ。
5年前にその祖父が死んだとき、将棋は100手に近づいていたが、まだ勝負はついていなかった。
師匠は、祖父から将棋を学んでいたので、ここでバカ正直な年寄りたちの、生涯をかけた遊びが途切れることを残念に思ったという。

手紙が届かなくなったら、どんな思いをするだろう。
祖父の戦友だったという将棋相手に連絡を取ろうかとも考えた。それでもやはり悲しむに違いない。ならばいっそ自分が祖父のふりをして次の手を指そうと、考えたのだそうだ。
宛名は少し前から家の者に書かせるようになっていたので、師匠は祖父の筆跡を真似て『2四銀』と書くだけでよかった。
応酬はついに100手を超え、勝負が見えてきた。

「どちらが優勢ですか」
俺が問うと師匠は、複雑な表情でぽつりと言った。
「あと17手で詰む」
こちらの勝ちなのだそうだ。
2年半前から詰みが見えたのだが、それでも相手は最善手を指してくる。
華を持たせてやろうかとも考えたが、向こうが詰みに気づいてないはずはない。
それでも投了せずに続けているのは、この遊びが途中で投げ出していいような遊びではない、という証しのような気がして、胸がつまる思いがしたという。

「これがその棋譜」
と、師匠が将棋盤に初手から示してくれた。
2六歩、3四歩、7六歩・・・
矢倉に棒銀という古くさい戦法で始まった将棋は、1手1手のあいだに長い時の流れを確かに感じさせた。
俺も将棋指しの端くれだ。
今でははっきり悪いとされ、指されなくなった手が迷いなく指され、十数手後にそれをカバーするような新しい手が指される。戦後、進歩を遂げた将棋の歴史を見ているような気がした。
7四歩突き、同銀、6七馬・・・
局面は終盤へと移り、勝負は白熱して行った。

「ここで僕に代わり、2四銀とする」

師匠はそこで一瞬手を止め、また同馬とした。
次の桂跳ねで、細く長い詰みへの道が見えたという。
難しい局面で俺にはさっぱりわからない。

「次の相手の1手が投了ではなく、これ以上無いほど最善で、そして助からない1手だったとき、僕は相手のことを知りたいと思った」

祖父と半世紀にわたって、たった1局の将棋を指してきた友だちとは、どんな人だろう。
思いもかけない師匠の話に俺は引き込まれていた。
不謹慎な怪談と、傍若無人な行動こそ師匠の人となりだったからだ。
経験上、その話にはたいてい嫌なオチが待っていることも忘れて・・・

「住所も名前も分かっているし、調べるのは簡単だった」
俺が想像していたのは、80歳を過ぎた老人が古い家で旧友からの手紙を心待ちにしている図だった。
ところが、師匠は言うのである。
「もう死んでいた」
ちょっと衝撃を受けて、そしてすぐに胸に来るものがあった。
師匠が、相手のことを思って祖父の死を隠したように、相手側もまた師匠の祖父のことを思って死を隠したのだ。
いわば優しい亡霊同士が将棋を続けていたのだった。
しかし師匠は首を振るのである。
「ちょっと違う」
少し、ドキドキした。

「死んだのは1945年2月。戦場で負った傷が悪化し、日本に帰る船上で亡くなったそうだ」
びくっとする。
俄然グロテスクな話になって行きそうで。
では、師匠の祖父と手紙将棋をしていたのは一体何だ?

『僕は亡霊と指したことがある』という師匠の一言が頭を回る。
師匠は青くなった俺を見て笑い、心配するなと言った。
「その後、向こうの家と連絡をとった」
こちらのすべてを明らかにしたそうだ。すると向こうの家族から長い書簡がとどいたという。
その内容は以下のようなものだった。

祖父の戦友は、船上で死ぬ間際に家族に宛てた手紙を残した。その中にこんな下りがあった。
『私はもう死ぬが、それと知らずに私へ手紙を書いてくる人間がいるだろう。その中に将棋の手が書かれた間抜けな手紙があったなら、どうか私の死を知らせないでやってほしい。そして出来得れば、私の名前で応答をしてほしい。私と将棋をするのをなにより楽しみにしている、大バカで気持ちのいいやつなのだ』

師匠は語りながら、盤面をすすめた。
4一角
3二香
同銀成らず
同金
その同金を角が取って成ったとき、涙が出た。
師匠に泣かされたことは何度もあるが、こういうのは初めてだった。

「あと17手、年寄りどもの供養のつもりで指すことにしてる」
師匠は指を駒から離して、ここまで、と言った。

大学1回生の夏ごろ。
京介さんというオカルト系のネット仲間の先輩に不思議な話を聞いた。

市内のある女子高の敷地に夜中、一箇所だけ狭い範囲に雨が降ることがあるという。
京介さんは地元民で、その女子高の卒業生だった。
「京介」はハンドルネームで、俺よりも背が高いが、れっきとした女性だ。
「うそだー」
と言う俺を睨んで、じゃあ来いよ、と連れて行かれた。
真夜中に女子高に潜入するとは、さすがに覚悟がいったが、建物の中に入るわけじゃなかったことと、セキュリティーが甘いという京介さんの言い分を信じてついていった。

場所は校舎の影になっているところで、もとは焼却炉があったらしいが、今は近寄る人もあまりいないという。
「どうして雨が降るんですか」
と声をひそめて聞くと
「むかし校舎の屋上から、ここへ飛び降りた生徒がいたんだと。その時飛び散って地面に浸み込んだ血を洗うために雨が降るんだとか」
「いわゆる七不思議ですよね。ウソくせー」
京介さんはムッとして、足を止めた。
「ついたぞ。そこだ」
校舎の壁と、敷地を囲むブロック塀のあいだの寂しげな一角だった。
暗くてよく見えない。
近づいていった京介さんが「おっ」と声をあげた。
「見ろ。地面が濡れてる」

僕も触ってみるが、たしかに1メートル四方くらいの範囲で湿っている。
空を見上げたが、月が中天に登り、雲は出ていない。
「雨が降った跡だ」
京介さんの言葉に、釈然としないものを感じる。
「ほんとに雨ですか?誰かが水を撒いたんじゃないですか」
「どうしてこんなところに」
首をひねるが、思いつかない。
周りを見渡しても、なにもない。敷地の隅で、とくにここに用があるとは思えない。
「その噂を作るための、イタズラとか」
だいたい、そんな狭い範囲で雨が降るはずがない。
「私が1年の時、3年の先輩に聞いたんだ
『1年の時、3年の先輩に聞いた』
って」
つまりずっと前からある噂だという。

目をつぶって、ここに細い細い雨が降ることを想像してみる。
月のまひるの空から地上のただ一点を目がけて降る雨。
怖いというより、幻想的で、やはり現実感がない。
「長い期間続いているということは、つまり犯人は生徒ではなく、教員ということじゃないですか」
「どうしても人為的にしたいらしいな」
「だって、降ってるとこを見せられるならまだしも、これじゃあ・・・
たとえば残業中の先生が夜食のラーメンに使ったお湯の残りを窓からザーッと」
そう言いながら上を見上げると、黒々とした校舎の壁はのっぺりして、窓一つないことに気づく。
校舎の中でも端っこで、窓がない区画らしい。

雨。雨。雨。
ぶつぶつとつぶやく。どうしても謎を解きたい。
降ってくる水。降ってくる水。
その地面の濡れた部分は校舎の壁から1メートルくらいしか離れていない。また見上げる。
やはり校舎のどこかから落ちてくる、そんな気がする。

「あの上は屋上ですか」
「そうだけど。だからって誰が水を撒いてるってんだ」
目を凝らすと、屋上の縁は落下防止の手すりのようなもので囲まれている。
さらに見ると、一箇所、その手すりが切れている部分がある。この真上だ。
「ああ、あそこだけ何でか昔から手すりがない。だからそこから飛び降りたってハナシ」
それを聞いて、ピーンとくるものがあった。

「屋上は掃除をしてますか?」
「掃除?いや、してたかなあ。つるつるした床でいつも結構きれいだったイメージはあるけど」
俺は心でガッツポーズをする。
「屋上の掃除をした記憶がないのは、業者に委託していたからじゃないですか」
何年にも渡って月に1回くらいの頻度で、放課後、生徒たちが帰った後に派遣される掃除夫。床掃除に使った水を、不精をして屋上から捨てようとする。自然、身を乗り出さずにすむように、手すりがないところから・・・
「次の日濡れた地面を見て噂好きの女子高生が言うんですよ。ここにだけ雨が降ってるって」
僕は自分の推理に自信があった。幽霊の正体みたり枯れ尾花。
「お前、オカルト好きのくせに夢がないやつだな」
なんとでも言え。
「でも、その結論は間違ってる」
京介さんはささやくような声で言った。

「水で濡れた地面を見て、小さな範囲に降る雨の噂が立った、という前提がそもそも違う」
どういうことだろう。
京介さんは真顔で
「だって、降ってるところ、見たし」
僕の脳の回転は止まった。先に言って欲しかった。

「そんな噂があったら、行くわけよ。オカルト少女としては」
高校2年のとき、こんな風に夜中に忍び込んだそうだ。
そして目の前で滝のように降る雨を見たという。
水道水の匂いならわかるよ、と京介さんは言った。
俺は膝をガクガクいわせながら
「血なんかもう、流れきってるでしょうに」
「じゃあ、どうして雨は降ると思う」
わからない。
京介さんは首をかしげるように笑い
「洗っても洗っても落ちない、血の感覚って男にはわかんないだろうなあ」
その噂の子はレイプされたから、自分を消したかったんだよ。
僕の目を見つめて、そう言うのだった。

超能力

大学時代、霊感の異常に強いサークルの先輩に会ってからやたら霊体験をするようになった俺は、オカルトにどっぷり浸かった学生生活を送っていた。

俺は一時期、超能力に興味を持ちESPカードなどを使って、半ば冗談でESP能力開発に取り組んだことがあった。
師匠と仰ぐその先輩はと言えば、畑違いのせいか、超能力なんていうハナシは嫌いなようだった。
しかし信じてないというわけではない。こんなエピソードがある。

テレビを見ていると、日露超能力対決!などという企画の特番をやっていた。
その中でロシア人の少女が目隠しをしたまま、箱に密封された紙に書かれている内容を当てる、という実験があった。
ようするに透視するというのだ。

少女が目隠しをしたあとで芸能人のゲストが書いたもので、事前に知りようがないはずなのに、少女は見事にネズミの絵を当てたのだった。
しかしテレビを見ていた師匠が言う。
「こんなの透視じゃない」
目隠しがいかに厳重にされたか見ていたはずなのに、そんなことを言い出したので、「どういうことです?」と問うと、真面目くさった顔で
「こんなのはテレパスなら簡単だ」
意表をつかれた。
ようするに精神感応(テレパシー)能力がある人間なら、その紙に書いたゲストの思考を読めば、こんな芸当は朝飯前だというのである。
どんなに厳重に目隠しをしようと、箱に隠そうと、それを用意した人間がいる限り、中身はわかる。

師匠は、テレビで出てくるような透視能力者はすべてインチキで、ちょっとテレパシー能力があるだけの凡人だ、と言った。
『テレパシー能力のある凡人』という表現が面白くて笑ってしまった。
師匠はムッとしたが、俺が笑い続けているのは他に理由があった。
ロシア人の少女の傍に立つ通訳の男を、よく知っていたからだ。

インチキ超能力芸でなんども業界から干された、その筋では有名な山師だ。俺は今回の透視実験のタネも知っている。
時々「続けて大丈夫か」というようなことを言いながら少女の身体に触る、その触り方で絵の情報を暗号化して伝えているのだ。以前雑誌で読んだことのある、彼のいつもの手口だった。
松尾何某がそこにいれば「通訳にも目隠しさせろ」などと意地悪なことを言い出すところである。
俺はあえて、この少女をテレパスだと信じている師匠にこの特番の裏を教えなかった。
なんだか、かわいらしい気がしたから。

そんなことがあった数日後、師匠が俺の下宿を訪ねてきて
「今日はやりかえしに来た」
と言う。
あの番組のあと、雑誌やテレビでインチキが暴露されてちょっと話題になったから、師匠の耳にも入ったらしい。俺が知っていてバカにしていたことも・・・
俺は嫌な予感がしたが、部屋に上げないわけにはいかない。
師匠はカバンから、厚紙で出来た小さな箱を二つだし、テーブルの上に置いた。

「こちらを箱A、こっちを箱Bとする」
同じような箱に、マジックでそう書いてある。
なにが始まるのかドキドキした。

「Aの箱には千円、Bの箱には1万円が入っている。この箱を君にあげよう」
ただし、と師匠は続けた。
「お金を入れたのは実は予知能力者で、君がABどちらか片方を選ぶと予知していたら、正しく千円と1万円を入れている。しかしもし、君が両方の箱を選ぶような欲張りだと予知していたら、Bの箱の1万円は入れていない」
さあ、どう選ぶ?
そう言って、選択肢をあげた。

「①箱Aのみ
②箱Bのみ
③箱AB両方
おっとそれから④どちらも選ばない」

どういうゲームかよく分からないが、頭を整理する。
ようするにBだけを選んだらちゃんと1万円入ってるんだから、②の「箱Bのみ」が一番儲かるんじゃないだろうか。
師匠は嫌らしい顔で、「ほんとにそれでいいのぉ?」と言った。

ちょっと待て、冷静に考えろ。
「その予知能力者は、本物という設定なんですか」
肝心なところだ。
しかし師匠は「質問は不可」というだけだった。
目の前を箱を見ていると、そこにあるんだから、いくら入ってようが両方もらっといたらいいじゃん?と俺の中の悪魔がささやく。
待って待って、予知能力が本物なら両方選べばBはカラ。Aの千円しか手に入らないぞ?と俺の中の天使がささやく。
予知能力が偽者ならどうよ?そう予知して、Bにお金を入れなかったのに、実際はBだけを選んでしまったら、もうけは0円だぞ。と悪魔。

そうだ。だいたい予知能力というのがあやふやだ。
目の前にあるのに、その箱の中身がまだ定まっていないというのが、実感がわかない。
お金を入れる、という行為はすでに終わった過去なのだから、今から俺がどうしようが箱の中身を変えることは出来ない、という気もする。
じゃあ、③の箱AB両方というのが最善の選択なんだろうか。

「さん」と言い掛けて、思いとどまった。
これはゲームなのだ。所詮、師匠が用意したものだ。
あやうく本気になるところだった。
たぶん、③を選ばせておいて箱Bは空っぽ、「ホラ、欲をかくから千円しか手に入らないんだ」と笑う。
そういう趣向なのだろう。
なんだか腹が立ってきた。
②のBだけを選んでおいて、「片方しか選んでないのに、1万円入ってないぞ」とゴネることも考えた。
しかし③の「両方」を選んでおけば最低でも千円は手に入るのだから、次の仕送りまでこれで○千円になって・・・と、生活臭あふれる思考へと進んでいった。

すると師匠が「困ってるねえ」と嬉しそうに口を出してきた。
「そこで、一つヒントをあげよう。君がもし、透視能力、もしくはテレパシー能力の持ち主だったとしたら、どうする?」
きた。また変な条件が出て来た。
予知能力という仮定の上に、さらに別の仮定を重ねるのだから、ややこしい話になりそうだった。

そんな顔をしてると、師匠は「簡単簡単」と笑うのだった。
「透視ってのは、ようするに中身を覗くことだろう?だったら再現するのは簡単。箱の横っ腹に穴を開けて見れば、立派な透視能力者だ」
ちょ、そんなズルありですか、と言ったが
「透視能力ってそういうものだから」
そっちがOKなら全然構わない。
「テレパシーの方ならもっと簡単。入れた本人に聞けばいい。頭の中を覗かれた設定で」
なんだかゲームでもなんでもなくなってきた気がする。
「で、僕は超能力者になっていいんですか?」
「いいよぉ。ただし、透視能力か、テレパシーかの2択。と言いたいところだけど、テレパシーの方は入れた本人がここにいないから、遠慮してもらおうかな」
本人がいない?嫌な予感がした。
もしかして、彼女が絡んでますか?と問うと頷き
「僕も中身は知らない」
と言った。
俺は青くなった。

師匠の彼女は、なんといったらいいのか、異常に勘がするどいというのか、予知まがいのことが出来る、あまり関わりたくない人だった。
「本物じゃないですか!」
俺は目の前の箱から、思わず身を引いた。ただのゲームじゃなくなってきた。

仮に、もし仮に、万が一、百万が一、師匠の彼女の力がたまたまのレベルを超えて、ひょっとしてもしかして本物の予知能力だった場合、これってマジ・・・?
俺は今までに、何度かその人にテストのヤマで助けてもらったことがある。
あまりに当たるので、気味が悪くて最近は喋ってもいない。

「さあ、透視能力を使う?」
師匠はカッターを持って、箱Bにあてがった。
「ちょっと待ってください」
話が違ってくる。というか本気度が違ってくる。
予知能力が本物だとした場合、両方の箱を選ぶという行為で、Bの箱の中身が遡って消滅したり現れたりするのだろうか?それとも、俺がこう考えていることもすべて込みの予知がなされていて、俺がどう選ぶかということも完全に定まっているのだろうか。

「牛がどの草を食べるかというのは完全には予測出来ない」
という、不確定性原理とかいうややこしい物理学の例題が頭を過ぎったが、よく理解してないのが悔やまれる。
俺が苦悩しながら指差そうとしているその姿を、過去から覗かれているのだろうか?
そして俺の意思決定と同時に、箱にお金を入れるという、不確定な過去が定まるのだろうか?
その「同時」ってなんだ?
考えれば考えるほど、恐ろしくなってくる。
人間が触れていい領域のような気がしない。
渦中の箱Bは何事もなくそこにあるだけなのに。
そしてその箱を、選ぶ前に中を覗いてしまおうというのだから、なんだか訳がわからなくなってくる。

俺は膝が笑いはじめ、脂汗がにじみ、捻り出すように一つの答えを出した。
「④どちらも選ばない、でお願いします」
師匠はニヤリとして、カッターを引っ込めた。
「前提が一つ足りないことに気がついた?片方を選ぶ場合はそれぞれにお金を入れ、両方を選ぶ場合はAにしか入れない。じゃあ、どちらも選ばないと予知していた場合は?」
決めてなかったから、僕もこの中がどうなっているのか分からないんだなぁ。
師匠はそう言いながら無造作に二つの箱をカバンに戻した。
俺はこの人には勝てない、と思い知った。

大学1回生の冬。
大学生になってからの1年弱、大学の先輩であり、オカルト道の師匠でもある人と様々な心霊スポットへ足を踏み入れた俺だったが、さすがに寒くなってくると出不精になってくる。

正月休みにめずらしく師匠が俺の下宿に遊びに来た。
とくにすることもないので、コタツにもぐりこんで俺はゲームボーイを、師匠はテレビをぼーっと見ていた。
ふと、師匠が「あれ?」と言うので顔を向けると、テレビにはダイバーによるどこかの海の海底探査の様子が映っていた。

「この石像って、あ、消えた」

すぐに画面が切り替わったが、一瞬だけ見えた。
地中海のエジプト沖で、海底にヘレニズム期の遺跡が発見されたと、アナウンサーが報じていた。
海底に沈んだ石造りの古代の建造物が、ダイバーの水中カメラに映し出されている。
その映像の中に、崩れた石柱の下敷きになっている石像の姿があったのだ。
なにかの神様だろうそれは、泥の舞う海の底で苦悶の表情としか思えない顔をしていた。
最初からそんな表情の石像だったとは思えない、不気味な迫力があった。

何ごともなく、番組は次のニュースへ移る。
「こんなことって、あるんですかね」
と言う俺に、師匠は難しい顔をして話しはじめた。
「廃仏毀釈って知ってる?」
師匠の専攻は仏教美術だ。日本で似たような例を知っているという。
江戸から明治に入り、神仏習合の時代から仏教にとっては受難といえる神道一党の時代へ変化した時があった。
多くの寺院が打ち壊され、仏具や仏像が焼かれ、また神社でも仏教色の強かったところでは、多くの仏像が収められていたが、それらもほとんどが処分された。

「中でも密教に対する弾圧は凄まじかった」

吉野の金峰山寺は破壊され、周辺の寺院も次々と襲われたが、その寺の一つで不思議なことがあったという。

僧侶が神官の一党に襲われ、不動明王など密教系の仏像はすべて寺の庭に埋められて、のちに廃寺とされた。
弾圧の熱が収まりはじめたころ、貴重な仏像が坑されたという話を聞きつけて、近隣の山師的な男がそれを掘り起こそうとした。
ところが土の中から出てきた仏像は、すべて憤怒の顔をしていたという。
元から憤怒の表情の不動明王はともかく、柔和なはずの他の仏像までもことごとく、地獄の鬼もかほどではないという凄まじい顔になっていたそうだ。
その怒りに畏れた男は、掘り出した仏像に火をかけた。
木製の仏像は6日間(!)ものあいだ燃え続け、その間「おーんおーん」という唸り声のような音を放ち続けたという。
あまりに凄い話に俺は、気がつくと正座していた。

「何年かまえ、人間国宝にもなっている仏師が外国メディアのインタビューを受けた記事を読んだことがある。
記者が、どうしてこんなに深みのあるアルケイックスマイルを表現できるのでしょうかと聞くと、仏師はこう答えた。
『彫るのではない。わらうんだ』
これを聞いたときは痺れたねぇ・・・」

めずらしく師匠が他人を褒めている。
俺は命を持たない像が、感情をあらわすということもあるかも知れない、と思い始めた。
「そうそう、僕が以前、多少心得のある催眠術の技術を使って面白いことをしたことがある」
なにを言い出したのか、ちょっと不安になった。
「普通の胸像にね、ささやいたんだ。
『お前は石にされた人間だよ』」

怖っ
なんてことを考えるんだこの人は。
そしてどうなったのか、あえて聞かなかった。

写真

大学2回生の春ごろ、オカルト道の師匠である先輩の家にふらっと遊びに行った。
ドアを開けると狭い部屋の真ん中で、なにやら難しい顔をして写真を見ている。

「なんの写真ですか」
「心霊写真」
ちょっと引いた。

心霊写真がそんなに怖いわけではなかったが、問題は量なのだ。
畳の床じゅうにアルバムがばらまかれて、数百枚はありそうだった。
どこでこんなに!と問うと、「業者」と写真から目を離さずに言うのだ。
どうやら大阪にそういう店があるらしい。
お寺や神社に持ち込まれる心霊写真は、もちろんお払いをして欲しいということで依頼されるのだが、たいてい処分もして欲しいと頼まれる。
そこで燃やされずに横流しされたモノが、マニアの市場へ出てくると言う。
信じられない世界だ。

何枚か手にとって見たが、どれも強烈な写真だった。
もやがかかってるだけ、みたいなあっさりしたものはない。

公園で遊ぶ子どもの首がない写真。
海水浴場でどうみても水深がありそうな場所に無表情の男が膝までしか浸からずに立っている写真。
家族写真なかに祭壇のようなものが脈絡もなく写っている写真・・・
俺はおそるおそる師匠に聞いた。

「お払い済みなんでしょうね」
「・・・きちんとお払いする坊さんやら神主やらが、こんなもの闇に流すかなあ」
「じゃ、そういうことで」
出て行こうとしたが、師匠に腕をつかまれた。
「イヤー!」
この部屋にいるだけで呪われそうだ。

雪山の山荘で名探偵10人と遭遇したら、こんな気分になるだろうか。

観念した俺は、部屋の隅に座った。
師匠は相変わらず眉間にしわを寄せて写真を眺めている。
ふと、目の前の写真の束の中に変な写真を見つけて手に取った。
変というか、変じゃないので、変なのだ。普通の風景写真だった。

「師匠、これは?」
と見せると
「ああ、これはこの木の根元に女の顔が・・・あれ?ないね。 消えてるね」
まあ、そんなこともあるよ。って、言われても。
怖すぎるだろ!
俺は座りしょんべんをしそうになった。

そして部屋の隅でじっとすることし暫し。ふいに師匠がいう。

「昔は真ん中で写真を撮られると魂が抜けるだとか、寿命が縮むだとかいわれたんだけど、これはなぜかわかる?」
「真ん中で写る人は先生だとか上司だとか、年配の人が多いから、早く死に易いですよね。昔の写真を見ながら、ああこの人も死んだ、この人も死んだ、なんて話してると自然にそんなうわさが立ったんでしょうね」
「じゃあこんな写真はどう思う」
師匠はそう言うと、白黒の古い写真を出した。

どこかの庭先で着物を着た男性が3人並んで立っている写真だ。
その真ん中の初老の男性の頭上のあたりに靄のようなものが掛かり、それが顔のように見えた。
「これを見たら魂が抜けたと思うよね」
たしかに。本人が見たら生きた心地がしなかっただろう。
師匠は「魂消た?」とかそういうくだらないことを言いながら写真を束のなかに戻す。
「魂が取られるとか、抜けるとかいう物騒なことを言ってるのに、即死するわけじゃなくて、せいぜい寿命が縮むっていうのも変な話だよね」
なるほど、そんな風に考えたことはなかった。

「昔の人は、魂には量があってその一部が失われると考えていたんだろうか」
そういうことになりそうだ。
「じゃあ魂そのものの霊体が写真にとられたら、どういうことになる?」
「それは心霊写真のことですか? 身を切られるようにつらいでしょうね」
と、くだらない冗談で返したがよく考えると
「でもそれは所詮昔の人の思い込みが土台になってるから、一般化できませんよ」
俺はしてやった、という顔をした。
すると師匠はこともなげに言う。
「その思い込みをしてる昔の人の霊だったら?」
うーむ。
「どういうことになるんでしょうか」
取り返しにくるんじゃない?
師匠は囁く様な声で言うのだ。やめて欲しい。

そんな風に俺をいびりながらも、師匠はまた難しい顔をして写真を睨みつけている。
部屋に入った時から同じ写真ばかり繰り返し見ていることに気づいた俺は、地雷と知りつつ「なんですか」と言った。
師匠は黙って2枚の写真を差し出した。
俺はビクビクしながら受け取る。

「うわ!」

と思わず声を上げて目を背けた。
ちらっと見ただけで、よくわからなかったが、猛烈にヤバイ気がする。
「別々の場所で撮られた写真に同じものが写ってるんだよ。えーっと、確か・・・」
師匠はリストのようなものをめくる。
「あった。右側が千葉の浦安でとられたネズミの国での家族旅行写真。もうひとつが広島の福山でとられた街角の風景写真」
ちなみに写真に関する情報がついてたほうが、高い値がつく。と付け加えた。
「もちろん撮った人も別々。4年前と6年前。たまたま同じ業者に流れただけで、背後に共通項はない。と思う」
俺は興味に駆られて、薄目を開けようとした。

その時、師匠が
「待った」
と言って俺を制し、窓の方へ近づいていった。
「夜になった」
また難しい顔をして言う。
なにを言い出したのかとドキドキして、写真を伏せた。
師匠が窓のカーテンをずらすと、外は日が完全に暮れていた。
確か来たのは5時くらいだから、そろそろ暗くなって来てもおかしくないよなあ。と思いながら、腕時計を見る。
短針は9を指していた。

え?! そんなに経ってんの?
と驚いていると、師匠が唇を噛んで「まずいなぁ。実にまずい」と呟き
「何時くらいだと思ってた?」
と聞いてくる。
「6時半くらいかな、と」
確かに時間が過ぎるのが早すぎる気もするが、それだけ写真を見るのに集中していただけとも思える。
「僕は正午だ」

それはありえないだろ!しかし師匠の目は笑っていない。
何かに体内時計を狂わされたとでも言うのだろうか。

師匠は、「今日はここまでにしようか」と言って肩を竦めた。
俺もなんだかよくわからないけれど、自分の家に帰りたかった。
部屋中に散らばった写真を片付けようとして、さっき伏せた2枚の写真の前で手が止まる。
「同じものが写っている」と言った師匠の言葉も気になるが、「見ないほうがいい」という第6感が働く。
その時、師匠が妙に嬉しそうな顔をして床の上を見回した。

「人間には無意識下の自己防衛本能ってヤツがあるんだなあ、と実感するよ」

なにを言い出したんだろう。
「動物園ってなにするところ?」
話が飛びすぎで意味がわからない。
「動物を見に行くところだと思いますけど」
「たしかに、僕らはお金を払って動物園に行き、それぞれの檻の前に立って中の動物を見て歩く。しかし動物からするとどうだ。檻の中にいるだけで、色とりどりの服を着たサルたちが、頼みもしないのに次々と姿を見せに来る」

動物を心霊写真に置き換えればいいのだろうか。なんとなく言いたいことが分かってきた。
床を見ながら師匠は独り言のように呟いた。

「闇を覗く者は、等しく闇に覗かれることを畏れなくてはならない」
「ニーチェですか?」
「いや、僕だ」

師匠はどこまで本気かわからない顔で、床に散らばった写真を指差した。
「どうして伏せたんだ」
それを聞いたとき、心臓がドクンと鳴った。
さっきの2枚だけではない。無数の写真の中で、何枚かの写真が伏せられている。
全く意識はしてなかった。全く意識はしてなかったのだ。
写真はすべて表向いていたはずなのに。僕が伏せたんだろうか。寒気がして全身が震えた。

「怪物を倒そうとするものは、自らが怪物になることを畏れなくてはならない」

やっぱりニーチェじゃないですか。
俺はそう言う気力もなく、怪物を倒すどころか写真をめくる勇気もなかった。

葬祭

大学2年の夏休みに、知り合いの田舎へついて行った。
ぜひ一緒に来い、というのでそうしたのだが、電車とバスを乗り継いで8時間もかかったのにはうんざりした。

知り合いというのは大学で出会ったオカルト好きの先輩で、俺は師匠と呼んで畏敬したり小馬鹿にしたりしていた。
彼がニヤニヤしながら「来い」というのでは行かないわけにはいかない。結局怖いものが見たいのだった。

県境の山の中にある小さな村で、標高が高く夏だというのに肌寒さすら感じる。
垣根に囲まれた平屋の家につくと、おばさんが出てきて「親戚だ」と紹介された。
師匠はニコニコしていたが、その家の人たちからは妙にギクシャクしたものを感じて居心地が悪かった。
あてがわれた一室に荷物を降ろすと俺は師匠にそのあたりのことをさりげなく聞いてみた。
すると彼は遠い親戚だから・・・というようなことを言っていたがさらに問い詰めると白状した。

ほんとに遠かった。尻の座りが悪くなるほど。

遠い親戚でも、小さな子供が夏休みにやって来ると言えば田舎の人は喜ぶのではないだろうか。
しかし、かつての子供はすでに大学生である。
ほとんど連絡も途絶えていた親戚の大人が友達をつれてやって来て、泊めてくれというのでは向こうも気味が悪いだろう。
もちろん遠い血縁など、ここに居座るためのきっかけに過ぎない。ようするに怖いものが見たいだけなのだった。

非常に、非常に、肩身の狭い思いをしながら俺はその家での生活を送っていた。
家にいてもすることがないので、たいてい近くの沢に行ったり山道を散策したりしてとにかく時間をつぶした。
師匠はというと、持って来ていた荷物の中の大学ノートとにらめっこしていたかと思うと、ふらっと出て行って近所の家をいきなり訪ねてはその家のお年寄りたちと何事か話し込んでいたりした。
俺は師匠のやり口を承知していたから、何も言わずただ待っていた。

二人いるその家の子供と、まだ一言も会話をしてないことを自嘲気味に考えていた6日目の夜。ようやく師匠が口を開いた。
「わかったわかった。ほんとうるさいなあ、もう教えるって」
6畳間の部屋の襖を閉めて、布団の上に胡坐をかくと声をひそめた。
「墓地埋葬法を知っているか」という。

ようするに土葬や鳥葬、風葬など土着の葬祭から、政府が管理する火葬へとシフトさせるための法律だ、と師匠はいった。
「人の死を、習俗からとりあげたんだ」
この数日山をうろうろして墓がわりと新しいものばかりなのに気がついたか?と問われた。
気がつかなかった。確かに墓地は見はしたが・・・

「このあたりの集落はかつて一風変わった葬祭が行われていたらしい」
もちろん知っていてやって来たのだろう。その上で何かを確認しに来たのだ。
ドキドキした。聞いたら後戻りできなくなる気がして。

家は寝静まっている。豆電球のかすかな明かりの中で師匠がいった。

「死人が出ると荼毘に付して、その灰を畑に撒いたらしい。酸化した土を中和させる知恵だね、ところが変なのはそのこと自体じゃない。江戸中期までは死者を埋葬する習慣自体が一般的じゃなかった。死体は『捨てる』ものだったんだよ」

寒さが増したようだ。夏なのに。

「この集落で死体を灰にして畑あっさりに撒けたのには、さらに理由がある。死体をその人の本体、魂の座だと認めていなかったんだ。本体はちゃんと弔っている。死体から抜き出して」
抜き出す、という単語の意味が一瞬分からなかった。
「この集落では葬儀組みのような制度はなく、葬祭を取り仕切るのは代々伝わる呪術師、シャーマンの家だったらしい。キと呼ばれていたみたいだ。
死人が出ると彼らは死体を預かり、やがて『本体』を抜かれた死体が返され、親族はそれを燃やして自分たちの畑に撒く。
抜かれた『本体』は木箱に入れられて、キが管理する石の下にまとめて埋められた。いわばこれが墓石で、祖霊に対する弔意や穢れ払いはこの石に向けられたわけ。
彼らはこの『本体』のことをオンミと呼んでいたみたい。年寄りがこの言葉を口にしたがらないから聞き出すのが大変だった」

師匠がこんな山の上へ来た理由がわかった。その木箱の中身を見たいのだ。
そういう人だった。

「この習慣は山を少し下った隣の集落にはなかった。近くに浄土宗の寺があり、その檀徒だったからだ。寺が出来る前はとなったらわからないけど、どうやらこの集落単独でひっそりと続いてきた習慣みたいだ。その習慣も墓地埋葬法に先駆けて明治期に終わっている。
だからこの集落の墓はすべて明治以降のものだし、ほとんどは大正昭和に入ってからのものじゃないかな」

その日はそのまま寝た。
その夜、生きたまま木棺に入れられる夢を見た。
次の日の朝その家の家族と飯を食っていると、そろそろ帰らないかというようなことを暗にいわれた。
帰らないんですよ、箱の中を見るまでは。と心の中で思いながら味のしない飯をかき込んだ。
その日はなんだか薄気味が悪くて山には行かなかった。近くの川でひとり日がな一日ぼうっとしていた。

『僕はその木箱の中に何が入っているのか、そのことよりもこの集落の昔の人々が人間の本体をいったい何だと考えていたのか、それが知りたい』

俺は知りたくない。でも想像はつく。
あとはどこの臓器かという違いだけだ。

俺は腹の辺りを押さえたまま川原の石に腰掛けて水をはねた。
村に侵入した異物を子供たちが遠くから見ていた。
あの子たちはそんな習慣があったことも知らないだろう。

その夜、丑三つ時に師匠が声を顰め、「行くぞ」といった。
川を越えて暗闇の中を進んだ。向かった先は寺だった。
「例の浄土宗の寺だよ。どう攻勢をかけたのか知らないが、明治期にくだんの怪しげな土着信仰を廃して、壇徒に加えることに成功したんだ。だから今はあのあたりはみんな仏式」
息をひそめて山門をくぐった。
帰りたかった。
「そのあと、葬祭をとりしきっていたキの一族は血筋も絶えて今は残っていない。ということになってるけど、恐らく迫害があっただろうね。
というわけでくだんの木箱だけど、どうも処分されてはいないようだ。宗旨の違う埋葬物だけどあっさりと廃棄するほどには浄土宗は心が狭くなかった。ただそのままにもしておけないので当時の住職が引き取り、寺の地下の蔵にとりあえず置いていたようだが、どうするか決まらないまま代が変わりいつのまにやら文字どおり死蔵されてしまって今に至る、というわけ」
よくも調べたものだと思った。
地所に明かりがともっていないことを確認しながら、小さなペンライトでそろそろと進んだ。
小さな本堂の黒々とした影を横目で見ながら、俺は心臓がバクバクしていた。どう考えてもまともな方法で木箱を見に来た感じじゃない。
「僕の専攻は仏教美術だから、そのあたりから攻めてここの住職と仲良くなって鍵を借りたんだ」
そんなワケない。寝静まってから泥棒のようにやって来る理由がない。

そこだ。と師匠がいった。
本堂のそばに厠のような屋根があり、下に鉄の錠前がついた扉があった。
「伏蔵だよ」

どうも木箱の中身については当時から庶民は知らなかったらしい。知ることは禁忌だったようだ。
そこが奇妙だ。と師匠はいう。
その人をその人たらしめるインテグラルな部分があるとして、それが何なのか知りもせずに手を合わせてまた畏れるというのは。やはり変な気がする。
それが何なのか知っているとしたら、それを「抜いた」というシャーマンと、あるいは木箱を石の下から掘り出して伏蔵に収めた当時の住職もか・・・師匠がごそごそと扉をいじり、音を立てないように開けた。
饐えた匂いがする地下への階段を二人で静かに降りていった。降りていくときに階段がいつまでも尽きない感覚に襲われた。
実際は地下一階分なのだろうが、もっと長く果てしなく降りたような気がした。
もともとは本山から頂戴したなけなしの経典を納めていたようだが、今はその主人を変えている、と師匠は言った。
異教の穢れを納めているんだよ。というささやくような声に一瞬気が遠くなった。
高山に近い土地柄に加え、真夜中の地下室である。まるで冬の寒さだった。
俺は薄着の肩を抱きながら、師匠のあとにビクビクしながら続いた。
ペンライトでは暗すぎてよく分からないが、思ったより奥行きがある。
壁の両脇に棚が何段にもあり、主に書物や仏具が並べられていた。

「それ」は一番奥にあった。
ひひひ
という声がどこからともなく聞こえた。
まさか、と思ったがやはり師匠の口から出たのだろうか。

厚手の布と青いシートで2重になっている小山が奥の壁際にある。
やっぱりやめよう、と師匠の袖をつかんだつもりだったが、なぜか手は空を切った。
手は肩に乗ったまま動いていなかった。
師匠はゆっくりと近づき、布とシートをめくりあげた。
木箱が出てきた。大きい。
正直言って、小さな木箱から小さな肝臓の干物のようなものが出てくることを想像していた。
しかしここにある箱は少なかった。三十はないだろう。その分一つ一つが抱えなければならないほど大きい。
嫌な予感がした。
木箱の腐食が進んでいるようだった。石の下に埋められていたのだから、掘り出した時に箱のていを成していないものは処分してしまったのかも知れない。
師匠がその内の一つを手にとってライトをかざした。
それを見た瞬間、明らかに今までと違う鳥肌が立った。

ぞんざいな置かれ方をしていたのに、木箱は全面に墨書きの経文でびっしりと覆われていたからだ。
如是我聞一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園與大比丘衆千二百五十人倶・・・
師匠がそれを読んでいる。
やめてくれ。
起きてしまう。
そう思った。

ペンライトの微かな明かりの下で、師匠が嬉しそうな顔をして指に唾をつけ、箱の口の経文をこすり落とした。
他に封印はない。
ゆっくりと蓋をあげた。
俺は怖いというか心臓のあたりが冷たくなって、そっちを見られなかった。

「う」

というくぐもった音がして、思わず振り向くと師匠が箱を覗き込んだまま口をおさえていた。
俺は気がつくと出口へ駆け出していた。
明かりがないので何度も転んだ。それでももう、そこに居たくなかった。
階段を這い登りわずかな月明かりの下に出ると、山門のあたりまで戻りそこでうずくまっていた。

どれくらい経っただろうか。
師匠が傍らに立っていて青白い顔で「帰ろう」と言った。
結局次の日俺たちは1週間お世話になった家を辞した。またいらしてねとは言われなかった。
もう来ない。来るわけがない。
帰りの電車でも俺は聞かなかった。木箱の中身のことを。
この土地にいる間は聞いてはいけない、そんな気がした。

夏休みも終わりかけたある日に俺は奇形の人を立て続けに見た。
そのことを師匠に話した折りに、奇形からの連想だろうか、そういえばあの木箱は・・・と口走ってしまった。

ああ、あれね。
あっさり師匠はいった。
「木箱で埋められてたはずだからまずないだろう、と思ってたものが出てきたのには、さすがにキタよ」
胡坐をかいて眉間に皺をよせている。
俺は心の準備が出来てなかったが、かまわず師匠は続けた。
「屍蝋化した嬰児がくずれかけたもの、それが中身。かつて埋められていたところを見たけど、泥地でもないしさらに木箱に入っていたものが屍蝋化してるとは思わなかった。もっとも屍蝋化していたのは26体のうち3体だったけど」

嬰児?
俺は混乱した。
グロテスクな答えだった。そのものではなく、話の筋がだ。
死人の体から抜き出したもののはずだったから。

「もちもん産死した妊婦限定の葬祭じゃない。あの土地の葬儀のすべてがそうなっていたはずなんだ。これについては僕もはっきりした答えが出せない。ただ間引きと姥捨てが同時に行われていたのではないか、という推測は出来る」

間引きも姥捨ても今の日本にはない。想像もつかないほど貧しい時代の遺物だ。

「死体から抜き出した、というのはウソでこっそり間引きたい赤ん坊を家族が差し出していたと・・・?」

じゃあやはり、当時の土地の庶民も知っていたはずだ。
しかし言えないだろう。木箱の中身を知らない、という形式をとること自体がこの葬祭を行う意味そのものだからだ。
ところが、違う違うとばかりに師匠は首を振った。

「順序が違う。あの箱の中にはすべて生まれたばかりの赤ん坊が入っていた。年寄りが死んだときに、都合よく望まれない赤子が生まれて来るってのは変だと思わないか。逆なんだよ。望まれない赤子が生まれて来たから年寄りが死んだんだよ」

婉曲な表現をしていたが、ようするに積極的な姥捨てなのだった。
嫌な感じだ。やはりグロテスクだった。

「この二つの葬儀を同時に行なわなければならない理由はよくわからない。ただ来し方の口を減らすからには行く末の口も減らさなくてはならない、そんな道理があそこにはあったような気がする」

どうして死体となった年寄りの体から、それが出てきたような形をとるのか、それはわからない。
ただただ深い土着の習俗の闇を覗いている気がした。

「そうそう、その葬祭をつかさどっていたキの一族だけどね、まるで完全に血筋が絶えてしまったような言い方をしちゃったけど、そうじゃないんだ。最後の当主が死んだあと、その娘の一人が集落の一戸に嫁いでいる」

そういう師匠は、今までに何度もみせた、『人間の闇』に触れた時のような得体の知れない喜びを顔に浮かべた。

「それがあの僕らが逗留したあの家だよ。つまり・・・」

ぼくのなかにも

そう言うように師匠は自分の胸を指差した。

大学1回生の夏。
『四次元坂』という地元ではわりと有名な心霊スポットに挑んだ。

曰く、夜にその坂でギアをニュートラルに入れると車が坂道を登って行くというのだ。
その噂を聞いて僕は俄然興奮した。
いたのやら、いなかったのやら分からないようなお化けスポットとは違う。車が動くというのだから、なんだか凄いことのような気がするのだ。
とはいえ一人では怖いので、二人の先輩を誘った。

夜の1時。
僕は人影のない最寄の駅の前でぼーっと立っていた。隣には僕が師匠と仰ぐオカルトマニアの変人。やはりぼーっと立っている。
いつもなら僕がそんな話を持って行くと、即断即決で「じゃあ行こう」ということになる人なのだが、その時は肝心の車がなかった。
師匠の愛車のボロ軽四は原因不明の煙が出たとかで、修理に出していたのだった。僕は免許さえ持っていない。
そこで車を出せる人をもう一人誘ったのだが、ある意味で四次元坂よりも楽しみな部分がそこにあった。

闇を裂いてブルーのインプレッサが駅前に止まる。
颯爽と降りてきた人はこちらに手を振りかけて、すぐに降ろした。

「なんでこいつがいるんだ」
京介さんという、僕のオカルト系のネット仲間だ。
「こっちの台詞だ」
師匠がやりかえして、すぐに険悪な空気に包まれる。
まあまあ、と取り成す僕に師匠が「どうしてお前はいつも、俺とこいつが一緒になるように仕向けるんだ」というようなことを言った。
面白いからですよ。
とはなかなか言えないので、かわりに、まあまあ、と言った。

師匠と京介さんは仲が悪い。強烈に悪い。
それは初対面のときに、京介さんが師匠に向かって
「なんだこのインチキ野郎は」
と言ったことに端を発する。
お互い、多少系統は違えどオカルトフリークとしては人後に落ちない自負があるらしい。
いわば磁石のS極とS極だ。反発するのは仕方のないことかも知れない。

「まあまあ、四次元坂の途中には同じくらいの激ヤバスポットもありますし、とりあえず楽しんで行きましょう」
なんとか二人をなだめすかして車に押し込める。
当然師匠は後部座席で、僕は助手席だった。
「狭い」
師匠の一言に京介さんが、黙れと言う。
「くさい」
と言ったときは、車を停めてあわや乱闘というところまで行った。
やっぱりセットで呼んでよかった。最高だ。この二人は。

そんな気分をぶっこわすようなものがいきなり視界に入ってきた。
対向車もいない真夜中の山中で、川沿いの道路の端に巨大な地蔵が浮かび上がったのだった。
比較物のない夜のためか、異常に大きく見える。体感で5メートル。

「あれが見返り地蔵ですよ」

車で通り過ぎてから振り返ると、側面のはずの地蔵がこっちを向いていて、それと目が合うと必ず事故に遭うという曰くがある。
二人が喜びそうな話だ。
喜びそうな話なのに、二人とも何もいわず、振り返りもしなかった。ゾクゾクする。
怖さのような、嬉しさのような、不思議な笑いがこみ上げてきた。
振り返れないから、僕のイメージの中でだけ道端の地蔵は遠ざかり、曲がりくねる闇の中に消えていった。
もちろんそのイメージの中では、こちらを向いていた。無表情に。

師匠も京介さんも押し黙ったまま、車は夜道を進んだ。
イライラしたように京介さんはハンドルを指で叩く。
やがて道が二手に分かれる場所に出た。
「左です」
という僕の声に、ウインカーも出さずにハンドルが切られる。
左に折れると、すぐに上り坂が始まった。

「どこ」
「ええと、たしかもうこの辺りからそのはずですが」
あくまで噂では。
京介さんは車を停止させると、ギアをニュートラルに入れた。

・・・

ドキドキするのも一瞬。じりじりと車は後退した。
京介さんはため息をついてブレーキを踏んだ。
「あー、ちょっと楽しみだったんだけどなぁ」
僕も残念だ。
たしかに本気でそんな坂があるなんて信じていたかと言われれば、否だが。
すると師匠が「ライト消して」と言いながら、車を降りた。
手には懐中電灯。3人とも車を降りると、周囲になんの明かりもない山道に突っ立った。
「まあ多分こういうことだな」
と師匠はぼそぼそと話しはじめた。

この山中の坂道はゆるやかな上り坂になっているわけだが、道の先を見ると路側帯の白線が微妙に曲がり、おそらく幅が途中から変わっているようだ。それが遠近感を狂わせて上り坂を下り坂に錯覚させるのではないか。
周囲に傾斜を示すような比較物が少ない闇夜に、かすかな明かりに照らされて浮かび上がった白線だけを見ていると、そんな感覚に陥るのだろう。
師匠の言葉を聞くと、不思議なことにさっきまで上り坂だった道が下向きの傾斜へと変化していくような気がするのだった。
「つまり、ハイビームでここを登ろうとする無粋なことをしなければ、もう少し楽しめたんじゃない?」
師匠の挑発に、京介さんが鼻で笑う。
「あっそ。じゃあここで置いていくから、存分に錯覚を楽しんだら」
「言うねえ。四次元坂なんて信じちゃうかわいいオトナが」
虫の声が遠くから聞こえるだけの静かな道に、二人の罵りあう声だけが響く。
しかし、京介さんの次の言葉でその情景が一変した。

「どうでもいいけど、おまえ、後ろ振り向かないほうがいいよ。地蔵が来てるから」

零下100度の水をいきなり心臓に浴びせられたようなショックに襲われた。
京介さんの子供じみた脅かしにではない。
その脅しを聞いた瞬間に、師匠が凄まじい形相で自分の背後を振り返ったからだ。
驚愕でも、恐怖でもない、なにかひどく温度の低い感情が張り付いたような表情で。
しかしもちろん、そこには闇が広がっているだけだった。
その様子を見た京介さんも息をのんで、用意していた嘲笑も固まった。
おいおい。笑うところだろ。騙された人を笑うところだろ。
そう思いながらも、夜気が針のように痛い。

「すまん」
と京介さんが謝り、なんとも後味悪く3人は車に戻った。
師匠は後部座席に沈み込み、一言も口を利かなかった。
そして僕らはくだんの地蔵の前を通ることもなく、県道を大回りして帰途に着いたのだった。

師匠を駅前で降ろして、僕を送り届ける時に京介さんは頭を掻きながら
「どうして謝っちまったんだ」
と吐き捨てて、とんでもないスピードでインプレッサを吹っ飛ばし、僕はその日一番の恐怖を味わったのだった。

四隅

大学1回生の初秋。
オカルト系のネット仲間と「合宿」と銘打ってオフ会を開いた。
山間のキャンプ地で、「出る」という噂のロッジに泊まることにしたのである。

オフ会は普段からよくあったのだが、泊まりとなると女性が多いこともあり、あまり変なメンバーを入れたくなかったので、ごく内輪の中心メンバーのみでの合宿となった。
参加者はリーダー格のCoCoさん、京介さん、みかっちさんの女性陣に、俺を含めた計4人。
言ってしまえば荷物持ち&力仕事専用の俺なわけだが、呼ばれたことは素直に嬉しかった。
日程は1泊2日。レンタカーを借りて乗り込んだのだが、シーズンを外したおかげでキャンプ地はわりに空いていて、うまい空気吸い放題、ノラ猫なで放題、やりたい放題だったはずだが、みかっちさんが「かくれんぼをしよう」と言い出して始めたはいいものの、CoCoさんが全然見つからずそのまま日が暮れた。
夕飯時になったので放っておいてカレーを作り始めたらどこからともなく出てきたのだが、俺はますますCoCoさんがわからなくなった。
ちなみに俺以外は全員20代のはずだったが・・・・・・

その夜のことである。
「出る」と噂のロッジも酒が入るとただの宴の会場となった。
カレーを食べ終わったあたりから急に天気が崩れ、思いもかけず強い雨に閉じ込められてしまい、夜のロッジは小さな照明が揺れる中、ゴーゴーという不気味な風雨の音に包まれている、という素晴らしいオカルト的環境であったにも関わらず、酒の魔力はそれを上回っていた。
さんざん芸をやらされ疲れ果てた俺が壁際にへたり込んだ時、前触れもなく照明が消えた。
やたらゲラゲラ笑っていたみかっちさんも口を閉じ、一瞬沈黙がロッジに降りた。
停電だぁ、と誰かが呟いてまた黙る。屋根を叩く雨と風の音が大きくなった。
照明の消えた室内は真っ暗になり、ヘタレの俺は急に怖くなった。

「これは、アレ、やるしかないだろう」
と京介さんの声が聞こえた。
「アレって、なんですか」
「大学の山岳部の4人が遭難して山小屋で一晩をすごす話。かな」
CoCoさんが答えた。

暗闇のなか体を温め、眠気をさますために4人の学生が部屋の四隅にそれぞれ立ち、時計回りに最初の一人が壁際を歩き始める。
次の隅の人に触ると、触られた人が次の隅へ歩いていってそこの人に触る。これを一晩中繰り返して山小屋の中をぐるぐる歩き続けたというのだが、実は4人目が隅へ進むとそこには誰もいないはずなのでそこで止まってしまうはずなのだ。
いるはずのない5人目が、そこにいない限り・・・・・・

という話をCoCoさんは淡々と語った。
どこかで聞いたことがある。子供だましのような話だ。
そんなもの、ノリでやっても絶対になにも起きない。しらけるだけだ。
そう思っていると、京介さんが「ルールを二つ付け加えるんだ」と言い出した。

1.スタート走者は、時計回り反時計回りどちらでも選べる。
2.誰もいない隅に来た人間が、次のスタート走者になる。

次のスタート走者って、それだと5人目とかいう問題じゃなく普通に終わらないだろ。
そう思ったのだがなんだか面白そうなので、やりますと答えた。
「じゃあ、これ。誰がスタートかわかんない方が面白いでしょ。あたり引いた人がスタートね」
CoCoさんに渡されたレモン型のガムを持って、俺は壁を這うように部屋の隅へ向かった。
「みんなカドについた?じゃあガムをおもっきし噛む」
部屋の対角線あたりからCoCoさんの声が聞こえ、言われたとおりにするとほのかな酸味が口に広がる。
ハズレだった。アタリは吐きたくなるくらい酸っぱいはずだ。
京介さんがどこの隅へ向かったか気配で感じていた俺は、全員の位置を把握できていた。

CoCo    京介

みかっち  俺

こんな感じのはずだ。
誰がスタート者か、そしてどっちから来るのかわからないところがゾクゾクする。
つまり自分が「誰もいないはずの隅」に向かっていても、それがわからないのだ。
角にもたれかかるように立っていると、バタバタという風の音を体で感じる。
いつくるかいつくるかと身構えていると、いきなり右肩を掴まれた。右から来たということは京介さんだ。
心臓をバクバク言わせながらも声一つあげずに俺は次の隅へと壁伝いに進んだ。時計回りということになる。
自然と小さな歩幅で歩いたが、暗闇の中では距離感がはっきりせず妙に次の隅が遠い気がした。
ちょっと怖くなって来たときにようやく、誰かの肩とおぼしきものに手が触れた。みかっちさんのはずだ。
一瞬ビクっとしたあと、人の気配が遠ざかって行く。
俺はその隅に立ち止まると、また角にもたれか掛かった。壁はほんのりと暖かい。そうだろう。誰だってこんな何も見えない中でなんにも触らずには立っていられない。

風の音を聞いていると、またいきなり右肩を強く掴まれた。京介さんだ。わざとやっているとしか思えない。
俺は闇の向こうの人物を睨みながら、また時計回りに静々と進む。
さっきのリプレイのように誰かの肩に触れ、そして誰かは去っていった。
その角で待つ俺は、こんどはビビらないぞと踏ん張っていたが、やはり右から来た誰かに右肩を掴まれ、ビクリとするのだった。

そして、『俺が次のスタート走者になったら方向を変えてやる』と密かに誓いながら進むことしばし。
誰かの肩ではなく垂直に立つ壁に手が触れた。一瞬声をあげそうになった。
ポケットだった。
誰もいない隅をなぜかその時の俺は頭の中でそう呼んだ。たぶんエア・ポケットからの連想だと思う。

ポケットについた俺は、念願の次のスタート権を得たわけだ。
今4人は、四隅のそれぞれにたたずんでいることになる。
俺は当然のように反時計回りに進み始めた。

ようやく京介さんを触れる!
いや、誤解しないで欲しい。なにも女性としての京介さんを触れる喜びに浸っているのではない。ビビらされた相手へのリベンジの機会に燃えているだけだ。
ただこの闇夜のこと、変なところを掴んでしまう危険性は確かにある。だがそれは仕方のない事故ではないだろうか。
俺は出来る限り足音を殺して右方向へ歩いた。
そしてすでに把握した距離感で、ここしかないという位置に左手を捻りこんだ。
次の瞬間異常な硬さが指先を襲った。指をさすりながら、ゾクッとする。
壁? ということはポケット? そんな。俺からスタートしたのに・・・・・・
呆然とする俺の左肩を何者かが強く掴んだ。京介さんだ。
俺は当然、壁に接している人影を想像して左手を出したのに。なんて人だ。暗闇の中、壁に寄り添わずに立っていたなんて。あるいは罠だったか。
人の気配が壁伝いに去っていく。
悔しさがこみ上げて、残された俺は次はどういくべきか真剣に思案した。
そしてしばらくしてまた右肩を掴まれたとき、恥ずかしながらウヒ、という声が出た。
くそ!京介さんだ。また誰か逆回転にしやがったな。こんどこそ悲しい事故を起こすつもりだったのに。
頭の中で毒づきながら、時計回りに次の隅へ向かう。
そしてみかっちさん(たぶん)には遠慮がちに触った。

次の回転でも右からだった。その次も。その次も。
俺はいつまでたっても京介さんを触れる反時計回りにならないことにイライラしながら、はやくポケット来いポケット来いと念じていた。次ポケットが来たら当然反時計回りにスタートだ。
俺はそれだけを考えながら回り続けた。
何回転しただろうか、闇の中で気配だけが蠢く不思議なゲームが急に終わりを告げた。

「キャー!」
という悲鳴に背筋が凍る。みかっちさんの声だ。
ドタバタという音がして、懐中電灯の明かりがついた。
京介さんが天井に向けて懐中電灯を置くと、部屋は一気に明るくなった。
みかっちさんは部屋の隅にうずくまって頭を抱えている。
CoCoさんがどうしたの? と近寄っていくと

「だって、おかしいじゃない!どうして誰もいないトコが来ないのよ!」
それは俺も思う。ポケットが来さえすれば京介さんを・・・・・・

まて。なにかおかしい。

アルコールで回転の遅くなっている頭を叩く。
回転が止まらないのは変じゃない。5人目がいなくても、ポケットに入った人が勝手に再スタートするからだ。
だからぐるぐるといつまでも部屋を回り続けることに違和感はないが・・・・・
えーと、最初の1人目がスタートして次の人に触り、4人目がポケットに入る。これを繰り返してるだけだよな。えーと、だから・・・・・・どうなるんだ?
こんがらがってきた。

「もう寝ようか」
というCoCoさんの一言でとりあえずこのゲームはお流れになった。
京介さんは俺に向かって「残念だったな」と言い放ち、人差し指を左右に振る。
みかっちさんもあっさりと復活して、「まあいいか」なんて言っている。
さすがオカルトフリークの集まり。この程度のことは気にしないのか。むしろフリークだからこそ気にしろよ。
俺は気になってなかなか眠れなかった。

夢の中で異様に冷たい手に右肩をつかまれて悲鳴をあげたところで、次の日の朝だった。
京介さんだけが起きていて、あくびをしている。

「昨日起ったことは、京介さんはわかってるんですか」
朝の挨拶も忘れてそう聞いた。
「あの程度の酒じゃ、素面も同然だ」
ズレた答えのようだが、どうやら「わかってる」と言いたいらしい。
俺はノートの切れ端にシャーペンで図を描いて考えた。

ACoCo    B京介

Dみかっち  C俺

そしてゲームが始まってから起ったことをすべて箇条書きにしていくと、ようやくわかって来た。酒さえ抜けると難しい話じゃない。
これはミステリーのような大したものじゃないし、正しい解答も一つとは限らない俺がそう考えたというだけのことだ。
でもちょっと想像してみて欲しい。あの闇の中で何がおこったのか。

1 時計
2 時計
3 時計
4 反時計
5 時計
6 時計
7 時計
8 時計
9 時計
10 時計
・・・・・・

俺が回った方向だ。
そして3回目の時計回りで俺はポケットに入った。
仮にAが最初のスタートだったとしたら、時計回りなら1回転目のポケットはD、そして同じ方向が続く限り、2回転目のポケットはC、3回転目はB、と若くなっていく。
つまり同一方向なら必ず誰でも4回転に一回はポケットが来るはずなのだ。
とすると5回転目以降の時計回りの中で、俺にポケットが来なかったのはやはりおかしい。
もう一度図に目を落とすと、3回転目で俺がポケットだったことから逆算するかぎり、最初のスタートはBの京介さんで時計回りということになる。
1回転目のポケット&2回転目のスタートはCoCoさんで、2回転目のポケット&3回転目スタートはみかっちさん、そしてその次が俺だ。
俺は方向を変えて反時計回りに進み、4回転目のポケット&5回転目のスタートはみかっちさん。そしてみかっちさんはまた回転を時計回りに戻したので、5回転目のポケットは・・・・・・
俺だ。
俺のはずなのに、ポケットには入らなかった。誰かがいたから。

だからそのまま時計回りに回転は続き、そのあと一度もポケットは来なかった。
どうして5回転目のポケットに人がいたのだろうか。
「いるはずのない5人目」という単語が頭をよぎる。
あの時みかっちさんだと思って遠慮がちに触った人影は、別のなにかだったのか。

「ローシュタインの回廊ともいう」
京介さんがふいに口を開いた。
「昨日やったあの遊びは、黒魔術では立派な降霊術の一種だ。アレンジは加えてあるけど、いるはずのない5人目を呼び出す儀式なんだ」
おいおい。降霊術って・・・・・・
「でもまあ、そう簡単に降霊術なんか成功するものじゃない」
京介さんはあくびをかみ殺しながらそう言う。
その言葉と、昨日懐中電灯をつけたあとの妙に白けた雰囲気を思い出し、俺は一つの回答へ至った。

「みかっちさんが犯人なわけですね」

つまり、みかっちさんは5回転目のスタートをして時計回りにCoCoさんにタッチしたあと、その場に留まらずにスタート地点まで壁伝いにもどったのだ。
そこへ俺がやってきて、タッチする。
みかっちさんはその後二人分時計回りに移動してCoCoさんにタッチ。
そしてまた一人分戻って俺を待つ。

これを繰り返すことで、みかっちさん以外の誰にもポケットがやってこない。
延々と時計回りが続いてしまうのだ。「キャー!」という悲鳴でもあがらない限り。

せっかくのイタズラなのに、いつまでも誰もおかしいことに気づかないので、自演をしたわけだ。
しかしCoCoさんも京介さんも、昨日のあの感じではどうやらみかっちさんのイタズラには気がついていたようだ。
俺だけが気になって変な夢まで見てしまった。情けない。

朝飯どきになって、みかっちさんが目を覚ました後、「ひどいですよ」と言うと「えー、わたしそんなことしないって」と白を切った。
「このロッジに出るっていう、お化けが混ざったんじゃない?」
そんなことを笑いながら言うので、そういうことにしておいてあげた。

後日、CoCoさんの彼氏にこの出来事を話した。
俺のオカルト道の師匠でもある変人だ。
「で、そのあと京介さんが不思議なことを言うんですよ。5人目は現れたんじゃなくて、消えたのかも知れないって」
あのゲームを終えた時には、4人しかいない。4人で始めて5人に増えてまた4人にもどったのではなく、最初から5人で始めて、終えた瞬間に4人になったのではないか、と言うのだ。
しかし俺たちは言うまでもなく最初から4人だった。
なにをいまさらという感じだが、京介さんはこう言うのだ。
よく聞くだろう、神隠しってやつには最初からいなかったことになるパターンがある、と。

つまり、消えてしまった人間に関する記憶が周囲の人間からも消えてしまい、矛盾が無いよう過去が上手い具合に改竄されてしまうという、オカルト界では珍しくない逸話だ。
しかしいくらなんでも、5人目のメンバーがいたなんて現実味が無さ過ぎる。その人が消えて、何事もなく生活できるなんてありえないと思う。
しかし師匠はその話を聞くと、感心したように唸った。

「あのオトコオンナがそう言ったのか。面白い発想だなあ。その山岳部の学生の逸話は、日本では四隅の怪とかお部屋様とかいう名前で古くから伝わる遊びで、いるはずのない5人目の存在を怖がろうという趣向だ。それが実は5人目を出現させるんじゃなく、5人目を消滅させる神隠しの儀式だったってわけか」
師匠は面白そうに頷いている。
「でも、過去の改竄なんていう現象があるとしても、初めから5人いたらそもそも何も面白くないこんなゲームをしますかね」
「それがそうでもない。山岳部の学生は、一晩中起きているためにやっただけで、むしろ5人で始める方が自然だ。それからローシュタインの回廊ってやつは、もともと5人で始めるんだ」
5人で始めて、途中で一人が誰にも気づかれないように抜ける。
抜けた時点で回転が止まるはずが、なぜか延々と続いてしまうという怪異だという。
「じゃあ自分たちも、5人で始めたんですかね。それだと途中で一度逆回転したのはおかしいですよ」

5人目が消えたなんていうバカ話に真剣になったわけではない。
ただ師匠がなにか隠しているような顔をしていたからだ。
「それさえ、実際はなかったことを5人目消滅の辻褄あわせのために作られた記憶だとしたら、ストーリー性がありすぎて不自然な感じがするし、なんでもアリもそこまでいくとちょっと引きますよ」
「ローシュタインの回廊を知ってたのは、追加ルールの言いだしっぺのオトコオンナだったね。じゃあ、実際の追加ルールはこうだったかも知れない
『1.途中で一人抜けていい。
2.誰もいない隅に来た人間が、次のスタート走者となり、方向を選べる』
とかね」
なんだかややこしい。
俺は深く考えるのをやめて、師匠を問いただした。

「で、なにがそんなに面白いんですか」
「面白いっていうか、うーん。最初からいなかったことになる神隠しってさ、完全に過去が改竄されるわけじゃないんだよね。例えば、誰のかわからない靴が残ってるとか、集合写真で一人分の空間が不自然に空いてるとか。そういうなにかを匂わせる傷が必ずある。逆に言うとその傷がないと誰も何か起ってることに気づかない訳で、そもそも神隠しっていう怪談が成立しない」
なるほど、これはわかる。
「ところでさっきの話で、一箇所だけ違和感を感じた部分がある。キャンプ場にはレンタカーで行ったみたいだけど・・・・・・」
4人で行ったなら、普通の車でよかったんじゃない?
師匠はそう言った。

少なくとも京介さんは4人乗りの車を持っている。
わざわざ借りたのは師匠の推測の通り、6人乗りのレンタカーだった。

確かにたかが1泊2日。ロッジに泊まったため携帯テントなどキャンプ用品の荷物もほとんどない。
どうして6人乗りが必要だったのか。
どこの二つの席が空いていたのか思い出そうとするが、あやふやすぎて思い出せない。
どうして6人乗りで行ったんだっけ・・・・・・

「これが傷ですか」
どうだかなぁ。ただアイツが言ってたよ。かくれんぼをしてた時、勝負がついてないから粘ってたって。
かくれんぼって時間制限があるなら鬼と隠れる側の勝負で、時間無制限なら最後の一人になった人間の勝ちだよね。
どうしてかくれんぼが終わらなかったのか。あいつは誰と勝負してたんだろう。
師匠のそんな言葉が頭の中をあやしく回る。
なんだか気分が悪くなって、逃げ帰るように俺は師匠の家を出た。
帰り際、俺の背中に「まあそんなことあるわけないよ」と師匠が軽く言った。

実際それはそうだろうと思うし、今でもあるわけがないと思っている。
ただその夜だけは、いたのかも知れない、いなくなったのかも知れない、そして友達だったのかも知れない5人目のために、祈った。

どうして幽霊は鉄塔にのぼるのか

師匠が変なことを言うので、おもわず聞き返した。
「だから鉄塔だって」
大学1回生の秋ごろだったと思う。

当時の俺はサークルの先輩でもあるオカルト道の師匠に、オカルトのイロハを教わっていた。
ベタな話もあれば、中には師匠以外からはあまり聞いたことがないようなものも含まれている。
その時も、テットーという単語の意味が一瞬分からず二度聞きをしてしまったのだった。
「鉄塔。てっ・と・う。鉄の塔。アイアン・・・・・・なんだ、ピラァ?とにかく見たことないかな。夜中見上げてると、けっこういるよ」
師匠が言うには、郊外の鉄塔に夜行くと人間の霊がのぼっている姿を見ることが出来るという。
どうして幽霊は鉄塔にのぼるのか。そんな疑問のまえに幽霊が鉄塔にのぼるという前提が俺の中にはない。
脳内の怪談話データベースを検索しても幽霊と鉄塔に関する話はなかったように思う。
師匠は、えー普通じゃん。と言って真顔でいる。
曰くのある場所だからではなく、鉄塔という記号的な部分に霊が集まるのだと言う。

近所に鉄塔はなかったかと思い返したが、子供のころ近所にあった鉄塔がまっさきに頭に浮かんだ。
夕方学校の帰りにそばを通った、高くそびえる鉄塔と送電線。
日が暮れるころにはその威容も不気味なシルエットになって、俺を見下ろしていた。確かに夜の鉄塔には妙な怖さがある。
しかし霊をそこで見たことはない、と思う。

師匠の話を聞いてしまうとやたら気になってしまい、俺は近くの鉄塔を探して自転車を飛ばした。
いざどこにあるか、となると自信がなかったが、なんのことはない。
鉄塔は遠くからでも丸分かりだった。住宅街を抜けて、川のそばにそびえ立つ姿を見つけると近くに自転車を止め、基部の金網にかきついた。見上げてみると送電線がない。
ボロボロのプレートに「○×線ー12」みたいなことが書いてあった。おそらく移設工事かなにかで送電ルートから外れてしまったのだろう。
錆が浮いた赤黒い塔は、怖いというより物寂しい感じがした。
というか、日がまだ落ちていなかった。

近所のコンビニや本屋で時間をつぶして、再び鉄塔へ戻った。
暗くなると、俄然雰囲気が違う。人通りもない郊外の鉄塔は、見上げるとその大きさが増したような気さえする。
赤いはずの塔は今は黒い。それも夜の暗灰色の雲の中に、その形の穴が開いたような、吸い込まれそうな黒だった。
風が出てきたようで、立ち入り禁止の金網がカサカサと音を立て、送電線のない鉄塔からはその骨組みを吹き抜ける空気が奇妙なうなりをあげていた。

周囲に明かりがなく、目を凝らしてみても鉄塔にはなにも見えない。
オカルトは根気だ。
簡単には諦めない俺は、夜中3時まで座り込んで粘った。
出る、という噂も逸話もない場所で、そもそも幽霊なんか見られるんだろうかという疑念もあった。
骨組みに影が座っているようなイメージを投影し続けたが、なにか見えた気がして目を擦るとやっぱりそこにはなにもないのだった。
結局、見えないものを見ようとした緊張感から来る疲れで、夜明けも待たずに退散した。

翌日、さっそく報告すると師匠は妙に嬉しそうな顔をする。
「え? あそこの鉄塔に行った?」
なぜか自分も行くと言いだした。
「だから、何も出ませんでしたよ」
と言うと、だからじゃないかと変なことを呟いた。
よくわからないまま、昼ひなかに二人してあの鉄塔に行った。

昼間に見ると、あの夜の不気味さは薄れてただの錆付いた老兵という風体だった。
すると師匠が顎をさすりながら、ここは有名な心霊スポットだったんだ、と言った。
頭からガソリンをかぶって焼身自殺をした人がいたらしい。
夜中この鉄塔の前を通ると、熱い熱いとすすり泣く声が聞こえるという噂があったそうだ。

「あのあたりに黒い染みがあった」
金網越しに師匠が指差すその先には、今は染みらしきものは見えない。
なにか感じますか。と師匠に問うも、首を横に振る。
「僕も見たことがあったんだ」
自殺者の霊をここで。そう言う師匠は焦点の遠い目をしている。
「今はいない」
独り言のように呟く。
「そうか。どうして鉄塔にのぼるのか、わかった気がする」
そして陽をあびて鈍く輝く鉄の塔を見上げるのだった。
俺にはわからなかった。聞いても「秘密」とはぐらかされた。
師匠が勝手に立て、勝手に答えに辿りついた命題は、それきり話題にのぼることはなかった。

けれど今では鉄塔を見るたび思う。
この世から消滅したがっている霊が、現世を離れるために『鉄塔』という空へ伸びるシンボリックな建築物をのぼるのではないだろうか。長い階段や高層ビルではだめなのだろう。
その先が、人の世界に通じている限りは。

血(前編)

大学1回生のとき、オカルト道を突き進んでいた俺には師匠がいた。
ただの怖い物好きとは一線を画す、得体の知れない雰囲気を持った男だった。

その師匠とは別に、自分を別の世界に触れさせてくれる人がいた。
オカルト系のネット仲間で、オフでも会う仲の「京介」さんといいう女性だ。
どちらも俺とは住む世界が違うように思える、凄い人だった。
師匠のカノジョも同じネット仲間だったので、その彼女を通じて面識があるのかと思っていたが、京介さんは師匠を知らないという。

俺はその二人を会わせたらどういう化学反応を起こすのか、見てみたかった。
そこで、あるとき師匠に京介さんのことを話してみた。
「会ってみませんか」と。
師匠は腕組みをしたまま唸ったあとで
「最近付き合いが悪いと思ってたら、浮気してたのか」
そんな嫉妬されても困る。
が、黒魔術に首をつっこむとろくなことがないよ、と諭された。
ネットでは黒魔術系のフォーラムにいたのだった。

どんなことをしてるのか、と問われて、あんまり黒魔術っぽいことはしてませんが、と答えていると、あるエピソードに食いついてきた。
京介さんの母校である地元の女子高に潜入したときの出来事だったが、その女子高の名前に反応したのだった。
「待った、その女の名前は? 京子とか、ちひろとかいう名前じゃない?」
そういえば京介というハンドルネームしか知らない。
話を聞くと、師匠が大学に入ったばかりのころ、同じ市内にある女子高校で新聞沙汰になる猟奇的な事件があったそうだ。
女子生徒が重度の貧血で救急車で搬送されたのであるが、「同級生に血を吸われた」と証言して、地元の新聞がそれに食いつき、ちょっとした騒ぎになった。
その後、警察は自殺未遂と発表し、事件自体は尻切れのような形で沈静化した。しかしそのあと、二人の女子生徒が密かに停学処分になっているという。

「当時、僕ら地元のオカルトマニアにはこの事件はホットだった。○○高のヴァンパイアってね。たしか校内で流行ってた占いの秘密サークルがからんでて、停学になったのはそのリーダー格の二人。どっかで得た情報ではそんな名前だった」

吸血鬼って、いまどき。
俺は師匠には申し訳ないが、腹を抱えた。
「笑いごとじゃない。その女には近づかないほうがいい」
思いもかけない真剣な顔で迫られた。
「でも京介さんがその停学になった人とは限らないし」
俺はあくまで一歩引いて流そうとしていた。しかし「京子」という名前が妙に頭の隅に残ったのだった。

地元の大学ということもあってか、その女子高出身の人が俺の周辺には結構いた。
同じ学科の先輩で、その女子高OBの人がいたのでわざわざ話を聞きに行った。
やはり、自分でもかなり気になっていたらしい。

「京子さん?もちろん知ってる。私の1コ上。そうそう、停学になってた。なんとか京子と、山中ちひろ。占いとか言って、血を吸ってたらしい。うわー、きしょい。二人とも頭おかしいんだって。とくに京子さんの方は、名前を口に出しただけで呪われるとかって、下級生にも噂があったくらい。えーと、そうそう、間崎京子。ギャ、言っちゃった」

その先輩に、「京子」さんと同学年という人を二人紹介してもらった。二人とも他学部だったが、学内の喫茶店と、サークルの部室に乗りこんで話を聞いた。

「京子さん?あの人はヤバイよ。悪魔を呼び出すとか言って、へんな儀式とかしてたらしい。高校生がそこまでするかってくらい、イッちゃってた。最初は占いとか好きな取り巻きが結構いたけど、最後はその京子さんとちひろさんしかいなくなってた。卒業して外に出たって話は聞かないから、案外まだ市内にいるんじゃない?なにしてるんだか知らないけど」
「その名前は出さないほうがいいですよ。いや、ホント。ふざけて陰口叩いてて、事故にあった子、結構いたし。ホントですよ。え?そうそう。ショートで背が高かったなあ。顔はね、きれいだったけど・・・近寄りがたくて、彼氏なんかいなさそうだった」

話を聞いた帰り道、ガムを踏んだ。
嫌な予感がする。
高校時代から、怪我人が出るような「遊び」をしていたという、「京介」さんの話と合致する。
山中ちひろというのは、京介さんが親しかったという黒魔術系サークルのリーダー格の女性ではないだろうか。
間崎京子。頭の中でその言葉が回った。

それから数日、ネットには繋がなかった。
なんとなく京介さんと会話するのが怖かった。ギクシャクしてしまいそうで。
ある意味、そんな京介さんもオッケー!という自分もいる。
別に取って食われるわけではあるまい。面白そうではないか。
しかし「近づくな」と短期間に4人から言われると、ちょっと警戒してしまうのも事実だった。

そんな、問題を先送りにしただけの日々を送っていたある日。
道を歩いているとガムを踏んだ。
歩道の端にこすりつけていると、そのとき不思議なことが起こった。
一瞬、あたりが暗くなり、すぐにまた明るくなったのだ。
雲の下に入ったとか、そんな暗さではなかった。一瞬だが真っ暗といっていい。
しばらくその場で固まっていると、また同じことが起こった。
パッパッと、周囲が明滅したのだ。
まるでゆっくりまばたきした時のようのようだった。
しかしもちろん、自分がしたまばたきに驚くようなバカではない。
怖くなって、その場を離れた。

次は、家で歯磨きをしているときだった。
パチ、パチ、と2回、暗闇に視界がシャットダウンされた。驚いて、口の中のものを飲んでしまった。
そんなことが数日続き、ノイローゼ気味になった俺は師匠に泣きついた。

師匠は開口一番
「だから言ったのに」
そんなこと言われても。なにがなんだか。
「その女のことを嗅ぎ回ったから、向こうに気づかれたんだ。『それ』はあきらかにまばたきだよ」
どういうことだろう?
「霊視ってあるよね?霊視されている人間の目の前に、霊視している人間の顔が浮かぶっていう話、聞いたことない?それとはちょっと違うけど、そのまばたきは『見ている側』のまばたきだと思う」
そんなバカな。
「見られてるっていうんですか」
「その女はヤバイ。なんとかした方がいい」
「なんとかなんて、どうしたらいいんですか」
師匠は、謝りに行ってきたら?と他人事まるだしの口調で言った。
「ついて来て下さいよ」と泣きついたが、相手にされない。
「怖いんですか」と伝家の宝刀を抜いたが、「女は怖い」の一言でかわされてしまった。

京介さんのマンションへ向かう途中、俺は悲壮な覚悟で夜道を歩いていた。自転車がパンクしたのだった。
偶然のような気がしない。またガムを踏んだ。偶然のような気がしないのだ。
地面に靴をこすりつけようとして、ふと靴の裏を見てみた。
心臓が止まりそうになった。
なにもついていなかった!
ガムどころか、泥も汚れも、なにも。
では、あの足の裏を引っ張られる感覚は一体なに?
「京子」さんのことを嗅ぎ回るようになってから、やたら踏むようになったガムは、もしかしてすべてガムではなかったのだろうか?
立ち止まった俺を、俺のではないまばたきが襲った。
上から閉じていく世界のその先端に、一瞬、ほんの一瞬、黒く長いものが見えた気がした。
睫毛?
そう思ったとき、俺は駆け出した。
勘弁してください!
そう心の中で叫びながら、マンションへ走った。

チャイムを鳴らしたあと、「うーい」というだるそうな声とともにドアが開いた。
「すみませんでした!」
京介さんは俺を見下ろして、すぐにしゃがんだ。
「なんでいきなり土下座なんだ」
まあとにかく入れ、と言って部屋に上がらされた。
俺は半泣きで、謝罪の言葉を口にして、今までのことを話したはずだが、あまり覚えていない。
俺の要領を得ない話を聞き終わったあと、京介さんはため息をついてジーンズのポケットをごそごそと探り、財布から自動二輪の免許書を取り出した。
『山中ちひろ』
そう書いてあった。
俺は間抜け面で
「だ、だって、背が高くてショートで・・・」
と言ったが
「私は高校のときはずっとロングだ」
バカか、と言われた。
じゃあ、間崎京子というのは・・・
「お前は命知らずだな。あいつにだけは、近づかないほうがいい」
どこかホッとして、そしてすぐに鳥肌が立った。

血(後編)

はじまりはただの占いだったという。
女の子であれば、小学生や中学生のときにハマッた経験はあるだろう。

高校になっても占いに凝っている子となれば、占いの方法もマニアックなものになり、ちょっと傍目にはキモいと言われたりする。
京介さんもそのキモい子の1人で、タロットを主に使ったシンプルな占いを休み時間のたびにしていたそうだ。
やがて校内で一過性の占いブームが起きて、あちこちで占いグループが生まれた。
子どもの頃から占い好きだった京介さんはその知識も豊富で、多くの生徒に慕われるようになった。
タロットやトランプ占いから、ホロスコープやカバラなどを使う、凝ったグループも出てきはじめた。
その中で、黒魔術系と言っていいような陰湿なことをする集団が現れる。そのボスが間崎京子という生徒だった。

京介さんと間崎京子はお互いに認め合い、また牽制しあった。仲が良かったとも言えるし、憎みあっていたとも言える、一言では表せない関係だったそうだ。

そんなある日、京介さんはあるクラスメートの手首に傷があるのに気がついた。
問いただすと、間崎京子に占ってもらうのに必要だったという。
間崎京子本人のところに飛んでいくと、「血で占うのよ」と涼しい顔でいうのだった。
指先や手首をカミソリなどで切って、紙の上に血をたらし、その模様の意味を読み解くのだそうだ。
そんなの占いとは認めない、と言ったが、取り巻きたちに「あなたのは古いのよ」とあしらわれた。
その後、手首や指先などに傷を残す生徒はいなくなったが、血液占いは続いているようだった。ようするに目立つところから血を採らなくなった、というだけのことだ。
これだけ占いが流行ると他の子とは違うことをしたいという自意識が生まれ、よりディープなものを求めた結果、それに応えてくれる間崎京子という重力源に次々と吸い込まれていくかのようだった。
学校内での間崎京子の存在感は、ある種のカルト教祖的でありその言動は畏怖の対象ですらあった。
「名前を出しただけで呪われる」という噂は、単に彼女の地獄耳を怖れたものではなく、実際に彼女の周辺で不可解な事故が多発している事実からきていたそうだ。

血液占いのことを京介さんが把握してから数週間が経ったある日、休み時間中にクラスメートの一人が急に倒れた。
そばにいた京介さんが抱き起こすと、その子は「大丈夫、大丈夫。ちょっと立ちくらみ」と言って何事もなかったかのように立ち去ろうとする。「大丈夫じゃないだろう」と言う京介さんの手を、彼女は強い力で振り払った。
「放っておいてよ」と言われても放っておけるものでもなかった。その子は間崎京子信者だったから。

その日の放課後、京介さんは第二理科室へ向かった。
そこは間崎京子が名目上部長を務める生物クラブの部室にもなっていたのだが、生徒たちは誰もがその一角には足を踏み入れたがらなかった。
時に夜遅くまで人影が窓に映っているにも関わらず、生物クラブとしての活動など、そこでは行われてはいないことを誰しも薄々知っていたから。
第二理科室に近づくごとに、異様な威圧感が薄暗い廊下の空間を歪ませているような錯覚を感じる。おそらくこれは教員たちにはわからない、生徒だけの感覚なのだろう。

「京子、入るぞ」

そんな部屋のドアを京介さんは無造作に開け放った。
暗幕が窓に下ろされた暗い室内で、短い髪をさらにヘアバンドで上げた女生徒が、煮沸されるフラスコを覗き込んでいた。

「あら、珍しいわね」
「一人か」
奥のテーブルへ向かう足が、一瞬止まる。
この匂いは。
「おい、何を煮てる」
「ホムンクルス」
あっさり言い放つ間崎京子に、京介さんは眉をしかめる。
「血液と精液をまぜることで、人間を発生させようなんてどこのバカが言い出したのかしら」
間崎京子は唇だけで笑って、火を止めた。
「冗談よ」
「冗談なものか、この匂いは」
京介さんはテーブルの前に立ちはだかった。

「占い好きの連中に聞いた。おまえ、集めた血をどうしてるんだ」
今日目の前で倒れた女生徒は、左手の肘の裏に注射針の跡があった。静脈から血を抜いた痕跡だ。それも針の跡は一箇所ではなかった。とても占いとやらで必要な量とは思えない。
間崎京子は切れ長の目で京介さんを真正面から見つめた。
お互い何も発しなかったが、張り詰めた空気のなか時間だけが経った。
zがて間崎京子が胸元のポケットから小さなガラス瓶を取り出し、首をかしげた。瓶は赤黒い色をしている。
「飲んでるだけよ」
思わず声を荒げかけた京介さんを制して、続けた。

「白い紙に落とすより、よほど多くのことがわかるわ。寝不足も、過食も、悩みも、恋人との仲だって」
「それが占いだって?」

肩を竦めて見せる間崎京子を睨み付けたまま、吐き捨てるように言った。

「好血症ってやつですか」
そこまで息を呑んで聞いていた俺だが、思わず口を挟んだ。
京介さんはビールを空けながら首を横に振った。
「いや、そんな上等なものじゃない。ノー・フェイトだ」
え?なんですか?と聞き返したが、今にして思うとその言葉は京介さんの口癖のようなもので、no fate、つまり『運命ではない』という言葉を、京介さんなりの意味合いで使っていたようだ。
それは『意思』と言い換えることができると思う。

この場合で言うなら、間崎京子が血を飲むのは己の意思の体現だというのことだ。
「昔、生物の授業中に先生が『卵が先か鶏が先か』って話をしたことがある。後ろの席だった京子がボソッと、卵が先よね、って言うんだ。どうしてだって聞いたら、なんて言ったと思う?
『卵こそ変化そのものだから』」
京介さんは次のビールに手を伸ばした。
俺はソファに正座という変な格好でそれを聞いている。
「あいつは『変化』ってものに対して異常な憧憬を持っている。それは自分を変えたい、なんていう思春期の女子にありがちな思いとは次元が違う。例えば悪魔が目の前に現れて、お前を魔物にしてやろう、って言ったらあいつは何の迷いもなく断るだろう。そしてたぶんこう言うんだ
『なりかただけを教えて』」

間崎京子は異臭のする涙滴型のフラスコの中身を、排水溝に撒きながら口を開いた。
「ドラキュラって、ドラゴンの息子って意味なんですって。知ってる?ワラキアの公王ヴラド2世って人は竜公とあだ名された神聖ローマ帝国の騎士だったけど、その息子のヴラド3世は串刺し公って異名の歴史的虐殺者よ。Draculの子だからDracula。でも彼は竜にはならなかった」
恍惚の表情を浮かべて、そう言うのだ。
「きっと変身願望が強かったのよ。英雄の子供だって、好きなものになりたいわ」
「だからお前も、吸血鬼ドラキュラの真似事で変身できるつもりか」
京介さんはそう言うと、いきなり間崎京子の手からガラス瓶を奪い取った。
そして蓋を取ると、ためらいもなく中身を口に流し込んだ。
あっけにとられる間崎京子に、むせながら瓶を投げ返す。
「たかが血だ。水分と鉄分とヘモグロビンだ。こんなことで何か特別な人間になったつもりか。ならこれで私も同じだ。お前だけじゃない。占いなんていう名目で脅すように同級生から集めなくったって、すっぽんでも買って来てその血を飲んでればいいんだ」
まくしたてる京介さんに、間崎京子は面食らうどころかやがて目を輝かせて、この上ない笑顔を浮かべる。
「やっぱり、あなた、素晴らしい」
そして両手を京介さんの頬の高さに上げて近寄って来ようとした時、「ギャー」という、つんざくような悲鳴があがった。
振り返ると閉めたはずの入り口のドアが開き、数人の女生徒が恐怖に引き攣った顔でこっちを見ている。
口元の血をぬぐう京介さんと目が合った中の一人が、崩れ落ちるように倒れた。そしてギャーギャーとわめきながら、その子を数人で抱えて転がるように逃げていった。
第二理科室に残された二人は、顔を見合わせた。

やがて間崎京子が、あーあ、となげやりな溜息をつくとテーブルの上に腰をかける。
「この遊びもこれでおしまい。あなたのせいとは言わないわ。同罪だしね」
悪びれもせず、屈託のない笑顔でそう言う。
京介さんはこれから起こるだろう煩わしい事にうんざりした調子で、隣りに並ぶように腰掛ける。
「おまえと一緒にいるとロクなことになったためしがない」
「ええ、あなたは完全に冤罪だしね」
「私も血を飲んだんだ。おまえと同じだ」
あら、と言うと嬉しそうな顔をして、間崎京子は肩を落とす京介さんの耳元に唇を寄せて囁いた。

あの血はわたしの血よ。
それを聞いた瞬間、京介さんは吐いた。

俺は微動だにせず、正座のままでその話を聞いていた。
「それで停学ですか」
京介さんは頷いて、空になったビール缶をテーブルに置く。
誰もが近づくなと言ったわけがわかる気がする。間崎京子という女はやばすぎる。
「高校卒業してからは付き合いがないけど、あいつは今頃何に変身してるかな」
やばい。ヤバイ。
俺の小動物的直感がそう告げる。

京介さんが思い出話の中で、「間崎京子」の名前を出すたびに俺はビクビクしていた。
ずっと見られていた感覚を思い出してゾッとする。
近づき過ぎた。そう思う。
おびえる俺に京介さんは「ここはたぶん大丈夫」と言って、部屋の隅を指す。
見ると、鉄製の奇妙な形の物体が四方に置かれている。
「わりと強い結界。のつもり。出典は小アルベルツスのグリモア」
なんだかよくわからない黒魔術用語らしきものが出てきた。
「それに」
と言って、京介さんは胸元からペンダントのようなものを取り出した。
首から掛けているそれは、プレート型のシルバーアクセに見えた。
「お守りですか」
と聞くと、ちょっと違うかなぁと言う。
「日本のお守りはどっちかというとアミュレット。これはタリスマンっていうんだ」

説明を聞くに、アミュレットはまさにお守りのように受動的な装具で、タリスマンはより能動的な、「持ち主に力を与える」ための呪物らしい。
「これはゲーティアのダビデの星。最もメジャーでそして最も強力な魔除け。年代物だ。お前はしかし、私たちのサークルに顔出してるわりには全然知識がないな。何が目的で来てるんだ。おっと、私以外の人間が触ると力を失うように聖別してあるから、触るな」
見ると手入れはしているようだが、プレートの表面に描かれた細かい図案には随所に錆が浮き、かなりの古いものであることがわかる。
「ください。なんか、そういうのください」
そうでもしないと、とても無事に家まで帰れる自信がない。
「素人には通販ので十分だろう。と言いたいところだが、相手が悪いからな」
京介さんは押入れに頭を突っ込んで、しばしゴソゴソと探っていたが「あった」と言って、微妙に歪んだプレートを出してきた。

「トルエルのグリモアのタリスマン。まあこれも魔除けだ。貸してやる。あげるんじゃないぞ。かなり貴重なものだからな」
なんでもいい。ないよりましだ。
俺はありがたく頂戴してさっそく首から掛けた。
「黒魔術好きな人って、みんなこういうの持ってるんですか」
「必要なら持ってるだろう。必要もないのに持ってる素人も多いがな」
京子さんは、と言いかけて、言い直す形でさらに聞いてみた。
「あの人も、持ってるんですかね」
「持ってたよ。今でも持ってるかは知らないけど」
あいつのは別格だ。京介さんは自然と唾を飲んで、言った。

「はじめて見せてもらった時は、足が竦んだ。今でも寒気がする」
そんなことを聞かされると怖くなってくる。
「あいつの父親がそういう呪物のコレクターで、よりによってあんなものを娘に持たせたらしい。人格が歪んで当然だ」
煽るだけ煽って、京介さんは詳しいことは教えてくれなかった。

ただなんとか聞き出せた部分だけ書くと、「この世にあってはならない形」をしていること、そして「五色地図のタリスマン」という表現。
どんな目的のためのものなのか、そこからは窺い知れない。
「靴を引っ張られる感覚があったんだってな。感染呪術まがいのイタズラをされたみたいだけど、まあこれ以上変に探りまわらなければ大丈夫だろう」
京介さんはそう安請け合いしたが、俺は黒魔術という「遊びの手段」としか思っていなかったものが、現実になんらかの危害を及ぼそうとしていることに対して、信じられない思いと、そして得体の知れない恐怖を感じていた。
体が無性に震えてくる。
「一番いいのは信じないことだ。そんなことあるわけありません、気のせいですって思いながら生きてたら、それでいい」

京介さんはビールの缶をベコッとへこますと、ゴミ箱に投げ込んだ。そう簡単にはいかない。
なぜなら、間崎京子のタリスマンのことを話しはじめた時から、俺の感覚器はある異変に反応していたから。
京介さんが、第二理科室に乗り込んだ時の不快感が、今はわかる気がする。
体が震えて、涙が出てきた。
俺は借りたばかりのタリスマンを握り締めて、勇気を出して口にした。
「血の、匂いが、しません、か」
部屋中にうっすらと、懐かしいような禍々しいような異臭が漂っている気がするのだ。
京子さんは今日、一度も見せなかったような冷徹な表情で
「そんなことはない」
と言った。
いや、やっぱり血の匂いだ。気の迷いじゃない。
「でも・・・・・・」
言いかけた俺の頭を京介さんはグーで殴った。
「気にするな」
わけがわからなくなって錯乱しそうな俺を、無表情を崩さない京介さんがじっと見ている。
「生理中なんだ」
笑いもせず、淡々とそう言った顔をまじまじと見たが、その真贋は読み取れなかった。

大学1回生の秋。
借りたままになっていたタリスマンを返しに京介さんの家に行った。
「まだ持ってろよ」
という思いもかけない真剣な調子に、ありがたくご好意に従うことにする。
「そういえば、聞きましたよ」
愛車のインプレッサをガードレールに引っ掛けたという噂が俺の耳まで流れてきていた。京介さんはブスッとして頷くだけだった。
「初心者マークが無茶な運転してるからですよ」
バイクの腕には自信があるらしいから、スピードを出さないと物足りないのだろう。
「でもどうして急に車の免許なんか取ったんですか」
バイカーだった京介さんだが、短期集中コースでいつのまにか車の免許を取り、中古のスポーツカーなんかをローンで購入していた。
「あいつが、バイクに乗り始めたのかも知れないな」
不思議な答えが返されてきた。あいつというのは間崎京子のことだろうと察しがついた。
だがどういうことだろう。

「双子ってさ、本人が望もうが望むまいがお互いがお互いに似てくるし、それが一生つきまとうだろう。それが運命なら、しかたないけど。双子でない人間が、相手に似てくることを怖れたらどうすると思う」
それは間崎京子と京介さんのことらしい。

「昔からなんだ。あいつが父親をパパなんて呼ぶから、私はオヤジと呼ぶようになった。あいつがコカコーラを飲むから私はペプシ。わかってるんだ。そんな表面的な抵抗、意味ないと思っていても自然と体があいつと違う行動をとる。違うって、ホントに姉妹なんていうオチはない。とにかく嫌なんだよ。なんていうか魂のレベルで」
高校卒業するころ髪を切ったのも、あいつが伸ばしはじめたからだ。
ショートカットの頭に手のひらを乗せて言った。
「今でもわかる」
なにかをしようとしていても、その先にあいつがいる時は、わかるんだ。
離れていても同じ場所が痛むという双子の不思議な感覚とは、逆の力みたいだ。
でも逆ってことは、結局同じってことだろう。
京介さんは独り言のように呟く。
「変な顔で見るな。おまえだってそうだろう」
指をさされた。
「最近、態度が横柄になってきたと思ってたら、そういうことか」
一人で納得している。どういうことだろう。
「おまえ、いつから俺なんて言うようになったんだ」

ドクン、と心臓が大きな音を立てた気がした。
「あの変態が、僕なんて言い出したからだろう」
そうだ。
自分では気づいていなかったけれど。そうなのかも知れない。

「おまえ、あの変態からは離れた方がいいんじゃないか」
嫌な汗が出る。じっと黙って俺の顔を見ている。
「ま、いいけど。用がないならもう帰れ。今から風呂に入るんだ」
俺はなんとも言えない気分で、足取りも重く玄関に向かおうとした。
ふと思いついて、気になっていたことを口にする。
「どうして『京介』なんていうハンドルネームなんですか」
聞くまでもないことかと思っていた。
たぶん全然ベクトルが違う名前にはできないのだろう。京子と京介。正反対で、同じもの。それを魂が選択してしまうのだ。
ところが京介さんは顔の表情をひきつらせて、ボソボソと言った。
「ファンなんだ」
信じられないことに、それは照れている顔らしい。
え?と聞き返すと
「BOφWYの、ファンなんだ」
俺は思わず吹いた。いや、なにもおかしくはない。一番自然なハンドルネームの付け方だ。
けれど、京介さんは顔をひきつらせたまま付け加える。
「B’zも好きなんだがな。『稲葉』にしなかったのは・・・・・・」
やっぱりノー・フェイトなのかも知れない。
そう呟き、そして帰れと俺に手のひらを振るのだった。

病院

大学2回生時、9単位。3回生時0単位。
すべて優良可の良。
俺の成績だ。

そのころ子猫をアパートで飼っていたのであるが、いわゆる部屋飼いで一切外には出さずに育てていて、こんなことを語りかけていた。
「おまえはデカなるで。この部屋の半分くらい。食わんでや、俺」
しかしそんな教育の甲斐なく子猫はぴったり猫サイズで成長を止めた。
そのころ、まったく正しく猫は猫になり。
犬は犬になり。
春は夏になった。
しかしながら俺の大学生活は迷走を続けて、いったい何になるのやら向かう先が見えないのだった。

その夏である。大学2回生だった。
俺の迷走の原因となっている先輩の紹介で、俺は病院でバイトをしていた。
その先輩とは、俺をオカルト道へ引きずり込んだ元凶のお方だ。
いや、そのお方は端緒にすぎず結局は自分の本能のままに俺は俺になったのかもしれない。
「師匠、なんかいいバイトないですかね」
その一言が、その夏もオカルト一色に染め上げる元になったのは確かだ。

病院のバイトとは言っても、正確にいうと「訪問看護ステーション」という医療機関の事務だ。
訪問看護ステーションとは、在宅療養する人間の看護やリハビリのために、看護師(ナース)や理学療法士(PT)、作業療法士(OT)が出向いてその行為をする小さな機関だ。
ナース3人にPT・OT1人ずつ。そして事務1人の計6人。この6人がいる職場が病院の中にあった。
もちろん経営母体は同一だったから、ナースやPTなどもその病院の出身で、独立した医療機関とはいえ、ただの病院の一部署みたいな感覚だった。
その事務担当の職員が病欠で休んでしまって、復帰するまでの間にレセプト請求の処理をするにはどうしても人手が足りないということで、俺にお声がかかったのだった。
ナースの一人が所長を兼ねていて、彼女が師匠とは知り合いらしい。
60近かったがキビキビした人で、もともとこの病院の婦長(今は師長というらしい)をしていたという。その所長が言う。
「夜は早くかえりなさいね」
あたりまえだ。大体シフトからして17時30分までのバイトなんだから。

なんでも、ステーションのある4階はもともと入院のための病床が並んでいたが、経営縮小期のおりに廃床され、その後ほかの使い道もないまま放置されてきたのだという。
今はナースステーションがあったという一室を改良して事務所として使っていた。
そのためその階ではステーションの事務所以外は一切使われておらず、一歩外に出ると昼間でも暗い廊下が人気もなくずーっと続いているという、なんとも薄気味悪い雰囲気を醸し出しているのだった。
それだけではない。ナースたちが囁くことには、この病棟は末期の患者のベッドが多く、昔からおかしなことがよく起こったというのだ。だからナースたちも夜は残りたくないという。
勤務経験のある人のその怖がり様は、ある種の説得力を持っていた。

絶対早く帰るぞ。
そう心に決めた。
が、これが甘かった。

元凶は毎月の頭にあるレセプト請求である。
一応の引継ぎ書はあるにはあるが、医療事務の資格もなにもない素人には難しすぎた。
特に訪問看護を受けるような人は、ややこしい制度の対象になっている場合が多く、いったい何割をどこに請求して残りをどこに請求すればいいのやら、さっぱりわからなかった。
頭を抱えながらなんとか頑張ってはいたが、3日目あたりから残業しないと無理だということに気づき、締め切りである10日までには仕上がるようにと、毎日の帰宅時間が延びていった。
「大変ねえ」
と言いながら仕事を終えて帰るナースたちに愛想笑いで応えたあと、誰もいない事務所には俺だけが残される。

とっくに陽は暮れて、窓からは涼しげな夜風が入り込んでくる。
静かな部屋で、電卓を叩く音だけが響く。
ああ。いやだ。いやだ。
昔はこの部屋で夜中、ナースコールがよく鳴ったそうだ。
すぐにすぐにかけつけると、先日亡くなったばかりの患者の部屋だったりしたとか・・・・・・そんな話を昼間に聞かされた。
一時期完全に無人になっていたはずの4階で、真夜中に呼び出し音が鳴ったこともあるとか。
ナースコールの機器なんてとっくに外されていたにもかかわらず。

確かに病院は怪談話の宝庫だ。でも現場で聞くのはいやだ。
俺はやっつけ仕事でなんとかその日のノルマを終えて、事務所を出ようとする。
恐る恐るドアを開くと、しーんと静まり返った廊下がどこまでも伸びている。

事務所のすぐ前の電灯が点いているだけで、それもやたらに光量が少ない。
どけちめ。だから病院はきらいだ。
廊下を少し進んで、階段を降りる。
1階までつくと人心地つくのだが、裏口から出ようとすると最後の関門がある。
途中で霊安室の前を通るのだ。
もっとこう、地下室とか廊下の一番奥とかそんなところにあることをイメージしていた俺には意外だったが、あるものは仕方がない。
『霊安室』とだけ書かれたプレートのドアの前を通り過ぎていると、どうしても摺りガラスの向こうに目をやってしまう。
中を見せたいのか見せたくないのか、どっちなんだと突っ込みたくなる。
中は暗がりなので、もちろんなにも見えない。なにかが蠢いていてもきっと外からはわからないだろう。
そんな自分の発想自体に怯えて、俺は足早に通り過ぎるのだった。

そんなある日、レセプト請求も追い込みに入った頃に、夕方の訪問を終えたナースの一人が事務所に帰ってきた。
ドアを開けた瞬間、俺は思わず目を瞑った。なぜかわからないが、見ないほうがいい気がしたのだ。
そのまま俯いて生唾を飲む俺の前をナースは通り過ぎ、所長の席まで行くと沈んだ声で「××さんが亡くなりました」と言った。
所長は「そう」と言うと、落ち着いた声でナースを労った。そしてその人の最期の様子を聞き、手を合わせる気配のあとで「お疲れさまでした」と一言いった。
PTやOTというリハビリ中心の訪問業務と違い、ナースは末期の患者を訪問することが多い。
病院での死よりも、自分の家での死を家族が、あるいは自分が選択した人たちだ。多ければ年に10件以上の死に立ち会うこともある。
そんなことがあると、今更ながら病院は人の死を扱う場所なのだと気づく。
複数回訪問の多さから薄々予感されたことではあったが、ついさっきまでその人のレセプトを仕上げていたばかりの俺にはショックが大きかった。

そして、いま目が開けられないのは、そこにその人がいるからだった。
その頃は異様に霊感が高まっていた時期で、けっして望んでいるわけでもないのに、死んだ人が見えてしまうことがよくあった。
高校時代まではそれほどでもなかったのに、大学に入ってから霊感の強い人に近づきすぎたせいだろうか。
「じゃあ、これで失礼します。お疲れ様でした」
ナースが帰り支度をするのを音だけで聞いていた。
そして蝿が唸っているような耳鳴りが去るのをじっと待った。
二つの気配がドアを抜けて廊下へ消えていった。

俺はようやく深い息を吐くと、汗を拭った。
たぶんさっきのは、とり憑いたというわけでもないのだろう。
ただ「残っている」だけだ。明日にはもう連れて来ることはないだろう。
俺は、ここに「残らなかった」ことを心底安堵していた。その日も夜遅くまで残業しなければならなかったから。

その次の日。もう終業間近という頃。
不謹慎な気がして、死んだ人のことをあれこれ聞けないでいると、所長の方から話しかけてきた。
「あなた見えるんでしょう」
ドキっとした。事務所には俺と所長しかいなかった。
「私はね、見えるわけじゃないけど、そこにいるってことは感じる」
所長は優しい声で言った。
そういえば、この人はあの師匠の知り合いなのだった。
「じゃあ、昨日手を合わせていたのは」
「ええ。でもあれはいつでもする私の癖ね」
そう言ってそっと手を合わせる仕草をした。

俺は不味いかなと思いつつも、どうしても聞きたかったことを口にした。
「あの、夜中に人のいないベッドからナースコールが鳴るって、本当にあったんですか」
所長は溜息をついたあと、答えてくれた。
「あった。仲間からも聞いたし。私自身も何度もあるわ。でもそのすべてがおかしいわけでもないと思う。計器の接触不良で鳴ってしまうことも確かにあったから。でもすべてが故障というわけでもないのも確かね」
「じゃ、じゃあこれは?」
と所長の口が閉じてしまわないうちに俺は今までに聞いた噂話をあげていった。
所長は苦笑しながらも、一々「それは違うわね」「それはあると思う」と丁寧に答えてくれた。

今考えれば、こんな興味本位なだけの下世話で失礼な質問をよく並べられたものだと思う。
しかしたぶん所長は、師匠から俺を紹介された時、なにか師匠に含められていたのではないだろうか。
ところが、ある質問をしたときに所長の声色が変わった。
「それは誰から聞いたの?」
俺は驚いて思わず「済みません」と謝ってしまった。
「謝ることはないけど、誰がそんなことを言ったの」
所長に強い口調でそう言われたけれど、俺は答えられなかった。
どんな質問だったのか、はっきり思い出せないのだが、この病棟に関する怪奇じみた噂話だったことは確かだ。
不思議なことに、その訪問看護ステーションのバイトを止めてすぐに、この噂についての記憶が定かでなくなった。
だがその時ははっきり覚えていたはずなのだ。ついさっき自分でした質問なのだから当たり前であるが。しかし誰からその噂を聞いたのかはその時も思い出せなかった。
ナースの誰かだったか。それともPTか、OTか。病院の職員か・・・・・・

所長は、穏やかではあるが強い口調で「忘れなさい」と言うと帰り支度を始めた。
俺は一人残された事務所で、いよいよ切羽詰ったレセプト請求の仕上げと格闘しなければならなかった。やたらと浮き足立ってしまった心のままで。
泣きそうになりながら、減らない書類の山に向かってひたすら手を動かす。
夜蝉も鳴き止んだ静けさの中で一人、なにかとても恐ろしい幻想がやってくるのを必死で振り払っていた。
よりによって、次の日は10日の締め切りだった。どんなに遅くなってもレセプトを終わらせなくてはならない。

チッチッチッ
という時計の音だけが部屋に満ちて、俺はその短針の位置を確認するのが怖かった。
多分日付変わってるなぁ、と思いながら段々脳みその働きが鈍くなっていくのを感じていた。
いつのまにウトウトしていたのか、俺はガクンという衝撃で目を覚ました。
意識が鮮明になり、そして部屋には張り詰めたような空気があった。
なぜかわからないが、とっさに窓を見た。
その向こうには闇と、遠くに見える民家の明かりがぽつりぽつりと偏在しているだけだった。
次にドアを見た。なにかが去っていく気配があった気がした。
そして俺の頭の中には、今日所長に質問した中にはなかった、奇怪な噂が新たに入り込んでいた。
遠くから蝿の呻くような音がする。

「誰に聞いたのか」
とは、そういうことなのか。
『誰も言うはずがない話』
あるいは、『所長以外、誰も知っているはずがない話』
たとえば、所長が最期を看取った人の話・・・・・・

そんな話を俺がしたら、今日のような態度になるだろうか。
そんな噂話を俺にしたのは誰だろう。今、闇に消えたような気配の主だろうか。
生々しい、そしてついさっきまでは知らなかったはずの奇怪な噂が頭の中で渦を巻いている。
俺はここから去りたかった。
でも絶対無理だ。
今あのドアを開けて、暗い廊下に出て、人の居ない病室を通り、狭い階段を降り、霊安室の前を行くのは。
俺はブルブルと震えながら、このバイトを引き受けたことを後悔していた。
廊下の闇の中に、なにかを囁きあうような気配の残滓が漂っているような気がする。

それからどれくらい経ったのか。
ふいに静寂を切り裂くような電話のベルが鳴った。
心臓に悪い音だった。
でも、生きている人間側の音だという、そんな意味不明の確信にすがりつくように受話器をとった。
「もしもし」
「よかったー。まだいた。ねえ、そこに○○さんのカルテない?」
聞き覚えのある声がした。ステーションのナースの一人だった。
「すっごく悪いんだけど、今○○さんの家から連絡があって、危篤らしいから、ほんと悪いんだけど今すぐカルテ持って○○さんの家に来てくれない?私もすぐ行くけど、そっち寄ってたら時間かかりそうだから」
俺は「はい」と言って、すぐにカルテを持って駆け出した。
ドアを開けて、廊下を抜けて、階段を降りて、霊安室の前を通って、生暖かい夜風の吹く空の下へ飛び出した。

所詮は臨時の事務職だ。
でもその日、人の命に関わる仕事をしたという確かな感触があった。
鬱々と、下を向いてばかりでなくてよかった。
人の死を、興味本位で語るばかりじゃなくてよかった。
こんな、夜の緊急訪問はよくあることらしい。でも俺にとって、特別な意味がある気がした。
だから、カルテを届けたあとまた事務所に帰ってレセプト請求をすべて完成させるのに、全精力を傾けられたのだろう。

次の日、あまり寝てない瞼をこすりながら出勤すると、所長が「お疲れ様。昨日は大変だったわね」と話かけて来た。
俺は、「いえ、このくらい」と答えたが、所長は首を振って「やっぱりあなたには向いてない職場かもね」と優しい声で言うのだった。
俺はそのあと、2週間くらいでそのバイトを止めた。

いい経験になったとは思う。
でも、人の死をあれほど受け止めなければならない職場は、やはり俺には向いてないのだろう。
俺があの夜、カルテを届けた人はその日の朝に亡くなった。
そしてその死を看取ったナースは、すぐに次の訪問先へ向かった。また、その肩に死者の一部を残したままで。

黒い手

その噂をはじめに聞いたのは、ネット上だったと思う。
地元系のフォーラムに出入りしていると、虚々実々の噂話をたくさん頭に叩きこまれる。どれもこれもくだらない。
その中に埋もれて、「黒い手」の噂はあった。

黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を1週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても

「バッカじゃないの」
上記の噂を話したところの、ある人の評である。
オカルト道の師匠にそんなあっさり言われると、がっかりする。
「まあ不幸の手紙の亜種だな。どんなことがあっても、って念押ししてるってことは、1週間のあいだになにか起こりますよってことだろ」
チェーンメールが流行りはじめた頃だったが、「××しないと不幸になる」というテンプレートなものとは少し毛色が違う気がして僕の印象に残っていたのだが、師匠はこういうのはあまり好きではないようだった。
しかし、しばらくのあいだ僕の頭の片隅に「黒い手」という単語がこびりついていた。

ありがちなチェーンメールと一線を画すのは、そのスタート契機だ。
「このメールを読んだら」ではなく、「黒い手に出会えたら」
つまり、話を聞いた時点で強制的にルールの遵守を求められるのではなく、契機が別に設定されているのだ。
怖がろうにも、その契機に会えない。
「黒い手に出会えたら」
僕は出会いたかった。

黒い手を手に入れた。
という一文をあるスレッドで見たとき、僕の心は逸った。
普段はいかない部屋に出入りしていたのは、「地元の噂」を語る場所だったから。「黒い手」の噂を聞けるかも知れないという可能性のためだ。
マニアックなオカルト系フォーラムにどっぷり浸っていた僕には、少し程度が低すぎる気がして敬遠していたのだが・・・・・・

「見せて見せて」
というレスがつき、しばらくして「いーよ」という返事があった。
その音響というハンドルネームの人物は、何度かオフ会を仕切ってるような行動派らしく、「じゃ、明日の土曜日にいつものトコで」という書き込みで「黒い手オフ」が決定した。
新参者の僕は慌てて過去ログを読み返し、いつものトコが市内のファミレスであることを確認すると「初めてですけど行ってもいいですか」と書き込んだ。
当日は、まだこういうオフ会というものにあまり慣れていないせいもあって緊張した。

遅れてしまってダッシュで店内に入ると、目印だという黒系の帽子で統一された一団が奥のスペースに陣取っていた。
「ちーす」という挨拶に「すみません」と返して席につくと、テーブルの周囲に居並ぶ面々に対して妙な気まずさを感じた。
ネット上の書き込みを見ていた時から想像はついていたが、やはり若い。たぶん全員中学生から高校生くらいだろう。
僕もついこのあいだまで高校生だったとはいえ、1コ下2コ下となると別の生き物のような気がする。
先輩風を吹かしたりというのは苦手なので、ここでは年上だとバレないようにしようと心に決めた。

「で、これなんだけど」
そう言って全身黒でキメた16,7と思しき女の子が、足元から箱のようなものを出してきてテーブルに乗せた。
おおー。
という声があがる。
音響というHNのその子は、もったいぶりもせずテーブルの真ん中まで箱を押し出した。
「ガッコの先輩にもらったんだけど、なんか、持ってるだけで願いがかなうってさ。誰かいらない?」
え?くれるのかよ。他の連中も顔を見回している。
「黒い手って、ほんとに黒いの?ミイラとか?」
軽い調子で中の一人が箱の蓋を取ろうとした。
その瞬間、僕の右隣に座っていた面長の三つ編み女がその手を凄い勢いで掴んだ。
「やめて。これヤバイよ」
真剣な目で首を振っている。
「ッたいわね、なにマジになってんの」
掴まれた手を振りほどいて睨みつけると、乗り出した体を引っ込める。
それからなんとなく、沈黙が訪れた。

霊が通った。
誰かが呟いて、「えー、天使が通ったって言わない?」という反応があり、しばらく箱から目をそむけるように「霊VS天使」論争が続いたあと、音響が言った。
「で、誰かいらない?」
またシーンとする。
こんなのが大好きな連中が集まっているはずなのに、なんだこの体たらくは。

黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を1週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても

この噂の意味がわからないほどバカではないということか。
ただそれも、この噂が本物でかつこの箱の中身が本物だったらという前提条件つきだ。
根性なしどもめ。僕は違う。
なぜ山に登るのかといえば、当然そこに山があるからだった。

「僕がもらっていいですか」
全員がこっちを見て、それから音響を見る。
「いいよ。かっくいー。ちなみに箱ごとね。開けたら駄目らしいから」
音響は僕の方に箱を押し出し、ニッと笑った。
「1週間持ってないといけないんだって。でも結婚指輪でも買ってやればそんなにかかんないかもよ」
その後は普通のオフ会らしく、くだらなくて怠惰で無意味な時間をファミレスで過ごした。
誰も箱のことには触れなかった。それが目的で来た連中のはずなのに。

解散になったとき、箱を抱えて店を出ようとした僕に、さっきの三つ編み女がすり寄ってきた。
「ねえ、やめたほうがいいよ。それほんとやばいよ」
なんだこの女。霊感少女きどりなのか。
引き気味の僕の耳元に強引に耳を寄せてささやく。
「わたし、人に指差されたらわかるんだよね。たとえ見えてない後ろからでも。そんな感覚たまにない?わたしの場合嫌な人に指差されたらそれだけ嫌な感じがする。そんでさっき箱が出てきたとき半端なくゾワゾワ来た。こんな感じ、今までもなかった」

そういえば、縦長の箱が置かれたときその片方の端がこの女の方を向いていた。箱の中で、黒い手が指を差しているというのだろうか。
そう思っていると、女の妙に冷たい息が耳に流れ込んできた。
「それがね、指差されてるのは箱からじゃないのよ。背中から、誰かに」
そこまで言うと三つ編み女は息を詰まらせて、逃げるように去っていた。
店の中で一人残された僕は、箱を抱えたまま棒立ちになっていた。

コト

という乾いた音がして、箱の中身の位置がずれた。
僕は生唾を飲み込んだ。

なにこの空気。もしかして、あとで後悔したりする?
ふと視線を感じると、店の外からガラス越しに黒のワンピース姿の音響がこっちを見ていた。

アパートの部屋に帰りつき、箱をあらためて見ていると気味の悪い感覚に襲われる。
黒い手の噂はつい最近始まったはずなのに、この箱は古い。古すぎる。
煤けたような木の箱で、裏に銘が彫ってあってもおかしくないた佇まいである。
この中に本当に黒い手が入っているのだろうか。

だいたい噂には、箱に入ってるなんて話はなかった。
音響と名乗るあの少女に担がれたような気もする。でも可愛かったなぁ。と、思わず顔がにやける。たぶん今日はオカルト好きが集まったのではなくて、少なくとも男どもは音響めあてで参加したのではないかという勘繰りをしてしまう。
そうでなければ、開けろコールくらい起きるだろう。黒い手が見たくて集まったはずならば。
僕は箱の蓋に手をかけた。
その瞬間に、さまざまな思いやら感情やらが交錯する。

まあ、今でなくてもいいんじゃない。1週間あるんだし。

僕は、つまり、逃げたのだった。
そして箱を本棚の上に置くと、読みかけの漫画を開いた。

それから2日間はなにごともなく過ぎた。
3日目、師匠と心霊スポットに行って、またゲンナリするような怖い目にあって帰って来た時、部屋の扉を開けるとテーブルの上に箱が乗っていた。
これは反則だ。
部屋は安全地帯。このルールを守ってもらわないと、心霊スポット巡りなんてできない。
ドキドキしながら、昨日本棚からテーブルの上に箱を移したかどうか思い出そうとする。
無意識にやったならともかく、そんな記憶はない。
平静を装いながら僕は箱を本棚の上に戻した。深く考えない方がいいような気がした。

4日目の夜。
ちょっと熱っぽくて、早々に布団に入って寝ていると不思議な感覚に襲われた。
極大のイメージと極小のイメージが交互にやってくるような、凄く遠くて凄く近いような、それでいて主体と客体がなんなのかわからないような。
子供の頃、熱が出るたび感じていたあの奇妙な感覚だった。
そんなトリップ中に、顔の一部がひんやりする感じがして、現実に引き戻された。
目を開けて天井を見ながら右の頬を撫でてみる。そこだけアイスクリームを当てられたように、温度が低い気がした。
冷え性だが、頬が冷えるというのはあまり経験がない。
痒いような気がして、しきりにそこを撫でていると、その温度の低い部分がある特徴的な形をしていることに気づいた。
いびつな5角形に、棒状のものが5本。僕は布団を跳ね飛ばして、起き上がった。

キョロキョロと周囲を見回し、箱の位置を確認する。
箱の位置を確認するのに、どうして見回さなければならないのか、その時はおかしいと思わなかった。
本棚の上にあった。置いた時のままの状態で。
けれど、僕の頬に触ったのは手だった。それもひどく冷たい手の平だった。
思わず箱の蓋に手をかける。そしてそのままの姿勢で固まった。
昔から「開けてはいけない」と言われたものを開けてしまう子供ではなかった。触らぬ神に祟りなしとは、至言だと思う。でも、そんな殻を破りたくて、師匠の後ろをついていってるのじゃないか。
そうだ。それに箱を開けたらダメだとか、そんなことは噂にはなかった。
音響が言っているだけじゃないか。

そんなことを考えていると、ある言葉が脳裏に浮かんだ。
僕はそれを思い出したとたんに、躊躇なく箱の蓋を取り払った。
中にはガサガサした紙があり、それにつつまれるように黒い手が1本横たわっている。

マネキンの手だった。

ハハハハと思わず笑いがこみ上げてくる。こんなものを有難がっていたなんて。
手にとって、かざしてみる。
なんの変哲もない黒いマネキンの手だ。左手で、それも指の爪が長めに作られているところを見ると、女性用だ。案の定だった。
あの時、音響は確かに言った。
「結婚指輪でも買ってやれば・・・・・・」
つまり、左手で、女性なのだった。
「開けるな」と言っておきながら、音響自身は箱を開けて中を見ている。そう確信したから僕も開けられた。なんだこのインチキは。

僕はマネキンの手を放り出して、パソコンを立ち上げた。
今頃あのスレッドでは担がれた僕を笑っているだろうか。
ムカムカしながらスレッド名をクリックすると、予想外にも黒い手の話は全然出てきてなかった。
すでに彼らの興味は次の噂に移っていた。音響はなんと言っているだろうと思って探しても、書き込みはない。過去ログを見ても、あれから一度も書き込んでないようだ。
逃げたのか、とも思ったがなにも彼女に逃げる理由はない。
俺に追及されても「バーカバーカ」とでも書けばいいだけのことだ。
それにもともと音響は、常連の中でも出現頻度が高くない。
週に1回か多くても2回程度の書き込みペースなのだ。あれから4日しかたっていないので、現れてなくても当然といえば当然なのだった。

ふいに、マウスを持つ手が固まった。
週に1回か2回の書き込み。
心臓がドキドキしてきた。
去っていった恐怖がもう一度戻ってくるような、そんな悪寒がする。
気のせいか、耳鳴りがするような錯覚さえある。
過去ログをめくる。

『黒い手を手に入れた』日曜日
僕が目に留めた音響の書き込みだ。
そしてその次の音響の書き込みは・・・・・・
『いーよ』金曜日
5日開いている。
ちょうどそんなペースなのだ。だから、おかしい。
その翌日の土曜日に音響は黒い手を僕にくれた。だから、おかしい。
音響が黒い手を手に入れてから、その土曜日で6日目なのだ。

黒い手に出会えたら願いがかなう
そのためには黒い手を1週間持っていないといけない
たとえどんなことがあっても

信じてないなら、持っていてもいいはずだ。あとたった1日なんだから。
それでなにも起きなければ、「やっぱあれ、ただの噂だった」と言えるのだから。
信じているなら、持っていなければならないはずだ。あとたった1日なんだから。
それで願いがかなうなら。

どうしてあとたったの1日、持っていられなかったんだろう。
頭の中に、箱を持った僕をファミレスのガラス越しにじっと見ていた音響の姿が浮かぶ。
当時そんなジャンルの存在すら知らなかったゴシックロリータ調の格好で、確かにこっちを見ていた。その人形のような顔が、不安げに。
ただのマネキンの腕なのに。

僕は知らず知らずのうちに触っていた右頬に、ギクリとする。忘れそうになっていたが、さっきの冷たい手の感覚はなんなのだ。
振り返ると、箱はテーブルの上にあった。黒い手は箱の中に、そして蓋の下に。
一瞬びくっとする。
僕はゾクゾクしながら思い出そうとする。「放り出した」というのはもちろんレトリックで、適当に置いたというのが正しいのだが、僕は果たして黒い手を箱に戻したのだったか。
箱はぴっちりと蓋がされて、当たり前のようにテーブルに横たわっている。
思い出せない。無意識に、蓋をしたのかも知れない。
でも確かなことは、僕にはもうあの蓋を開けられないということだ。
徐々に冷たさが薄れかけている頬を撫でながら生唾を飲んだ。5角形と5本の棒。
1本だけ太くて5角形の辺1つに丸々面している。親指の位置が分かればどっちかくらいは分かる。
その頬の冷たい部分は右手の形をしていた。

次の日、つまり5日目。僕は師匠の家へ向かった。
音響は5日目までは持っていた。正確には6日目までだが、少なくとも5日目までは持っていられた。
僕はこれから起こることが恐ろしかった。
多分、箱の位置が変わったり、頬を撫でられたりといったことは文字通り触りに過ぎないのではないかという予感がする。
こんなものはあの人に押し付けるに限る。

師匠の下宿のドアをノックすると、「開いてるよ」という間の抜けた声がしたので「知ってますよ」と言いながら箱を持って中に入る。
胡坐を組んでひげを抜いていた師匠が、こちらを振り向いた。
「かえせよ」
え?
何を言われたかよくわからなくて聞き返すと、師匠は「俺いまなにか言ったか?」と逆に聞いてくる。
よくわからないが、とりあえず黒い手の入った箱を師匠の前に置く。
なにも言わないでいると、師匠は「はは~ん」とわざとらしく呟いた。
「これかぁ」
さすが師匠。勘が鋭い。
しかし続けて予想外のことを言う。
「俺の彼女が、『逃げろ』って言ってたんだが、このことか」
その時はなんのことかわからなかったが、後に知る師匠の彼女は異常に勘が鋭い変な人だった。
「で、なにこれ」
と言うので、一から説明をした。なにも隠さずに。
普通は隠すからこそ次の人に渡せるのだろう。しかしこの人だけは隠さないほうが、受け取ってくれる可能性が高いのだった。

ところがここまでのことを全部話し終えると、師匠は言った。
「俺、逃げていい?」
そして腰を浮かしかけた。
僕は焦って「ちょっと、ちょっと待ってください」と止めに入る。
この人にまで見捨てられたら、僕はどうなってしまうのか。
「だけどさぁ、これはやばすぎるぜ」
「お払いでもなんでもして、なんとかしてくださいよ」
「俺は坊さんじゃないんだから・・・・・・」
そんな問答の末、師匠はようやく「わかった」と言った。
そして「もったいないなあ」と言いながら押入れに首をつっこんでゴソゴソと探る。
「お払いなんてご大層なことはできんから、効果があるかどうかは保障しないし、荒療治だからなにか起こっても知らんぞ」
そんなもったいぶったことを言いながら、手には朽ちた縄が握られていた。
「それ、神社とかで結界につかう注連縄ですか」
と問いかけるが、首を振られた。
「むしろ逆」
そう言いながら師匠は、黒い手のおさまった箱をその縄でぐるぐると縛り始めた。

「富士山の麓にはさぁ。樹海っていう、自殺スポットていうかゾーンがあるだろ。そこでどうやって死ぬかっていったら、まあ大方は首吊りだ。何年も、へたしたら何十年も経って死体が首吊り縄から落ちて、野ざらしになってるとそのまま風化して遺骨もコナゴナになってどっかいっちまうことがある。
でも縄だけは、ぶらぶら揺れてんだよ。いつまで経っても。これから首を吊ろうって人間が、しっかりした木のしっかりした枝を選ぶからだろうな」

聞きながら、僕は膝が笑い始めた。
なに言ってるの、この人。
「一本じゃ足りないなあ」
また押入れから同じような縄を出してくる。
キーンという耳鳴りがした。
「どうやって手に入れたかは、聞くなよ」
こちらを見てニヤっと笑いながら、師匠は箱を見事なまでにぐるぐる巻きにしていった。
そのあいだ中、師匠の部屋の窓ガラスをコンコンと叩く音がしていた。
絶対に生身の人間じゃないというのは、師匠に聞くまでもなくわかる。
わーんわーんという羽虫の群れるような音も、天井のあたりからしていた。
師匠はなにも言わず、黙々と作業を続ける。
そのうちドアをドンドンと叩く音が加わり、電話まで鳴り始めた。
僕は一歩も動けず、信じられない出来事に気を失いそうになっていた。
師匠が今しようとしていることに触発されて、騒々しいものたちが集まってきているような、そんな気がする。
耳を塞いでも無駄だった。
ギィギィというドアが開いたり閉まったりするような音が加わったが、恐る恐る見てもドアは開いてはいない。
「うるせぇな」
師匠がボソリと言った。
「おい、なにか喋ってろ。なんでもいいから。こんなのは静かにしてるからうるせぇんだ。静寂が耳に痛いって、あるだろう。あれと同じだ」
それを聞いて、僕は「そうですね」と答えたあと何故か九九を暗唱した。
とっさに出たのだがそれだったわけだが、いんいちがいちいんにがに・・・・・・と口に出していると、不思議なことにさっきまであんなに存在感のあった異音たちが、一瞬で世界を隔てて遠のいていくようだった。

しかしその中で何故か電話は甲高く鳴り響き続けていた。
「これは本物じゃないですか」
と言って俺が慌てて取ろうとすると、師匠が「出るな」と強い口調で制した。
その瞬間に、電話は鳴り止んだ。
俺は受話器を上げようとした格好のままで固まり、冷や汗が額から流れ落ちた。

「さあ、できたぞ。どこに捨てるかな」
箱は縄で完全にがんじがらめにされ、ところどころに珍しい形の結び目ができている。
思案した結果、師匠の軽四で近くの池まで行くことにした。
僕が助手席で箱を抱えて、ガタガタと揺られながら「南無阿弥陀仏」やら「南無妙法蓮華経」やら、知っているお経をでたらめに唱えていると、あっという間に池についた。
そこで不快な色をした濁った水の中に二人してせぇの、と勢いをつけて投げ入れた。
ボチャンと、一番深そうな所へ。
石を巻きつけていたので箱はゴボゴボと空気を吐き出しながら沈んでいった。
その石も耳を塞ぎたくなるような逸話を持っていたらしいが、僕はあえて聞かなかった。
すべてを終えてパンパンと手を払いながら師匠が言った。

「問題はもう1本の手だけど、まあ本体はやっつけた方みたいだから、大丈夫だろう」
自動車のエンジンをかけながら、「それにしても」と続ける。
「都市伝説が、実体を持ってたら反則だよなぁ。正体がわからないから怖いんじゃないか」
僕にはあの箱の意味も黒い手の意味もわからなかったので、なにも言えなかった。
「まあこれで都市伝説としては完成だ。実存が止揚してメタレベルへ至ったわけだ。黒い手に出会えたら、か。確かにちょっとクールだな。ところで」

師匠がこっちを見た。
「おまえはなにが願いだったんだ」
あ、と思った。
『黒い手に出会えたら願いがかなう』
全然意識してなかった。ひたすら巻き込まれた感が強くて、そんな前提を忘れていた。
「もう関係ないですよ」
そう言うと師匠は「ふーん」と鼻で応えて前を向いた。

それからちょうど1週間目の夜。
そういえばあれ、どうなった?という書き込みが例のスレッドにあった。
「まだ生きてるかー?」
との問いかけに「なんとか」と書き込んでみる。
「願いはかなった?」
「なんにも起きないよ」
音響は現れない。
「だれか箱いる?」
「だってガセねたじゃん」
・・・・・・
もうこのスレッドに来ることもないだろう、と思う。ウインドウを閉じようとすると
「ほんとに、ほんとになにもなかった?」
しつこく聞いてくるやつがいた。僕に警告してくれた三つ編み女だろうと思われる。
「知りたかったら、黒い手に出会えばいい」
そう書いて、窓を閉じた。
それから、ただの一度も黒い手の噂を聞かなかった。

ドッペルゲンガー

大学1回生の秋。
オカルト系ネット仲間の京介さんの部屋に、借りていた魔除けのタリスマンを返しに行ったことがあった。

京介さんは女性で、俺より少し年上のフリーターだった。
黒魔術などが好きな人だったが少しも陰鬱なところがなく、無愛想な面もあったがその清潔感のある性格は、一緒にいて気持ちが良かった。
その日は、買ったばかりの愛車をガードレールに引っ掛けたという間抜けぶりを冷やかしたりしていたのだが、これから風呂に入ってバイトに行くからという理由であっさりと追い払われた。
このところオフ会でも会わないし、なんだか寂しかったが仕方がない。
目の前でドアを閉められる時、何度かお邪魔したこともある部屋の中にわずかな違和感を感じたのは、気のせいではなかったと思う。なにか忘れているような。そんなぼんやりとした不安があった。

それから1週間はなにごともなかった。
自堕落な生活で、すっかり曜日の感覚がなくなっていた俺が、めずらしく朝イチから大学の授業に出ようと思い、家を出た日のこと。
講義棟の前に鈴なりのはずの自転車が、数えるほどしかなかったあたりから予感はされていたことだが、掲示板の前で角南さんという友達に会い「今日は祝日だぞ」とバカにされた。
だったらそっちもなんで来てるんだよ、と突っ込むと笑っていたが、急に耳に顔を寄せて「昨日歩いてたのだれ?やるじゃん」と囁いてきた。
なんのことかわからなかったので、「どこで?」と言ってみると「うわーこいつ」と肘うちを喰らい、意味のわからないまま彼女は去っていった。
俺は首を捻りながら講義棟を出た。

昨日はたしか、駅の地下街を歩いたはずだ。角南さんはそのあたりの店でバイトしているはずなので、そこで見られたようだ。
しかし昨日俺は一人だった。だれかと歩いていたはずなんてない。
たまたま同じ方向に進んでいた人を、連れだと思われたのか。
なぜか急に背筋が寒くなってきて振り返ったが、閑散としたキャンパスが広がっているだけだった。
俺は自転車をとばして、逃げるようにアパートへ引き返した。
そのあいだ後ろからだれかがついて来ているような気がして、ときどき振り向きながらペダルをこいだ。
なぜかだれともすれ違わなかった。
俺のアパートは学校から近いとはいえ、その途中に通行人の一人もいないなんて、なんだか薄気味が悪い。
駐輪場に自転車を止め、階段を登り、アパートの部屋のドアを開ける。
学生向けのたいして広くもない部屋は、玄関からリビングの奥まで見通せるつくりになっていた。

はずだった。
のに。
キッチンに俺がいた。

俺は無表情で、こちらに目も向けずトイレのドアを開けるとスッと中に消えた。
パタンとドアが閉まる。現実感がない。
玄関で俺は靴も脱がず立ち尽くしていた。そして今見たものを反芻する。
鏡ではもちろんない。生きて動いている俺が、トイレのドアを開けて中に入った。という、それだけのことだ。それを俺自身が見ているという異常な事態でさえなければ。

怖い。
この怖さをわかってもらえるだろうか。
思わず時計を見た。まだ朝のうちだ。部屋の窓のカーテン越しに射す太陽の光が眩しいくらいだ。
だからこそ、この逃げようのない圧迫感があるのだろう。
夜の怖さは、明かりをつけることで。あるいは夜が明けることで克服されるかも知れない。
しかし朝の部屋が怖ければ、どこに救いがあるというのか。
部屋にはなんの音もない。トイレからもなんの気配も感じられない。
おそらく俺は10分くらい同じ格好で動けなかった。そして今のはなんだろう今のはなんだろうと、呪文のように頭の中で繰り返し続けた。
見なかったことにして、とりあえずコンビニでも行こうかと、どれほど思ったか。
でも逃げないほうがいい。なぜかそう決めた。たぶん、幻覚だからだ。
というか、幻覚じゃないと困る。

俺はオラァと大きな声を出すと、ズカズカと部屋の中へ進み躊躇なくトイレのドアを開け放った。
開ける瞬間にもオラァとわけのわからない掛け声をあげた。中にはだれもいなかった。
ほっとした、というよりオッシャア、と思った。
念のためにトイレの中に入ろうとしたとき、視線の端で何かが動いた気がした。
閉めたはずの玄関のドアが開いていて、その隙間から俺の顔が覗いていた。

再び自転車を駆って、休日の道を急ぐ。
今日は朝イチで大学の講義に出て、清清しい気持ちになっているはずだったのに、なんでこんな目にあっているのだろう。

俺はさっきまで自分の部屋のトイレに立てこもっていた。中から鍵を掛けて、ノブをしっかり握っていた。俺が玄関から入ってきたら、どうしよう。
オラァとかいう声が外から聞こえたら、失神していたかも知れない。
どれほど中にいたのかわからないが、とにかく俺はついにトイレからビクビクと出てきて、電話をした。
こういう時にはやたら頼りになるオカルト道の師匠にだ。
しかし出ない。携帯にもつながらない。
焦った俺は次に京介さんへ電話をした。
「はい」
という声が聞こえたときは、心底嬉しかった。そしてつい1週間まえにも通った道を、数倍の速度で飛ばした。

京介さんは、住んでいるマンションのそばにある喫茶店にいるということだった。
店のガラス越し、窓際の席にその姿を見つけたときには、俺は生まれたばかりの小動物のような気持ちになっていた。
ガランガランという喫茶店のドアの音に振り向いた京介さんが、「ヨオ」と手をあげる席に走って行き、俺は今日あったことをとにかく捲くし立てた。
「ドッペルゲンガーだな」
あっさりと京介さんは言った。
「自分とそっくりな人間を見る現象だ。まあほとんどは勘違いのレベルだろうが、本物に会うと死期が近いとか言われるな」
ドッペルゲンガー。
もちろん聞いたことがある。そうか。そう言われれば、ドッペルゲンガーじゃん。
不思議なもので、正体不明のモノでも名前を知っただけで奇妙な安心感が生まれる。むしろ、そのために人間は怪異に名前をつけるのではないだろうか。

「おまえのはどうだろうな。白昼夢でも見たんじゃないのか」
そうであってほしい。
あんなものにうろちょろされたら、心臓に悪すぎる。
「しかし気になるのは、その女友達が見たというおまえだ。おまえとドッペ ルゲンガーの二人を見たような感じでもない。話しぶりからするとおまえと一緒に歩いていたのは女だな。本当に心あたりがないのか」
頷く。
「じゃあ、ドッペルガンガーがだれか女と歩いていたのか。おまえの知らないところで」
「こんど聞いておきます。角南さんがどこで俺を見たのか」
俺は注文したオレンジジュースを飲みながらそう言った。そう言いながら、京介さんの様子がいつもと違うのを訝しく思っていた。
あの、飄々とした感じがない。
逼迫感とでもいうのか、声がうわずるような気配さえある。
ドッペルゲンガーだな、と言ったその言葉からしてそうだった。
「どうしたんですか」
とうとう口にした。
京介さんは「うん?」と言って目を少し伏せた。
そして溜息をついて、「らしくないな」と話し始めた。

京介さんがもう一人の自分に気づいたのは小学生のときだった。
はじめは、ふとした拍子に視線の端に映る人間の顔を見てオバケだと思ったという。
視界のいちばん隅。そこを意識して見ようとしても見えない。なにかいる、と思ったのはあるいはもっと昔からだったかも知れない。
でも視線の端の白っぽいそれが人の顔だとわかり、オバケだと思ったすぐあと、「あ、自分の顔だ」と気づいてしまった。

それは無表情だった。立体感もなかった。
そこにいるような存在感もなかった。顔をそちらに向けると、自然とそれも視線に合わせて移動した。まるで逃げるように。
いつもいるわけではなかった。
けれど疲れたときや、なにか不安を抱えているときにはよく見えた。怖くはなかった。
中学生のとき、ドッペルゲンガーという名前を知った。
その本には、ドッペルゲンガーを見た人は死ぬと書いてあった。
そんなのは嘘っぱちだと思った。

そのころには、それは顔だけではなかった。トルソーのように上半身まで見えた。
ただその日着ている自分の服と同じではなかったように思う。
どうしてそんなものが見えるのか、不思議に思ったけれどだれかに話そうとは思わなかった。
自分と、自分だけの秘密。
高校生のとき、自己像幻視という病気を知った。精神の病気らしい。
嘘っぱちだとは思わなかった。ドッペルゲンガーにしても、自己像幻視にしても、結局自分にしか見えないなら同じことだ。そういう病気だとしても、同じことなのだった。

そのころには、全身が見えていた。視線の隅にひっそりと立つ自分。
表情はなく、固まっているように動かない。そして、それがいる場所をだれか他の人が通ると、まるでホログラムのように透過してしまい揺らぎもなくまたそのままそこに立っているのだった。
全身が見えるようになると、それからは特に変化はないようだった。
相変わらず疲れたときや、精神的にピンチのときにはよく見えた。
だからといって、どうとも思わない。ただそういうものなのだと思うだけだった。
それが、である。

最近になって変化があらわれた。
ある日を境に、それの「そこにいる感じ」が強くなった。
ともすればモノクロにも見えたそれが、急に鮮やかな色を持つようになった。
そしてその立体感も増した。だれかがそこを通ると「あ。ぶつかる」と一瞬思ってしまうほどだった。
ただやはり他の人には触れないし、見えないのであった。
ところが、ある日部屋でジーンズを履こうとしたとき、それが動いた。
ジーンズを履こうとする仕草ではなく、意味不明の動きではあったが確かにそれの手が動いていた。
それから、それはしばしば動作を見せるようになった。
けっして自分自身と同じ動きをするわけではないが、なにかこう、もう一人の自分として完全なものなろうとしているような、そんな意思のようなものを感じて気味が悪くなった。
相変わらず無表情で、自分にしか認識できなくて、自分ではあるけれど少し若いようにも見えるそれが、はじめて怖くなったという。

京介さんの独白を聞き終えて、俺はなんとも言えない追い詰められたような気分になっていた。
逃げてきた先が、行き止まりだったような。そんな気分。
「ある日を境にって、いつですか」
なにげなく聞いたつもりだった。
「あの日だ」
「あの日っていつですか」
京介さんはグーで俺の頭を殴り、「またそれを言わせるのかこいつ」と言った。
俺はそれですべてを理解し、すみませんと言ったあとガクガクと震えた。
「どう考えても、無関係じゃないな」
おまえのも含めて。
京介さんは最後のトーストを口に放り込みコーヒーで流し込んだ。

俺はそのときには、京介さんの部屋へタリスマンを返しに行った時の違和感の正体に気がついてしまっていた。
「部屋の四隅にあった置物はどうしたんです」
あの日、結界だと言った4つの鉄製の物体。それが1週間前には部屋の中に見当たらなかった。
「壊れた」
その一言で、俺の蚤の心臓はどうにかなりそうだった。
「それって、」
しゃくり上げるように、俺が口走ろうとしたその言葉を京介さんが手で無理やり塞いだ。
「こんなところでその名前を出すな」
俺は震えながら頷く。

「ドッペルゲンガーっていうのは、大きくわけて2種類ある。自分にしか見えないものと、他人にも見えるもの。前者は精神疾患によるものがほとんどだ。あるいは一過性の幻視か。そして後者はただの似てる人物か、あるいは生霊のような超常現象か。
どちらにしても、異常な現象にしては合理的な逃げ道がある。私が前者でおまえが後者だが、それが同じ出来事に触れた二人に現れたというのは、しかし偶然にしては出来すぎだ」

つまり、あの人なわけですね。
俺は頭の中でさえ、その名前を想起しないように意識を上手く散らした。
「甘く見ていたわけじゃないんだが、まずいなこれは」
京介さんは眉間に皺を寄せてテーブルを指でトントンと叩いた。
俺は生きた心地もせず、ようやくぼそりと呟いた。
「こんなことならタリスマン、返すんじゃなかった」
その瞬間、京介さんが俺の胸倉を掴んだ。
「今なんて言った」
「だ、だからあの魔除けのなんとかいうタリスマンを返したのは失敗だったって言ったんですよ。また貸してくれませんか」
なぜか京介さんは珍しく険しい形相で強く言った。
「なに言ってるんだ、おまえはタリスマンを返してないぞ」
俺はなにを言われているのかわからず、うろたえながら答える。
「先週返しにいったじゃないですか、ほら風呂入るから帰れって言われた日ですよ」
「まだ持ってろって言ったろ?!あれをどうしたんだ」
「だから返したじゃないですか。だから今はないですよ」
京介さんは俺の胸元を触って確かめた。
「どこで無くした」
「返しましたって。受け取ったじゃないですか」
「どうしたっていうんだ。おまえは返してない」

会話が噛み合わなかった。
俺は返したと言い、京介さんは返してないと言う。
嘘なんか言ってない。俺の記憶では間違いなく京介さんにタリスマンを返している。
そして少なくとも、いま俺が魔除けの類をなにも持っていないのは確かだった。

京介さんはいきなり自分のシャツの胸元に手を突っ込むと、三角形が絡み合った図案のペンダントを取り出した。
「これを持っていろ」
それはたしか、京介さん以外の人が触ると力が失せるとか言っていたものではなかったか。
「よく見ろ。あれは六芒星で、これは五芒星」
そう言われればそうだ。
「とりあえずはこれで、もう一人のおまえにどうこうされることはないだろう。だがなにが起こるかわからない。しばらく慎重に行動しろ。なにかあったら、私か・・・・・・」
そこで京介さんは言葉を切り、真剣な表情で続けた。
「あの変態に連絡しろ」
あの変態とは、俺のオカルト道の師匠のことだ。京介さんは師匠とやたら反目している。はずだった。
「まったく」と言って、京介さんは喫茶店の椅子に深く沈んだ。
そして「ドッペルゲンガーは」と繋いだ。

「死期が近づいた人間の前に現れるっていうのはさ、嘘っぱちだと思ってた。ずっと前から見えてたのに、今まで生きてたわけだし。でも、違うのかも知れない。ただの幻が、いまドッペルゲンガーになろうとしているのかも知れない」
俺は死にたくない。まだ彼女もいない。童貞のまま死ぬなんて、生き物として失格な気がする。
「その、もう一人の京介さんは今もいますか」
うつむき加減にそう聞くと、京介さんは頷いて長い指でスーッと側方の一点を指し示した。
そこにはなにも見えなかった。
京介さんの指先は店内の一つの席をはっきり指していたのに、そこにはだれも座っていなかった。
店内はランチタイムで混み始め、ほとんどの席が埋まってしまっているというのに、そこにはだれも座っていないのだった。

大学1回生の冬。
大学に入ってから出入りするようになったネットの地元系オカルトフォーラムのオフ会に出たときのこと。

オフ会とは言っても、集まって居酒屋で飲む程度のものもあればディープなメンバーによる秘密の会合のようなものもあった。
その日も10人ほどの人間が集まって白木屋でオカルト話を肴に飲んだ後、主要メンバーだけが夜更けにリーダー格の女性の部屋に集ったのだった。
そのリーダー格の女性とはColoさんという人で(なぜか頻繁にハンドルネームを変えるのでそのとき本当にColoだったかは自信がない)、俺のオカルト道の師匠の彼女でもあった人だったので妙に可愛がられ、若輩の俺も濃い主要メンバーの集まりに混ぜてもらうことがよくあったのだ。

秘密の会合では交霊実験まがいのことをすることもあったが、その日は1次会の流れのままColoさんの部屋でダラダラと酒を飲んでいた。
山下さんという男の先輩が「疲れてくると人間の顔が4パターンしか見えなくなくなる」という不思議な現象にまつわる怖い話をしていたところまでは覚えている。
揺さぶられて目を覚ましたとき、部屋には3人しかいなかった。
Coloさん、みかっちさんという女性陣に俺。

「鏡占いに行こう」

まだ覚醒していない頭に、実にシンプルな構文が滑り込んできた。
なんでも市内に新しい占いの店がオープンしたのだが、それが一風変わった「鏡を使った占い」をしているのだそうだ。
思わず腕時計を見たが、短針は12時を回っていた。
しかし二人は大丈夫、大丈夫、まだやってるというのである。
洗面所をかりて顔だけ洗っていると、Coloさんがそばにやってきてこう言った。
「困ってることがあるんでしょう。その店の鏡の中には、困難の正体が映るんだって」

困っていること。たしかにある。
Coloさんやオフ会のメンバーには言っていないが、そのころ俺はある女性に絡むやっかいごとの只中にいた。
霊感の強い人に立て続けに出会ったせいか心霊現象にはよく遭遇するようになっていたのだが、異常な人間のほうがはっきり言ってたちが悪い。
その女性は、信じがたいことに市内の高校で「同級生の血を吸う」という事件を起こして停学になったことがあるという。
興味をもって彼女のことを調べてまわっていたのが不興を買ったのか、そのころ身の回りに不可思議な出来事が立て続いて起きていた。
もちろん彼女と関係があるとは限らない。
しかし最悪の事態を想定して生活するのは臆病者にとって当然だ。俺は知り合いにもらった魔除けのタリスマンなるものまで肌身離さず持っていた。
Coloさんは何を考えているのかわからない独特の表情で
「たぶん、本物だから」
と言った。

Coloさんは勘が鋭い。大学のサークルの先輩でもある俺のオカルト道の師匠には、そのやっかいごとを伝えていたが、恋人を巻き込みたくないのか師匠はColoさんには教えてないはずだった。
はずなのに、なにか勘づいているような気配がしていた。
3人で連れ立ってマンションの一室を出ると外はやたら寒く、俺は帰りませんかと何度か言ったが女性二人がノリノリだったため無視され、繁華街のほうへずんずんと歩を進めていった。
ところが、その途上でみかっちさんのPHSが鳴り、みかっちさんは電話口で何事かわめいたかと思うと走ってどこかに行ってしまった。
俺は面くらうとともにどこかほっとして、「二人になったし、帰りましょう」と言った。
しかしColoさんは首を振ると「来なさい」と有無を言わせぬ口調で俺を促した。
深夜1時近くになっていたが、まだ明かりの消えない華やかな通りからすこし外れて、薄暗い裏通りを進むと「学生ローン」とかかれた看板のある小さなビルの前に立ち止まった。
占いの店らしき看板も出ていないが、Coloさんはここだと言う。
そして地下へのびる階段をずんずんと降りて行くのだった。
地下には「占い」とだけかかれた怪しげなドアがあり、Coloさんは躊躇なく押し開けて俺を手招きするのだった。

薄暗い店内には人の気配がなく、厚手の黒い布で遮蔽されたカウンターらしきところに、人の手が見えた瞬間は思わずビクッとした。
Coloさんがその布越しになにか話しかけると、白い手は店の奥を指差したかと思うとスゥっと消えるように引っ込んでいった。
狭い店内は黒で統一され、天井の照明も黒い布で覆われていたので目が慣れるまでは鼻を摘ままれてもとっさにはわからなかったかもしれない。

「こっち」
とColoさんが俺の手をつかんで引っ張り、店の奥へと向かった。
奥には黒い布で隠されるようにしてドアがぽつんとあり、切れ目の入った厚手の生地を掻き分けるように中を覗き込んだかと思うと、Coloさんは「ここ」と言って俺を促すのだった。
流されるようにここまで来てしまったが、なんだかすべてが薄気味悪い。
『困難の正体が映る鏡』
そんなものが本当にあるんだろうか。とは思わなかった。
そんなものを見ていいんだろうか。そう思ったのだった。
俺はColoさんに押し込まれるようにドアの中へ入った。
中はさっきまでよりも暗い。背後では切れ目の入った布が入り口を塞ぐようにバサバサともとに戻る音がした。
暗くても、部屋が狭いことは直感でわかる。その一番奥に人影が見えた。
ビクビクしながら近づくと、やはりそれは俺だった。
鏡面であることを確認しようとして手を伸ばそうとするが、一瞬頭がくらくらするような感覚がして、それをすることは躊躇われた。
なにか、説明しがたい違和感のようなものがあった。
『困難の正体』
それは自分自身だ。
そんなことを悟らせるための店なのだろうかと、ふと思った。
全身が映っている大きな鏡の中の腕時計に目を落とすと、短針は1時のあたりをさしていた。
そのときである。頭の中にくぐもったような耳鳴りがかすかに響き始めた。
まずい。
その音が、心臓を早鐘のように乱れさせる。

なにかが起こる。
そう思った俺は、ここから出ようとした。
そしてそのために振り向こうとしたとき、鏡の中の青ざめた自分の顔の端になにか黒いものが見えた気がした。
ドキドキしながら振り返るが、なにもなかった。暗い部屋が広がっているだけだ。
また鏡に向き直る。
こんどは顔の位置がずれて、顔の後ろに隠れていた黒いものが大きくなっていた。
それが動いた瞬間、叫び声をあげそうになった。
はっきりとわかる。それは人影だった。鏡の中の二つの人影。
一つは鏡の前に立つ俺。
もう一つはその俺の後ろに立つ長い髪の人物。
さっき振り向いたときはいなかった。
そして予感がする。
もう一度振り向いても、誰もいないのではないだろうか。困難の正体なんか、見ていいはずがなかった。
後悔がよぎる。

鏡の中で部屋の入り口付近から、長い髪の人影がこちらのほうへジリジリと近づいてくる。
暗すぎて顔まではわからない。
俺は震えながら、掛けていた眼鏡をずらす。
鏡の向こう、自分の姿や、背後の壁などとともに、その人影も輪郭からぼやけてしまった。
幻覚ではない。
脳が見せる幻なら眼鏡をずらしてもぼやけない。
硬直する俺の背後へ、ぼやけたままの人影が揺れながら近づいてくる。
耳鳴りが強くなる。
そしてこの部屋に入り、鏡を見た瞬間に感じた違和感がもう一度強く迫ってくるような気がした。

振り向こうか。
振り向いたら、たぶんなにもいない。
そして部屋の入り口へ走って、外へ出る。
そうしようか。

心臓をバクバク言わせながらそんなこと思っていたが、けっして目は鏡の中から逸らせないのだった。
そのとき、鏡の中の腕時計がまた目に入った。
短針は依然1時のあたりを指していた。その瞬間、違和感の正体に気がついた。
鏡の中で腕時計をしている手をじっと見つめる。
右側の手に腕時計をしていた。
鏡の中の俺が、右側の手に腕時計をしているのだった。
俺は固まったまま動けなくなる。
俺は普段、当然のことながら左手に腕時計をはめている。
鏡に映るときは、向かって左側の手にはめていないとおかしいではないか。
そしてその鏡の中の短針は、11時のあたりを指していないとおかしいはずだった。

なんだこれは。なんだこれは。

という言葉が頭の中をぐるぐると回る。鏡に映る俺の体で、数少ない左右対称ではないものが、すべてある結論を指し示していた。
心臓が、胸の右寄りの位置でドクドクと脈打っている気がした。
(こっちが鏡の中だ)
そんなことはあるはずがなかった。
しかし鏡の向こうの俺こそが、確かに正しい方の手に正しい時間を指す腕時計をはめているのだった。

そして鏡の向こうの俺の背後に、髪の長い長身の人影が迫って来ていた。
こっちが鏡の中である、というありえない事態に、俺はうろたえる余裕もなく、こっちが鏡の中であるという前提のもとに、今なにをすべきかを考えた。
混乱する頭を蝿の飛び回るような耳鳴りが掻き乱し、なにをしていいのかわからない。
動けない。振り向けない。
鏡の向こうの俺の背後に、切れ長の瞳が見えた瞬間、思わず叫んでいた。
「どうしたらいいですか」
なぜそんなことを言ったのかわからない。外にいるだろうColoさんに助けを求める叫び声としては奇妙だ。まるで、すべてを知ってる人に問いかけるような・・・・・・
すると間髪入れずに答えが返ってきた。
「来てよかったでしょう」
鏡の向こうで部屋の入り口の黒い布がガサガサと揺れ、妙に現実感のないColoさんの声が聞こえてきた。
「どうしたらいいですか」
もう一度叫んだ。すぐ背後まで来ている、切れ長の瞳の黒目が一瞬膨張した。
「簡単。今すぐこの予知夢から覚めて、鏡占いに行こうという誘いを断る。それだけ」
そんな言葉が、直接頭の中に響いた。

揺さぶられて目が覚める。
Coloさんのマンションの一室だった。
みかっちさんが目の前で机につっぷしているColoさんを続けて起こそうとしている。

俺は覚醒しきれない頭で、状況を把握する。
熟考するまでもなく、夢を見ていたらしい。
思わず腕時計を確認する。12時過ぎ。もちろん右手にはめている。
ひどい夢だった。
すべてはColoさんの予知夢だった、という設定らしい。
確かにColoさんは異常に勘がするどく、その勘の元になっているのはエドガーケイシーのような予知夢だと、師匠に聞いたことがある。
その話が原因で、こんな変な夢を見たのか。
ばかばかしいではないか。
だって今のは、Coloさんの見る夢ではなく、この俺の夢だったのだから。
「うーん」という声とともにColoさんが頭をイヤイヤする。
みかっちさんが無理やりその頭を揺さぶりながら、言った。
「おきろー。鏡占いに行くんでしょ」
その言葉を聞いて、俺は背筋に冷たいものが走った。

いや、待て。俺が寝ているときにきっとそんな話になったのだろう。
それが浅い眠りに入っていた俺の夢の表層に現れたにすぎない。
「あー、そうだっけ」
眠そうに頭をあげるColoさんを見て、俺は思わず言った。
「いや、俺もう帰りますし」
みかっちさんは「えー」と言って、不満を口にしたが取り合わなかった。
Coloさんは瞼をこすりながら、俺をじっと見ていた。
「なにか」とドキドキしながら言うと、「なんだっけ」と首を捻っている。
「あ、そうだ」
そう言って、Coloさんはみかっちさんに何か耳打ちをした。

するとみかっちさんは鼻で笑いながらPHSを取り出し、ベランダに出ながらどこかに掛けはじめた。1、2分の後、みかっちさんはPHSに向かって何事かわめきながらベランダから戻ってきて、慌しくColoさんの部屋を飛び出していった。
呆然とする俺の前で、Coloさんが無表情のまま欠伸をひとつした。

結局その日は家に直帰し、なにごともなく一日が終わった。
後日、Coloさんの彼氏でもあるオカルト道の師匠のもとへその出来事の話をしに行った。
気になってたまらなかったからだ。
一通り話を聞き終えると、師匠は唸りながら「巻き込まれたな」と言った。
以前、師匠からColoさんの体質について聞いてことがあったが、そのとき「寝ているところをみせてやりたい。怖いぞ」というようなこと言った。
まさにその「怖い」現象に巻き込まれたのだと言う。
曰く、Coloさんは浅い眠りに入ったときに予知夢としかいいようがない不思議な夢を見る。
その夢は目が覚めたときは覚えていない。ただ、ときどき日常生活の中で、それを「思い出す」のだそうだ。
それも、まだ起こっていない未来を、思い出すのだ。
無理に思い出そうしても思い出せない。
どういう基準で思い出せるのかもよくわからない。
しかも、まれにノイズとでもいうべきハズレが存在する。
その原因もわからない。
師匠はColoさんと一緒に寝ているとき、そのColoさんの見る予知夢を同時体験してしまったことがあるという。
自分が予知夢の登場人物になって思考し、行動し、その体験が目覚めたあとも自分の意識にそのまま繋がっていた。
そしてその内容をColoさんは覚えていない。

同じだった。今回の俺の体験と。
「巻き込まれた」とはそういうことなのだ。
師匠が見た夢のことは詳しく教えてくれなかったが、「口にしたくないほど恐ろしかった」そうだ。
「僕以外で、巻き込まれた人ははじめてかもしれない」
師匠は変なことに感心している。
「それにしても面白いな。『困難の正体が映る鏡』を見に行って、いつのまにか自分自身が鏡の中にいたっていうのか」
あれは不思議な感覚だった。予知夢だかなんだか知らないが、そんなことはありえないと思う。あるいは、たまに外れるという『ノイズ』にあたる部分なのかも知れない。

「1.鏡の向こうの俺に危険な人影が迫っている
2.こちらがわにはその人影は存在しない
3.今思考している俺は鏡の中の人物である
4.鏡の向こうが本当の世界である」

師匠はボソボソとそう呟いた。
「つまり、『いないはずの人影が鏡の中にだけ映っている』という最初の恐怖は、さっき挙げた君の4つの認識によって、『いるはずの人影が鏡の中に映っていない』と変換されたわけだ。
夢の中で自分が鏡の中にいるという自覚が、いったい何を象徴しているのか、フロイト先生なら何か面白い解釈をしてくれるかも知れないが。
ともあれ少なくともここには、ある非常に興味深い暗示が含まれている」
師匠はニヤニヤしながら
「こんな言葉をしっているか」
と言って続けた。

吸血鬼は、鏡に映らない。

大学2回生の夏。
俺は大学の先輩と海へ行った。
照りつける太陽とも水着の女性とも無縁の、薄ら寒い夜の海へ。

俺は先輩の操る小型船の舳先で震えながら、どうしてこんなことになったのか考えていた。
眼下にはゆらゆらと揺らめく海面だけがあり、その深さの底はうかがい知れない。
ときどき自分の顔がぐにゃぐにゃと歪み、波の中にだれとも知れない人の横顔が見えるような気がした。
遠い陸地の影は不気味なシルエットを横たえ、時々かすかな灯台の光が緞帳のような雲を空の底に浮かび上がらせている。

「海の音を採りに行こう」
という先輩の誘いは、抗いがたい力を秘めていた。
オカルト道の師匠でもあるその人のコレクションの中には、あやしげなカセットテープがある。聞かせてもらうと、薄気味の悪い唸り声や、すすり泣くような声、どこの国の言葉とも知れない囁き声、そんなものが延々と収録されていた。
聞き終わったあとで「あんまり聞くと寿命が縮むよ」と言われてビビリあがり、もう二度と聞くまいと思うが、何故かしばらくするとまた聞きたくなるのだった。
うまく聞き取れないヒソヒソ声を、「何と言っているのだろう」という負の期待感で追ってしまう。
そんな様子を面白がり、師匠は「これは海の音だよ」と言って夜の海へ俺を誘ったのだった。

知り合いのボートを借りた師匠が、慣れた調子でモーターを操って海へ出た頃にはすでに陽は落ちきっていた。
フェリーならいざ知らず、こんな小さな船で海上に出たことのなかった俺は初めから足が竦んでいた。
「操縦免許持ってるんですか?」と問う俺に「登録長3メートル以下なら小型船舶操縦免許はいらない」と嘯いて、師匠は暗く波立つ海面を滑らせていった。
どれくらい沖に出たのか、師匠はふいにエンジンを止めて、持参していたテープレコーダーの録音ボタンを押した。
風は凪いでいた。モーターの回転する音が止むと、あたりは静かになる。

いや、しばらくするとどこからともなく、海の音とでもいうしかないザワザワした音が漂ってきた。
潮に流されるにまかせてボートは波間に揺れている。
船首から顔を出して海中を覗き込んでいると、底知れない黒い水の中に魚の腹と思しき白いものが時々煌いては消えていった。
師匠は黙ったまま水平線のあたりをじっと見ている。横顔を盗み見ても何を考えているのかわからない。
微かな風の音が耳を撫でていき、船底から鈍く響いてくるような海鳴りがどうしようもなく心細く孤独な気分にさせてくれる。
「採れてるんですかね」と言うと、口に指を当てて「シッ」という唇の動きで返された。
何か聞こえるような気もするが、はっきりとはわからない。
そもそも、海の上でいったい何があのテープのような囁きを発するのか。
俺はじっと耳を澄まして闇の中に腰をおろしていた。

どれくらいたったのか、ざあざあという生ぬるい潮風に顔を突き出したままぼーっとしていると、ふいに人影のようなものが目の前を横切った。
思わず目で追うと、たしかに人影に見える。
漂流物とは思わなかった。

なぜならそれは、子供の背丈ほども海面に出ていたからだ。
俺は固まったまま動けない。
ただゆらゆら揺れながら遠ざかっていく暗い人影から目を離せないでいた。

海の只中であり、樹や、まして人間が立てるような水深のはずがない。
視界は狭く、ゆっくりと人影は闇の中へ消えていったが俺は震える声で、あれはなんでしょうか、と言った。
師匠は首を振り、「海はわからないことだらけだ」とだけ呟いた。
懐中電灯をつけたくなる衝動にかられたが、なにか余計なものを見てしまう気がして出来なかった。
ガチン
という音がしてアナクロなテープレコーダーの録音ボタンが元にもどった。
自動的に巻き戻しがはじまり、シャァーという音がやけに大きく響く。
師匠がテレコの方へ移動する気配があり、わずかに船が揺れた。

「聞いてみる?」
そんな声がした。
ここで?
俺は無理だ。俺や師匠の部屋ならいい。いや、あえていえば普通の心霊スポットで、くらいなら大丈夫だ。
しかしここは、陸地から離れて波間に漂うここは、海面より上も下も人間の領域ではないという皮膚感覚があった。
三界に家無し、という単語がなぜか頭に浮かび、頼るもののない心細さが猛烈に襲ってきた。なにかが気まぐれにこの小さな船をひっくり返しても、この世はそれを許すような、そんな意味不明の悪寒がする。そんなことを考えながら船のヘリを渾身の力で掴んだ。
そんな俺にかまわず、師匠はガチャリとボタンを押し込んだ。

思わず耳を塞ぐ。
バランスが崩れないよう、足を広げて踏ん張ったまま俺の世界からは音が消えて、テレコの前に屈みこんだままの師匠が、停止ボタンを押されたように動かなくなった。
俺はその姿から目を離せなかった。
胸がつまるような潮の生臭さ。
板子一枚下は地獄。
ああ、漁師にとってのあの世は海なんだな、と思った。
波に合わせて揺れる師匠の肩口に人影のようなものが見えた。
ふたたび、海に立つ影が船のすぐ真横を横切ろうとしていた。
顔などは見えない。どこが手で、足でという輪郭すらはっきりわからない。
ただそれが人影であるということだけがわかるのだった。
師匠がそちらを向いたかと思うと、いきなり何事か怒鳴りつけて船から半身を乗り出した。
凄い剣幕だった。
船が一瞬傾いて、反射的に俺は逆方向に体を傾ける。
人影は立ったまま闇の中へ消えていこうとしていた。
師匠は乗り出していた体を引っ込め、船尾のモーターに取り付いた。
俺はバランスを崩し、思わず耳を塞いでいた両手を船の縁につく。
なんだあれ、なんだあれ。
師匠は上気した声でまくしたて、エンジンをかけようとしていた。
回頭して戻る気だ。
そう思った俺は、その手にしがみついて、ダメです帰りましょうと叫んだ。
師匠は俺を振りほどいて、言った。
「あたりまえだ、つかまってろ」
すぐにエンジンの大きな音が響き、船は急加速で動き始めた。
塩辛い飛沫が顔にかかるなかで俺は眼鏡を乱暴に拭きながら、かすかに見える灯台の光を追いかける。
後ろを振り返る勇気は、なかった。

後日、師匠があのときの録音テープを聞かせてやる、と言った。
結局俺はまだ聞いてなかったのだ。喉元すぎれば、というやつでノコノコと師匠の部屋へ行った。
「ありえないのが採れてるから」
そんなことを言われては、聞かざるを得ない。
テーブルの上にラジカセを置いて再生ボタンを押すと、くぐもったような波の音と風の音が遠くから響いてくる。
耳を近づけて聞いていると、そのなかに混じってなにか別の音が入っているような気がした。
ボリュームを上げてみると確かに聞こえる。

ざあざあでもごうごうでもない、なにか規則正しい音の繋がり。それが延々と繰り返されている。
もっとボリュームを上げると、音が割れはじめて逆に聞こえない。上手く調整しながらひたすら耳を傾けていると、それは二つの単語で出来ていることがわかった。
人の声とも、自然の音ともとれるなんとも言えない響き。
その単語を聞き取れた瞬間、俺は思わず腰を浮かせて息をのんだ。

それは紛れもなく、俺と師匠の名前だった。

怖い夢

幽霊を見る。怪我をする。変質者に襲われる。
どんな恐怖体験も、夜に見る悪夢一つに勝てない。
そんなことを思う。
実は昨日の夜、こんな夢を見たばかりなのだ。

自分が首だけになって家の中を彷徨っている。
なんでもいいから今日が何月何日なのか知りたくてカレンダーを探している。
誰もいない廊下をノロノロと進む。
その視界がいつもより低くて、ああ自分はやっぱり首だけなんだと思うと、それがやけに悲しかった。
ウオーッと叫びながら台所にやってくると、母親がこちらに背を向けて流し台の前に立っている。
ついさっきのことなのに何故かもう忘れてしまったが、俺はなにか凄く恐ろしいことを言いながら母親を振り向かせた。

するとその顔が、   だった。

という夢。
こんな夢でも、体験した人間は身も凍る恐怖を味わう。
しかしそれを他人に伝えるのは難しい。
4時間しか経っていないのにすでに目が覚める直前のシーンが思い出せない。
けれど怖かったという感覚だけが澱のように残っている。

そんな恐怖を誰かと共有したくて、人は不完全な夢の話を語る。
しかし上手く伝えられず、「怖かった」という主観ばかり並べ立てる。えてしてそういう話はつまらない。もちろん怖くもない。
それを経験上わかっているから、俺はあまり怖い夢の話を人に語らない。

いや、違うのかもしれない。
怖い夢を語るというのは、人前で裸になるようなものだと、心のどこかで思っているのかもしれない。それは情けなく、恥ずべきものなのだろう。夢の中の恐怖の材料はすべて自分自身の投影にすぎない。
結局自分のズボンのポケットに入っているものに怯えるようなものなのだから。

大学2回生の春。
俺は朝からパチンコに行こうと身支度を整えていた。目覚まし時計まで掛けて、実に勤勉なことだ。その情熱のわずかでも大学の授業へ向ければもっとましな人生になったかと思うと、少し悲しい。
ズボンを履こうとしているときに電話が鳴り、一瞬びくっとしたあと受話器をとると「すぐ来い」という女性の声が聞こえてきた。
オカルト仲間の京介さんという人だ。「京介」はネット上のハンドルネームである。
困りごとがあってこっちから掛けることはよくあったが、あちらから電話を掛けてくるなんて実にめずらしかった。

俺はパチンコの予定をキャンセルして、京介さんの家へ向かった。
何度か足を踏み入れたマンションのドアをノックすると、禁煙パイポを加えた京介さんがジーンズ姿で出てきた。
いったい何事かと、ドキドキしながらそして少しワクワクしながら部屋に上がり、ソファに座る。
まあ聞け、と言って京介さんはテーブルの椅子にあぐらをかき、語り始めた。

「すげー怖いことがあったんだ」

声が上ずり、落ち着かないその様子はいつもの飄々とした京介さんのイメージとは違っていた。

「一人でボーリングしてたら、やたらガーターばっかりなんだ。なんでこんな調子悪いかなと思ってると、トイレの前で誰かが手招きしてるんだよ。なんだあれって思いながら続けてると、またガーター連発。
知らないだろうけど私、アベレージで180は行くんだよ。ありえないわけ。それでまたちらっとトイレの方を見たら、誰かがすっと中に消えるところだったんだけど、その手がヒラヒラまた手招きしてる。気になってそっちへ行ってみたら、清掃中って張り紙がしてあった。でも確かにナカに誰か入っていったから、かまわずズカズカ乗り込んだら、ナカ、どうなってたと思う。
女子トイレだったはずなのに、なぜか男子トイレで、しかもゾンビみたいなやつらが便器の前にずらっと並んでるわけ。それも行列を作って。
パニックになって私が叫んだら、そいつらが一斉にこっちを振り向いて、見るなコラみたいなことを言いながらこっちに近づいて来ようとし始めたんだよ。目なんか半分垂れ下がってるやつとかいるし。そいつらがみんな皮がズルズルになった手を、こう、ぐっと伸ばして・・・・・・」

そこまで聞いて、俺は京介さんを止めた。
「ちょっと、ちょっと待ってください。それってもしかして、ていうか、もしかしなくても夢ですよね」
「そうだよ。すげー怖い夢」
京介さんは両手をを胸の前に伸ばした格好のままで、きょとんとしていた。
そのころから他人の夢の話は怖くない、という達観をしていた俺は尻のあたりがムズムズするような感覚を味わっていた。

自分の見た怖い夢の話をする人は、相手の反応が悪いとやたら力が入りはじめ余計に上滑りをしていくものなのだ。
「まあ聞けよ。そのゾンビどもから逃げたあとが凄かったんだ」
話を無理やり再開した京介さんの冒険談を俺は俯いてじっと聞いていた。
この人は、朝っぱらから自分の見た怖い夢を語るために俺を呼び出したらしい。
まるっきりいつもの京介さんらしくない。いや、京介さんらしいのか。
夢の話は続く。
俺は俯いたまま、やがて涙をこぼした。
「・・・・・・それで、自分の部屋まで逃げてきたところで、て、おい。なんで泣く。おい。泣くな。なんで泣くんだ」

俺は自然にあふれ出る涙を止めることができなかった。
視線の端には、水が抜かれた大きな水槽がある。
京介さんを長い間苦しめてきた、その水槽が。
「泣くなってば、おい。困ったな。泣くなよ」
俺はすべてが終わったことを、そのとき初めて知ったのだった。
去年の夏から続く一連の悪夢が終わったことを。
結局俺は、さいごは蚊帳の外で。なんの役にも立てず。
京介さんや彼女を助けた人たちの長い夜を、俺は翌朝のパチンコをする夢で過ごしていたのだった。
「まいったな。泣くほど怖いのか。こどもかキミは」
泣くほど情けなくて、恥ずべきで、そしてポケットに入れた魔除けのお守りをすべて投げ出したくなるほど、嬉しかった。
京介さんの、夢を見た朝が、どうしようもなく嬉しかった。

大学2回生の春だったと思う。
俺の通っていた大学には大小数十のサークルの部室が入っている3階建てのサークル棟があった。

ここでは学生による、ある程度の自治権が守られ、24時間開放という夢のような空間があった。
24時間というからには24時間なわけで、朝まで部室で徹夜マージャンをしておいて、そこから講義棟に向かい、授業中たっぷり寝てから部室に戻ってきてまたマージャンなどという学生の鑑のような生活も出来た。
夜にサークル棟にいると、そこかしこの部屋から酒宴の歓声やら、マージャン牌を混ぜる音やら、テレビゲームの電子音などが聞こえてくる。どこからともなく落語も聞こえてきたりする。
それが平日休日の別なく、時には夜通し続くのだ。

ある夜である。
いきなり耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
初代スーパーマリオのタイムアタックを延々とやっていた俺は、コントローラーを握ったまま部室の中を見回す。
数人のサークル仲間が思いおもいのことをしている。誰も無反応だった。
「今、悲鳴が聞こえませんでした」
と聞いたが漫画を読んでいた先輩が顔を上げて「エ?」と言っただけだった。
気のせいか、とも思えない。サークル棟すべてに響き渡るような凄い声だったから。
そしてその証拠に、まだ心臓のあたりが冷たくなっているな感覚があり、鳥肌がうっすらと立ってさえいる。
部室の隅にいた先輩が片目をつぶったのを、俺は見逃さなかった。

その瞬間に俺は何が起こったのか分かった気がした。
その先輩のそばに寄って、「なんなんですかさっきの」と囁く。
俺のオカルトの師匠だ。この人だけが反応したということは、そういうことなのだろう。
「聞こえたのか」と言うので頷くと「無視無視」と言ってゴロンと寝転がった。

気になる。
あんな大きな声なのに、ある人には聞こえてある人には聞こえないなんて、普通ではない。
俺は立ち上がり、精神を研ぎ澄まして悲鳴の聞こえてきた方角を探りながら部室のドアを開けた。
師匠がなにか言うかと思ったが、寝転がったまま顔も上げなかった。
ドアから出て、汚い廊下を進む。

各サークルの当番制で掃除はしているはずなのだが、長年積み重なった塵やら芥やらゲロやら涙やらで、どうしようもなく煤けている。
夜中の1時を回ろうかという時間なのに廊下の左右に並ぶ多くの部室のドアからは光が漏れ、奇声や笑い声が聞こえる。
誰もドアから顔を出して、悲鳴の正体をうかがうような人はいない。
その中を、確かに聞こえた悲鳴の残滓のようなものを追って歩いた。

そしてある階の端に位置する空間へと足を踏み入れた瞬間、背筋になにかが這い上がるような感覚が走った。
やたら暗い一角だった。
天井の電灯が切れている。もとからなのか、それともさっきの悲鳴と関係があるのかは分からない。いずれにしてもひとけのない廊下が闇の中に伸びていた。
背後から射す遠くの明かりと、遠くの人のざわめきがその暗さ、静けさを際立たせていた。
かすかな耳鳴りがして、俺は「ここだ」という感覚を強くする。
このあたりには何のサークルがあっただろうと考えながら足音を消しながら歩を進めていると、一番奥の部室のドアの前に人が立っているのに気がついた。
向こうも気づいたようで、こちらを振り返った。

薄暗い中を恐る恐る近づくと、それは髪の長い女性で、不安げともなんともつかない様子で立っているのだった。
「どうしたんですか」
と声を殺して聞くと、彼女はなにか合点したように頷いた。
たぶん、彼女も反応したのだ。バカ騒ぎする不夜城のなかでわずかな人にしか聞こえなかった悲鳴に。
顔色を伺うが、暗さのせいで表情まではわからない。
「俺も、聞こえました」
仲間であることを確認したくてそう言った。
「ここだと思いますけど」
女性のかぼそい声がそう答えて、俺は視線の先のドアを見た。

プレートがないので、何のサークルかはわからない。頭の中でサークルの配置図を思い浮かべるが、この辺りには普段用もないので靄がかかったように見えてこない。
ドアの下の隙間からは明かりも漏れておらず、中は無人のようだったが、ビクビクしながらドアに耳をくっつけてみる。
なにも聞こえない。
地続きになっている遠くの部屋で誰かが飛び跳ねているような振動をかすかに感じるだけだった。
頭をドアから離すと、無駄と知りつつノブを握った。
カチャっと音がして、わずかにドアが動いた。
驚いて思わず飛びずさる。開く。カギが掛かっていない。
このドアは開く。
後ずさる俺に合わせて女性も壁際まで下がっている。
心音が落ち着くまで待ってから「どうします」と小声で言うと、彼女は首を横に振った。
おびえているのだろうか。
しかし去ろうともしない。

俺はなにか義務感のようなものに駆られて、ふたたびドアへ近づく。
ノブに手をかけて、深呼吸をする。
あの悲鳴を聞いたときの、心臓が冷えるような感覚が蘇って、生唾を飲んだ。
このドアの向こうに、悲鳴の主か、あるいは関係する何かがある。そう思うだけで足が竦みそうになる。
「開けますよ」
と彼女に確認するように言った。でもそれはきっと自分自身に向けた言葉なのだろう。
目をつぶってノブを引いた。
いや、つぶったつもりだった。しかしなぜか俺は目を開けたままドアを開け放っていた。
吸い込まれそうな闇があり、その瞬間彼女が俺の背後で「キャーッ!!」という絶叫を上げたのだった。
寿命が確実に縮むような衝撃を受けて、俺はそれでもドアノブを離さなかった。
室内は暗く、何も見えない。
暗さに慣れたはずの目にも見えないのに。
一体彼女は何に叫んだのか。
じっと闇を見つめた。
中に入ろうとするが、磁場のようなものに体が拒否されているように動けない。
いや、たんにビビッていただけなのだろう。
俺はしばらくそのままの姿勢でいたが、やがて首だけを巡らせて後ろを向こうとした。
一体彼女は何に叫んだのか。

そのとき、あることに気がついた。
この廊下の一角は、あまりに静かだった。やってきたときと変わらずに。
さっきの彼女の叫び声に、このサークル棟の誰も、様子を見に来ない。

中途半端な位置で止まった頭の、その視線の端で彼女が壁際に立っているのが見える。
しかしその姿が、薄闇の中に混じるように希薄になって行き、俺の視界の中で音も無く、さっきまで人だったものが、「気配」になって行こうとしていた。
ドアの向こうの闇から、なにか目に見えない手のようなものが伸びてくるイメージが頭に浮かび、俺はドアノブから手を離して逃げた。
背後でドアが閉じる音が聞こえ、彼女の気配がその中へ消えていったような気がした。

自分の部室に戻ると、みんなさっきと同じ格好で同じことをしていた。
胸を押さえて座り込むと、師匠が薄目を開けて「無視しろって言ったのに」と呟いてまた寝はじめた。マリオはタイムオーバーで死んでいた。
その後、ときどきあのサークル棟の端の一角を気にして、通りすがりに廊下から覗き込むことがあった。
昼間は何事もないが、ひとけのない夜には、あのドアの前のあたりに人影のようなものを見ることがあった。
しかし大学を卒業するまでもう二度と近づくことはなかった。

家鳴り

大学2回生の夏のこと。
俺は心霊写真のようなものを友人にもらったので、それを専門家に見てもらおうと思った。

専門家と言っても俺のサークルの先輩であり、オカルトの道では師匠にあたる変人である。
彼のアパートにお邪魔するとさっそく写真を取り出したのであるが、それを手に取るやいなや鼻で笑って
「2重露光」
との一言でつき返してきた。
友人のおじいちゃんが愛犬と写っているその後ろに、ぼやっと人影らしきものが浮かび上がっているのであるが、師匠はそれをあっさりと撮影ミスであると言い切ったのだ。
俺は納得いかない思いで、「それならいつか見せてもらった写真にだって似たようなのあったでしょう」と言った。
その筋の業者から買ったという心霊写真を山ほど師匠は持っているのだ。
ところが首を振って「今ここにはない」と言う。
俺は狭いアパートの部屋を見回した。
そのとき、ふとこれまでに見せてもらった薄気味の悪いオカルトアイテムがどこにもないことに気がついたのだ。
いくつかは押入れに入っているのかもしれない。
しかし、一度見たものが、また部屋に転がっているということがなかったのを思い出す。

「どこに隠してるんです」
師匠は気味悪く笑って、「知りたい?」と首をかしげた。
素直に「はい」と言うと、「じゃあ夜になるまで待とうな」と言って師匠はいきなり布団を敷いて寝始めた。
俺はあっけにとられて、一度家に帰ろうとしたがなんだかめんどくさくなり、そのまま床に転がってやがて眠りについた。

気がつくと暗い部屋の中に、ぼうっと淡い光を放つ奇妙な形の仏像がひしめいていて、師匠が包まっている布団が部屋の真ん中に浮かんでいる。という、なんとも荒唐無稽な夢を見てうなされ、俺は目を覚ました。暑さと寝苦しさのためか、うっすら汗をかいている。
当然部屋には仏像や、師匠のオカルトコレクションの類は出現しておらず、部屋のヌシも床の上の布団で寝ているのだった。
「もう夜ですよ」と揺り起こすと、窓の外をぼうっと見て「おお、いいカンジの時間」とぶつぶつ呟き、師匠は布団から這い出てきた。
「ボキボキ」と口で言いながら背伸びをしたあと、師匠は着替えもせずに俺をアパートの外へ連れ立った。

深夜である。
特に荷物らしきものも持っていない。
ボロ軽四に火が入る。
助手席で「どこ行くんスか」と問うと、アクセルを踏みながら「隠れ家」と言う。
「え」
それが存在することは想像はついていたことだが、ついに招待してくれるほどの信頼を得られたらしい。
そもそも盗むほどのものがないと言って、家賃9000円のボロアパートに鍵も掛けずに出かけたりする人なのに、関西の業者から買ったなどと言っては、おどろおどろしい逸話のある古道具などを嬉しそうに自慢することが多々あった。
なるほど、それらを隠している場所が別にあったわけである。
北へ北へと車は向かい、すれ違うライトもほとんどない山道を蛇行しながら、俺はある感覚に襲われていた。
ふつふつと肌が粟立つような寒気である。
原因はわかっている。単純に怖いのだ。人間の恨みや悪意が凝った塊が、この向かう先にある。心の準備も出来ていない。

視線の端の境界面に、白いもやのような、揺れる人影のようなものが通り過ぎては、瞬くように消えていくような錯覚があり、俺は目を閉じる。師匠もなにも言わない。
ただタイヤがアスファルトを擦る音と、そのたびに体を左右に引っ張られる感覚だけが続いた。
やがて「ついた」という声とともに車が止まり、促されて外に降りる。
山間の一軒屋という趣の黒い影が目の前に立っている。少し斜面を降りたあたりに別の家の明かりがある。
しかし少なくとも半径20メートル以内には人の気配はない。取り残された家、という言葉がふいに浮かび、ますますその不気味さが増した気がした。

「家賃は1万1000円」
と言いながら玄関の前に立ち、師匠はライオンの顔の形をしたノッカーをさも当然のように叩く。鈍い金属音がした。中からは何のいらえもない。
その音の余韻が消えるまで待ってから「冗談だよ」と言って、師匠は鍵を回しその洋風のドアを開けた。
平屋でかなり古びているとはいえ、まともな一軒屋である。家賃1万1000円というのは、どんなツテで借りたのか非常に興味があったが、なんとなく答えてくれそうにない気がして黙っていた。
家の近くに街灯の類もなく、ほとんど真っ暗闇だったのが、家の中に入ると当然明かりが点くだろうと思っていた。
ところが玄関から奥へ消えた師匠がゴソゴソとなにかを動かしている音だけがしていたかと思うと、淡いランプの光がゆらゆらと人魂のように現れた。
「電気きてないから」
ランプを持った師匠らしき人影が、ほこりっぽい廊下を案内する。
スリッパを履いて、軋む板張りの床を足音を殺しながら半ば手探りで追いかける俺は「ほんとに借りてるのかこの人。不法侵入じゃないのか」というあらぬ疑念にとらわれていた。
リヴィングだ、という声がしてランプが部屋の中央のテーブルらしきものの上に置かれる。
暗い室内を探索する気力もない俺は、素直にランプのそばのソファに腰掛けた。
もとは質のいいものなのかもしれないが、今は空気が抜けたようにガサガサして、座り心地というものはない。

師匠も同じように向かいのソファに座り、ランプのかぼそげな明かりを挟んで向かい合った。
さっきまで寝苦しかったというのに、ここは空気は冷たい。
恐る恐る周囲を見回すと、四方の壁にミクロネシアだかポリネシアだかの原住民を思わせる黒い仮面が掛かっている。
ほかにも幽霊画と思しき掛け軸や、何かが一面に書かれた扇などが法則性もなく壁にちりばめられていた。

「ここが隠れ家ですか」
師匠は静かに頷く。
「どうしてわざわざ夜まで待ったんです」
ふーっと、深い溜息をついてから壁の一点を見つめて、師匠は口を開いた。
「この時間が、好きなんだ」
視線の先には、大きな柱時計が暗い影を落としていた。
ランプの淡い光に浮かび上がるように、文字盤がかろうじて読める。長針は2時半のあたりをさしていた。
ガラス張りになっている下半分に、振り子が見える。
しかしそれは動いておらず、この時計がもはや機能していないことを示していた。
腕時計を確認するが、ちょうどそのくらいの時間だ。振り子が止まっているだけで、もしかして時計自体は壊れていはいないのだろうか、と思っていると師匠が言葉を継いだ。
「その腕時計は進んでるか?遅れているか?」
振られて、また自分の腕時計に目を落とすが、はたしてどうだっただろう。
たしか1、2分進んでた気がするが。
「どんな精密な時計でも、完璧に正確な時間をさしつづけることはできない。100億分の1秒なんていう単位ではまるで誤差がないように見えたとしても、その100億分の1では?さらにその100億分の1では?さらにその100億の100億乗分の1では?」
ランプの明かりがかすかな気流に揺れているような錯覚に、俺は師匠の顔を見ながら目を擦る。

「時計は、作られた瞬間から、正確な時間というたった一つの特異点から遠ざかって行くんだ。それは無粋な電波時計のように外部からの修正装置でも存在しない限り、どんな時計にも等しく与えられた運命といえる」
ところが、と師匠はわずかに身を起こした。
「この壊れた柱時計は、壊れているというまさにそのことのために、普通の時計にはたどり着けない真実の瞬間に手が届くんだ」
俺は思わず、時計の文字盤を見上げた。
長針と短針が、90度よりわずかに広い角度で凍りついたまま動かない。
「一日のうち、たった一度、完璧に正しい時間をさす。その瞬間は形而上学的な刹那の間だとしても、たった一度、必ずさすんだ」
陶然とした表情で、師匠は時計を見ている。それが夜まで待ってこの時間にわざわざ来た理由か。
俺は意地悪く、言葉の揚げ足をとりに行った。
「2度ですよ。一日のうち、夜の2時半と、昼間の14時半の2度です」
ところが師匠は、その無遠慮な批判にはなんの価値もないというように首を振って、一言一言確かめるように言った。
「1度だけだよ。この時計がさしているのは、今の、この時間なんだ」
一瞬頭を捻ったが、その言葉になんの合理的解釈もなかった。ただ師匠はなんの疑いもない声で、そう断言するのだった。

パキン

音が響いた。家鳴りだ。
俺は身を硬くする。
天井のあたりを恐々見上げるが、平屋独特の暗く広い空間と梁があるだけだ。
ミシ・・・・・・ミシ・・・・・・
という木材が軋む音が聞こえてくる。
実家にいたころはよく鳴っていたが、今のアパートに越してからは素材が違うせいかほとんど聞くことはなかった音だ。
まるで、柱時計が本来の時間と交差するのを待っていたかのように、家鳴りは続いた。

バキン、という大きな音に思わず身を竦ませる。
たしか湿気を含んだ素材などが、空気が乾燥し気温の下がる夜中に縮み始め、それが床や壁、柱などの構造物どうしのわずかなズレを生んで、不気味な音を立てる現象のはずだ。
ただの家ではない。
この、どんなおどろおどろしい物があるのか分からない薄気味の悪い家で、頼りないランプの黄色い光に照らされている身では、この音をただの家鳴りだと気楽に構える気にはなれない。
向かいに座る師匠を見ると、目を閉じてまるで音楽を聴くように口の端をどこか楽しげに歪ませている。
俺もソファに根が生えたように動かず、ただひたすらこの古い家に断続的に響く音を聞いていた。

どれほど時間が立ったのか、ふいに師匠がちょっと待っててと言い置いて、たった一つの明かりとともに廊下の方へ消えていった。
リビングに闇の帳がスーッと下りてきて、バシン・・・・・・パキン・・・・・・という家鳴りがやけに立体的になって空間中に響き渡る。
心細くなってきたころ、ようやく師匠が小脇になにかを抱えるようにして戻ってきた。
テーブルの真ん中にそれを置き、ランプを翳した。
絵だった。
それも、見た瞬間、理由も分からないまま鳥肌が立つような、本能に直接届く、気味の悪い絵だった。
なぜこんな絵が怖いのか分からない。
キャンパス一面の黒地にただ一点、真ん中から少しずれたあたりに黄色い染みのような色がぽつんと置いてある。そんな絵だった。

「この家の元の所有者はね、洋画家だったんだ」
それも、晩年に気の触れた画家だった。師匠は呟くように言う。
「自分の描いた絵を見て、『誰か、中に、いた』と言って怯える、そんな人だったらしい。この絵も、自分で描いておきながら『これはなんの絵だろう』と言ったかと思うと、そのまま何週間も何ヶ月も考え込んでいたそうだ」
バキッ、と壁が泣いた。
心なしか、家鳴りが大きくなった気がする。

「食事もほとんどとらずに、げっそりと痩せこけながらこの絵を睨み続けていたある日、ふいに頭をあげた彼は、きょとんとした顔で家族にこう言ったそうだ。
『わかった。これは』」
バシン・・・・・・ミシ・・・・・・ミシ・・・・・・
まるで師匠の言葉を邪魔するように、軋む音が続く。
「その4日後に、彼は家族の前から姿を消した。『地下室にいる』という書置きを残して。家族は家中を探した。けれど彼は見つからなかった。
それから、普通失踪の7年間が過ぎるのを待って失踪宣告を受け、彼は死んだものと見なされてこの土地と家屋は残された家族によって売り払われた。それを買った物好きは、この家に伝わる逸話が気にいったらしい。
『地下室にいる』というこの言葉に金を出したようなものだ、と言っていたよ。僕はその物好きと知り合って、この家を借りた。まあ、なかば共同の物置のように使っている」
だけどね、と師匠は続けた。その一瞬の間に、誰かが天井を叩くような音が挟まる。
「だけどね、この絵ももちろんそうだけど、たとえばこの部屋を取り囲むモノたちはすべてその洋画家の収集物なんだ。彼は画家であり、また狂ったオカルティストでもあった。彼のコレクションはついに家族には理解されず、家に付随する形で二束三文で売られてしまった。その柱時計もその一つだ。なにか戦争にまつわる奇怪な逸話があるそうだが、詳しくは分からない」
師匠の声を追いかけるように家鳴りは次第に大きくなっていくようだ。
「僕自身の収集品は、鍵の掛かる地下室に置いてある。彼が『地下室にいる』と書き残したその地下室に。僕もその言葉が好きだ。なんだか撫でられるような気持ちの悪さがないか?
『地下室にいる』という、ここに省略された主語が『わたしは』でなかったとしたらどうだろう」
バキン・・・・・・と、床のあたりから音が聞こえた。いや、おそらく俺がそちらに意識を集中したからそう思われただけなのかも知れない。

「僕は、まだいるような気がするんだ」
師匠は目を泳がせて、笑った。
「彼か、あるいは、彼ではない別のなにかが。この家の地下室に。すくなくともこの家の中に・・・・・・」
その声は乾いた闇に吸い込まれるようにフェードアウトしていき、どこからともなく響いてくる金属的な軋みが絡み付いて、俺の背中を虫が這うような悪寒が走るのだった。
再びその暗い絵に視線が奪われる。
そして言わずにはいられないのだった。
あなたにはわかったんですかと。
ボキン、ボキンと骨をへし折るような空恐ろしい音がどこからともなく聞こえる中、師匠はすうっと表情を能面のように落ち着ける。
「わからない」
たっぷり時間をかけてそれだけを言った。

夜明けを待たずに、俺たちはその家を出た。
結局、師匠の秘蔵品は拝まなかった。とてもその勇気はなかった。いいです、と言って両手を振る俺に師匠は笑っていた。
のちに師匠の行方がわからなくなってから、俺はあの家の家主を見つけ出した。1万1000円で家を貸していた人だ。

店子がいなくなったことに興味はない様子だった。なくなった物も、置いていった物もないし、別に・・・・・・とその人は言った。
それを聞いて俺は単純に、師匠は自分の収集品を処分してから消えたのだと考えていた。
ところがその人は言うのである。
「ぼくがあの家を買い取った理由?それは何と言っても『地下室にいる』っていう興味深い書置きだね。だってあの家には地下室なんてないんだから」

結論から言うと、僕はその家をもう一度訪ねることはしなかった。
何年かして、ある機会に立ち寄ると更地になっていたので、もう永久に無理なのであるが。
この不可解な話にはいくつかの合理的解釈がある。地下室があるのに、ないと言った嘘。地下室がないのに、あると言った嘘。そして『地下室にいる』と書いた嘘。
どれがまっとうな答えなのかはわからない。ただ、深夜に一人でいるとき、部屋のどこからともなく木の軋むような音が聞こえてくるたび、古めかしい美術品に囲まれた部屋の、ランプの仄明かりの中で師匠と語らった不思議な時間を思い出す。

10円

大学1回生の春。
休日に僕は自転車で街に出ていた。まだその新しい街に慣れていないころで、古着屋など気の利いた店を知らない僕は、とりあえず中心街の大きな百貨店に入りメンズ服などを物色しながらうろうろしていた。

そのテナントの一つに小さなペットショップがあり何気なく立ち寄ってみると、見覚えのある人がハムスターのコーナーにいた。腰を屈めて、落ち着きのない小さな動物の動きを熱心に目で追いかけている。
一瞬誰だったか思い出せなかったが、すぐについこのあいだオフ会で会った人だと分かる。地元のオカルト系ネット掲示板に出入りし始めたころだった。
彼女もこちらの視線に気づいたようで、顔を上げた。

「あ、こないだの」
「あ、どうも」

とりあえずそんな挨拶を交わしたが、彼女が人差し指を眉間にあてて「あー、なんだっけ。ハンドルネーム」と言うので、僕は本名を名乗った。
彼女のハンドルネームは確か京介と言ったはずだ。少し年上で背の高い女性だった。
買い物かと聞くので、見てるだけですと答えると「ちょっとつきあわないか」と言われた。
ドキドキした。男から見てもカッコよくて、一緒に歩いているだけでなんだか自慢げな気持ちになるような人だったから。
「はい」と答えたものの「ちょっと待て」と手で制され、僕は彼女が納得いくまでハムスターを観察するのを待つはめになった。変な人だ、と思った。

京介さんは「喉が渇いたな」と言い、百貨店内の喫茶店に僕を連れて行った。
向かい合って席に座り、先日のオフ会で僕がこうむった恐怖体験のことを暫し語り合った。
気さくな雰囲気の人ではないが、聞き上手というのか、そのさばさばした相槌にこちらの言いたいことがスムーズに流れ出るような感じだった。
けれど、僕は彼女の表情にふとした瞬間に浮かぶ陰のようなものを感じて、それが会話の微妙な違和感になっていった。
話が途切れ、二人とも自分の飲み物に手を伸ばす。
急に周囲の雑音が大きくなった気がした。
もともと人見知りするほうで、こういう緊張感に耐えられないたちの僕は、なんとか話題を探そうと頭を回転させた。
そして特に深い考えもなく、こんなことを口走った。

「僕、霊感が強いほうなんですけど、このビルに入った時からなんか首筋がチリチリして変な感じなんですよね」
デマカセだった。オカルトが好きな人なら、こういう話に乗ってくるんじゃないかという、ただそれだけの意図だった。
ところが京介さんの目が細くなり、急に引き締まったような顔をした。
「そうか」
なにか不味いことを言っただろうか、と不安になった。
「このあたりは」とコーヒーを置いて口を開く。
「このあたりは戦時中に激しい空襲があったんだ。B29の編隊が空を覆って、焼夷弾から逃れてこの店の地下に逃げ込んだ人たちが大勢いたんだけど、煙と炎に巻かれて、逃げ場もなくなってみんな死んでいった」

淡々と語るその口調には非難めいたものも、好奇も、怒りもなかった。
ただ語ることに真摯だった。
僕はそのとき、この女性が地元の生まれなんだとわかった。
「まだ夜も明けない時間だったそうだ」
そう言って、再びカップに手を伸ばす。

後悔した。無責任なことを言うんじゃなかった。
情けなくて気が滅入った。
京介さんは暫し天井のあたりに視線を漂わせていたが、僕の様子を見て「オイ」と身を乗り出した。
そして、「元気出せ少年」と笑い、「いいもの見せてやるから」とジーンズのポケットを探り始めた。
なんだろうと思う僕の目の前で京介さんは黒い財布を取り出し、中から硬貨を1枚出してテーブルの上に置いた。

10円玉だった。
なんの変哲もないように見える。
頷くので手にとってみると、表には何もないが10と書いてある裏面を返すとそこには見慣れない模様があった。

昭和5×年と刻印されているその下に、なにか鋭利なものでつけられたと思しき傷がある。
小さくて見え辛いが「K&C」と読める。
これは?と問うと、私が彫ったと言う。
犯罪じゃないかと思ったが、突っ込まなかった。
「高1だったかな。15歳だったから、何年前だ・・・・・・6年くらいか。学校で友だちとこっくりさんをしたんだよ。自分たちは霊魂さまって呼んでたけど。
それで使い終わった10円をさ、持ってちゃダメだっていう話聞いたことあると思うけど、私たちの間でもすぐに使わなきゃいけない、なんていう話になって確かパン屋でジュースかなにかを買ったんだよ」

僕も経験がある。僕の場合は、こっくりさんで使った紙も近くの稲荷で燃やしたりした。
「使う前にちょっとしたイタズラを考えた。そのころ流行ってた噂に、そうして使った10円がなんども自分の手元に還って来るっていう怪談があった。
でもどうして、その10円が自分が使ったやつだってわかるんだろうと常々疑問だった。だから還ってきたらわかるように、サインをしたんだ」

それがここにあるということは・・・・・・
「そう。そんなことがあったなんて完璧に忘れてたのに、還って来たんだよ、今ごろ」
4日前にコンビニでもらったお釣りの中に、変な傷がついてる10円玉があると思ったらまさしくその霊魂さまで使用した10円玉だったのだと言う。
微妙だ。と思った。

10円玉が世間に何枚流通しているのか知らないが、所詮同じ市内の出来事だ。
僕らは毎日のようにお金のやりとりをしてる。
6年も経てば一度くらい同じ硬貨が手元に来ることもあるだろう。
普段は10円玉なんてものを個体として考えないから意識していないだけで、案外ままあることなのかも知れない。
ただ確かにその曰くがついた10円玉が、という所は奇妙ではある。
「どこで使われて、何人の人が使って、私のところまで戻って来たんだろうなあ」
感慨深げに京介さんは10円玉を照明にかざす。僕は、なぜか救われたような気持ちになった。
喫茶店を出るとき、「奢ってやる」という京介さんに恐縮しつつもお言葉に甘えようと構えていると、目を疑う光景を見た。
レジでその10円玉を使おうとしていたのだ。
「ちょっとちょっと」と止めようとする僕を制して「いいから」と京介さんは会計を済ませてしまった。
ありがとうございましたとお辞儀した店員には、どっちが払うかで揉める客のように見えたかもしれない。

歩きながら僕は「どうしてですか」と問いかけた。
だって、そんな奇跡的な出来事の証しなのだから、当然自分自身にとって10円どころの価値ではない宝物になるはずだ。
しかし京介さんは「また還って来たら、面白いじゃないか」とあっさりと言い放った。
聞くと、その10円玉が手元に戻って来た時から決めていたのだと言う。
ただ10円玉を支払いに使う機会が今まで偶々なかっただけなのだと。
歩幅が、僕よりも広い。
少し早足で追いかける。
その歩き方に、迷いない生き方をして来た人だという、憧れとも尊敬ともつかない感情が沸き起こったのを覚えている。
追いついて横に並んだ僕に、京介さんは思いついたように言った。
「奢る必要があっただろうか」
そんなことを今さら言われても困る。
「私の方が年上だけど、私は女でそっちは男だ」
ちょっと眉に皺を寄せて考えている。
そして哲学を語るような真面目な口調で言うのである。

「あのコーヒーだけだと、10円玉は使わなかったはずだ。オレンジジュースが加わってはじめて10円玉が出て行く金額になる」
これはノー・フェイトかも知れない。
そんな言葉を呟いて苦笑いを浮かべている。
その意味はわからなかったけれど、彼女の口から踊るその言葉をとても綺麗だと思った。

思えばK&Cと刻まれた10円玉が京介さんのもとへと還って来たのは、そのあとに起こったやっかいな出来事の兆しだったのかも知れない。

図書館

大学2回生のとき、出席しなくてもレポートだけ提出すれば少なくとも可はくれるという教授の講義をとっていた。

嬉々として履修届けを出したにも関わらず、いざレポートの提出時期になると「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」とムカムカしてくる。
最低の学生だったと我ながら述懐する。
ともかく、何時以来かという大学付属図書館に参考資料を探しに行った。
IDカードを通してゲートをくぐり、どうして皆こんなに勉強熱心なんだと思うほどの学生でごった返すフロアをうろうろする。

こんなに暗かったっけ。ふと思った。
いや、高い天井から照明は明々とフロア中を照らしている。
目を擦る。
郷土資料が置いてある一角の、光の加減がおかしい。妙に暗い気がする。
上を見ても、蛍光灯が切れている部分はない。
俺が首を傾げているその時、眼鏡をかけた男子学生がその一角を横切った。
スッと、俺の目に暗く見える部分を避けて。
けっして不自然ではない足運びだった。本人もどうしてそんな動きをしたのか、1秒後には思い出せないだろう。
全然興味のない郷土史を手に取ろうと、近づいてみる。
その本棚のかすかな陰に右足が入った途端、すごく、嫌な感じがした。
嫌な予感というのはきっと誰でも経験したことがあるだろう。その嫌な予感を、なんいうか、腹の下のあたりにゆっくりと降ろしてきたような、そんな感覚。
けっして絶対的に拒絶したいわけではないけれど、触れずに済むならそれにこしたことはない。

人差し指まで掛けた分厚い装丁の本を元の位置に戻す。
これはなんだろう。
レポートのための資料探しなどすっかり忘れて、俺は図書館内を歩き回った。
そしてそんなエアポケットのような場所をいくつか発見した。
遠くからそうした場所を観察していると、足を踏み入れる人がやはり少ないことに気づく。
目的の本があって迷いなくそちらへ向かう人もいるが、ただ単にどんな本があるか見て回っているだけと思しき人は、ほぼ例外なくそのエアポケットを避けている。
そのスポットの本の種類は様々だ。これは一体なんなのだろう。
1回生の頃には感じられなかった。
俺は大学入学以来オカルト好きが高じて、いろいろな怖いものに首を突っ込み続けた結果、明らかに霊感というのか、ある方面に向いたインスピレイションが高まっていた。
それが原因としか思えない。

しかし、このエアポケットからは直截的に霊的なものは感じない、と思う。
でも単純に俺の直感が至らないだけなのかも知れない。
そこで一番嫌な感じのする場所に、あえて踏み込んでみた。
周囲の目もあるので、適当に掴んだ本を開いてその場に立ち続ける。
嫌な予感をぐるぐると渦巻状にしたようなものが、下半身にズーンと溜まっていく。
段々と周りの光が希薄になり、酸素が足りてない時のように視界が暗くなって、そしてすぐ隣で同じように本を立ち読みしている人が止まったまま遠ざかっていくような、雑音が消えていくような、気圧が低くなっていくような……思わず飛びずさった。
何も感じないらしい隣の人が、なんだろうという表情でこちらを見る。
俺は知らぬ間に浮かんでいた冷たい汗を拭って、投げるように本を棚に戻してそのまま図書館を出た。

後日サークルの先輩にその話をした。
俺を怖いものに首をつっこませ続けた張本人であり、師匠風をやたらと吹かせる人だ。
「ああ、旧図書館か」
したり顔で合点がてんする。
あそこは、いろいろあってね。そう続けて、俺の顔を正面から見据えてから「興味がある?」と聞いてきた。
ないわけはない。
つれられるままに夕方、図書館のゲートをくぐった。

「あそこですけど」
通り過ぎようとする師匠に、本棚の並ぶ一角を示す。
それを無視するように足早に進むので、仕方なしに追いかけた。
書庫へ向かっていた。
何度か入ったことはあったが薄暗く、かび臭いような独特の空気が好きになれない場所だった。
それに、書庫にあるような本は一般のぐーたら学生には縁遠い。
「タイミングが重要だ」
出入り口に鍵は掛かるが、今はまだフリーに出入りできる。
師匠は書庫に入ると俺に目配せをしながら、あるスペースに身を潜めた。
俺も続く。誰にも見られなかったと思うが、少し緊張した。
ここで、時間を、潰す。
師匠が声を顰めてそう言った。
どうやら夜の図書館に用があるらしい。見回りの職員の目からロストするために、姿を隠したのだ。

そうか。
書庫は図書館自体が閉まるより早く施錠されるから……
随分待つ羽目になったが、人名尻取りを少しやったあとウトウトしはじめ、あっさりと二人とも眠ってしまった。
目が覚めてからよくこんな窮屈な格好で寝られたものだと思う。
凝った関節周辺を揉みほぐしながら隣の師匠を揺り動かすと、「どこ?ここ」と寝ぼけたことを言うので唖然としかけたが、「冗談だ」とすぐに軽口だか弁解だかをして外の様子を伺う。
暗い。
そして書庫の本棚が黒い壁のように視界を遮る。
先へ行く師匠を追いかけて手探りで進む。
息と、足音を殺して本の森の奥へと。

「あ」
師匠にぶつかって、立ち止まる。
闇の中でのジェスチャーに従い、その場に座り込む。
「その、エアポケットみたいな場所って」
ヒソヒソ声が言う。
「人間には居心地の悪い空間でも、霊魂にとってはそうじゃない。むしろ霊魂がそこを通るから人間には避けたくなるんだろう」
「霊道ってやつですか」
首を振る気配がある。
「道って言葉はしっくり来ないな。どちらかというと、穴。そうだな。穴だ」
そんな言葉が静まり返った書庫の空気をかすかに振るわせる。
そして師匠は、この図書館が立っている場所にはかつて旧日本軍の施設があったという話をした。
それは知っている。大学の中には、そのことにまつわる怪談話も多い。

「この真下に、巨大な穴がある」
掘ったら、とんでもないものが出てくるよ。たぶん。
そう言って、コツ、コツと床を指で叩く。
「だからそこに吸い込まれるように、昔からこの図書館には霊が通るそういう穴 がたくさんある」
沈黙があった。
師匠が叩いた床をなぞる。長い時間の果てに降り積もった埃が指先にこびりついた。
ふいに足音を聞いた気がした。
耳を澄ますと、遠いような近いような場所から、確かに誰かが足を引きずる様な音が聞こえてくる。
腰を浮かしかけると、師匠の手がそれを遮る。
その音は背後から聞こえたかと思うと、右回りに正面方向から聞こえ始める。
本棚の向こうを覗き込む気にはなれない。
歩く気配は続く。
それも、明らかに二人のいるこの場所を探している。それがわかる。
この真夜中の書庫という空間に、人間は俺たち二人しかいない。それもわかる。
奥歯の間から抜けるような嘲笑が聞こえ、師匠の方を向くと「あれはこっちには来られないよ」という囁きが返ってくる。
結界というのがあるだろう。
茶道では、主人と客の領域を分けるための仕切りのことだ。
竹や木で作るものが一般的だが、僕が最も美しいと思うものが、書物でつくる結界だよ。
そして仏道では結界は僧を犯す俗を妨げるものが結界であり、密教でははっきりと魔を塞ぐものをそう言う。
結界の張り方は様々あるけれど、古今、本で作るものほど美しいものはない。
ザリザリ。
革が上下に擦られるようなそんな音をさせて、師匠は背後にそびえる棚から一冊の本を抜きとった。暗い色合いのカバーで、タイトルは読めない。

これは僕がここに仕込んだ本だよ。どうすれば相応しい場所に相応しい本を置けるか、ひたすら研究してそしてここに通い詰めた。
おかげで図書館学にはいっぱしの見識を身に着けたけどね。教授を騙して寄贈させたり、どのスペースが次に埋まるか、その前にどの本が次に書庫送りになるか、その前にそれに影響を与える本が果たして次に購入されるのか。計算しても上手くいかないことも多い。こっそり入れ替えても書庫とはいえ、いつの間にか直されてるから。どうしても修正できないときはまあ、多少非合法的な手段もとった……

足音が増えた。
歩幅の違うふたつの音が、遠くなったり近くなったりしながら周囲を回っている。
片方は苛立っている。
片方は悲しんでいる。
ような気がした。

そして俺にはいったいなにが、ここに来たがっているその二つの気配を遮っているのか全くわからない。
左肩のほうから右肩の方へ、微かに古い紙の匂いが漂う気流が通り抜けているだけだ。
視界は狭く、先は暗幕が掛かったように見通せない。

「僕が書庫の穴を塞いだころから、流れが変わったのか外の穴まで虫食いみたいに乱れはじめた」
こんなことができるんだよ、たかが本で。
師匠は嬉しそうに言う。
今の話には動機にあたる部分がなかった。けれど、何故こんなことをするんですかという問いを発しようにも、「こんなことができるんだよ、たかが本で」というその言葉しか、答えがないような気がした。

延々と足音は回り続ける。
その数が増えたり減ったりしながら、苛立ちと悲しみの気配が大きくなり、空気を満たす。
肌を刺すような緊張感が迫ってくる。俺は目に見えない防壁にすべてを託して、目を閉じた。
いつか、「そのくらいにしておけ」という人ならぬものの声が、俺の耳元で人間のルールの終わりを告げるような気がして、両手で耳も塞いだ。
他に閉じるものはないだろうかと思ったとき、俺の中の得体の知れない感覚器が、足元のずっと下にある何かを知覚した。巨大な穴のイメージ。
師匠の言う「穴」を「霊道」に置き換えるならば、下に向かう霊道なんてものが存在していいのだろうか。
この感覚を閉じるには、どうしたらいいのか。
震えながら、朝を待った。

その書庫も、今では立ち入り禁止になっているらしい。
消防法がどうとかいう話を耳にはしたけれど、どうだかわからない。
師匠が司書をしていた期間となにか関係があるような気がしているが……はたして。

葬式

大学2回生の初秋。
サークルの先輩と二人でコンビニに食料を買いに行った、その帰り道。
住宅街の大通りから脇に入る狭い道があり、その手前に差し掛かった時に、軽い耳鳴りに襲われた。

その直後、目の前の道路の上にぼんやりとした影が見えた気がした。
立ち止まりながら眼鏡を拭いたが、やはり人間くらいの大きさの影がくらくらと揺れている。
なんだか現実感が薄い。
4つか5つくらいの影が揺れながら狭い道の方へ曲がっていった。

その向こうにはどこにでもある昼間の住宅街の光景が広がっている。
先輩がその辻に向かい、影が曲がっていった道の方を見る。
「あれか」
俺もそれを真似て覗き込むように立ち止まる。
住宅が立ち並ぶ道の向こうに鯨幕の白と黒の模様が見えた。
そしていくつもの影が移ろうような頼りなさで、途上にある。
なんだか気持ちが悪い。猫の礫死体を見たときのような。
「そういえば斎場がありましたね」
「うん……」
カラ返事が返ってきた。
この世のものではないものをごく日常的に見ている人にとって、この光景はあまり興味を惹かれないものなのだろうか。
「あれが見えるようになったのか」
去年の今頃は気がつかなかったのにな……
そんな、軽い侮蔑の調子に自分のことを言われているのだとわかった。

半ば畏れ、半ば馬鹿にして師匠と呼ぶその人は、俺に見えていないものをあえて教えないスタンスだった。
嫌な性格だ。
「なんなんですか」
「あれは、まあ、幽霊の類だけど。光に群がる虫と言ったらしっくりくるかな」
虫とはあんまりだ。
そう思った瞬間遠くの影がひとつ、表裏のないままこちらを向いたような気がした。
「葬式は死と密接につながっている、というイメージが日本人のメンタリティに存在する限り、毎年毎年生産され続ける死者にとってもやっぱり特別に気になる場なんだろう」
でもまあ虫だよ。
師匠は鯨幕の見える方へ歩き始めた。
俺も続いて狭い道へ入る。少し歩きにくい気がする。
うっすらとした影が踏んでいった場所が、ねとつくような。

喪服を着た人たちが大勢出入りしている建物についた。
遠巻きに立ち止まる。
告別式が始まるのだろうか。入り口で手招きする人に急かされて、おばさんが数人小走りに俺たちの前を通り過ぎた。
黒い服の人々に混じるように、輪郭の定まらない影たちも葬式場へ入っていく。
異物。
そんな言葉が浮かび、ひどく気分が悪くなった。
師匠はつまらなそうな表情でその光景を眺めている。
ふと、子供の頃に体験した不思議な出来事を思い出した。

「お葬式にいくのよ」と、母親に連れられて人が沢山いる場所に行った記憶。
随分早く着いたようで、砂利が敷き詰められた敷地の中で、始めて見るようなおじさんやおばさんたちと挨拶を交わす母親について回っていたが、それもだんだん退屈になり、「おしっこ」と言ってその場を抜け出した。
一人で歩いていると、立ち並ぶ大きな花の陰に手招きしている女の子がいる。
遊ぼうよ。と言うのである。
そして二人してあちこちを探検して回った。
大人の気づかない楽しい場所を探して。

やがて母親に見つかり、「お焼香あげるのよ」と連れ戻される。
あの子はどこに行っただろうと振り返るけれど、姿は見えなかった。
木屑みたいなものをチロチロ燃える灰の中に落として顔を上げると、匂いの強い花に囲まれた写真立ての中に、さっきまで遊んでいた女の子がいる。
死ぬということがよくわからなかったころ。
それでも、よくわからないままに、なぜか少し悲しかった。

そんな思い出に浸っていると、斎場がざわめき始める。
告別式が終わったようだ。まだ1時間も経っていない。昔は坊さんのお経が延々と続いて、やたらと長かった印象ばかりあるが。これも時代性なのか。
俺と師匠が見ている前で、出棺のための霊柩車が回されてくる。
いつ見ても冗談としか思えないフォルムだ。
やがて見送りの多くの人々の前で白木の棺桶が車に積み込まれる。
その中でハンカチで涙を拭くおばさんが目に入ったが、横顔をじっと見ていると演技だとわかる。溜息が出そうになったが、その時、ハンカチを持ったその手にうっすらと輪郭のまとまらない影が掻き付いているように見えた。
よく見ると、喪服姿の人々の手にあたりに多くの影がまとわりついている。

吐き気がして、口を押さえる。
影はのろのろと動きながら、手の中でも指、それも親指をさわったり握りこんだり、つまんだりしている。
されている人は気づかない。
これから発車しようする霊柩車を思い思いの悲しみ方で見守っているだけだ。
師匠の顔を見ると、「くだらない」と一言いって肩を竦めた。
霊柩車を見たら、親指を隠せ。
そんな迷信が確かにある。俺も小さい頃、いつの間にかすり込まれていた。
迷信だとばかり思っていた。
目の前の光景に、棒立ちの足が震える。
師匠が俺を見て「迷信だろうが、なんだろうが」と言った。

「日本人のコモンセンスになってしまったものは、死者にとってもそうなのさ」
辛うじて人の形を模している影たちが、昼ひなかの道路に蠢いている。
そして居並ぶ人々の親指を、ひたすらいじっている。まるでどうしていいか分からない様子で。
なんだかとても悲しくなった。
「小山田与清っていう江戸時代の随筆家が『松屋筆記』の中でこんなことを言っている。親指の爪間から魂魄が出入りするために畏怖の時には握り隠すってね。昔からある迷信なのに、なぜ隠すのかって部分が忘れ去られてしまっている。教えてやれば、きっと喜ぶよ」
喜んで、親指の爪の間から入りこもうとするよ。
気持ち悪い。
蠢く影。甲高いクラクションの音。白々しい涙。黒と白の幕。
耐え難い吐き気と、俺は戦い続けた。

跳ぶ

俺は子供のころからわりと霊感が強い方で、いろいろと変な物を見ることが多かった。
大学に入り、俺以上に霊感の強い人に出会って、あれこれくっついて回っているうちに、以前にも増して不思議な体験をするようになった。

霊感というものは、より強いそれに近づくことで共振現象を起こすのだろうか。
いつか俺が師匠と呼ぶその人が、自分の頭に人差し指をあて、「道が出来るんだよ」と言ったことを思い出す。

大学2回生の夏。
そのころ俺は師匠に紹介されて、ある病院で事務のバイトをしていた。
そこで、人の死を見取った看護師が、死者の一部を体に残したままで歩いているのを何度も見た。霊安室の前を通ったとき、この世のものではない声に呼び止められたりもした。
その話を俺から聞いた師匠は、満足げに「それは大変だなぁ」と言い、しばらくなにか考えごとをするように俯いていたかと思うと、「ゲームをしないか」と顔を上げた。
よからぬことを考えているのは明白だったが、承知した。どんなことを考えているのか知らないが、絶対にろくな目にあわないことはわかっている。
けれどそのころ、そんなことが俺のすべてだった。

深夜。
土曜日にも関わらず俺は師匠とともに大学構内に入り込んでいた。
平日にすらめったに足を踏み入れない不真面目な学生だった俺は、黒々とそびえる夜の校舎の中を縫うように歩いてるということに、変な高揚を覚えていた。

別に夜中でも構内は立ち入り禁止ではないし、校舎によっては研究室らしき一室の窓にまだ明かりが点っているところもある。けれどこんなところで人とすれ違ったら、気まずいだろう。そう思い、声も立てずに足音も忍ばせて進む。
やがて師匠は一つの建物の下で足を止めた。
なじみのない他学部のブロックであり、一体なんの校舎なのかわからなかったが、師匠は勝手を知った様子で建物の裏に回った。一層の暗がりの中でゴソゴソとなにかをしていたかと思うと、カラカラという乾いた音とともに一つの窓が開いた。
師匠はまるでコントのスパイのようにわざとらしく、来いという合図をする。
なんだか可笑しかった。
うちの学部棟にもこんな抜け道がある。代々の先輩から受け継ぐ、夜専用の進入路。
どこも同じだなあ、と思いながら師匠に続いて窓から体を滑り込ませる。
何も言ってないのに「シー」と囁くと、師匠は暗闇の中を手探りで進んだ。
廊下もなにもすべて真っ暗で、遠くに見える非常口の緑色がやけに心細い気持ちにさせる。
階段を何度か上り、小さなドアの前に立った。
開けると、一瞬夜風が顔を吹き抜けた。

屋上に出た。
いちめんの星空だった。
二人の他は、だれもいない。ただ風だけが吹いていた。
「こういうのって、学生ってカンジがしませんか」
そんな俺の言葉にピンとこない様子で、師匠は空返事をしながら屋上のフェンスから下を覗き込む。
俺は妙にはしゃいで、そこらを走り回った。
これであと何人かいて、バスケットボールでもあれば完璧だなぁと思った。
「ちょっとそこでジャンプしてみ」
いつのまにか壁際にもたれかかるように座り込んでいた師匠がそう言った。

言われたとおり、垂直跳びの要領でジャンプする。
ゲームとやらがはじまったらしい。
俺は変なテンションで、続けざまに飛び跳ねる。
おいおい、もういい。もういい。
苦笑した師匠に一度止められ、次に「今度は目をつぶって跳んでみ」と指示を受けた。
目をつぶる。跳ぶ。
着地の瞬間にバランスを崩しそうになり、そのまましゃがみこむ。
「そうそう、そんな風に地面につく瞬間に体を縮めて、出来るだけ滞空時間を長くしてみて」
何度もそのやり方で跳ばされた。
その次の指示には驚いた。
校舎の縁に立てというのである。
落下防止のフェンスのない部分があり、その前に立たされた。もちろん下は奈落の底だ。

「じゃあ、目をつぶったままそこで跳んで」

縁に立つと、垂直跳びでも怖い。少しバランスを崩せば落ちかねない。
そんな俺の躊躇いを見透かしたように、「後ろに跳んでいいから」と師匠が声を掛けた。
それなら、まあ出来ないこともない。
夜に切り取られたような校舎の縁の前に立ち、目をつぶる。つぶった瞬間に膝がぐらりとした。数十センチ先に、断崖がある。考えないようにしても、想像してしまう。それでも、まだこの不思議なゲームを楽しむ余裕があった。
反動をつけ、掛け声をあげて後方に跳ぶ。着地し、そのまま転びそうになる。
「もう一度」という声に、従う。

5回も繰り返すと慣れてきた。よほどの突風でも吹かない限り、落下することはないし、今日の風は吹いても微風だ。
そう思っていると、師匠が「次は難しいぞ」と言った。
その場で、目をつぶったまま体を回転させ方角をわからなくしろ、と言うのである。
殺す気か。
俺がそう突っ込む前に、「跳ぶ前に声をかけるから」と言ってきた。
「それに縁に立って回るのが怖かったら、しゃがんだまま回ってもいい」
ドキドキしてきた。
いったいなにをさせる気なんだ。
それでも言うとおりにした。まだブレーキを踏むには早い。そんな気がする。
縁の前にしゃがみ込み、目をつぶったまその場でぐるぐると回る。
怖いので、両手を地面に触れるようにしながら。
十何回転かすると、すっかり方角がわからなくなった。いったい断崖がどの方向にあるのか。
そう考えたとき、締め付けられるように心細くなった。座ったままだというのに足元が今にも崩れ去りそうな頼りなさ。
目を開けたい。
その衝動と戦った。
やがて打ち勝ち、恐々ながら立ち上がる。
いつの間にか風が止んでいる。昼間ならば目を閉じていても感じる太陽も今ここにはない。
本当に方向がわからない。
方向はわからないけれど数歩先には確かに、人の命をあの世まで引っ張り込む断崖がある。
立っているだけで、どうしようもない恐怖心が襲ってきた。
座ろうか。
その誘惑に負けそうになったとき、師匠の声がした。

「ようし、こっちだ。跳べ」
確かにその声は正面から聞こえた。ほぼ真正面。
その瞬間に、右も左もない暗闇の世界で自分のいる座標が決定されたような、一種のカタルシスがあった。
震えていた膝が伸びる。これならいける。
目を閉じたまま体を沈ませ、前方に跳ぶための力を溜め込む。
その時、頭の中にイメージが浮かんだ。
闇に切り取られた断崖の向こう。
師匠が虚空にふわふわと浮かんで嗤っている。
バカか。
その悪夢のようなイメージを頭から振り払おうとする。
正面だ。真正面に跳べば、なんてことない。
自己暗示をかけながら、俺は歯を食い縛って暗闇の中に跳躍した。
白い線で、脳裏に絵を描く。
俺は師匠のいる方向に数十センチ跳び、やがて屋上のコンクリートに足から落ちていく。
その白い線で出来た地面にイメージの俺が着地したとき、本物の足にはまだ着地の衝撃はなかった。
一瞬。
白い線でできた世界は消え去り、巨大な穴のような断崖が足元にぽっかりと口を開けた。
恐慌が全身に広がる前に、下半身へ衝撃がきた。
着地。
膝をつき、両手をつく。

目を開けると、師匠が哲学者のような表情で腕を組んでいる。
「いま、落ちるのが遅く感じなかったか」
俺は脳の中を覗かれたような気持ち悪さに襲われながら、それでも頷く。

「死ぬ直前に過去が走馬灯のように蘇るって聞いたことがあるだろう。時間の流れなんて、頭蓋骨という密室に閉じ込められた脳味噌にとっては相対的なものでしかない。極限のコンセントレーションの元では、時間は緩やかに流れる。これは、プロスポーツの世界を例にあげるまでもなく理解できるだろう」

言わんとしていることはわかる。
恐怖心もまた、コンセントレーションの要因なのだろう。
「このゲームの面白いところは、着地するタイミングが本来のそれよりズレた瞬間に、屋上からの転落という事態を想起させることにある。そしてわずかに遅れて、イメージではなく本当の自分自身が着地する。不可避の死からの生還。このコンマ何秒の世界に生と死と再生が詰まっている」
淡々と語るその顔に、喜びと翳りのようなものが混在しているように見えた。
「じゃあもう一度」
言われるがままに、再び目をつぶる。しゃがんでくるくると回る。立ち上がる。
「こっちだよ」
右前のあたりから声が聞こえた。そちらへ向かって跳ぶ。
地面がない。
死ぬ。
そう思った瞬間に着地する。
なぜか泣きそうになった。こんなゲームを面白いと感じる自分自身が怖くなる。
風は凪いだままだった。

「もう一度」

だれもいない深夜の校舎の屋上で二人、生と死とそして再生を繰り返している。
気がつくと仰向けにひっくり返って、満天の星空を見上げながら涙を流していた。
デネブ
ヴェガ
アルタイル
夏の大三角形がいびつに、ぼやけて見えた。
師匠の顔がそれにかぶさり、「次が最後だ」と言った。
俺はのろのろと起き上がり、屋上の縁に立つ。しゃがまなくても回れた。
再び、世界は暗闇に閉ざされ、自分の位置がつかめなくなる。
そして闇を切り裂く一筋の光のような、その声を待つ。
……
声はない。
静かだ。
いつまで待っても声はなかった。
賭けろというのだろうか。
たったひとつしかない自分の命を。
二分の一に。
想像する。ここまま跳べば、相対的な着地時間はいままでよりはるかに長くなるだろう。
それは、自由落下運動の方程式から導き出される地上までの時間と、きっと等しいはずだ。
いや、ひょっとするともっともっと長く、このささやかな人生を振り返れるくらいに長い落下になるのかも知れない。
師匠は、もし今俺が断崖に正対して立っていたら止めてくれるだろうか。
答えがないのが、このまま跳べば大丈夫だという答えそのものなのだろうか。
薄目を開けたくなる衝動に襲われる。

だがそれをすれば、あの生と死と再生の快感は消え去るだろう。その刹那の時間は抗いがたい蠱惑的な魅力を秘めている。
跳ぶか、跳ばざるか。
沈黙する宇宙で、孤独だった。
やがて時間が過ぎ、俺はゆっくりと目を開けた。
その前に広がっていた景色は、いまだに俺の脳裏に焼きついて離れないでいる。

結局、どんなに霊感が上がって別の世界を覗き見ることが出来ても、俺の辿り着ける場所は限られている。その先には底知れない断崖があり、その向こうに広がる世界にいる人にはけっして近づけない。それを知った。
その日、立ち尽くす俺に「帰ろう」と言った師匠は、優しく、冷たく、そしてどこか悲しげな目をしていた。

雨上がり

昨日から降っていた雨が朝がたに止み、道沿いにはキラキラと輝く水溜りがいくつもできていた。

大学2回生の春。
梅雨にはまだ少し早い。
大気の層を透過して、やわらかく降り注ぐ光。
軽い足どりで歩道を行く。
陽だまりの中にたたずむようにバス停があり、ふっと息を吐いて木目も鮮やかなベンチに腰を掛ける。
端の方にすでに一人座っている人がいた。
一瞬、知っている人のような気がして驚いたが、すぐに別人だとわかり深く座りなおす。
髪型も全然違う。
それにあの人がここにいるはずはないのだから。

バスを待つ間、あの人に初めて会ったのは今ごろの季節だっただろうかと、ふと思う。
いや、確かもう梅雨が始まっていたころだった。

1年たらず、前。
彼女は別の世界へ通じるドアを開けてくれた人の一人だった。
そのドアを通して、普通の世界に生きている人間が何年掛かったって体験できないようなものを見たり、味わったりしてきた。
もちろんドアなんて、ただの暗喩だ。
けれどそれが、そこにあるもののよう感じていたのも事実だった。

そのドアのひとつが、閉じた。
もう開くことはないだろう。
春が来たころ、ひっそりと仕舞い込まれる冬色の物のように、彼女は去っていった。
そのことを思うとひどく感傷的になる自分がいる。
結局、気持ちを伝えることはできなかった。
それが、心の深い場所に澱のように溜まり、そして渦巻いている。

目の前でカラスが一羽、鳴いて飛び立った。
だれも通る者もいない春のバス停で、まどろむようにそんなことを考えている。
「夢を見るということは、   に似ているわ」
空から、ピアノの音色が聞こえた。
そんな気がした。
ベンチの端に座っている女性が、前を向いたままもう一度言った。
「夢を見るということは、   にも似ている」

春のやわらかな地面から氷が沸いてくるような感覚があった。
それがミシミシと心臓を締めつけはじめる。
急に錆付いたように動かなくなった首をそれでもわずかに巡らせて、横を見る。
顔を覆うかのような長い黒髪の女性。
空色のワンピースからすらりと伸びた足が、かなりの長身を思わせる。
もう一度言った。
「夢を見るということは、    」
また、一部分が聞こえない。
いや、聞こえているのに、頭の中で認識されないような、不思議な感覚。
彼女は目を閉じている。
「あなたは誰ですか」
わかっていた。
大脳のなかの、古い動物的な部分が反応している。
彼女が誰なのか知っている、と。
「あの子が持っているものが欲しかった。手に入れても手に入れても、蜃気楼のように消えた。これも、あの子と、同じ長さにしたつもりだったのだけれど」
彼女は左手で髪に触れた。
細く、しなやかな指だった。

「たったひとつしかないものを、永遠に手に入れるには、方法はたったひとつしかない。いちどは、それに届いたと思ったのに」
この雨上がりの清浄な空気に、あまりに似つかわしい涼やかな声だった。
「あの手ざわりが、まぼろしだったなんて」
すっと手を下ろした。
目を閉じたまま前を向いている。
その横顔から目を逸らせない。
わかりはじめた。
同じ長さ。だったのだろう。彼女にとって。
あの日、あの人は自分の「半身」を失った。
その謎が今解けた。
「目が・・・・・・」
見えないんですね。
そう言おうとして、言葉が宙に消えた。
喋っているのに、頭の中で認識されないような、感覚。
肯定するように白い手がベンチの上に寝かせている杖を引き寄せる。
「あの子のたったひとつしかないものは手に入らなかったけれど、かわりにすばらしい世界をもらったわ」
音楽のように言葉が耳をくすぐる。
まるで麻薬だ。その声をもっと聞きたい。
壊れやすい宝石のように、会話は続く。
「夜がその入り口になり、わたしは恋を知った少女のように新しい世界を俟っている。眠りが卵になり、わたしはそれを抱いてあたためる。そして夢を見るということは    」
言葉が消える。けれどわかる。
彼女は、あの人の悪夢を手に入れたのだ。

悪夢を食べるという悪魔が呼ぶ悪夢。
あの人を苦しめてきた悪夢。
あの強い人が、どんなことがあっても、もう二度と、ただの一度でも見たくないと言った、その悪夢を。
彼女はなにかを呟いている。
聞こえているのに聞こえない。
まるで現実感がない。
太股を抓ろうとして、躊躇する。
彼女が、それを待っているような気がして。

あの人の「半身」は彼女によって消滅させられた。
彼女は、それをあの人だと思っていたのだ。
あの人が「少し若くみえる私」と表現していたのを思い出す。
つまり、あの人にしか見えず、触れず、知覚できなかった「半身」は、いつか喫茶店の誰もいない椅子に座っていたその「半身」は、髪が長かったころのあの人の姿をしていたのだろう。
目が見えず、手が触れられない場所にいた彼女は、人知の及ばない何らかの方法でその「半身」を見、そして捕らえた。
あの人を手に入れたつもりで。
そして「半身」と「悪夢」は消えた。

あの人は、あの人を長年苦しめ惑わせたふたつのものから同時に解き放たれた。
そして去っていった。
「ラ・マンチャの男はあいかわらずかしら」
美しい旋律のような声が踊る。
すぐにその言葉の意味を理解する。
ナイトだと言いたいのだろう。
あの人を守った人物のことを。
「あいかわらず、法螺を吹いています」
少し上擦ってしまったその言葉に、彼女は満足したようにかすかに頷く。
今にして考えることであるが、彼女が彼のことをラ・マンチャの男に例えた裏には、あの人の、ドルシネア姫でありながらまたアルドンサでもあるという2面性を暗に物語っている。
このことは、のちに彼の秘密に近づいたときその真の意味を知ることになるのだが、それはまた別の話だ。
沈黙があった。
少し前に飛び立ったカラスの気持ちがわかる。
いまこのバス停の周囲には、二人のほか、動くものの影ひとつない。
ただやわらかな大気に包まれているだけだ。

彼女のいる方向を「空間が歪んでいる」と以前あの人が語ったことを思い出す。
目を閉じたままでいると、まるで眠っているように穏やかな横顔だった。
彼女は少なくとも高校時代には盲目ではなかったはずだ。
いったいなぜ視力を失うに至ったか、想像することも躊躇われる。
もし視力を失っていなければ、そして奇跡のような取り違えが起こらなければ、とてもあの人や彼が敵う相手ではなかった。
推測などではなく、わかるのである。
格などという言葉は使いたくない。使いたくはないけれど、つまりそういうことなのだった。

排ガスの匂いをまといながらバスがやって来た。
その瞬間に、このバス停を覆っていた不思議な膜のような空気が霧消したような錯覚があった。
解放されたのだろう。
少し離れてバスは止まり、ドアが開いた。
自分が乗るつもりだったバスだろうか。
なぜか思い出せない。
どこに行こうとしていたのか。
しかしこれに乗らなくてはならない。そんな気がした。
ベンチから立ち上がり、笑いそうな膝を奮い立たせて歩く。
「これを」
彼女がそう言ってすっきりと伸びた首元から、ペンダントのようなものを取り出した。
タリスマンだ。
あの人が以前、五色地図のタリスマンと呼んだ物。
「どこかに捨てて。もうわたしにはいらないものだから」
彼女がはじめてこちらを向いた。
足をとめ、正面からその顔を見る。
「さあ」と言って手を伸ばし、目を閉じたまま微笑を浮かべるその顔を生涯忘れることはないだろう。
こんなに綺麗な人を、見たことがない。
このあとの人生の中で、どんなに美しい人を見たとしてもあれほどの深い感動を受けることはないと思う。
吸血鬼と謗られたことなど、まるでとるに足りない。
そんな言葉では彼女の側面を語ることさえできない。
そう思った。

「さあ」
もう一度彼女は笑うように言う。
震える手で、受け取った。
ジャラリと鎖が鳴る。
かすかに錆の匂いがした。
不思議な模様が円形のプレートの一面に描かれている。
けれど、それだけだ。
「この世にあってはならない形をしている」と称された物とはとても思えない。
平面に描かれたどんな地図も、必ず4色以内で塗り分けられるという。
試すまでもなくわかる。
きっとこれも4色ですんなりと塗り分けられるのだろう。
少なくとも、彼女の手を離れた今は。

遠慮がちにクラクションが鳴らされる。
昇降口にそっと足を掛ける。
2度と会うことはないだろう彼女に背を向けて。
乾いた空気の音とともに扉が閉まる。
別の世界へ通じるドアが、またひとつ閉じたのだった。
やがて間の抜けたテープの音が次の目的地を告げる。
動き出したバスに揺られ、衝動的に振り返った。
彼女が、まるで最初からいなかったかのように消えてしまっている気がして。
けれど揺れる視界の中で、一枚の絵のように切り取られた窓の中で、遠ざかりつつある雨上がりのバス停に彼女はいる。
そしてベンチから立ち上がり、白い杖をついて、ゆっくりと、ゆっくりと歩き出そうとしている。
その細く長い足が、戸惑うような頼りない足取りで水溜りを跳ね、それが淡く銀色に輝いて見えた。
彼女を見た最後だった。

ともだち

大学2回の冬。
昼下がりに自転車をこいで幼稚園の前を通りがかった時、見覚えのある後ろ姿が目に入った。

白のペンキで塗られた背の低い壁のそばに立って、向こう側をじっと見ている。
住んでいるアパートの近くだったので、まさかとは思ったが、やはり俺のオカルト道の師匠だった。
子どもたちが園庭で遊んでいる様子を一心に見つめている20代半ばの男の姿を、いったいどう表現すればいいのか。
こちらに気づいてないようなので、曲がり角のあたりで自転車を止めたまま様子を伺っていると、やがて先生に見つかったようで「違うんです」と聞こえもしない距離で言い訳をしながらこっちに逃げてきた。
目があった瞬間、実に見事なバツの悪い顔をして「違うんだ」と言い、そしてもう一度「違うんだ」と言いながら曲がり角の塀の向こうに身を隠した。俺もつられてそちらに引っ込む。
「あの子を見てただけなんだ」
遠くの園庭を指差しているが、ここからではうまく見えない。
「あの青いタイヤの所で地面に絵を描いてる女の子」
首を伸ばしても、角度的に木やら壁やらが邪魔でさっぱりわからない。
なにより、なにも違わない。

「いつから見てたんですか」
との問いに「ん、1ヶ月くらい前から」とあっさり答え、ますます俺の腰を引かせてくれた。
「そんなにかわいいんですか」
言葉を選んで聞いたつもりだったが、「かわいいかと問われればイエスだが、《そんなに》って頭につけられるとすごく引っ掛かる」と、不快そうな顔をする。

「1ヶ月前、最初に足を止めたのはあの子じゃなく、あの子のそばにいた奇妙な物体のためだよ」
物体という表現が、なんだか気持ち悪い。
「それは見るからにこの世のものではないんだけど、あの子はそれを認識していながら怯えている様子はなかった。他の子や先生には見えてすらいないようだった」
その子は、いつもひとりで遊んでいたという。
砂場あそびの仲間に誘われることもなく、かといって他の園児からからかわれることもなく、ただひたすらひとりで絵を描いている。
親が迎えに来る時刻になるまで、ずっとそうしているのだという。
「他の子が帰っても、なかなかあの子の親は来ないんだ。日が暮れそうになってからようやく若い母親がやって来るんだけど、なんていうかまともな親じゃないね。あの子の顔を見ないし、手の引き方なんて地面に生えた雑草を引っこ抜くみたいな感じ。虐待?まあ、服から見えてる部分には痕がないけど、どうだろうね」

気分の悪くなる話だ。
だが、この異常なオカルト好きがこんなに執着するからには只事ではないのだろう。
「イマジナリーコンパニオンって、知ってるかい」
聞いたことは、あった。
「まあ、簡単にいうと幼児期の特徴的な幻覚だね。頭の中で、想像上の友だちをつくりあげてしまう現象だ。ただ子どもには幻を幻と認識する力がなくて、普通の友だちに接するようにそれに接してしまい、周囲の大人を困惑させることがある。人間関係を構築するための、ある程度の社会性を身につけると自然に消えていくものだけどね」
それならば俺にも経験がある。
と言っても覚えているわけではないが、両親いわく「お前は仮面ライダーと喋ってた」のだそうだ。
まだしもかわいい方だ。
『ゆうちゃん』とかありそうな名前をつけて、誰もいないのに「ゆうちゃんもう帰るって」なんて言われた日には親は気味が悪いだろう。

もう一度身を乗り出して幼稚園の庭を覗いてみる。
帽子の色で、年齢をわけているようだ。
青いタイヤのあたりには、赤い帽子が見える。赤の帽子は年長組らしい。
目を凝らすと、おさげらしき髪型だけが確認できた。
師匠の言う、奇妙な物体は見えない。
しかしこの異常に霊感の強い男に見えるということは、ただの想像上のともだちではないということなのか。

「いや、霊魂なんかじゃないと思う。気味の悪い現われ方をしてるけど、あの子なりのイマジナリーコンパニオンなんだろう。僕にも見えてしまったのは、何故なのかよくわからない。ひょっとしたら彼女の感覚器がとらえているものを、混線したようにリアルタイムで僕のアンテナが拾ってしまっているのか……」
あの子は強烈な霊媒体質に育つかもね。
そう言って師匠は慈しむような目で幼稚園児を見つめるのだった。
攣りそうなくらい首を伸ばしても、その女の子の輪郭以外には何も周囲に見あたらない。
追いかけっこをしている一団がタイヤの前を駆け抜けて、その子の描いている絵のあたりを踏んづけていった。
ここからでは表情は分からないが、淡々と絵を直しているようだった。

「で、その空想のともだちってどんなのです? 今もあの子の近くにいるんですか」
師匠は、「う~ん」と唸ってから「なんといったらいいのか」と切り出した。
「2頭身くらいのバケモノだね。顔は大人の女。母親じゃない。実在の人物なのかもわからない。けどたぶんあの子になんらかの執着心を持っている。体は紙粘土みたいなのっぺりした灰色。小さな手足はあるけど、あんまり動きがない。ニコニコ笑ってる。あの子の絵の上でゆらゆら揺れている。今、僕らの方を見ている」
一瞬にして、鳥肌が立った。
誰かの視線をたしかに感じたからだ。
「普通、他の子どもが大勢いる場所ではイマジナリーコンパニオンは現れない。本人にとって孤独さを感じる場面で出現するケースが多い。だけどあの子の場合は、幼稚園という空間さえ極めて個人的なものになってしまっているらしい。今はあの物体に完全に捕らわれているように見える」
一度、迎えに来た母親の後をつけようとしたけど少し離れたところに高そうな車をとめてあって無理だった、と師匠は言った。
その時、白い壁の向こう側でエプロン姿の若い先生と、園長先生らしき年配の女性がこちらを指差して何事か話しているのが目に入った。
焦った俺はとりあえず自転車に飛び乗って逃げた。
あとから師匠が手を振りながら走ってついて来ているのに気づいていたが、無視した。

部屋の外にいても、テレビがついているのがわかる。
音なのかなんなのかよくわからないが、とにかくわかる。周囲の人に聞いても「あ、わかるわかる」と同意してくれるのでたぶん俺だけではないはずだ。
だからそのときも、ただわかったからわかったとしか言いようがないのだった。
幼稚園から逃げ出したその日の夜である。
そのころ完全に電気を消して寝るくせがついていたので、ふいに目を覚ましたときも暗闇の中だった。
自分の部屋の見慣れた天井が、うっすらと見える。ベッドの上、仰向けのまま半ば夢心地でぼーっとしていると、テレビがついているのに気がついたのである。
部屋の中のテレビではない。薄いドアを隔てた、向こうの台所でどうやらテレビがついているようだ。
そちらに目を向けるが、ドアについている小さな小窓の輪郭がかすかにわかる程度で、その小窓の向こうには光さえ見えない。
音でもない、光でもない。
けれどテレビがついているのがわかるのである。
もちろん台所にテレビなどない。

俺は半覚醒状態のまま、ただただ不思議な気持ちでベッドからのそりと起き上がり、ふらふらと手探りでドアに向かった。
電気をつけるという発想はなかった。つけたら眩しいだろうなと寝ぼけた頭で考えたのだと思う。
ゆっくりとドアのノブに手をかけ、向こう側へ押し開ける。
薄暗闇のなか、空中に女の顔が浮かんでいるのが見えた。
いや、顔だけではなかった。冗談のような小さな胴体と手足が粘土細工のようにくっついている。
それがふわふわと台所のある空間に漂っているのだった。

そのとき、怖いと思ったのかは覚えていない。ただ気がつくと俺は自分のベッドに戻っており、仰向けのいつもの姿勢で朝の目覚めを迎えたのだった。
夜の出来事を反芻して、鳥肌が立つような気持ち悪さに襲われ、”連れて来てしまった”んじゃないかと身震いした。
朝から師匠の部屋に転がり込んで、そのことを話すと「そんなはずない」と言って笑うのだ。
幽霊じゃないんだから。あの女の子の見ている幻を、その子がいない場所でどうして別の誰かが体験できるっていうんだ。夢でも見たんだろう。
師匠はそんな言葉を並べ立て、俺もだんだんとそんな気になりかけていた。
思いつきで、その女の顔が、ある芸能人に似ていたことを口にするまでは。

それを聞いたとたんに師匠の顔つきが変わり、その名前をもう一度俺に確認した。
どうやら師匠の見ていた顔と同じ印象を俺が持ったことに、納得がいかないらしい。
「そうか、わかった」
師匠はニヤリと笑うと、説明した。
あの幼稚園の女の子も、その芸能人の面影にわずかに似ているらしい。ということはつまり、自分自身のイマジナリーコンパニオンに似ているということだ。
女の子は想像上のともだちとして自己を投影した理想的大人を仕立て上げ、自分を愛さない母親の代わりにいつもそばにいてくれる存在としたのだ。
母親のようにはならない、という反発心から母親とは違う大人に成長した自分をイメージして。そして”ともだち”として相応しい等身にして……そんな仮説をスラスラと口にする師匠に、俺は言った。

「俺、その子の顔なんて見てないですよ。あんな距離じゃ、全然。目が悪いの知ってるでしょ」

俺が女の子の顔から、その芸能人を連想したということを言いたかったらしい師匠は沈黙した。
それからしばらくして、ゆっくりと顔を上げ、真剣な目をして言うのだ。
「あれが、イマジナリーコンパニオンなんかじゃなく、霊的なものだとするなら、おまえの部屋に出たってことがどういうことかわかってるのか」
その言葉を聞いた瞬間、悪寒が全身を駆け抜けた。
あからさまに怯え始めた俺を見て、師匠は膝を叩いて言う。
「よし、なんだかわかんないものはとりあえずブッ殺そう」
やたら頼もしい言葉に頷きそうになるが、穏便にお願いしますというジェスチャーで返す。
「冗談だ」
笑っているが、どこまで本当かわからない。
まあ放っとこう。どうせとり憑かれてるのは、あの子だ。なんならここに2、3日泊まってけばいい。たいていのヤツなら逃げてくよ。
そんなハッタリめいたことを言う。まるでこの安アパートが霊場のような言い草だ。
けれど少し、気が楽になった。

結局その2頭身の女のバケモノは、2度と俺の前に現れなかった。
師匠も、その正体を結論付ける前に警察を呼ばれてしまい、2度とその幼稚園には近づけなかったらしい。
警察は霊なんかよりずっと怖い、と後に彼は語っている。

大学3回生のころ、俺はダメ学生街道をひたすら突き進んでいた。
2回生からすでに大学の講義に出なくなりつつあったのだが、3年目に入り、まったく大学に足を踏み入れなくなった。

なにせその春、同じバイトをしていた角南さんという同級生にバイト先にて
「履修届けの締め切り昨日までだけど、出した?」
と恐る恐る聞かれて、その年の留年を早くも知ったというのだから、親不孝にも程があるというものだ。
では大学に行かずになにをしていたかというと、パチンコ、麻雀、競馬といったギャンブルに明け暮れては生活費に困窮し、食べるために平日休日問わずバイトをするという、情けない生活を送っていたのだった。
大学のサークルには顔を出していたが、一番仲の良かった先輩が卒業してしまい、自然に足が遠のいていった。
その先輩は大学院を卒業して、大学図書館の司書におさまっていた。
この人が俺に道を踏み外させた張本人と言っても過言ないのだが、まさかこんなにまともに就職してしまうとは思わなかった。
俺が大学に入ってからの2年間、あれだけ一緒に遊び回っていたのに、片方が学生でなくなってしまうと急に壁が出来たように感じられて、自然と距離を置くようになった。
職場の仲間や、ギャンブル仲間・バイト仲間という、それぞれの新しい世界を築いていく中で、オカルト好きという子供じみた共通項でかろうじてつながっているような関係だ。
思い返すとそのころの彼は、つきあっていた彼女も学部を卒業し県外に就職してしまっていたせいか、妙に寂しげに見えたものだった。

梅雨が明けたころだっただろうか。

以前よく顔を出していたネット上のオカルトフォーラムの仲間からオフ会のお誘いがあった。
ここも中心メンバーが二人抜けてからはまるで代替わりしたように新しい人ばかりになり少し居辛さを感じて、あまり関わらなくなっていた。
午後8時過ぎ。集合場所は市内のファミレスだったが、俺は妙に緊張して店内に入っていった。
「やぁ」
という声がした方に、昔からの顔なじみのみかっちさんという女性を見つけ、少しほっとする。
同じ顔ぶれで何度も重ねたオフ会のような気だるい雰囲気はなく、新しい人の多い、なんというかギラギラした空間があった。
オカルト系のオフ会なんだから、オカルトの話をしないといけない、という強迫観念めいた空気に、上滑りするようなトークが絡んで、俺には酷く疲れる場所になってしまっていた。
その会話の中で、一際目立っている女性がいた。

積極的に話に加わっているわけではなかったが、周囲の男性陣がやたらと話しかけている。
その原因は明らかで、彼女がゴシック風の黒い服を着こなした美少女と言っていい容姿をしていたからに他ならない。
俺にしても恋人がいなかった昔は、なにか起こらないかという、そういう下心を持ってオフ会に参加したこともある。
しかしいま、端から冷静にそういう光景を目にしていると、ひどく間が抜けて見える。

その少女はそういう手合いに慣れているのか、淡々とあしらっていた。
しかし、かくいう俺もその容姿に別の意味で気が惹かれるものがあった。
どうも見覚えがある気がするのである。
すでに飲みほしたコーラのコップを無意識に口に運びながらチラチラと少女の方を見ていたのだが、一瞬視線が合ってしまい、すぐに逸らしはしたものの気まずさに「トイレ、トイレ」と我ながら情けない独り言をいいながら席を立った。

とりあえず男子トイレで用をたして出てくると、驚いたことにさっきの少女が正面で待っていた。
「ちょっといい?」
という言葉に戸惑いながらも「え?なにが」と返したが、その聞き覚えのある声にようやく記憶が呼び覚まされた。
「音響とかいったっけ」

2年くらい前に、若い子ばかりが集まったオカルトフォーラムのオフ会で俺に「黒い手」という恐ろしいものを押し付けてきた少女だ。
「今のハンドルはキョーコ」
人差し指を空中で躍らせながらそう言う。
響子。
確かにスレッドに参加していたと思しき連中から、さっきそう呼ばれていた気がする。しかし俺にとってその響きは、なんだか不吉な予感のする音だった。
「てことは本名が音ナントカ響子なわけか。音田とか音無とか」
余計な詮索だったらしい。不機嫌そうな眉の形に、俺は思わず口を閉ざした。
「ちょっと困ったことがあって……助けて欲しいんだけど」
「は?俺が?」
音響(たとえ頭の中でもキョーコという単語を出したくない気分だった)は、オフ会の集団のいる席の方へ顔を向けながらバカにしたような口調で言った。
「あんな連中、てんでレベルが低くて」
それはまあ、そうだろうけれど。
同意しつつも、ではなぜ俺に?という疑問がわいた。
すると彼女は「黒い手はホンモノだった」と言った。
そして
「アレから逃げ切ったらしいと聞いて、ずっと気になっていた」
と言うのだ。

俺は思わず「いやあれは俺の師匠に助けてもらっただけ」とバラしそうになったが、恥ずべきことに実際に口に出したのは「まあ、あれくらい」という言葉だった。
その虚勢は、彼女がやはりかわらしい容姿をしていたことに起因していることは間違いが無いところだ。
「出て話さない?」
と言うので、頷く。
さっきから、オフ会の連中の視線を肌にザラザラ感じ始めていたのだ。トイレ前で話し込んでいるツーショットをこれ以上さらしておく気にはなれない。

男どもの敵意に満ちた視線をかい潜って、レジで清算をする。
音響をちらりと見ると、俺に払わせる気満々のようだったが、無視して自分の分だけ払った。
みかっちさんの意味のわからないサムアップに見送られて店を出ると、いきなり行き先に困った。
近くに公園があるが、なんだかいやらしい感じだ。
「居酒屋とかでもいいか」
と聞くと、音響は首をヨコに振り
「未成年」
と言った。
18、19は成人擬制だと無責任なことを俺が口にすると、驚いたことに彼女は自分を指差して
「16」
と言うのである。
俺は思わず逆算する。
「あの時は中3、今は高2」と先回りして答えてくれた。
黒い手は学校の先輩にもらったと言ってなかったっけ、と思うやいなや、また先回りされた。
「中高一貫」
ずいぶんカンのいいやつだと思いながら、近くのコーヒーショップに入った。

俺はオレンジジュースを、音響はパインジュースを注文して横並びの席に着くと、ひと時のあいだ沈黙が降りてガラス越しに見える夜の街に暫し目を向けていた。
やがて紙が裁たれるようなかすかな音が聞こえた気がして、店内に視線を移す。
すると音響が前を向いたまま手元の紙で出来たコースターをまるで無意識のように裂いている。
俺の不可解な視線に気がついてか、彼女は手を止めて切れ端のひとつを指で弾いて見せる。

「学校の近くの山に、鋏様ってカミサマがいてね。藪の中に隠れてて、知ってなきゃ絶対見つかんないようなトコなんだけど。見た目は普通の古いお地蔵様で、同じようなのが3つ横に並んでる。でもその中のひとつが鋏様。どれが鋏様かは夜に1人で行かないとわからない」

スラスラと喋っているようで、その声には緊張感が潜んでいる。
俺は少し彼女を止めて、「なに? それは学校で流行ってる何かなの」と問うと、「そう」という答えが返ってきた。

「その鋏様に、自分が普段使ってるハサミを供えて、名前を3回唱える。すると近いうちにその名前を唱えられたコが髪を切ることになる」

おまじないの類か。
女子高生らしいといえば女子高生らしい。
「その髪を切るってのは、やっぱり失恋の暗喩?」
「そう。ようするに自分の好きな男子にモーションかけてる女を振られるように仕向ける呪い。すでに出来上がってるカップルにも効く」
そう言いながら自分の前髪を人差し指と中指で挟む真似をする。
陰湿だ。
思ったままを口にすると、黒魔術サークルのオフ会に来てる男には言われたくないと冷静に逆襲された。

「で、その鋏様のせいでなにか困ったことが起こったわけだ?」
音響はパインジュースにようやく口をつけ、少し考え込むそぶりを見せた。
その横顔には、年齢相応の戸惑いと冷たく大人びた表情が入り混じっている。
「うちのクラスで何人かそんなコトをしてるって話を聞いて、試してみた」
「自分のハサミで?」
「赤いやつ。小学校から使ってる。夜中にひとりで山にあがって、草を掻き分けてるとお地蔵さんの頭が見えて、それから目をつぶって鋏様を探した」
「目を閉じないと見つからない?」
「開けてると、わからない。全部同じに見える」
「真ん中とか、右端とか、先におまじないしてる子に聞けないのか」
「聞けない」
「秘密を教えたら呪いが効かなくなるとか?」
「そう」
「目を閉じてどうやって探す?」
「手探りで、触る」
「触って分かるもんなの?」
「髪の毛が生えてる」

音響がその言葉を発した途端、再び紙の繊維が裁断される音が俺の耳に届いた。
ぞくりとして身を起こす。
いつのまにか黒い長袖の裾から細い指が伸びて、俺のコースターを静かに引き裂いている。
いつ、グラスを持ち上げられたのかも分からなかった。
恐る恐る、「今、自分がしてることがわかってる?」と聞くと、「わかってる」と少し苛立ったような声が返ってきた。
俺はあえてそれ以上追及せず、代わりに「髪の毛って、苔かなにか?」と問いかけた。
音響はそれには答えず、「シッ。ちょっと待って」と動きを止める。
溜息をついてオレンジジュースに手を伸ばしかけた時、なにか嫌な感じのする空気の塊が背中のすぐ後ろを通り過ぎたような気がした。未分化の、まだ気配にもなっていないような濃密な空気が。
周囲には、明るい店内で夜更かしをしている若者たちの声が何ごともなく飛び交っている。
その只中で身を固まらせている俺は、同じように表情を強張らせている隣の少女に、言葉にし難い仲間意識のようなものを感じていた。
嫌な感じが去ったあと、やがて深く息を吐き彼女は「とにかく」と言った。
「私は赤いハサミを鋏様に供えて、名前を3べん唱えた」
目を伏せたまま、長い睫がかすかに震えている。
「誰の」
聞き様によっては下世話な問いだったかも知れないが、他意は無く反射的にそう聞いたのだった。
「私の」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性的な部分が首をかしげーー
首をかしげたまま、目に見えない別の世界に通じているドアがわずかに開くような、どこか懐かしい感覚に襲われた気がした。

「なぜ」
「だって、何が起こるのか、知りたかったから」
ああ。
彼女もまた、暗い淵に立っている。
そう思った。

「で、何が起こった」
俺の言葉に、消え入りそうな声が帰ってきた。
ハサミの音が聞こえる……

「ちょっと待った。ハサミってのは、失恋で髪を切る羽目になるっていう比喩じゃないのか」
「わからない」
彼女は頭を振った。
「だって、いま好きな男なんていないし。失恋しようがないじゃない」
その言葉が真実なのか判断がつかなかったが、俺は続けて問いかけた。
「そのクラスの仲間に名前を唱えられた女の中で、実際に髪を切った、もしくは《切られた》やつはいるか」
「知らない。ホントに振られたコがいるって話は聞いたけど、髪の毛切ったかどうかまでは分からない」
「その、鋏様の所に置いてきたハサミはどうした」
「……ほんとは見にいっちゃいけないってことになってるんだけど、おとといもう一度行ってみたら……」
無くなってた。
音響は抑揚の薄い声を顰めると、「どうしたらいいと思う?」と続け、顔を上げた。
「その前にもう少し教えて欲しい。ハサミは一個も無かった? 自分のじゃないやつも?」
頷くのを見て、腑に落ちない気持ちになる。
「おまじないの儀式としては、ハサミは供えっぱなしで取りに戻っちゃいけないってことじゃないのか?だったら、どうして前の人が置いたはずのハサミが無いんだ」
願いが叶ったら取りに戻るという話になっているのかと聞いても、違うという。
誰かが地蔵の手入れをしてるような様子はあったか、と聞いたが、完全に打ち捨てられているような場所で、雑草はボウボウ、花の一つも飾られていない、人から忘れ去られているような状態だというのだ。

何かおかしい。
なにより、今さっき感じた嫌な空気の流れが、事態の不可解さを強めている。

「なあ、その鋏様っていうおまじまいは、昔からあるのかな。先輩から語り継がれた噂とか」
「わからない。たぶんそうじゃないかな」
「だったら、噂が伝わる途中でその内容がズレて来てるってことはありうるね。元は少し違うおまじないだったのかも知れない。例えば」
言うまいか迷って、やっぱり言った。
「ハサミを供えて、死んで欲しい子の名前を3回唱えれば……」
ガタンと丸い椅子が鳴り、頬に熱い感触が走った。
「あ」
と言って、音響は立ったまま自分の右手を見つめる。
平手だった。
「ごめんなさい」
そう言ってうつむく姿を見てしまうと、頬の痛みなどもはやどうでもよく、怯えている少女をわざわざ怖がらせるようなことを言った自分の大人気なさに腹立ちを覚えるのだった。

「わかった。なんとかする」
安請け合いとは思わなかった。司書をしているオカルト好きの先輩に泣きつく前に、自分の力でなんとかできるんじゃないかという算段がすでに頭の中に出来上がりつつあったのだ。
「とりあえず、その鋏様の場所を教えてくれ」
頷くと、音響はバッグから可愛らしいデザインのノートを取り出して、地図を描き始めた。
案内する気はないようだった。得体の知れないものに怯えている今は、それも仕方がないのかも知れない。

山への上り口までは簡単だが、地蔵のある場所までが分かりにくいはずだった。
ところが、途中の目立つ木のいくつかに印がしてあるのだという。
誰がつけたのかは分からないそうだが、過去から現在において秘密を共有している女子生徒たちのいずれかなのだろう。
「でもあんまり期待すんなよ」
音響は神妙に頷いた。
「でもどうして俺なんだ」
「さっき言った」
「2年も前のことを今更思い出したのか」
「……」
彼女はペンを止め、それを指の上でくるくると器用に回す。
「あのくだらないサークルにひとり、ホンモノがいるって聞いてた。倉野木っていうのが、あなたじゃないの」
俺は思わず肩を揺すって笑った。
人違いだ、と言うと不審げに首をかしげていたが、まあいいわとペンを握りなおした。
地図が出来上がると彼女はノートのページを破り取り、俺に差し出した。右上に、小さく携帯電話の番号が書かれている。
「助けてくれたら、メチャ可愛い友だちを紹介してあげる」
生意気なことを言うので、「お前でも十分カワイイぞ」とうそぶいて反応を見たが、憎らしいことに平然としている。
「じゃあ」と言って席を立つ彼女へ、とっさに声を掛けた。
「3つの地蔵のうち、どれが鋏様なんだ」
立ち止まって半身でこちらをじっと見ている。
「いいだろう?秘密を教えておまじないの効果が消えたって。むしろそれで解決じゃないか」
迷うような素振りを一瞬見せたあと、音響は囁くような声でこう言った。

「みぎはし」

そして向き直ると逃げるような早足で店の自動ドアから出て行った。
暗闇に溶けていくように消えたその姿をしばらく目で追っていたが、やがてテーブルの上のふたつのグラスと破られたコースターの残骸に視線が落ちる。
その欠片を手に取って、なんとはなしに眺めていると不思議なことに気がついた。
指で裂かれた白いコースターは、その裂け目に紙の繊維がほつれたような跡が残っている。
ところがその破片のうち、いくつかの断片に綺麗に切り取られたような痕跡が見つかった。
まるで鋭利な刃物で裁断されたような跡が。
さっきのコースターを裂いた、まるで夢遊病のような彼女の行動が、これを隠すためだったかのような気がしてくる。
渡されたノートのページを光にかざすと、彼女の描いた赤いハサミのイラストが、やけに禍々しく見えた。

二日後、俺は懐中電灯を片手に真夜中の山中を歩いていた。
バイトも休みだったので昼間のうちに下見をするつもりだったのだが、暇つぶしのつもりで入ったパチンコ屋で高設定のパチスロ台に座ってしまったらしく止めるに止められなくなり、まあいいやなんとかなるだろうと、これまで犯してきた学生としての過ちから全く何も学んでいないような頭の悪い判断をして、夜に至ってしまっていたのだ。
もう出始めた蚊にイライラしながらも、ポケットに忍ばせたノートの切れ端の地図を何度も確認しつつソロソロと歩を進めた。

街から少し離れただけなのに、まるで別世界のような気味の悪さだ。
すでに人の世界ではない。
ほんとすいません、と一体何にあやまっているのか自分でも分からないまま頭の中で繰り返している。
ガサガサと草むらが音を立てるたび、うそだろと思い、山鳩の泣き声がどこからともなく響くとまるで自分が通ることへの合図のような被害妄想に駆られて、たのむから見逃してくれと思うのだった。
まったく、格好をつける必要がどこにあったのだろうか。
自分のバカさ加減にうんざりする。
懐中電灯の白い光が大きな木の中腹に刻み付けられた矢印を照らし出し、確実に目的地に近づいていることが分かる。
また山鳩の声がホウホウと聞こえ、同時にかすかな羽ばたきを耳にした。
湿気を含んだ濃密な空気に胸が詰まりそうになる。

思えばこうしてひとりで真夜中に心霊スポットに行くなんて、ほとんどないことだ。
たいてい、くだんのオカルト道の師匠と一緒だった。
彼はその心霊スポットの本来のスペック以上のものを引き出す実に迷惑な存在だったが、その背中を追いかけているだけで俺は暗闇に足を踏み出すことができた。
怖いものだらけだった。けれど怖いものなんてなかった。

ザザザザザ……

不吉な音とともに風が草を薙いだ。
後ろは振り返りたくない。自然、足早になる。
こういう足元がよく見えない場所で、俺が思うのは小さなころから同じ。誰かに足を掴まれたらどうしよう、という妄想だった。
風呂場で髪を洗っているときに目をつぶるのが恐ろしいように、人間は目に見えない空間を恐れている。
自分という観察者のいない場所では、誰も《ありえないこと》など保証してくれないからだ。

最後の矢印が見えた。二股にわかれた木の根元。
俺は深呼吸をして、お尻のポケットに差し込んだ愛用のハサミをジーンズ越しに確認する。
懐中電灯の明かりに、一瞬人影が見えた気がした。
ドキっとしたがもう一度ゆっくりと照らして見ると、地蔵らしき黒い頭が闇に浮かび上がってきた。
ひとりで来なければいけないということは、他人に見られてはいけないということだ。
そしてそこで行われる刃物を使った呪い……
丑の刻参りと構造が似ている。
女子高生がするようなおまじないとは、少し毛色が違う。
今更そんなことを思ったが、足が動かなくなりそうだったので脳裏から振り払う。
周囲を観察し、少し斜面になった部分を下るものの崖ではないことを確認する。
ゆっくりと、藪が途切れた場所から回りこむと、山中に異様とも思える方形の人工の空間が現れた。
雑草が生い茂っているとはいえ、踏み固められた赤土の地表がぽっかりと目の前にある。
リィリィという虫の音が聞こえるなかをゆっくりと進むと、斜面に沿うようにひっそりと立つ影が視線の端に入った。

懐中電灯のスイッチを切り、深呼吸をする。
やっぱり帰ろうと思う。
心臓の音を聞く。
目を閉じる。
覚悟する。
何歩か靴の裏を引きずるように進むと、懐中電灯をポケットに無理やりねじ込んで両手を恐る恐る前に突き出す。

急に空気がねとつくように感じられ、息苦しくなる。
あのコーヒーショップで覚えた嫌な感じを思いだすまいとして、まさにそのせいで思い出してしまう。
あれは霊なんかとは違う、もっとわからないものなのだと思う。その根源に今、近づきつつあった。
足が止まりそうになったところで、左手が硬いものに触った。
内臓のあたりに嫌な感じがズーンと落ちてくる。
それでも両手で、胸の前にある石のざらついた感触を確かめる。
これが左端の地蔵の頭のはずだった。
赤ちゃんの頭くらいの大きさだ。
なにか別の恐怖心がもたげてくるような気がして、すぐに手を離す。
次の地蔵までは3歩と離れていない。
爪先が地蔵の胴体らしきものに当たり、手探りをするとさっきと同じざらついた手触りが手のひらに入ってきた。
次だ。
もう、余計なことを考えないようにして目を閉じたまま次の場所へ手を伸ばす。
ひんやりしたものに指先が触れた。

なにか変だ。
なにも変なところがない。
目を開けたい衝動に駆られる。苔むしているのではなかったのだろうか?
髪の毛なんて生えていない。
そう思ったとき、右半身がなにかの気配を捉えた。目を閉じていてもわかる。
たぶん、かすかな風の流れでそう感じるのだろう。
数がおかしくないか、という疑念を封じ込めてソロソロとさらに右側に手を伸ばした。

次の瞬間、右手が嫌なものに触れた。
夜気に湿った、小さなあたま。
苔じゃないのはすぐにわかった。
髪の毛が、生えている。
混乱が恐怖心に点火する前に俺は両手をソレから離し、ジーンズの後ろポケットからハサミを取り出した。
愛用というほどでもないが、家にあるハサミというとこれだけだ。
屈み込んで、地蔵の前にある石造りの小さな台を探り当て、ハサミを置いた。
そしてあらかじめ決めてあった名前を3度唱える。俺にストーキングまがいのことをしていた女の名前だった。
音響にこのおまじないのことを聞いたときから、その効力を解くには、上書きするしかないのではないかと思っていた。根拠はない。カンだ。
そして上書きされるにうってつけの存在がいた。失敗でもいい。そしてこのおまじないが、本当は別の意味であったとしても、それでもよかった。
目の前にあるものがなんなのか、わかりたくなかった。

俺は左を向くと懐中電灯をつけ、目を開けて脱兎のごとく逃げ出した。
這い上がるように斜面を駆け上り、後ろを振り返らず走った。
山鳩の鳴き声が追いかけてくる。草いきれが鼻にこびりつく。閉じ込めていた畏怖の心が、奇声をあげているような気がした。

よっつめだった。
俺が数え間違えたのか、それとも地蔵ははじめから4体あって、音響が3体だとウソをついたのか。
それともそれは、目を閉じないと見つからない、何か得体の知れないものだったのか……
もと来た道を逆走していると、懐中電灯の光が道の真ん中に赤いものを反射した。
赤いハサミだった。

一瞬躊躇したあと、拾い上げる。ノートの切れ端に描かれたイラストにそっくりだ。
山に入ったときとは別のハサミをジーンズのポケットに納めて、俺は帰途を急いだ。
耳は、聞こえるはずのないショキショキという音の幻を湿った風の中にとらえていた。

その次の日、俺はこの前のコーヒーショップでひとり音響を待っていた。
たぶん解決した。
そう言って呼び出したのだが、あながち間違いでもないように思う。この手にある赤いハサミがその象徴のような気がした。
店内の光度を抑えた照明にそっとかざしてみる。
一体なぜ地蔵に供えられたはずのハサミがあそこに落ちていたのか、俺には知るよしもなかったがこうして見ると何事ごともないただのありふれたハサミにしか見えなかった。

「遅せぇな」
独り言をいってしまったことに気づいて周囲を気にする。
さすがにコーヒーショップにハサミを持った男がひとりでいては気持ちが悪いだろう。
そう思って一応念のためにカモフラージュ用の文房具一式と大学ノートを脇に置いてあった。
ふと思いついて、汗をかいたコーラのグラスを持ち上げ、白い紙でできたコースターをつまんだ。
右手で持ったハサミを円のふちにあてがう。
深い意図があったわけではない。ただ前回、音響が破いたコースターの切れ端に残っていた鋭利な断面が気になっていたからだった。
軽く力を込めて、刃を噛み合わせる。
そのとき、予想外のことが起きた。

ぐにょりという鈍い感触とともに、コースターが切れもせずハサミの刃の間に変形して挟まったのだ。
首筋にあたりがゾワっとした。
ギチョン。という音をさせてハサミを開く。
コースターがぽとりとテーブルの上に落ちた。確かに少し厚みがあるとはいえ、ただの紙なのだ。切れないはずはない。
もう一度ハサミをよく見てみる。
そういえば持ったときに何か違和感があった。
空中でチョキチョキと素振りをしてみると、その正体に気づいた。
俺は左手にハサミを持ち替えてもう一度コースターに刃をたてる。こんどはシューッという小気味よい音とともに白い紙に切れ目が入っていった。
左利き用だ。
あるのは知っていたが、現物を見たのははじめてだった。俺は手元の赤いハサミとコースターとを見比べながら、笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。

あのとき、音響は右の平手で俺の頬を叩いた。
怖がらせるような意地の悪いことを言った俺を反射的に叩いてしまった彼女に、負い目を持ったのがこの無謀な冒険のきっかけだ。
クールそうな彼女にそんなことをさせてしまったという負い目。
だが、あのときの彼女にはとっさに利き腕ではない方を繰り出すだけの、理性の働きが確かにあったのだった。

はめられたのかも知れない。
そういえば、ノートに地図を描く時の彼女は左手でペンを握っていた気がする。
あの平手で俺がなにを感じるか、計算ずくだったとするなら……
そのときはじめて俺は、あの暗い服を好む少女に好奇以上の興味を持ったのだった。

1週間後、例のオカルト道の師匠と仰ぐ大学の先輩と会う機会があった。
お互いの近況を交換し合うなかで、俺は鋏様の話と《黒い手》騒動の時の少女と再び会ったことを話した。
師匠はニヤニヤと聞いていたが、口を開いたかと思うと
「僕ならその鋏様とやらの髪の毛、ハサミでジョキジョキにしてやったのに」
と言い放ち、俺は心底この人に頼らなくてよかったと胸をなでおろした。

自動ドア

先日、ある店に入ろうとしたときに自動ドアが開かないということがあった。
さっき出たばかりのドアなのに、戻ろうとすると反応がない。

苦笑して別のドアから回り込んで入った。こういうときはえてして別の目撃者がいない。
ある種、個人的な経験だと自嘲気味に考える。
そのとき、ふと大学時代のことを思い出した。

学生のころは、自動ドアが開かないことが日常茶飯事だった。
一人暮らしの大学生なんてものは、毎日3回以上はコンビニに行くものと相場が決まっている。俺もキャンパス近くの学生の街といえる場所に住んでいたために、周辺はコンビニだらけ。なにが楽しいのか朝から晩までことあるごとに時間を潰しがてら入り浸っていた。
そんなとき、大学1回生の夏ごろからだろうか、自動ドアが開かないということが多くなった。
昨日と同じコンビニに昨日と同じ服を着て入ろうとしているのに、なぜか開かない。
思わずドア上部のセンサーらしきところを見上げながら、顔を動かしてみる。
開かない。
体を前後左右に動かしてみる。
開かない。
一度離れて、まるで別人が通りがかったかのようにやり直してみる。
やっと開いた。
というようなことが、ままあったのだった。

これもまた大学生のつねで、社会のなかで自分がひどく小さい人間に感じられて、己の存在意義なんてものに悩み、鬱々としていたりするときにこんなことがあると、なにか象徴的な出来事のように思われて、少々へこむ。
ドアの前でどうしようもなく佇む俺の横を通り、コギャルがPHSでバカ話をしながらあっけなくドアの中へ消えていくのを見ると、なんともいえない敗北者の気分になったりする。

「おまえは人権5級だから自動ドアを使う権利がありません」

そんなことをいわれているような気がする。
「またドアが開かなかった」
という自嘲気味のセリフは、一時の俺の挨拶のようなものになっていた。

そんな日々も、当時の熱病のようなオカルト三昧の生活とは無関係ではなかったように思う。
そのころの俺は、大学のサークルの先輩でもある、俺にオカルトのイロハを叩き込んでくれた師匠にまるで金魚の糞のごとくついて回っていた。
ファミマに入ろうとして二人で並んで自動ドアの前に立つも、まるでただのガラスのように開く気配がない。
しばし突っ立っているが、やがて師匠が「ちょっと動いてみ」というので反応する場所を探そうと、体をあちこち動かしてみる。
開かない。
そして二人して、動いたり離れたりまた戻ったり、恐ろしく間抜けな動きを繰り返した末に、なんの前触れもなくドアがスーッと開いたかと思うと、レジ袋に100円の麦茶のパックを詰め込んだ不健康そうな男が出てきて「どいて」と言われたりする。
こんなことが生活圏のコンビニで度々あったものだった。
あるとき師匠が言った。
「コンビニの怪談に、深夜だれもいないはずなのにドアが開くって話があるだろう。あれと逆だね」
そういえば俺も経験があった。

ある寝苦しい夜に近所のコンビニで、涼みがてら立ち読みをしていたときのこと。
いらっしゃいませ、という店員の声に何気なく本から顔をあげると、自動ドアがスーッと開いたきり誰も入ってこない。入り口を横切っただけかと思い、また本に目を落とす。
しばらくすると今度は「ありがとうございました」という店員の声。
入り口を見るとまたドアだけがスーッと開いて、誰の影も見えない。
店内を見渡すと、立ち読み客が俺を含めて二人だけ。
店員の若い兄ちゃんは、手元でなにか黙々と書いている。顔も上げずにドアの開く音に反応しているだけらしい。
なぜか、背筋に気味の悪い感覚がのぼってくる。

もう一度店内を見回す。
深夜特有のだらけた空気が漂っている。店員も俺たちがいるせいで奥に引っ込めず、はやく帰らないかなという思いでいるに違いない。
外は暗い。学生の街だから、暗さのわりに深夜でも人通りは多い。
誰とも知れない人の影が、暗い路地を行き来する光景は、こうして明るい店内からガラス越しに見ていると不気味だった。
店員があくびをする音が聞こえた。
顔を下げたままだ。深夜、この店が一人勤務体制というのはよく知っている。万引きされても気がつかないんじゃないか。そう思ったとき、あることに気がついてゾクリとする。

最初にドアが開いたとき、店員は見もしないで「いらっしゃいませ」と言った。次にドアが開いたときは「ありがとうございました」。
どうして2度目も「いらっしゃいませ」ではなかったのだろうか。
店員はそちらを見てもいない。そして実際に誰も出入りはしていないのだから、どうして使い分けたのか理由がわからない。
まるで目に見えない誰かが入り込み、そして出て行ったようではないか。
ここに居たくないという脅迫めいた感じが強くなり、俺は雑誌を棚に戻して足早に店を出た。
ドアが開いて、そして閉じるとき、店員の間抜けな「いらっしゃ、ありがとうございました」という声が背中に響いた。

さて、ドアの開かない日々の中でも強烈な思い出がある。
1回生のころ、ある真夏の昼ひなかに溶けそうになりながらコンビニにたどり着いた。
その日がその夏の最高気温だったそうで、アスファルトが靴の裏に張り付きそうな錯覚さえ覚えた。
自動ドアの前に立ち、完全に開くのも待ちきれずに中に滑り込む。
さっそく、特に買うつもりもないのにデザートコーナーへ向かい、ひんやりと漂ってくる冷気を顔に浴びる。

そういえば、珍しくあっさり自動ドアが開いたな。
そう思って顔を上げると、目の前には異様な光景が広がっていた。
いつもと同じ商品配列の店内。いつもと同じ半年も先のコンサートのポスター。いつもと同じ高ルクスの照明。
けれど、人の姿がどこにもなかった。
こんな真っ昼間に客が1人もいないなんてことはまずなかった。昼時には大学生でスシ詰めになる店なのに。
なにより異常なのは、店員の影もなかったことだ。二つあるレジは無人で、陳列や棚卸しなどの作業もしていない。
なんだか気味が悪くなり、一言声を掛けてと張り紙があったのをダシに「すみませーん、トイレ貸してください」とレジの奥に投げかけた。
10秒待ったが、なんの応答もなかった。
店内をもう一度見回す。
いつもなら常に立ち読み客のいる雑誌コーナーにも人影はなく、一冊一冊、乱れもせず綺麗にラックに並んでいる。それが、ますますこの状況の異様さを強調していた。

体裁を保つこともなおざりになり、あからさまにキョロキョロしながら「お~い、誰かいませんか」と声をあげた。
その声がしんと沈む店内の冷たい空気に吸い込まれていった時、思わず出口に向かっていた。
そして自動ドアの前に立つ。

開かない。

おい、ウソだろと口にしながらガラスをバンバンと叩くが、ドアはぴくりとも反応しなかった。
店内を振り返るが、さっきと変わりはない。人の気配も一切感じない。
けれどそれゆえにうなじの毛がチリチリするような静かな圧迫感が、空間に満ちはじめているような気がした。
(紛れ込んでしまった)
そんな言葉が脳裏に浮かび、これは間違いだ、早くここから出なくてはという脅迫観念にかられた。
ドアの前の立ち位置を変え、体重をかけるタイミングを変え、膝のサスペンションで背を変え、センサーらしきものの下を通るスピードを変え、とにかくあらゆる方法で自動ドアを開けようともがいた。
明日は30分立ちんぼでもいいですから、今だけは一発で開いてくれ!
そんな祈るような気持ちだった。

ドアの外では、陽炎が立ちそうな熱気の中を多くの人が通り過ぎている。誰もこちらに注意を払う人などいない。
何度も後ろを振り返るが、店内には何の気配もなく、ただ静かになにかよくわからない部分が狂っているようだった。異様な圧迫感を無人の光景に感じ、俺は冷たい汗をかきながらドアの前でひたすらうろたえていた。
ふと、うっすらと窓ガラスに映る、反転した店内の様子が目に入った。
顔もよくわからないが、店内にうごめく数人の客が確かに映っている。誰もいるはずがないのに。
恐慌状態になりかけた時、急に何の前触れもなくドアが開いて俺は外に飛び出した。
ムッとするような極度に熱された空気に包まれたがむしろ心地良く、俺は振り返ることも出来ずにその場から逃げた。去り際、目の端に、いつもと変わらない、人のいるコンビニの店内が映った気がしたが、とにかく逃げ出したかった。

後日、師匠にこの話をすると、笑いながら
「暑すぎて幽体離脱でもしたんじゃない?」
と言うのだ。
「だって、コンビニの怪談を逆さから見たような体験じゃないか」
ドアが開かなかったことをあげつらっているような感じだったので、「意識だけがコンビニの中に入ってしまったとしても、店内に人がいなかったってのはどういうことです」と逆襲すると、師匠はあっさりと言った。

「人間に霊が見えないように、霊にも人間が見えないことがあるんだよ」

そうして二本の人差し指を交差させ、交わらない世界、と呟いてなにが嬉しいのか口笛を吹いた。

田舎(前編)

大学1回生の秋。
その頃うちの大学には試験休みというものがあって、夏休み→前期試験→試験休みというなんとも中途半端なカリキュラムとなっていた。

夏休みは我ながらやりすぎと思うほど遊びまくり、実家への帰省もごく短い間だった。
そこへ降って沸いた試験休みなる微妙な長さの休暇。
俺はこの休みを、母方の田舎への帰省に使おうと考えた。
高校生の時に祖母が亡くなってその時には足を運んだが、まともに逗留するとなると中学生以来か。母の兄である伯父も「一度顔を出しなさい」と言っていたので、ちょうどいい。
その計画を、試験シーズンの始まったころにサークルの先輩になんとはなしに話した。

「すごい田舎ですよ」
とその田舎っぷりを語っていたのであるが、ふと思い出して小学生のころにそこで体験した「犬の幽霊」の話をした。
夜中に赤ん坊の胴体を銜えた犬が家の前を走り、その赤ん坊の首が笑いながら後を追いかけていくという、なんとも夢ともうつつともつかない奇妙な体験だった。
先輩は「ふーん」とあまり興味なさそうに聞いていたが、俺がその田舎の村の名前を出した途端に身を乗り出した。

「いまなんてった?」

面食らって復唱すると、先輩は目をギラギラさせて「つれてけ」と言う。
俺が師匠と呼び、オカルトのいろはを教わっているその人の琴線に触れるものがあったようだ。
伯父の家はデカイので一人二人増えても全然大丈夫だったし、おおらかな土地柄なので友人を連れて行くくらいなんでもないことだった。
「いいですけど」
結局師匠を伴って帰省することとなったのだが、それだけでは終わらなかった。

試験期間中にもかかわらず俺は地元のオカルト系ネット仲間が集まるオフ会に参加していた。
そんな時期に試験があるなんてウチの大学くらいなわけで、フリーターや社会人が多いそのオフ会はお構いなしに開かれた。
それなら参加しなければいいだけの話のはずだが、オカルトに関することに触れている時間がなにより楽しかったそのころの俺は、あたりまえのようにファミレスに足を運んだのだった。
その後の2年間の留年の契機がもう始まっていたと言える。

「試験休みに入ったら、母方の田舎に行くんスよ」
そこでも少年時代の奇妙な体験を披露した。
反応はまずまずだったが「子供のころの話」というフィルターのためか、オカルトマニア度の高い方々のハートにはあまり響かなかったようだ。
すぐにそのころホットだった心霊スポットであるヒャクトウ団地への突撃計画へ話が移っていった。
ところがそれを尻目に、ある先輩がつつッと俺の隣へやってきて「おまえの田舎は四国だよな」と言う。
オフでも「京介」というネット上のハンドルネームで呼ばれる人で、ハッとするほど整った顔立ちの女性だった。俺はこの人に話しかけられると、いつもドキドキしてそれに慣れることがない。
「そうです」
と答えると、真面目な顔をして「四国には犬にまつわる怪談が多い」と言った。

そして「なんと言っても、おまえの故郷は犬神の本場だ」と、何故か俺の肩をバンバンと叩くのだった。

「犬神ってなんですか」という俺の問いに、紺屋の白袴だと笑い
「犬を使って人を呪う術だよ」
と耳元で囁いた。
ヒャクトウ団地突撃団の怪気炎が騒々しかったためだが、耳に息が掛かって、それがどうしようもなく俺をゾクゾクさせた。
田舎はどんなところだと聞くので、先日師匠にしたような話をした。
そして村の名前をだした瞬間に、まるで先日の再現のように身を起こして「ほんとか」と言うのである。
これには俺の方が狐につままれたような気持ちで、誘うというより半ば疑問系に「一緒に行きますか?」と言った。
京介さんは綺麗な眉毛を曲げて「うーん」と唸ったあと、「バイトがあるからなあ」とこぼした。

「コラ、おまえらも行くんだぞヒャクトウ団地」
他のメンバーから本日のメインテーマを振られて、その話はそれまでだった。けれど俺は見逃さなかった。
「バイトがあるから」と言った京介さんが、そのあと突撃団の輪に背を向けて小さなスケジュール帳をなんども確認しているのを。

京介さんはたぶん、行きたがっている。
バイトがあるのも本当だろうが、なかば弟分とはいえ、男である俺と二人で旅行というのにも抵抗があるのだろう。
いや、案外そんなことおかまいなしに「いいよ」とあっさり承知するような人かもしれない。
「一緒に行きますか」などとサラリと言えてしまったのも、きっとそういうイメージがあったからだ。
ともかく、あと一押しだという感触はあった。一瞬、二人で行けたらなあという楽しげな妄想が浮かんだが、師匠も来るのだということを思い出し、少し残念な気持ちになった。

しかし、師匠と京介さんというコンビの面白さは実感していたので、これはなんとしても二人セットで来させたい。ところがこの二人、水と油のように仲が悪い。一計を案じた。
オフ会がハネたあと、散会していく人の中からCoCoさんという、その集まりの中心人物をつかまえた。彼女も俺と同じ大学だったが、試験などよりこちらのほうが大事なのだろう。
そして彼女は師匠の恋人であり、京介さんとも親しい仲であるという、まさに味方に引き入れなければならない人だった。
CoCoさんはあっさりと俺の計画に乗ってくれた。
むしろノリノリで、ああしてこうして、という指示まで俺に飛ばし始めた。

簡単に言うと、師匠には「師匠、俺、CoCoさん」の3人旅行だと思わせ、京介さんには「京介さん、俺、CoCoさん」の3人旅だと思わせるのだ。
いずれ当然バレるが、現地についてしまえばなし崩し的にどうとでもなる。
つまりいつもの俺の手口なのだった。
翌日、CoCoさんから「キョースケOK」とのメールが来た。
同じ日に、「なんか、一緒に来たいって行ってるけどいいか?」と、CoCoさんの同行を少し申し訳なさそうに師匠が尋ねてきた。もちろん気持ちよく了承する。
これで里帰りの準備が整った。
そして試験の出来はやはり酷いものだった。

俺と師匠は南風という特急電車で南へ向かっていた。
甘栗を食べながら、俺は師匠に「何故俺の田舎に興味があるのか」という最大の疑問をぶつけていた。
京介さんとCoCoさんは一つ後の南風で来るはずだ。
師匠にはCoCoさんが用事があり、少し遅れて来ることになっており、京介さんに対しては、俺は一日早く帰省して待っていることになっていた。

「う~ん」
と言ったあと、もう種明かしをするのはもったいないな、という風を装いながらも、師匠は俺の田舎に伝わる民間信仰の名前を挙げた。
なんだ。
そんな拍子抜けするような感じがした。
田舎で生活する中でわりと耳にする機会のある名前だった。別段特別なものという印象はない。
具体的にどんなものかと言われると少し出てこないが、まあ困ったことがあったら、太夫(たゆう)さんを呼んで拝んでもらうというようなイメージだ。
それは田舎での生活の中に自然に存在していたもので、別段怪しげなものでもない。
もっとも、一度か二度、小さいときになにかの儀式を見た記憶があるだけで、どういうものかは実際はよくわからない。
どうして師匠がそんなマイナーな地元の信仰を知っているのだろうと、ふと思った。京介さんもやっぱりそれに対して反応したのだろうか。

「それ、なんですか」
窓の外に広がる海を頬杖をついて見ていた師匠の首筋に、紐のようなものが見えた。
「アクセ」
こっちを見もせずにそう言ったものの、師匠がアクセサリーの類をつけるところを見たことがない俺は首を捻った。
俺の視線を感じたのか胸元に手をあてて、師匠はかすかに笑った。
その瞬間、なんとも言えない嫌な予感に襲われたのだった。
ガタンガタンと電車が線路の連結部で跳ねる音が大きくなった気がして、俺は理由もなく車内を見回した。
いくつかの駅で停まったあと、電車はとりあえずの目的地についた。
「ひどイ駅」
と開口一番、師匠は我が故郷の駅をバカにした。

駅周辺にある椰子の木を指差してゲラゲラ笑う師匠を連れて街を歩く。「遅れて」来るCoCoさんを待つ間、昼飯を腹に入れるためだ。
途中、ボーリング場の前にある電信柱に立ち寄った。
地元では通の間で有名な心霊スポットだ。夜中、その前を歩くと電信柱に寄り添うように立つ影を見るという。見たあとどんな目に会うかという部分は、様々なヴァリエーションが存在する。
話を聞いた師匠は「ふーん」と鼻で返事をして周囲を観察していたかと思うと、やがて興味を無くして首を振った。
先に進みながら師匠を振り返り、「どうでした」と聞くと、Tシャツの襟元をパタパタさせながら「なにかいるっぽい」と言った。
なにかいるっぽいけど、よくわかんない。よくわかんないってことは、大したことない。大したことないってことは、よけいに歩いて暑いってことだよ。
不満げにそう言うのだった。

確かに暑い日だった。本格的な秋が来る前の最後の地熱がそこかしこから吹き上がって来ているようだった。
師匠が「サワチ料理が食いたい」と、まるでトルコに旅行した日本人がいきなりシシケバブを食べたがるようなことを言うので、昼から食べるものではないということを苦心して納得させ、二人で蕎麦を食べた。
アーケード街をぶらぶらと散策したあと駅に戻ると、ワンピース姿のCoCoさんといつもと同じジャケット&ジーンズの京介さんがちょうど改札を出て来る所だった。

「よお」と手を上げかけて、京介さんの動きが止まる。
師匠も止まる。
と思ったのもつかの間、一瞬の隙をつかれてチョークスリーパーに取られる。
「何度引っ掛けるんだお前は」
頭の後ろから師匠の声がする。口調が笑ってない。
「何度引っ掛かるんですか」
俺は右手を必死に腕の隙間に入れようとしながらも強気にそう言った。
向こうでは、踵を返そうとする京介さんをCoCoさんが押しとどめている。

俺とCocoさんの説明を中心に、師匠がよけいなことを言って京介さんが本気で怒る場面などを経て、実に15分後。
「暑いし、もういいよ」
という京介さんの疲れたような一言で、同行四人という状況が追認されることになった。
思うにこの二人、共通点が多いのが同族嫌悪となっているのではないだろうか。
無類のオカルト好きであり、ジーンズをこよなく愛し、俺という共通の弟分を持ち、それからこの後に知ったのであるが二人とも剣道の有段者だった。
俺はよくこの二人を称して磁石のS極とS極と言った。その時もお互いの磁場の分だけ距離を置いていたので、その真ん中でCoCoさんにだけ聞こえるようにその例えを耳打ちすると、彼女は何を思ったのか「二人とも絶対Mだ」とわけのわからない断言をして、俺にはその意味がその日の夜までわからなかった。
夜になにかあったわけではない。ただ俺がそれだけ鈍かったという話だ。

ただ一つ、そのときに気になることがあった。
さっき師匠にチョークスリーパーを掛けられた時に感じた不思議な香りが、かすかに鼻腔に残っている。
まさかな。
そう思ってCoCoさんを見たが、あいかわらず何を考えているのかよくわからない表情をしていた。
そうしているうちに、駅のロータリーに車がついた。
四人の前で作業着を着た初老の男性が車から降りながら手を振る。
伯父だった。
バスなり電車なりで行けるよ、とあれほど言ったのに「ちょうどこっちに出てくる用事があるき」と車で迎えに来てくれたのだった。

ところどころに真新しい汚れのついた作業着を見て、そんな用事なんてなかったことはすぐわかる。
久しぶりの俺の帰省が嬉しかったのだろう。俺が連れてきた初対面の3人と愛想よく握手をして、「さあ乗ったり乗ったり」と笑う。
ここから村までは車で3時間は掛かる。車内でも伯父はよく喋り、よく笑い、それまでの険悪なムードはひとまず影を潜めた。
日差しの眩しい国道を気持ち良く疾走する車の、窓の向こうに広がる景色を眺めながら、俺は来て良かったなあと気の早いことを考えていた。
思えば、その無類のオカルト好きが二人揃って俺の帰省について来ると言い出した事態の意味を、その時もう少し考えてみるべきだったのかも知れない。
紺屋の白袴と笑われても仕方がない。俺は、俺のルーツでもある山間部の因習と深い闇を、知らな過ぎたのだった。

だがとりあえず今のところは、ひたすらに暑い日だった。

田舎(中編)

そもそもの始まりは、大学1回生の秋に実に半端な長さの試験休みなるものがぽっこりと出現したことによる。
その休みに、随分久しかった母方の田舎への帰省旅行を思いついたのだが、それがどういうわけか師匠、CoCoさん、京介さんという3人の先輩を引き連れての道ゆきとなってしまった。
楽しみではあったが、そこはかとない不安がどんよりと道の先にあるのを俺は見て見ぬ振りをしていたのだった。

駅まで迎えに来てくれた伯父の車は7人乗りだったが、助手席に伯父の家で飼っている柴犬が丸まって寝ていたので京介さんとCoCoさん、俺と師匠という並びでそれぞれ中部座席、後部座席に収まっていた。
俺としては、その柴犬がまだ生きていたことにまず驚いた。
耳の形に見覚えのある特徴があったので、その子供かと思ったのだが「リュウ」本人なのだという。20歳は確実に超えているはずだ。伯父にリュウの歳を聞くと、「忘れた」と言って笑うだけだった。
「こいつはドライブが好きでなあ、昔ゃよう連れてったもんじゃけんど、最近は全然出たがらんなっちょったがよ。今日は珍しい」
京介さんが頷きながら手を伸ばし、前の座席で寝そべっているリュウのお尻のあたりを撫でる。リュウはちらっとだけ視線を向けて、また静かに目を閉じた。

車は快調に国道をとばしていた。
山間の道をひたすらに東へ進む。右手に川が現れて、ゴツゴツした巨大な岩が視界に入ってはすぐに後方へ飛び去っていった。
「なんちゃあないろう」
何もないところだろう。
そういう伯父の言葉には変に飾ったところも、卑屈なところもなく、気持ちが良かった。
CoCoさんが土地のことなどあれこれを聞き、京介さんもいつになく口が滑らかだった。
伯父が言った冗談に師匠がやたらウケて笑い声をあげ、その余韻で楽しそうに隣の俺の肩を叩きながら顔を寄せて、表情とまったく違う冷めた調子で「ところで」と言った。

「僕が今見ているものを、伝えてもいいか」

俺にしか聞こえないくらいの小さな囁き声に、いきなり冷水をかけられたような気分になった。
日差しの強かったはずの窓の外が急に暗くなり、国道のすぐ横を流れている川は闇に消えるように水面も見えなくなった。
そしてあたりから音が消え、車のフロントガラスの向こうには黒い霧が渦を巻いている。
やがて川沿いのガードレールのあたりに、凍りついたような青白い人の顔がいくつも並びはじめた。
暗くて首から下は見えない。顔だけがのっぺりと浮かび上がっている。男の顔もあれば女の顔もある。
それも、大人が道路ぶちに立っているような高さのものもあれば、その半分の高さのもの、はるか見上げるような位置にあるもの、地面に落ちているもの、様々な顔が、しかしどれも無表情でこちらを見ているのだった。
そして無表情のまま、その顔たちはそれぞれ口を微かに開いている。

音もなく車の窓ガラス越しに視界は走り、手を伸ばせば届きそうな距離に、暗闇に浮かぶ顔がまるで上下にうねる様な連続体となって見えた。それぞれの口の形は、連続することによっていくつかの単語を脳裏に強制的に想起させようとしていた。
自分の心臓の音だけが響き、俺は暗い窓の外から目を離せないでいる。

「なにを吹き込んでるんだ」

京介さんのその声に、ふいに我に返った。
世界に、音が戻ってきた。暗かった視界も一瞬のうちに霧が晴れたように元に戻り、アスファルトの照り返しが目に飛び込んでくる。
師匠がすぅっ、と近づけていた顔を遠ざける。

「別に、なにも」

京介さんがこちらを睨む。
「あと30分くらいで着くきに」
伯父が能天気な声でそう言った。
京介さんが前に向き直ると、師匠はまた顔を寄せてきて「怖いな、アイツ」と言う。
俺はさっきの体験を反芻して、どうやら「師匠が見ているもの」の説明を聞かされているうちに、まるで白昼夢のようにリアルな再構築を脳内で行ってしまったと結論づける。
もちろん、催眠術をかじっているという師匠のイタズラには違いない。
その師匠が「僕の見ている世界はどうだった」と聞いてくる。
「あの顔はなんですか」と囁き返す。あの幻からは”拒絶”という確かな悪意が感じられた。ところが師匠は、それをお化けとも悪霊とも呼ばなかった。

「神様だよ」

塞の神。馴染み深い言葉でいえば道祖神。
そんな言葉が耳元に流れてくる。
「男の顔も、女の顔もあっただろう。双体道祖神といって、それほど珍しくもない男女2対の道の神様だ。辻や道の端にあり旅人の安全を祈願すると同時に、村や集落といった共同体への異物の侵入を防ぐ役割を果たしている。たぶんこの道路沿いのどこかに石に彫られたものがあったはずだ」
「……異物ってなんですか」
俺の問いに師匠は可笑しそうに囁いた。
「疫病とか悪霊とか、ソトからもたらされる害悪の源。鬼はソト、福はウチってね。幸いをもたらすものは歓迎し、災いをもたらすものは拒絶する。道祖神はその線引きをする、果断な性格の神様だね」
もちろんウチにいる者にとっては、何も気にする必要のない、無害な神様さ。
師匠はそう言って嬉しそうに続ける。
「僕くらい、いろんなビョーキを持ってソトからやってくる人間は別だけど」
ビョーキ。
ここではなんの隠語なのか、すごく気になるところだったが師匠は京介さんの視線を感じたらしく、また自分の座り位置に戻っていった。

車は国道から離れ、村道だか県道だかの山道へと入っていった。
窓の外いっぱいに広がる緑の木々を視界の端に捕らえながら、俺の頭の中には『僕の見ている世界』という単語がへばりつく様に離れないでいた。
師匠はいつも、あんな底冷えのするような悪意の中を生きているのだろうか。
伯父がまたなにか冗談を言ってCoCoさんが笑い声をあげたとき、師匠がふいに顔を寄せ、囁いた。
「あんなに強いのは珍しい。これも土地柄かな」

車が、ようやく止まった。
思ったより早く着いた。道がよくなったのだろうか。連れてこられたことしかない自分にはよくわからなかった。
「さあ降りとうせ」という伯父の声に、俺たちは外に出る。
見渡す限りの山の中だ。目を上げると、谷を隔てた山向こうの峰はなお高い。
思わず小さいころよくやった「ヤッホー」という声をあげたくなる。
そして懐かしい伯父の家が、ささやかな石垣の中の広い敷地に、昔のままで立っていた。

それは子供のころは、「おばあちゃんの家」だった。高校1年生の時に祖母が亡くなるまでは。
その時の滞在は、葬式のために慌しく過ぎてしまって、あまり印象が無い。
「ヘェヘェ」と疲れたような声を出して、リュウが足元を通り過ぎようとした。
ガシッと捕まえて、顔を両手でグリグリと揉む。
「こらおまえ、葬式ン時もいたか?」
されていることに全く関心が無い様子で、何も言わずにされるがままになっている。
「あらあらあら」
という甲高い声とともに、家の玄関から布巾で手を拭きながら伯母が出てきた。
その後は、久しぶりに会った親戚の子どもに対するごく一般的なやりとりが続き、連れの仲間たちの紹介を終えて、ようやく俺は伯父の家の畳の上に尻を落ち着けた。
「みんなお昼は食べたが?」という伯母の言葉に頷くと、「じゃあ晩御飯はご馳走にしちゃおき、体でも動かしてきぃ」と言われた。
それに適当に返事をし、あてがわれた部屋に荷物を置くと、とりあえず大の字になって、車内でずっと曲げっぱなしだった足を思う存分伸ばす。
さすがに田舎の家は広い。記憶の中ではもっと広かった。
2階建てのその家は、大昔に民宿をしていたというだけあって、部屋の数も多い。
俺たち4人全員に一部屋ずつあてがっても十分足りたのだろうが、男2女2ということでふた部屋を間借りすることにした。
「広れェー」と言いながら師匠と二人でゴロゴロ転がったあとで、廊下を隔てた女部屋を覗いた。
襖の隙間に片目を当てながら、「おい」「どっちが広い」「おい、こっちの部屋より広いか」などという師匠の声を背中で受け流していると、いきなり中から現れた京介さんに「死ね」と言われながらドツかれた。
すごすごと部屋に戻ると玄関の方から若い男の声が聞こえた。
出て行くと、近所に住む親戚のユキオだった。
顔を見ると懐かしさがこみ上げてくる。子供のころは夏休みにこの家へやってくるたびに遊んだものだ。
どうしてる、と聞くと「役場で、しがない公務員じゃ」と、はにかんだように笑う。
そういえばたしか俺より2つ歳上だった。
「じゃ、今は昼休みじゃき、また晩にでも寄るわ」
ユキオはそう言って家にも上がらずにスクーターにまたがった。
どうやら仕事に戻った伯父が、道ですれ違いざまに俺が来てることを話したらしい。
時計を見ると、15時をだいぶ回っている。ずいぶんと大らかな昼休みだ。

「さあ、これからどうしましょうか」
4人で集まって、何をするか話し合った。

じっとしていると背中に汗が浮いてくる。男部屋は窓を大きく開け放ち、クーラーなどつけていない。「らしき」ものはあるが、スイッチを押しても反応はなかった。
「泳ぎに行きましょう」
という俺の意見に、全員が賛成した。
旅行に発つ前にあらかじめ、水の綺麗な川があるから泳げるような準備をしておいてくださいと伝えてあったので、一も二もない。
少し山を下るので、伯父の家の車を借りた。
向かう先に着替える場所がないので、部屋で水着に着替え、服を羽織って出かけることにした。
師匠が来た時とは別の白いバンのハンドルを握り、他の3人が乗り込む。

蝉の声の中を車は走り、くねくねと山道を下りていくとやがて一軒の家の前に出た。
「ここに止めてください」
川の近くには車を止められそうなところがない。いつもこの家の敷地の端を借りてとめさせてもらっていた。
車を降りた。暑い。
蒸すわけではなかったが、とにかく日差しが強かった。サンダルに履き替えた足が気持ちいい。
舗装もされていない田舎道を、「次暑いって言ったヤツ罰金」などと言い合いながら歩いていると、それなりに仲間らしく見えるのだから不思議だ。
つい数時間前に、「どうしてコイツがいるのか」と師匠と京介さん、ともに喧嘩腰だったのを忘れそうになる。
わりとねちっこい師匠に対して、さっぱりしている京介さんの大人の対応が奏功しているように思えた。
見通しのいい四つ辻に差し掛かったとき、ふいに俺の前を歩いていた京介さんが「アツッ」と言ってしゃがみこんだ。
師匠が嬉しそうに「今暑いって言った?暑いって言った?」と言いながら振り返る。
「言ってない」
京介さんはすぐ立ち上がり、右足を気にしながら、なんでもないと手を振ってみせる。
CoCoさんがどうしたのと聞き、京介さんは歩き始めながら「何か踏んだかも」と答える。
そんなやりとりのあと、数分とかからずに川に辿り着いた。
山に囲まれた渓谷の中に、ひんやりとした水面がキラキラと輝いている。昔とちっとも変わらない、澄んだ水だった。

カラカラに乾いた大きな岩の上に服とサンダルを放り投げ、海パン姿になって玉砂利の浅瀬にそろそろと足を浸す。
冷たい。でも気持ちがいい。ゆっくりと腰まで浸かって、川の流れを肌で感じる。
師匠はというと、準備運動もそこそこにいきなり飛び込んで早くもスイスイと泳いでいる。
女性陣の二人は水辺で沢ガニを見つけたらしく、しばらくウロウロと足の先を濡らすだけだったが、俺が肩まで浸かるころ、ようやく羽織っていた服を脱ぎ水着姿になって川の中に入って来た。
下流の方から派手なクロールで戻って来た師匠が、膝まで浸かった女性二人の前で止まり、水中から首だけを出して「うーん」と唸ったあとでCoCoさんの方に向かって右手で退ける仕草をした。

「もう少し、離れたほうがいい」

その言葉を聞いてきょとんとした後、CoCoさんはおもむろに隣の京介さんの方を見上げて、ついで足元まで見下ろし、芝居がかった様子でうんうんと頷いてから、どういう意味だコラというようなことを言って師匠に向かって水を蹴り上げた。
そのあとしばらく4人入り乱れての水の掛け合いが続いた。
やがて俺は疲れて川からあがり、熱い岩の上にたっぷり水をかけて冷ましてから座り込む。
他の3人は気持ちよさそうに、深さのある下流のあたりを泳ぎ回っている。
俺も泳げたらなあ、と思う。
完全なカナヅチというわけではないが、足がつかないところへは怖くてとても行けない。
溺れる、という恐怖感というよりは、足がつかない場所そのものに対する潜在的な恐怖心なのだろう。
なにも足に触れるはずのない水深で、「なにか」に触ってしまったら……そう思うと、いてもたってもいられず、水から出たくなる。
まして今、川の真ん中に誰のものともつかない土気色をした「手」が突き出ているのが見えている状況では、とても無理だ。

「手」に気がついた時にはかなりドキッとしたが、その脈絡のなさに自分でもどう反応していいのかわからない感じで、とりあえず深呼吸をした。
師匠たちの泳いでいる場所からさらに下流。岩肌の斜面から覆いかぶさるような藪が突き出ていて、その影が落ちているあたり。
どう見ても人間の手に見えるそれが、二の腕から上を水面に出して、なにかを掴もうとするように手のひらを広げている。
師匠たちは気づいていない。
俺は眼鏡をそろそろとずらしてみる。
ぼやけていく視界の中で、その「手」だけが輪郭を保っていた。
ああ、やっぱりと、思う。
そこに質量を持って存在する物体であるなら、裸眼で見ると他の景色と同じようにぼやけるはずなのだ。
この世のものではないモノを見分ける方法として師匠に習ったのだったが、俺は夢から覚めるための技術として似たようなことをしていたので、わりと抵抗なく受け入れられた。
悪夢を見てしまうとほっぺたをつねって目を覚ます、なんていうやり方が効かなくなってきた中学生のころ、俺は「夢なんてしょせん、俺の脳味噌が作り出した世界だ」という醒めた思考のもとに、その脳味噌が処理しきれないことをしてやれば夢はそこで終わると考えた。
夢から覚めたいと思ったら、本を探すのだ。もしくは新聞でもいい。
とにかく、俺が知るはずのないものを見ること。そして、そこに書いてある情報量がページを構成するのに足りないことを確認し、「ざまあみろ脳味噌」と嗤う。
本質からして都合よくできている夢なのだから、「本を読もう」とすると、それなりに本っぽいつくりになっているかも知れない。しかし、中身は無理なのだ。
世界を否定したくて文章を読んでいる俺と、世界を成り立たせるために一瞬で構築される文章、その二つを同時に行うには脳の処理速度が絶対に追いつかない。
そして、化けの皮が剥がれたように夢が壊れていく。

そうして目を覚ますのは俺の快感でもあった。
それと同じことが、この眼鏡をずらす手法にも言える。
仮に途方もなくリアルな生首の幻覚を見たとして、ああ、これは現実だろうかと考えたとき、眼鏡をずらしてみる。
すると、現実には存在しない生首だけは、ぼやけていく世界から取り残されたように、くっきりと浮かび上がってくる。
もし脳のなんらかの作用で、「眼鏡をずらしたら生首もぼやける」という潜在的な認識のもとに生首もぼやけて見えたとしても、それは「その距離であればこのくらいぼやける」という正確な姿を示さない。必ず他の景色とは「ぼやけ具合」が食い違って見える。
それが一瞬で様々な処理をしなくてはならない脳味噌の限界なのだと思う。
だが、幻覚はまた、夢とも違う。
ああ、コイツは幻だと気づいたところで、消えてくれるものと消えないものとがあるのだ。

「うおっ」
という声があがり、CoCoさんとぶつかりそうになった師匠が立ち泳ぎに切り替える。
「川でバタフライするな」
そんなことを言いながらCoCoさんのほうへ水鉄砲を飛ばす。
そのすぐ背後には、水面から突き出た手。
思わず師匠に警告しようとした。
しかし、なにか危険なものであるなら、俺が気づいて師匠が気づかないなんてことがあるのだろうか。
ならばこれはただの幻なのだ。
俺の個人的な幻覚を、他人が怯える必要はない。
けれど、なぜ今そんなものが見えるのか……薄ら寒いものが背中を這い上がってくる。
師匠はなにも気づかない様子で再び平泳ぎに戻り、「手」から離れて上流の方へやってくる。
俺は「手」から目を離せない。
肘も曲げず、まるで一本の葦のように流れに逆らってひとつ所に留まっている。
そこからなんらかの意思を感じようとして、じっと見つめる。
ふいにCoCoさんが川縁で声をあげた。
「これって、なんだろう」
そちらを見ると、水面からわずかに出っ張っている石にへばりつくように、白いものがある。
近寄って来た京介さんが無造作に指でつまむ。
それは水に濡れた紙のように見えた。
あっ、と思う間もなくその白いものが千切れて水に落ち、流されていった。
指に残ったものをしげしげと見ていた京介さんが、「紙だ」と言う。

「目がある」
そう続けて、残された部分にあるわずかな切れ込みを空にかざした。
たしかにそこには二つぽっかりと穴が開き、それまるで生き物の目を象っているように見えた。
「よくそんなの触れるな」
師匠がざぶざぶと川から上がりながら言う。
京介さんの視線が冷たく移り、何も返さずにその白い紙を水に投げた。
紙は沈みそうになりながらも流れに乗った。
全員の視線が自然とそこに向かう。
下流で、藪の影が落ちているあたりを通り過ぎるとき、あの「手」がもう見えないことに気がついた。
まるで溶けるように消えてしまっていた。

持参していたタオルで体を拭いて、俺たちは河原を出た。
冷たい川の水に浸かったことで、さっきまでのまとわりつくような熱い空気が嘘のように霧消して、涼しいくらいだった。
けれどそれも一瞬のことで、歩き始めるとすぐにまたじっとりと汗が浮き出てくる。
車に戻る前に寄り道をして、近くの商店でアイスを買った。
店のおばちゃんは見知らぬ若者たちを不審そうに見ながらも、棒アイスを4本出してくれた。
そういえば今日は平日なのだった。
まして若者の極端に少ない過疎の村だ。小さい頃、何度かここでアイスを買っただけの俺の顔を覚えていないのも無理はなく、よそ者が来たという程度の認識しかなかっただろう。
開いてるのかどうかもよくわからない店が3、4軒並んでいるだけの、道端のささやかな一角だった。

食べながら帰ろうというみんなに、ちょっと待ってくださいと言いながら俺は店のおばちゃんに
「この先の河原って、最近水難事故かなにか起きましたか」
と聞いてみた。
おばちゃんは眉をひそめ、「最近はないねえ」とだけ言って次の言葉も待たず店の奥に引っ込んでいった。
ああ、俺もすっかりよそ者なのだなぁと、少し寂しくなった。
その後、アイスをかじりつつ元来た道を歩きながら師匠が言う。
「あの紙は幣だね」
たぶんそうだと答えた。
神様や悪霊を象った紙人形とでも言えばしっくりくるだろうか。この村では、さまざまな儀式にその幣を使う。
「なんの幣だった?」
遠目に見ただけだし、目がふたつ開いてるというだけではさっぱりわからない。なにより俺自身が詳しくない。
「川ミサキか、水神かな」
師匠はさらっとそう言う。どこで調べたのか知らないが、俺より知っていそうな口ぶりだ。
日が翳り始めた道をだらだらと歩いていると、さっきの四つ辻に差し掛かった。
すると、まるでさっきの再現のように京介さんが短い声をあげて道に屈みこむ。
さすがに驚いて大丈夫ですかと様子を伺うと、手で押さえている右のふくらはぎから薄っすらと血が流れているのが目に入った。
CoCoさんがしゃがみこんで「なにかで切った?」と聞いている。
京介さんは首を横に振る。

切ったって、いったい何で?
俺は周囲を見渡したが、見通しもよく、なにもない道の上なのだ。
カマイタチ。
そんな単語が頭に浮かんだが、師匠が道の真ん中に両手をついて這いつくばっているのを見て、一瞬で消える。
目を輝かせて、まるでコンタクトレンズでも探すように土の上に視線を這わせている。
なにをしてるんですか。
その言葉を飲み込んだ。
周囲の空気が変わった気がしたからだ。
足元から、ゆらゆらと悪意が立ちのぼってくるような錯覚を覚えて、身を硬くする。
「おい、よせ」
京介さんは羽織っている上着のポケットから小さな絆創膏を取り出してふくらはぎに貼り、立ち上がりながらそう言った。
師匠はそれが聞こえなかったように地面を食い入る様に見つめ、独り言のように呟く。

「なにか、埋まっているな、ここに」

心臓に悪い言葉が俺の耳を撫でるように通り過ぎる。
京介さんが師匠に近づこうとしたとき、チリリンと耳障りな音がして自転車が通りがかった。
泥のついた作業着を着込んだ中年の男性が、不審そうな目つきでこちらを見ている。
同じ方角からは似たような格好をした数人が自転車で近づいてきている。
四つ辻の真ん中で這いつくばっていた師匠は、なにを思ったかピョンと勢いよく立ち上がると「腹減った。帰ろう」と言った。
俺は気まずい思いで道をあけて自転車たちをやり過ごす。
通り過ぎた後も、ちらちらと視線を感じた。
ヨソモノヨソモノ。
そんな声が聞こえた気がした。
それも含めて、俺は早くここを立ち去りたかった。率先してもと来た道へ進んで行き、民家のそばに停めてあった車に乗り込む。
ようやく嫌な感じが収まった。
師匠は上機嫌でエンジンをかけ、ふたたび蛇行する山道を登り始める。CoCoさんはなにを思ったか京介さんの絆創膏をつっつき、「痛いって」と怒られた。
(ほんとうに傷口があるのか確かめた)
助手席に身を沈めながら、後部座席のやりとりにふとそんなことを思う。
ミラーにうつるCoCoさんの表情からはやはりなにも読み取れなかった。

伯父の家に帰ると、従兄妹のハツコさんが来ていた。伯父夫婦の長女だ。
年が離れていたのであまり印象は残っていないが、今は同じ集落の家に嫁いでいるらしい。
「今日は応援」と言って小太りの体を機敏に動かしながら、伯母の炊事を手伝っている。
俺たちはというと、夕飯までの時間をそれぞれの部屋で過ごした。
ろくに泳いでいないのに俺はやたら疲れていて、ウトウトしっぱなしだった。
ほどなく茶の間に呼ばれ大所帯での食事が始まった。
近くの山で採れた山菜をふんだんに使った田舎料理は、実家の母が作るものより「お袋の味」がして、なんだか感傷的になる。
俺たち4人と伯父夫婦。ハツコさんとその小さな子ども。そして実にタイミングよく現れたユキオ。9人で囲む食卓だった。
なにが凄いって、その人数で囲めるちゃぶ台があることだ。

「いまはもう、こんなでっかいのがいる時代じゃないけんどのう」
と伯父は苦笑した。
この家にはあと一人、ジッサンと呼ばれるお爺さんがいるのだが、寝たきりに近いらしく食卓には出てこない。
ジッサンと言っても俺の祖父にあたる人ではなく、祖母の兄らしい。
らしいというのは、会ったことがないからだ。身寄りがなくなっていたところをこの家で引き取ったそうだ。俺の足が遠のいてからのことだった。
「にゃあにゃあ」
ユキオがひそひそと口を寄せて来る。
「どっちが彼女なが」
これには彼なりの期待も含まれているのだろう。京介さんCoCoさんも一般的には美人の部類に入るだろうから。
「どっちも違う」
そう言うと喜ぶかと思いきや、残念そうな様子で
「両方あの兄さんのか」
と溜息をつくのだ。
「片方だけ」と言ってやると、「ふーん」と鼻で返事をしながら肉系ばかりを箸でかき集めていった。
その時、家の外に犬の遠吠えが響いた。
「あ、リュウの晩御飯忘れちょった」
そう言って伯母が腰をあげようとするとハツコさんが笑って先に立ち上がった。
俺はふと思い出して、伯父に祖母の葬式の時にリュウがいたかどうか聞いた。

「おらんかったかや」

伯父が首を傾げていると伯母が手首から先を器用に折り曲げながら言う。
「ほら、ジッサンが捨てたあとじゃき」
伯父はオオ、と合点していきさつを話してくれた。
どうやらリュウは祖母の葬式の2ヶ月ほど前に「死んだ」のだそうだ。
目をとじて動かないリュウを見て、まだ足腰がしゃんとしていたジッサンが死んだ死んだと大騒ぎし、裏山の大杉の根本に埋めに行ったのだが、なんとこれが早合点。
自力で土から這い出てきたらしく、半年くらいたって山中で野良犬をやっていたところを近くの集落の人が見つけて連れて来てくれたのだそうだ。
この話、俺の連れには大いにウケた。
が、俺は(なんだ、やっぱり別の犬なんじゃないか)と思ったが、長年暮らした家族がリュウだというんだから、と考えるとなんだかあやふやになる。
あとでもう一度じっくり顔を見てみようと心に決めた。
それから目の前の料理が減るのに反比例して食卓の会話が増えていき、俺は頃合を見計らって、口を開いた。

「なんか、いざなぎ流のことを知りたがってるみたいなんだけど」

目で師匠と京介さんを指す。
するとすぐさまユキオが身を乗り出した。
「だったらオレオレ。オレ今、先生について習いゆうがよ」
意外に思って、適当なコト言ってないかコイツ、と疑った。
すると伯母が「あんたは神楽ばあじゃろがね」と笑う。
どうやら先生についているのは本当らしい。
ただ、神楽舞を習っているだけのようだ。いざなぎ流の深奥は神楽ではなく、祈祷術にあるというのは俺でもわかる。
「まあでもいざなぎ流のことが知りたかったら、誰かに聞かんとわからんき」
ユキオの先生に会わせてもらったらどうか、そう言うのだ。
伯父のその言葉は、いざなぎ流の秘匿性を端的に表している。
そもそも俺の田舎に伝わるいざなぎ流とは、陰陽道や修験道、密教や神道が混淆した民間信仰であり、それらが混じっているとはいえ、古く、純粋な形で残っている全国的に見ても貴重な伝承だそうだ。
祭りや祓い、鎮めなどを行うそのわざはしかし、ほとんど公にはされない。
なぜならそれらは「太夫」から「太夫」へ、原則口伝によって相伝されていくからである。
もちろん、その膨大な祈祷術体系を丸暗記はできない。
しかしそのための「覚え書」はまた、師匠から弟子へと門外不出の「祭文」として伝えられるのみなのである。
なにかのお祭りには必ずと言っていいほど太夫さんが絡むが、俺の記憶の中ではその祈祷はただ「そういうもの」としてそこにあるだけで、「何故」には答えてくれない。
「何をするために、何故その祈祷が選ばれるのか」
何をするためにというのは分かる。川で行われるなら水の神様を祭り鎮めるためで、家で行われるなら家の安泰のためだ。
だが「何故」その祈祷なのか、という部分には天幕がかかったように見えてこない。祈祷はさまざまな系統に分かれ、使う幣だけで数百種類もあるのである。

「よっしゃ、明日さっそく行こう」
ユキオは箸をくるくると回して俺たちの顔を見る。
師匠は願ってもない、と頷いた。京介さんは「頼みます」と軽く頭を下げる。

田舎(後編)

俺は明日も平日だったことを思い出し、ユキオをつついたが「大丈夫、大丈夫」と請合った。
いろいろと大丈夫な職場らしい。
ユキオとハツコさんたちが帰っていったあと、俺たちは順番に風呂に入ることにした。
夜になってようやく涼しくなってきたが、汗を重ねた肌が気持ち悪い。
女性陣はあとがいいと言うので、まず俺、ついで師匠という順番で入ることにした。
早々に俺が風呂からあがり、3人でトランプをしているとTシャツ姿で頭から湯気を昇らせながら師匠が出てくる。

「あー、気持ちよかったー。風呂に入ったのって半年ぶりくらいだ」

その言葉に女性二人の目が冷たくなる。
「ちょっと」「寄らないでくださる」
ステレオで言われ、師匠は憤慨する。
「って、おい。僕はシャワー派なんだって」
弁解する師匠に冷たい視線を向けたまま二人は女部屋に戻っていく。
「知ってるだろ!」
わめく師匠に、振り向いた京介さんがいつもより強い調子で「死ね」と言った。
俺は笑いをこらえるのに必死だった。

これだよ。
二人を無理やりセットにした甲斐があったというものだ。
それから疲れていた俺たちは早々に床についた。
若者のいないこの田舎の家は寝付くのが早く、あまり遅くまで起きて騒がしくしても悪いという思いもある。
寝る前にリュウの顔を拝もうと思ったが、犬小屋に引っ込んでしまいお尻しか見えなかった。
部屋の明かりを消し、扇風機に首を振らせたまま横になるとあっというまに眠りに落ちた。

どのくらい経っただろうか。
バイクの音を遠くで聞いた気がして、なぜかユキオがまた来た、と思った。
そんなはずはない、と思いながら徐々に頭が覚醒し、むくりと起きる。
腕時計を見ると深夜2時過ぎ。トイレに行こうと起き上がると、隣の布団がカラになっていることに気づく。「師匠」と小声で呼びかけるが、部屋のどこにもいない。
とりあえずトイレで用を足しに行くと、部屋に帰るときに縁側に誰かの影が映っている。
そっと障子を開けると、京介さんが縁側に腰掛けて夜陰に佇んでいる。
右手には煙草。
こちらに気づいて視線を向けてくる。

「深い森だ」

そうか。京介さんは自分の部屋でないと眠れないということを今更ながら思い出す。
「浄暗という言葉があるだろう。清浄な闇という意味だ」
ここは空気がいい。
そう言って目の前に広がる木々の黒い陰を眺めている。
遠くで湧き水の流れる音が聞こえる。

「師匠を見ませんでしたか」

そう問うと、煙を吐きながら答えてくれた。
「バイクで出て行ったな」

そういえば、伯父から滞在中自由に使いなさいと言われていたことを思い出す。
どこに、と聞こうとしてすぐに聞くまでもないと思いなおした。
明日もいろいろありそうだ。
そう思って、今日のところはきちんと寝ておくことにする。
「おやすみなさい」という言葉に、京介さんは小さく手を振った。

朝が来た。
目を覚ますと、隣で師匠がひどい寝相をしている。
少しほっとする。
伯父夫婦と合わせて6人で朝食をとる。なにか足らない気がした。
そうだ。新聞がない。
「ああ、昼にならんと来ん」
そういえばそうだった。俺のPHSも師匠の携帯も通じない、情報を制限された田舎なのだ。
食べ終わって、部屋に帰ると師匠に夜のことを聞いてみた。

「行ったんですよね、あの京介さんが怪我をした場所へ」
「うん」と師匠は答え、扇風機のスイッチを入れながら胡坐をかいた。
「なにかあったんですか」
「いや、なにもなかった」
煮え切らない答えに少しイラッとする。あんなやり取りをしておいて、なにもないはずはない。
すると師匠は意味深に目を細めると、ゆっくりと語った。
「昼にはあり、夜にはなかった」
掘り出されていた、というのだ。

「僕らが気づいたことを、知られたようだ」
言葉の端に、気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「なにが、埋まっていたんですか」
師匠は畳の上にごろんと寝転がった。
「犬神を知ってるかい」
「聞いたことは」
京介さんがこの旅の前に口にしていたのを覚えている。

「古くは呪禁道の蠱術に由来すると言われる邪悪な術だよ。犬神を使役する人間が他人の物を欲しがれば、犬神はたちまちにその人に災いをなし、その物を与えるまで止むことはない。
犬神は親から子へと受け継がれ、その家は犬神筋とか犬神統などと呼ばれる。犬神筋は共同体の中で忌み嫌われ、婚姻に代表される多くの交流は忌避される。そのために犬神筋は一族間での通婚を重ね、ますますその”血”を濃くしていく」

師匠は秘密めかして仰向けのまま指を立てる。

「犬神というのはその名前とは裏腹に、小さな鼠のような姿で描かれることが多い。もしくは豆粒大の大きさの犬だとする記録もある。犬神筋はそれらを敵対する者にけしかけ、腹痛や高熱など急激な変調をもたらす。犬神にとりつかれた者は山伏や坊主などに原因を探ってもらい、どこの誰それの犬神が障っているのだと明らかにする。その後は、原因と判じられた犬神筋の家へ赴いて……」
「貢物を差し出すわけですか」
口を挟んだ俺に、師匠は首を振る。
「文句を言いに行くんだよ。人の道に外れたことをしやがって、と」

犬神の伝説が息づいているのは、農村地帯がほとんどなのだそうだ。
人と人との関わりが深く濃密な、狭い共同体の中でなにか理不尽な災いが起こった場合、それを誰か特定の人間のせいにしてしまうのは、日本の古い社会構造の歯車の一つなのだろう。
それが差別階級を生む要因にもなっている。
ところが師匠は、この犬神筋についてはいわゆる被差別部落民とは少し意味合いが違うと言う。

「犬神筋は、裕福な家と相場が決まっている。それも、農村に商品経済、貨幣経済が浸透しはじめたころに生まれた新興地主がほとんだ。土地を持つこと、そ して畑を耕すことがすべてだった農村の中に、土地を貸し、貨幣を貸し、商品作物を流通させることで魔法のように豊かになっていく家が出現する。そしてこのパラダイムシフトを理解できない人々は思う。
”あの家が金持ちになったのは、犬神を使っているからだ”
と。我々の土地を、財を、貪欲に欲しがり、犬神を使役してそれらを搾取しているのだと。金がないのも、土地がないのも、腹を下したのも、怪我をしたのも全部犬神筋のせいだ、というんだ。そう信じることで、共同体としてなんらかのバランスを保とうとしているのかも知れない」

気がふれるということを、昔の人は狐がついたとか、犬がついたとか言うだろう?師匠はそう続けながら指を頭のあたりで回す。

「これは犬神に限らず、狐憑きも蛇神筋も猿神筋も同じだ。気がふれたフリをするのはとても簡単で、しかも何が憑いているのかを容易に表現できるからだ。狐なら狐の真似を、犬なら犬の真似をすればいい。そうすれば、憑き物筋という家が存在し、それが他に害を成しているということを、搾取されている人々の間で再確認することができる」

ようするに「やらせ」なのだ、というように俺には聞こえた。
犬神は、なにかおどろおどろしい存在なのではなく、いや、それ自体が人の心の闇を秘めているにせよ、農村における具体的な不満解消のシステムの一つに過ぎないのだと。そう聞こえたのだった。
しかし師匠はふいに押し黙る。
俺はその沈黙の中で、前日にあの四つ辻で京介さんが倒れたシーンと、そのあとに襲われた悪寒が脳裏をかすめ、ジワジワと気分が悪くなっていった。

「犬神の作り方として伝えられる記録に、こんなものがある。まず、犬を土中に 埋め、首だけを出して飢えさせる。そして飢えが極限にきたところで餌を鼻先に置き、犬がそれにかぶりつこうと首を伸ばした瞬間にその首を鉈で刎ねる。
”念”の篭ったその首を箱に納めて術を掛け、犬神とする。その時、残された胴体は道に埋めたままとし、その上を踏みつけられることで犬の「念」は継続し、また強固なものになっていく。その道が人の行き来の多い、四つ辻であればなお理想的とされる」

「うっ」
思わず吐き気がして口を押さえた。
嫌な予感が頭の中でパチパチと音を立てているような気がした。

ユキオが原付に乗ってやって来たのは、朝の10時過ぎだった。
「おー、リュウ。お出迎えとは珍しいにゃあ」
そう言いながら、軒先に座っているリュウの頭を撫でた。俺も朝方、飯を食べにノソノソと犬小屋から這い出てきたリュウの顔をじっくりと観察したが、記憶のヴェールは「自信ないけど、リュウらしい」という程度にしか、真実に近寄らせてくれなかった。
「じゃあさっそく行こう」
ユキオが原付で先導し、俺たちは師匠の運転で伯父に借りた車に乗ってついていった。
最初京介さんが運転席に乗ろうとすると、師匠が「初心者マークは大人しく後ろに乗ってろ」というようなことを言って、「そっちも大した腕じゃないくせに」と言い返され、険悪なムードになりかけたことを言い添えておく。
ユキオの「先生」は、本当に学校の先生だったらしい。ユキオは小学校の頃に教わったことがあるそうだ。定年になり、子供たちが独り立ちすると山奥に土地を買って住まいを構えて奥さんと二人で暮らしているとのことだった。
「こんな田舎で公務員なんてやってると、デントーってのを守る義務から逃げれんがよ」
出掛けにユキオはそう言ったが、神楽を習っていること自体はまんざら嫌でもない様子だった。
「先生はちょっと気難しいき、変なこと言うても気ぃ悪うせんとって下さい」
俺は幼い頃に見た白装束の太夫さんの神秘的な横顔を姿を思い浮かべた。
車は一度国道に出てから川沿いを走り、再び山側へ折れるとそこからは延々と山道を上って行った。
道は悪く、割れた岩のかけらのようなものがアスファルトの上のそこかしこに転がっている。
「これって落石じゃないのか」と師匠はぶつぶつ言いながらも慎重に石を避けていく。

昨日より幾分日差しは穏やかで、車の窓を開けると風が入ってちょうどいい涼しさだ。
山の斜面に蛇の黒い胴体を見た気がして身を乗り出した時、後部座席のCoCoさんがふいに口を開いた。
「バイクから、離れない方がいい」
さっきまで隣の京介さんを意味なくくすぐって騒いでいたのに、一変して真剣な響きの声だったので思わず前方に視線をうつす。
ユキオを見失いそうになっているのかと思ったが、適度な距離を保ったまま車はついていけている。
どういう意味だったのだろうとCoCoさんの方を振り返ろうとした時、不思議なことが起こった。
ユキオの原付が加速した様子もないのにスルスルと先へ先へと遠ざかって行くのだ。
坂道でこっちの車の速度が落ちたのかと一瞬思ったが、そうではない。速度メーターは同じ位置を指したままだ。
何が起こっているのか理解できないうちに車は原付から離され、ユキオの白いヘルメットはこちらを振り向きもしないで曲がりくねる山道の奥へと消えて行こうとしていた。
「アクセル」
京介さんが鋭く言ったが、師匠は「踏んでる」とだけ答えて真剣に正面を見据えている。
こちらが遅くなったわけでも、原付が早くなったわけでもない。俺の目には道が伸びていっているように見えた。
周囲を見回すが、同じような山中の景色が繰り返されるだけで、一体どこが「歪んで」いるのかわからない。

そうしているうちに完全にユキオの原付を見失った。道は一本道だ。
追いつくまでは、このまま進むしかない。
師匠は一度ギアを落としたが、回転音が派手になるだけで効果がない。
「まずいなあ」
ギアを戻しながら呟く。
「これって、なんの祟り?」
師匠の軽い調子に、京介さんは「知らない」と突き放す。
俺は今起きていることを信じられずに、ひたすら目をキョロキョロさせていた。
まだ午前中の早い時間帯だ。すべてが冗談のように思える。
「実にまずい」
前方に目を向けると、道がますます狭くなっているような気がした。カーブもきつくなっていて、フロントガラスの向こう側の景色はいちめんに屹立する木、木、木。
緑色と山の黒い地肌が壁となって迫ってくるかのようだ。
ギリギリ二車線の幅が、今は完全に一車線になっている。ガードレールも消えさってしまった。
右側は渓谷だ。転落したらまず、命はない。
反応を見る限り、俺が見ているものを他の3人も見ているのは間違いない。
集団幻覚?
そんな言葉が頭をよぎる。しかし、車のアクセルの効果までそんなものに束縛されてしまうのだろうか。
「なあ」と師匠がCoCoさんに呼びかけた。
「これって、夢じゃない?」
CoCoさんは首を横に振る。師匠は少し経ってから頷く。
奇妙なやりとりだ。

「なにか他に異変が起きてくれれば、ヒントになるんだけどな。たとえば木の枝に」
人間がつりさがっているとか……
囁くような師匠の口調に、思わず身を竦める。
本当に周囲の山林のなかにそんな不気味な光景が現れるような気がして、チリチリとうなじの毛が逆立つ。
前へ伸びる道と後ろへ伸びる道。その両端が、曲がりくねる山のどこかで繋がっているようなイメージが頭を掠め、ゾクリとした。
師匠は迫ってくる鋭いカーブに際どくハンドルを切り続けている。まるで止まることを畏れているようだった。
異変、異変。
そんなフレーズが頭の中で繰り返されていると、視線の中に見覚えのあるものがチラッと映った気がした。
山の斜面に目を凝らすが、あっと言う間に通り過ぎる。
少しして、前方にもう一度同じものが現れた。それを見た瞬間俺は叫んだ。
「蛇が!」
師匠が素晴らしい反応でブレーキを掛ける。
車はカーブする斜面に半ば擦りそうになりがら止まった。
京介さんが後部座席のドアを開けて飛び降りる。そしてすぐさま木の根っこをよじ登り、山肌に横たわった黒い蛇の姿をとらえた。
俺たちも車から降りて近づく。
見ると、その黒い頭には長い釘が深々と突き通っている。頭から顎まで貫かれて地面に縫い付けられ、蛇は死んでいた。丈の短い草の中にのたうつその体が、地下水のように湧き出たどす黒い血のように見える。
京介さんが右手の指を絡ませ、その釘を抜いた。

その瞬間、上空から。
上空から、としか言いようがない場所から耳をつんざく様な悲鳴が聞こえた。男とも女とも、そして人とも獣ともつかない声だった。
しかし次の瞬間、説明しがたい感覚なのであるが、一瞬にしてそれが幻聴だとわかったのだった。そしてなにか目の前の光景が今にもペロリと裏返りそうな、そんな不気味な予感に襲われる。
ざわざわと木の枝が鳴って、俺は足を棒のように固まらせていた。
「車に戻れ」という師匠の声に我に返ると、逃げ込むように助手席に飛び乗った。
シートベルトをする暇もなく、車は急発進する。
そして次のカーブを曲がるや否や、ユキオの原付が目の前に現れた。
遠ざかって行く前となにも変わらない様子で山道を走り、白いヘルメットがゴトゴトと揺れている。
道もいつの間にか元の幅に戻り、ガードレールも所々へこみながらもちゃんと両側にある。
俺は言葉を失って、首をゆるゆると振る。
まるでさっきまで緑色の迷宮に閉じ込められていた間、時間がまったく経過していなかったかのように、すべてはすっきりと繋がっていた。
今まで心霊体験の類を数知れず味わってきた俺にも、まるで白昼夢のような出来事に呆然とせざるをえなかった。
「やってくれたな」
師匠が深く息を吐いて、背もたれに体を預けた。
「今のが人間の仕業とは」
言葉の端から、ゆらゆらと青白い炎が立つような声だった。

京介さんの方を見ると、さっきの蛇に打ち込まれていた釘を手にしている。
「持っていろ」
そう師匠が言ったとたん、京介さんは窓からそれを投げ捨てた。
「おい」
怒るというより、溜息をつくような調子で師匠が咎める。
京介さんは「よけいな物がよけいな物を招くんだよ」と言って横を向いた。
師匠は恨めしそうにバックミラー越しに睨んでいる。
前を行くユキオがハンドルから片手を離し、山側を指さした。
もうすぐ目的地だ。ということらしい。

まもなく俺たちは山の中にぽつんと立つ一軒家に辿り着いた。
伯父の家によく似た造りの日本家屋だ。広い庭に鶏を飼っている。
ユキオがヘルメットを脱ぎながら「せんせー」と家に向かって声をかけ、俺は後ろから近づいてその耳元に囁いた。
「なあ、さっき俺たちの車を見失わなかったか」
「いや」
ユキオは怪訝そうに首を振る。
そうだろうとは思った。おそらくあれは、俺たちの霊感に反応したのだろう。ユキオには何事もない山道にすぎなかったはずだ。
だが、俺たちが狙われたのは明らかだった。なにか、「警告」じみた悪意を感じたからだ。それは、京介さんが足から血を流したあの四つ辻で感じたものと同質のものだった。
俺は師匠の顔を見たが、首を横に振るだけだった。
なりゆきにまかせよう、というように。

「電話しといた例の人たちです」
ユキオが玄関の中に体を入れながら奥に向かって言葉をかける。
奥からいらえがあって俺たちは家の中へ招き入れられた。
畳敷きの客間に通され、その整然とした室内の雰囲気から正座して待った。
廊下がきしむ音が聞こえ、白髪の男性が襖の向こうから姿を現した。
ユキオの小学校の先生だったというので、もう少し若いイメージだったが、70に届こうという歳に見えた。
先生は客間の入り口に立ったままで室内を睥睨し、胡坐をかいているユキオを怒鳴った。

「おんしゃあ、どこのもんを連れてきたがじゃ」
「え」

と言ってユキオは目を剥いた。
俺は驚いて仲間たちの顔を見る。
先生は険しい表情をしたまま踵を返すと、足音も乱暴にその場から去ってしまった。
それを慌ててユキオが追いかける。
残された俺たちは呆然とするしかなかった。
しかし師匠は妙に嬉しそうな顔をしてこう言う。

「あの爺さん、どこのモノを連れてきたのか、と言ったね。そのモノはシャと書く者じゃなくて、モノノケの物だぜ」
あるいは、オニと書く鬼(モノ)か……師匠はくすぐったそうに身をわずかによじる。
京介さんがその様子を冷たい目で見ている。
やがてもう一度襖が開いて、先生の奥さんと思しきお婆さんが静々と俺たちの前にお茶を並べてくれた。

「あの」
口を開きかけた時、ユキオを伴って再び先生が眉間に皺を寄せたままで現れた。
入れ違いにお婆さんが襖の向こうに消える。
座布団をスッと引き寄せながら先生は俺たちの前に座った。ユキオも頭を掻きながらその横に控える。
「で」
先生は深い皺の奥から厳しく光る眼光をこちらに向けて口を開いた。
「先に言うちょくが、わしは本来おまんのようなもんを祓う役目がある」
その目は師匠を見据えている。
「その上で聞きたいことというがはなんぞ」
師匠は怯んだ様子もなくあっさりと口を開いた。
「いざなぎ流の勉強を少し、させてもらいました。密教、陰陽道、修験道、そして呪禁道。それらが渾然一体となっているような印象を受けましたが、陰陽道の影響がかなり強く出ているようです。明治3年の天社神道禁止令とその後の弾圧から土御門宗家はもちろん、有象無象の民間陰陽師も息の根を止められていったはずですが、この地ではどうしてこんな現実的な形で残っているのでしょう」
先生は表情を崩さずに
「知らん」
とだけ答えた。
「まあいいでしょう。法律の不知ってやつですか。そういえば『むささび・もま事件』ってのも舞台はこのあたりじゃなかったかな。
……話がそれました。ともかくいざなぎ流はこの平成の時代に、未だに因縁調伏だとか病人祈祷だとかを真剣に行っているばかりか、式を打つこともあるそうですね」
「式王子のことか。……生半可に、言葉ばかり」
「まあ付け焼刃なのは認めますが。僕が知りたいのは実は犬神筋についてなのです」
「わしらには関係ない」
先生は淡々と返す。
「まあ聞いてください。ご存知でしょうが、犬神筋というのは四国に広く分布する伝承です」
師匠は正座したまま語った。
曰く、犬神を祓うことのできるわざの伝わる場所には、それゆえに犬神が社会の深層に潜む余地があるのだと。ましてそんな技法が日々の生活の中に織り込まれているこの地では、犬神もまた日常のすぐ隣に存在している。
「ここに来る途中、頭を釘で貫かれた蛇を見ました。明らかに呪いをかけるための道具立てです。もし仮に、誰かの使っている犬神の、その胴体を埋めてある秘密の場所を見つけられてしまったとしたら、その誰かは一体どうするのでしょうか」
師匠が言葉を途切れさせたその瞬間、みんなの手元に置いてある湯飲みが一斉にカタカタと鳴りはじめた。
地震かと思い、とっさに電灯の紐を見る。

紐はわずかに揺れていて、外から光の射す障子の白い紙も微かに振動していた。
こぼれたお茶の雫を京介さんが指で掬い、じっと見つめている。俺はどうやらただの微弱な地震らしいと思ってなお、得体の知れない胸騒ぎがした。
揺れが収まってから先生はゆっくりと口を開く。
「いね」
え?と問い返す師匠に、「帰れ、という方言です」と耳打ちする。
「それは、この地を去るほかないということですか」
師匠は急に立ち上がり、障子に近づくと骨に手をかける。サーッと木が擦れる心地よい音とともに、眩しい光が飛び込んできた。

縁側の向こうでは、庭につくられた垣根の中で鶏が地面をついばんでいる。
その様子を見ながら、師匠がボソっと言った。
「全然騒ぎませんでしたね」
さっきの地震のことを言っているのだと気づくまで、少しかかった。
確かに鶏の騒ぐ音はしなかった。
「なんとかなりませんか」
師匠の言葉に、先生は首を横に振るだけだった。
ユキオはよくわからないままにオロオロしているように見えた。
「どうも僕はここではやたら嫌われてるみたいだなあ。フィールドワークのために郷土史研究家だとか民俗学の研究者が訪ねてくることだってあるでしょうに。そんな部外者もみんな追い返すんですか」
「人じゃのうて魔物がやってくりゃあ、つぶてで追い払うががつねじゃ」
魔物と来たよ。
師匠は声になるかならぬかという小声で足元にこぼし、また顔を上げた。

「魔物と言えば、いざなぎ流では目に見えない魔物を儀式に引っ張り出すために幣という紙細工を作るそうですね。魔群というんですか。川ミサキだとか、水神めんたつだとか、蛇おんたつだとか。神様を模したものも多いようですが。それぞれに決まった形の幣があって、切り方・折り方は師匠から弟子へ御幣集という形で伝えられると聞きました。ある資料で何点か挿絵を見たことがあります。ヤツラオだとかクツラオだとか、おどろおどろしい怪物も幣になってしまえば随分可愛らしくなってしまうと思いました。……ところで」
師匠は障子を閉め、一瞬室内が暗くなる。
「犬神の幣がないのはどうしてですか」
誰の気配ともしれない、ハッとした空気が漂う。俺は固唾を飲んで師匠を見ている。

「どの資料を見ても出てこないんですよ。犬神を象った幣が。たまたまかも知れない。あるいは見落としかも知れない。でもどこか引っかかるんです。犬神は深く土地に食い込んだ魔物で、四国の各地に隠然と広がっている。いざなぎ流によって祓われる対象として、どうしてもっと目立っていないんでしょうか」
先生は師匠の視線を逸らすように天を仰ぎ、深く溜息をついた。
そしてそれきり目を閉じて、なにも言葉を発しようとしなかった。
「わかりました。いにますよ」
いにますって、使い方合ってるよね。
師匠は俺にそう言うと、先生に向かって頭を下げ、止める間もなく部屋から出て行ってしまった。
残された俺たちもいたたまれない雰囲気になって、腰を上げざるを得なかった。
出されたお茶に誰ひとり手もつけないままに退散する羽目になるとは思わなかった。
と、俺の隣で京介さんが目の前の湯飲みに手を伸ばし、一気に飲み干した。
帰れと言われた去り際にそんなことをするなんて、少し京介さんのイメージとはズレがあり、奇妙な行動に思えた。
すると立ち上がりざま、俺にだけ聞こえる声でこうささやくのだ。
「貸してるタリスマンは持ってきたか」
かぶりを振ると、独り言のように「気をつけろよ」と言って部屋から出て行った。
俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。
冷たかった。
思わず手を離す。
出された時は確かに湯気が出ていた。間違いない。
あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。
一瞬のうちに熱を奪われたかのように、湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。
まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。

雨音

大学2回生の秋の終わりだった。
その日は朝から雨が降り続いていて、濡れたアスファルトの表面はもやのように煙っている。

こんな日には憂鬱になる。
気分が沈滞し、思考は深く沈んでいる。
右手には川があり、白いガードレールの向こうもかすかに煙って見える。
カッチカッチと、車のハザードランプの音だけがやけに大きく響く。
それだけが世界のリズムになる。すべてがそのリズムで成り立っている。
俺はもう一度川を見た。
あのガードレールのこちら側に雨は降り、あちら側にも同じ雨が降りそそいでいる。
道に落ちる水と、川面に落ちる水。見上げれば暗く低い空から、それでも数百メートルの高さをゆっくりと落ち、地表においてわずか数センチの違いで運命が分かれている。
このイメージが妙に可笑しくて、運転席でハンドルに頬杖をついている人に伝えた。
すると彼はめんどくさそうに口を開く。

「此岸と彼岸の象徴か。確かにこの世とあの世なんてたったそれだけの違いだよ。けど、地中に染み込んでも川を流れても、いずれは海にたどり着く」

海。
俺にオカルトを教えた師匠が言うその「海」は、きっと「虚無」と同義なのだろう。
彼は死後の世界を認めなかった。
ここでいう死後の世界とは、地獄とか天国とか、そういうこの地上以外の世界のことだ。
なぜか認めないのかはよくわからない。けれど頑なにそう信じていたのは確かだった。
夕暮れにはまだ少し早い。
俺と師匠は路肩にとめた車の中で、ずっと待っていた。先日雨の降る日に、師匠はここでなにか面白いものを見たらしい。

「いい雨が降っているぞ」

そう言って俺は呼び出され、そしてここにいる。
まるで刑事の張り込みだ。
そう思いながら、アンパンをひと齧りし、牛乳のパックを傾ける。
左手には空き地があり、草むらの中で誰かが置き去りにした一輪車が雨に打たれている。
誰も通らない。
ふいに師匠が口を開き
「仮に、生まれた時から地下室で育てられた子供がいるとして、その子は地下室の外で自ら体験するまで雨というものを知らないだろうか」
と、怖いことを言う。
「火よりも雨の歴史は古い。人間が猿だった頃から、いやそれ以前から地表で生きるすべての生物に雨の記憶が宿っているんじゃないかって、思うんだ」
遺伝子の奥深くに……
そう言ってガサガサとコンビニの袋を漁る。もうアンパンしか残っていないのに、諦め悪くかき回している。自分がアンパンばかり買ったくせに。

雨の記憶か。
思考が再び、深く沈降していく。
動物は生得的に、自分にとって危険なものを見分ける力がある。
捕食すべきものもまた。
それらに出くわした時、遺伝子に記憶された反応が起こる。
もっと原始的な生命にとっては、走光性や走水性がそれだろう。
同じように、雨に対する反応も生まれついてこの体の中に眠っているのだろうか。
気の遠くなるような過去から、連綿と受け継がれてきた記憶が。
はじめて雨を体験した時のことを思い出そうとする。
当然そんなことを今の俺は覚えてはいない。
すべての人に聞いてみたい。
『はじめての雨はどうでしたか』
と。
きっと誰も答えられない。誰もが体験したはずなのに。なんだか愉快だ。
もう一度、自分の記憶を探ってみる。
雨の匂いはいつも懐かしい。その懐かしさは、どこから来るのだろう。
とりとめもないことを考えていると、師匠の欠伸にふと現実に還る。

「来たぞ」

雨の筋に霞む道の先に、人影が現れた。
師匠は曇ったフロントガラスを袖で拭く。俺は目を凝らして前方を見つめる。
赤い傘が見えた。
続いてその傘の柄を持つ、女性の姿が浮かび上がって来る。表情まではわからない。30がらみだろうか。服の感じからそう思う。そしてなにか嫌な感じがした。
すぐにその嫌悪感の正体に気づく。
傘をさして歩く女性のすぐ後ろに、5,6歳の女の子がついて歩いている。桃色の靴。黄色い帽子。雨さえ降っていなければ、ごく普通の母親とその子どもに見えただろう。
だが、今は異様な光景だった。
傘をさす女性。その1メートル後ろを俯きながら歩く、傘を持たない子ども。
傘の下、寄り添うように歩いていればなんの違和感もないはず。
たった1メートルで、まるで此岸と彼岸だ。

「雨のせいか、鼻が利かない」

師匠はそう言って、食い入るようにそのふたりを見つめている。
やがて車の横を通り過ぎて、ふたりは再び雨の中に煙るように消えていく。
「あれは、生きている人間だと思うか」
俺に聞いている。
わからなかった。師匠にもわからなかったらしい。
もう姿は見えない。曇ったままのリアガラスを拭こうとシートを倒して手を伸ばすけれど、その手は宙に惑うだけだった。

「母親も娘も生身。母親は生身、娘は霊。母親は霊、娘は生身。母親も娘も霊」

師匠があまり感情を交えずにそう呟いた。
どれも悲しい。
なぜか、ひどく悲しかった。
息が詰まり助手席の窓ガラスを少し下げる。
ザーッというきめ細かい雨音が車の中に入り込んで来た。
ハザードランプのカッチカッチ、という時を刻む音が小さくなる。
音も、風景も、心も、何もかもが雨に降り込められている。こういう世界に、なってしまったみたいだ。
はじめて体験する雨がいつかは止むなんて、その時知っていただろうか。
ふと、すべての人に聞いてみたくなった。

追跡(前編)

大学1回生の冬。
朝っぱらからサークルの部室でコタツに入ったまま動けなくなり、俺は早々に今日の講義のサボタージュを決め込んでいた。

何人かが入れ替わり立ち代りコンビニのビニール袋を手に現れてはコタツで暖まったあとに去って行った。やがて一人だけになってしまい俺もやっぱり講義に出ようかなぁと考えては窓の外を眺め、その冬空に首をすくめてもう一度コタツに深く沈みこむのだった。
うとうとしていたことに気付き、軽くのびをしてそのまま後ろへ倒れ込む。
その姿勢のまま手を伸ばして頭の上の方にあるラックをゴソゴソと漁り、昔のサークルノートを引っ張り出しては読み耽っていた。
ふと、ラックの隅にノートではない小冊子を見つけた。ズルズルと引き抜く。
『追跡』
という題が表紙についている。何かの花を象った切り絵のようなイラストが添えられているそれは、どうやら個人で作ったホッチキス止めの同人誌のようなものらしい。
A4の再生紙で60ページほどの厚さだ。
パラパラとめくってみると、中は活字ばかりだった。

……真夜中わたしの部屋の上を、巨人がまたいでいきます。
巨人は重さもなく、匂いもなく、音も出さず、透明で
けして目に見えず、手に触れることもできません。
そして裏の森から、街の明かりがうっすらと光る方へ
しずしず、しずしずと歩くのです。……

短編小説のようだ。『巨人』という題名がついている。俺は何枚かページを飛ばした。

……公園で遊んでいた女の子を攫ったのはペットの犬を亡くしたからだった。
家の地下室で飼いはじめたものの、ちっとも懐かないので目を潰してみた。
すると少女はすっかり従順になり、ペットとして相応しい態度をみせはじめたのだった。
食事は1日2回。仕事に行く前と帰った後に与えた。
出入り口は一つだけ。私が現れそして消える、鍵の掛かったドア。
少女に名前はない。私はペットに名前をつけない。
2年が経った。
ふと思いついて地下室の壁に羽目殺しの窓を打ちつけた。
もちろんただの飾りだ。向こうには何もない。
少女にはこういった。
「窓の向こうは海だよ」……

なんだか気持ちが悪くなって冊子を伏せた。さっきとは別の話のようだったが、このあと愉快な展開が待っているようには思えない。またページを飛ばす。

人間もどきは人間のつもりなのだ。
人間のように食べて、人間のように働いて
人間のように笑ったり泣いたりする。
ぼくは人間もどきを道端で、公園で、トンネルで、校舎で、ビルディングの中で、そして時々人の家の中で見つけてはそいつの耳元でこうささやくのだ。
「あなたは人間じゃないよ」
そうすると人間もどきはトロトロと溶けるように消えていく。
あとには何も残らない。
ぼくの町は随分閑散としてきた。
あと何匹の人間もどきがいるのだろう。
はやくぼくは一人になりたい。
そうすれば誰もぼくの耳元に秘密の言葉をささやくことはないから。

これは短かったので全部読んだ。『人間もどき』という題がついている。
いずれも気味の悪い話ばかりだ。こんな冊子を自分で作ろうなんて人間は、さぞかし根の暗い奴だろう。
俺は最後のページを開いて奥付を見た。
日付は2年前だ。発行者は「カヰ=ロアナーク」とある。
「ロアノーク島の怪」をもじっているらしいが、なるほど、趣味が分かりそうなものだ。

こんなものを作りそうな先輩を思い浮かべようとして天井を見る。
すると一人だけ浮かんだ。
サークルにはほとんど顔を出さない女性で、たまに来たと思っても持参したノートパソコンでひたすら文章を打っている。
何を書いているのかと思って覗こうとしても「エッチ」呼ばわりされて見せてくれない。
なるほど、あの人かと思いながらもう一度パラパラとページをめくってみる。
『追跡』という表題作らしきものを冊子の中ほどに発見して手を止める。
サークルの部室で講義をサボってゴロゴロしていた男が、古い冊子を本棚に見つけて手に取るというシーンが冒頭だ。手に取ったその冊子の題は『追跡』。
おお。メタ構造になってるぞ。そう思って読んでいたが。

日付は2年前だ。

文章中のこの部分でぞわっと背筋を走るものがあった。題名の一致は良い。
俺と状況が似た男が出てくるのもまあ、典型的ダメ学生を生産するサークルの体質からして偶然の範疇だろう。だが、奥付の日付が2年前というのは、一体どういう一致だろう。
少しドキドキしながら読み進める。

小説はこのあと、失踪したサークルの先輩の足跡を、作中作の『追跡』に見出した主人公が、困惑しながらもそれを頼りに街へ捜索に出かけるという筋だ。
失踪したサークルの先輩とは誰なのか、詳しい描写はない。作中作である『追跡』の具体的内容にも触れられていない。ただそれが失踪したサークルの先輩の行く先を啓示していると、なぜか主人公は知っている。
総じて説明不足で、まるで読者を意識していないような文章だ。全く面白くない。
全く面白くないからこそ、不気味だった。

心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。

そんな一文が、左ページのラストにある。それまでの展開とは関係なしに不自然な形で織り込まれている。
思わず手が止まる。主人公が最初に向かう先がどこなのか、次のページに行かないと分からない。心の準備ってなんだ?
ページをめくる手が固まる。嫌な予感がする。
次の瞬間、部室のドアをノックする音が聞こえて、飛び上がるほど驚いた。
ドアを開けて滑り込むように入ってきたのは、まさしくこの冊子の作者と推測される女性だった。
どう考えても偶然ではない。
殻から半分出たカタツムリのような変な格好の俺とコタツを一瞥して彼女は、あの人を見なかったかと言う。
あの人とは、彼女の恋人であり、俺のオカルト道の師匠でもあるサークルの先輩に他ならない。
ここには来ていないと答えると、「そう」と言い置いて立ち去ろうとする。
俺は慌てて、持っている冊子を広げながらこれを書きましたかと聞いた。
一瞬目を見開いたあと、「思い出せない理由がわかった」と言ってこちらに戻ってきた。
彼女は、説明し難い不思議な力を持っている。それは、勘が鋭いという表現では生ぬるい、まるで予知能力とでも言うべき感性だった。
それも、エドガー=ケイシーのように予知夢のようなものを見ているらしいのだが、目が覚めるとそれを忘れてしまっている。
そして日常の中のふとした拍子にそれを思い出すのだという。
このことを端的に言い表すなら、未来を思い出すという奇妙な表現になってしまう。

いつだったか、街なかで傘をさして歩いている彼女を見かけたことがあった。
空は晴れていたのに。
俺は急いでコンビニに走り、ビニール傘を買った。きっとこれから突然天気が崩れるに違いないから。
ところがいつまで経っても雨は降らず、結局ビニール傘は無駄になってしまった。
次の日たまたま彼女に会い、そのことを非難めいた口調で語ると、あっさりとこう言うのである。

「あれ、日傘」

脱力した。自分のバカさ加減に笑ってしまう。
しかしその日のニュースで、前日の紫外線量が去年の最大値を記録した日よりも多かったということを知り、驚いた。
彼女は実に不思議な人だった。

「その本、どこから出てきたの」

聞かれてラックを指さす。彼女は「そんなとこにあったんだ」と首を傾げてから「作ったことも忘れてた」と言った。
この数日、師匠と連絡がとれない、と彼女。
え?と俺は聞き返す。
彼を探しているのに見つからず、変な胸騒ぎがするのにこれから何が起ころうとしているのか全く「思い出せない」のだと言う。
そういえば俺もここ最近彼を見ていない。
曰く、携帯も通じないし車はあるのに家にいないのだそうだ。
その原因がこの本だ、と言って彼女は指をさした。
思わず取り落としそうになる。

「その日に起こることなら、前の日の夜に見てる」
でも、と彼女は続けた。
曰く、経験的に危険性が高い情報ほど、手前で知るのだと。
う○こを踏みそうになるときは二日前に見てるし、カレーうどんの汁が散るときは3日前に見てる。
骨折しそうになるときは2週間前……といった具合だ。
もっとも必ずというわけでもない。前倒しが起こるのは、体調が悪いときが多いのだそうだ。
あんまり早く思い出してしまうと、それが起こるまでに忘れてしまう。
「役に立たないでしょう」
役に立たなかろうが、俺のような凡人には理解できない世界の話だ。
「それ、半分は備忘録なの」
と、彼女は冊子をもう一度指さす。
彼女はこう言っているのだ。
師匠の行方がわからないというこの事態を、2年前に予知してしまっているから今は勘が働かないのだ、と。
「どんな話を書いたのか、忘れちゃったけど」
はじめて彼女は少し笑った。
俺は改めて毒物でも触るような思いでその冊子を開く。
「『追跡』って話です」
俺がこれから師匠を探しに行くという筋のようです、と言うと彼女は「ついてく」と主張した。
もちろん断る理由はない。
彼女が2年前に知ってしまったというその意味をあまり深く考えないようにした。
俺は冊子を持って部室を出る。冬の寒空も、今は苦にならない。

心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。

という文字を3回心の中で読んでから、次のページをめくった。
「……まず、ゲームセンターのようです」
実際にある場所の名前が出てくる。
俺は彼女と二人で自転車に乗ってそこへ向かった。街なかの大きなゲームセンターだ。
中に入り、一通り見て回るが師匠の姿はない。『追跡』に主人公がプリクラを撮る描写があったので、一応コーナーに行ってみたが若い女性たちでごった返していて、気後れしてしまった。
それに先を読むと、結局ゲームセンターでは手掛かりはなかったということになっているので無意味だと俺は言ったが、彼女は「書いてある通りにした方がいい」と言う。
そのとき、今更ながら先に最後のオチの部分を読んだ方が早くないかと思ったのだが、彼女が「そういうことをしたと書いてるの?」と言うので首を振って諦める。
不吉な予感にドキドキしながらも、俺は俺なりにこの状況を楽しんでいたのかも知れない。
結局、連続して延々と同じメンバーでプリクラを撮っている女子高生たちにイライラしながらも順番待ちの列に並び、最後には彼女と一緒に写真におさまった。
『追跡』には主人公に女性の連れがいるとは書いてないが、まあこれくらいはいいだろう。
出てきたシールをまじまじと見ながら、俺はなんだか引っ掛かるものを感じていた。それがなんだかわからないまま、次の場所を確認する。
「次は、雑貨屋です」
ゲームセンターから少し距離がある。
若者で溢れかえる通りだが、平日なので人手はさほどでもない。自転車をとめて、カジュアルショップ周辺に広がるこじんまりとした地下街へと降りる。

聞いたことはあったが、来るのは初めてだった。
ファッションには疎いので今ひとつよくわからないが、とにかく流行っている雑貨屋らしい。和洋入り混じった色とりどりのアイテムを目の端に入れながらも、師匠の姿を探す。しかしその影はなかった。一応店員にそれとなく聞いてはみたが、首を振るだけだった。
雑貨屋でもやはり手掛かりはなかった。

溜息をついて『追跡』を閉じる。
連れが見えなくなったので探していると、カツラのコーナーにいた。「ウィッグ」だと訂正されたが、違いはわからなかった。
彼女はその後、血糊のついたようなデザインのピコピコハンマーが気になった様子で、散々俺を待たせたあげく結局別のものを買ったようだった。
店を出るとき、ゲームセンターのときにも感じた引っ掛かりがもう一度脳裏を過ぎる。
「次は……喫茶店です」
また自転車に乗って移動する。
地球防衛軍という怪しげな店名が出てくるが、俺も彼女も知らなかったので、『追跡』の描写を頼りにそれらしき通りをウロウロした結果、ようやくビルの窓にその名前を見つけ出した。
古そうなビルの、知らない店に入るときは、階が上なほどドキドキする。
入り口のドアを開けると、やはりというか遊び心の多い内装が目に飛び込んで来た。
フィギュアやミニカー、インベーダーゲーム、そして漫画が店内狭しとならんでいる。
ともあれ店内を見回したが、常連らしき数人の客の中には師匠はいなかった。
がっかりはしない。ここではわずかな手掛かりを得られるはずだから。
腹が減っていたので、ラーメンを注文する。『追跡』で主人公が頼むのを読んでいたので、メニューも見ずに言ったのだが本当にあったらしい。
目の前で袋入りの即席めんをマスターが開けはじめたときは、少し驚きはしたが。
待っている間、どこからか彼女が見つけてきた黒ひげ危機一髪で遊びながら、黒ひげが飛び出たら勝ちなのか負けなのか意見の食い違いで揉めていると、「出たら勝ち」と言いながらマスターがラーメンをテーブルに置いていった。
食べはじめると、足元に猫が擦り寄ってきた。
どんな店なんだ。
食べ終わって、ドンブリがどう見てもすり鉢だったことには突っ込まずにマスターを声をかける。
「ああ、そういえば3、4日前に来てた」
やはり師匠は常連だったらしい。いい趣味をしている。
「連れがいたような気がする」
ポロリと漏らした一言に食いつく。
「いや、でもよく覚えてない」

わずかなヒントを得た。

『追跡』を確認するが、どうやらここではこれまでのようだ。諦めて店を出る。
ドアを閉めるときに、店の奥からビリヤードの玉が弾ける音が聞こえた。
「次は」
と言いながら階段を降りる足が止まる。

心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。

何度目かのこの文章をめくると、次のページにはかなり核心に近づく展開があった。
「次は、ボーリング場です」
また自転車にまたがる。
この時点で彼女に俺の推測を告げるか迷ったが、表情を変えずに自転車をこぐ姿を振り返って、思いとどまる。
やはり彼女は苦手だ。何を考えているかわからない。
自転車から降り、何度か来たことのあるボーリング場に入る。
「プレイは?」
「ここでは店員に話を聞くだけのようです」
少し、やりたそうだった。それを尻目にカウンターに向かう。
「ああ、多分わかりますよ」
師匠の名前を告げると、あっさりと調べてくれた。茶髪の若い店員だった。
客のプライバシーなどどうでもいい程度の教育しか受けていないのだろう。もっとも今はそれが有難かった。
しばらくすると、師匠の名前がプリントされたスコアが出てきた。
日付は3日前で、午後2時。やはり。以前一緒にボーリングをやったとき、本名でエントリーしていたのを覚えていたのだ。
師匠のGの多いスコアなどどうでもいい。
俺と彼女の視線は、もう一人の名前に集中していた。

それはどうぶつの名前だった。

その通り、「ウサギ」という名前が師匠の横に並んでいた。
ゲームセンターから感じていた引っ掛かりがほどけていく。
プリクラ、流行の雑貨屋、ネタ系の喫茶店。
まるきりデートコースじゃないか。
そして動物の名前でエントリーするなんて、若い女性と相場が決まっている。
俺は恐る恐る彼女の顔を盗み見たが、その表情からは心中を推し量ることは出来なかった。
師匠よりもGの多い「ウサギ」のスコアから、いやらしさのようなものを感じて、思わず目を逸らした。
なんとなく二人とも無言でゲームセンターを後にする。

心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。

追跡(後編)

本当に心の準備が要った。
そして俺は、天を仰いだ。
行けと?
ラブホテルへ?
彼女をつれて?
迷いというより、腹立たしさだった。
そんな俺の混乱を知ってか知らずか、彼女は「次はどこ?行きましょう」と言うのだ。
行き先を告げないまま、暗澹たる思いで自転車をこぐ。
ホテル街へ踏み入れた時点で、彼女もなにが起こっているかわかっただろう。
近くの駐輪場に自転車をとめて歩く。
彼女は黙ってついてくる。
その名前が、あまり下品ではなかったことなんて、なんの慰めにもならない。
あっさりと見つけた看板の前で立ち止まって俺は真横に指を伸ばした。
「で、入るの?」
いつもと変わらない声色にむしろ緊張してくる。
ジーンズのお尻に挟んで、かなりシワクチャになってきた『追跡』を広げ、「入ります」と言う。
「でも」と言いかけた俺を引っ張るように彼女は中に入っていった。
俺はこのシチュエーションに心臓をバクバクさせながらもついていく。「205号室」と俺に言わせ、彼女は手しか見えない人から何かのカードを受け取る。
ズンズンと廊下を進み、部屋番号に明かりの点ったドアを開ける。
入るなり、バサッ、と彼女はベッドにうつ伏せに倒れこんだ。足が疲れた、というようなことを言いながら溜息をついている。
俺はいたたまれなくなって、冗談のつもりで師匠の名前を呼びながらクロゼットや引き出しを開けていった。
枕元の小箱は、開ける気にならない。
風呂場の扉を開けたとき、一瞬、広い湯船の中に師匠の青白い顔が浮かんでいるような錯覚を覚えて眩暈がした。そして湯気のなか、本当に湯が出っぱなしの状態になっていることに気づき、ゾクリとしながら蛇口を閉めた。
サーッと湯船から水があふれる音がする。少し、綺麗な音だった。
これは掃除担当者の閉め忘れなのか、こういうサービスなのか判断がつかなかったが、少なくともそのどちらかだと思うようにする。
部屋に戻ると、彼女がうつ伏せから仰向けになっていて、ドキッとした。
「手掛かりは?」
「髪の毛です」
風呂場でシャワーのノズルに絡み付いていた、かなり色を抜いてある茶髪をつまんでみせる。
長い髪だった。
そのあと、彼女の言葉はなかったのでそれはゴミ箱に捨てた。
「もう出ましょう。……割り勘で」
そう言いながら彼女は身を起こした。俺が払いますと口にしたくなったが、どう考えても割り勘がここからのベストの脱出方法だった。
先払いしていた彼女に2分の1を端数まできっちり手渡し、苛立ちと気恥ずかしさで、俺は(ハイハイ、早くて悪かったね)と頭の中で繰り返しながら彼女より前を歩いてホテルを出た。
自分でもよくわからないが、どこかにあるだろう監視カメラにぶつけていたのかも知れない。
ホテル街を抜けてから、『追跡』を開いた。
「次は、レストランに向かったようです」
順番逆だろ、と思いながら言葉を吐き出した。
昼間のうちにホテルなんて、まるで金の無い学生みたいじゃないか。
いや、まさにその金の無い学生なのだった。あの人は。

レストランまであと50メートルという歩道で、血痕を見つける。

ページの中ほどにその文章を見つけたとき、一瞬足が止まった。そして急いで自転車に乗り、レストランへの途上で血痕を探した。

あった。

街路樹の間。車道が近い。探さなければきっと見落としていただろうそれは、とっくに乾いている。
誰の血だ?
周囲を見るが、夕暮れが近づき色褪せたような雑踏にはなんの答えもない。
ただ、わずか数メートル先から右へ折れる裏道がやけに気になった。車が通れる幅に加え、すぐにまた直角に折れていて見通しが悪い。人ひとりいなくなるのに、うってつけの経路じゃないか。
そんな妄想ともつかない言葉が頭の中に浮かぶ。
念のためにレストランまで行き、師匠の人相風体を告げるが店員に覚えているものはいなかった。デートはここまでだったらしい。
確かに何かが起きている。
「続きは?」
彼女に促されて、ページをめくる。
「タクシーに乗ります」

そして俺は、運転手に「人面疽」を知っているかと聞く。
人面疽?
どうしてそんな単語がここで出てくるのか。
困惑しながらも読み進めるが、どうやらこのページはタクシーによる移動の部分しか書かれていないようだ。風景などの無駄な描写が多い。
俺たちはタクシーを止め、乗り込む。
そして運転手に人面疽を知っているかと聞いてみた。40代がらみのその男は
「いやだなぁお客さん、怪談話は苦手なんですよ」
と言って白い手袋をした左手を顔の前で振った後
「ジンメンソはよく知りませんけど、こないだお客さんから聞いた話で……」
と、妙に嬉しそうにタクシーにまつわる怪談話を滔々としはじめた。
怪談好きの客と見てとってのサービスなのか、それとも元々そういう話が大好きなのかわからなかなったが、ともかく彼は延々と喋り続け、俺はなにかそこにヒントが隠れているのかと真剣に聞いていたが、やがて紋切り型のありがちなオチばかり続くのに閉口して深く腰を掛け直した。

タクシーは郊外の道を走る。
降りるべき場所だけはわかっていたので、俺たちは座っているだけで良かった。

「人面疽」とは、体の一部に人間の顔のような出来物が浮かび上がる現象だ。
いや、病気と言っていいのだろうか。オカルト好きなら知っているだろうが、一般人にはあまり馴染みのない名前だろう。
そういえば、師匠が人面疽について語っていたことがあった気がする。結構最近のことだったかも知れない。
なにを話していたのだったか。ぎゅっと目を瞑るが、どうしても思い出せない。
隣には膝の上に小さなバッグを乗せた彼女が、どこか暗い表情で窓の外を見ていた。
やがてタクシーは目的地に到着する。周囲はすっかり暗くなっていた。
運賃を二人で払い、車から降りようとすると運転手が急に声を顰めて、「でもお客さん。どうして気づいたんですか」と言いながら左手の手袋のソロソロとずらす素振りをみせた。
一瞬俺が息をのむと、すぐに彼は冗談ですよと快活に笑って『空車』の表示を出しながら車を発進させ、去っていった。
どうやら元々が怪談好きだったらしい。
俺はもう二度と拾わないようにそのタクシーのナンバーを覚えた。

「で、ここからは」
彼女があたりを見る。
公園の入り口付近で、街灯が一つ今にも消えそうに瞬いている。フェンスを風が揺らす音がかすかに聞こえる。
俺はペンライトをお尻のポケットから出して『追跡』を開く。
いつなんどきあの人が気まぐれを起こすかわからないので、最低限の明かりはできるだけ持ち歩くことにしていた。

「ここから東へ歩きます」
と言ったものの、二人とも土地勘がなく困ってしまった。近くで周辺の地図を描いた看板を見つけて、その現在位置からかろうじて方角を割り出す。
ページ内を読み進めると、どうやら廃工場にたどり着くらしい。
顔を上げるが、まだそのシルエットは見えない。川が近いらしく、かすかに湿った風が頬を撫でていく。寒さに上着の襟を直した。

うしろすがたに会った。

急にこんな一文が出てくる。前後を読んでも、よくわからない。誰かの後ろ姿を見たということだろうか。
住宅街なのだろうが、寂れていて俺たちの他に人影もない。
右手には背の低い雑草が生い茂る空き地があり、左手には高い塀が続いている。
明かりといえば、思い出したように数十メートル間隔で街灯が立っているだけだ。
その道の向こう側から、誰かの足音が聞こえ始めた。そしてほどなくして、暗闇の中から中肉中背の男性の背中が現れた。
確かにこちらに向かって歩いて来ているのに、それはどう見ても後ろ姿なのだった。
服だけを逆に着ているわけではない。
夜にこんなひとけのない場所で、後ろ向きに歩いている人なんてどう考えてもまともな人間じゃない。
俺は見てみぬ振りをしながら、それをやり過ごそうと道の端に寄って早足で通り過ぎた。
そして、どんなツラしてるんだとこっそり振り返ってみると、ゾクリと首筋に冷たいものが走った。
後ろ姿だった。
後ろ姿がさっきと同じ歩調で歩き去っていく。
横を通り過ぎた一瞬に、向き直ったのだろうか。いや、そんな気配はなかった。
足を止める俺に、彼女がどうしたのと訊く。あれを、と震える指先で示すと、彼女は首を捻って、なに?と言う。
彼女には見えないらしい。
そして俺の視界からも後ろ姿はゆっくりと消えていった。闇の中へと。
『追跡』から読みとる限り、師匠の行く先とは関係がないようだ。
あんなサラッと読み飛ばせそうな部分だったのに、俺の肝っ玉はすっかり縮み上がってしまった。
廃工場の黒々としたシルエットが目の前に現れた頃にはすっかり足が竦んで、ホントにこんなとこに師匠がいるのかと気弱になってしまっていた。
「で? 工場についたけど」
崩れかけたブロック塀の内側に入り、彼女が振り向く。続きを読めと言っているのだ。
俺は震える手でペンライトをかざし、ページをめくる。

呼びかけに答える声を頼りに、奥へと進む。

そのまま読み進め、心の準備云々の一文が無かったので続けてページをめくる。
本当にこれで師匠を見つけられるのだろうか。
俺は恐る恐る工場の敷地に入って行き、師匠の名前を叫んだ。
トタンの波板が風にたわむ音に紛れて、微かな応えが聞こえた気がする。
空っぽの倉庫をいくつか通り過ぎ、敷地の隅にあったプレハブの前に立つ。
ペンライトのわずかな明かりに照らされて、スプレーやペンキの落書きだらけの外装が浮かび上がる。その全面に蔦がからみついて、廃棄された物悲しい風情を醸し出している。
小声で、もう一度呼んでみる。

その瞬間、中からガタンという何か金属製のものが倒れる音がして、「ここだ」という弱々しい声が続く。
蹴られた跡なのか、誰かの足跡だらけの入り口のドアは、すぐ見つかったが、ドアノブを捻ってみてもやはり鍵が掛かっている。
「無駄だ。あいつら何故か合鍵持ってるんだ」
という中からの声に、「裏の窓から入ればいいんでしょう」と答えると、師匠は少し押し黙ったあと彼女がいるのかと訊いた。
その通りだと答えたあとで、俺はプレハブの裏に回る。
かなり高い位置に窓はあったが、壁に立てかけられた廃材をなんとか利用してよじ登る。
割るまでもなく、すでにガラスなど残ってはいない窓から体を滑り込ませる。
中は暗い。何も見えない。口にくわえたペンライトを下に向けると、なんとか足場はありそうだ。錆付いたなにかの骨組みを伝って、下に降りる。
ここだという声に、踏み場もないほどプラスティックやら鋼材やらで散らかった足元に気をつけながら進み、ようやく師匠らしき人影を発見した。
鉄製の柱を抱くように座り込んでいる。
よく見ると、その手には手錠が掛けられている。自分の手と手錠とで柱を巻くような輪っかを作ることで、自由を奪われているのだ。
顔をライトで照らすと、「眩しい」と言ってすぐに逸らしたが、かなり憔悴していることは分かった。そして殴られたような顔の腫れにも気付いた。
「ツルハシみたいのがあるはずです」と言うと、師匠は少し考えるように頭を振ったあと、「あの辺にあったかな」と部屋の隅を顎で指した。暗くてよく見えないので、半ば手探りで探す。錆びてささくれ立った金属片が指に傷をつける。俺はかまわずに進み、ようやく目的のものを発見した。
柱の所に戻り、出来るだけ手を引っ込めておくように指示してから手錠の鎖の部分に狙いをつける。暗いので、何度も軌道を確認しながら5分の力でツルハシの先端を打ちつけた。
ゴキンという音とともにパッと火花が散り、師匠から「もう一発」という声がかかる。
手錠とは言っても所詮安っぽい作りのおもちゃだ。次の一撃で、鎖は完全に千切れ飛んだ。
「肩、かして」
という師匠を支えながら、出入り口のドアに向かう。
鍵が掛かっていたが、中からは手動で解除できた。

ようやくプレハブの外に出た時には、入ってから20分あまりも経過していたと思う。
外には彼女が待っていて、師匠は片手を挙げて「いつも、すまん」と言った。
暗くて、彼女の表情までは伺えなかった。

師匠はナンパした女とホテルに行ったまでは良かったが、出てから一緒にレストランに向かう途中、偶然その女のオトコに見つかり、逆上したそいつに後ろから鈍器のようなもので殴られて車で連れ去られたのだと言う。
それからこの廃工場を溜まり場にしていたオトコとその仲間たちから殴る蹴るの暴行を受けた上、手錠をはめられ監禁されてしまったということだった。
俺たちが見つけなければどうなっていたかと思うと、ゾッとしてくる。
「力が入らない」という師匠を背負うような格好で、半分引きずりながら俺はとにかくこの場を離れようと歩き出した。
熱い。
風邪を引きでもしているのか、師匠の体はかなり熱かった。無理もない。服は奪われでもしたのか、この寒空の下、ジーンズに長袖のTシャツ1枚という格好だった。
彼女が上着を脱いで師匠の背中にかぶせる。
俺たちは無言で歩き続けた。どこかタクシーを拾える所まで行かなくてはならない。
やがて師匠が熱に浮かされたのか、半分眠りながらうわ言めいたことをぼそぼそと繰り返し始めた。
俺は、ともかくこれですべて解決したと安堵しつつも、『追跡』の続きが気になっていた。
廃工場についてからの見開き4ページ分で師匠の救出に成功しているにもかかわらず、その最後にはこうあったのだ。

心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。

このあと、いったい何があるというのだろう。
俺は師匠がずり落ちないように苦心しながら片手で『追跡』を取り出して、口にくわえたペンライトをかざす。
心の準備……
なんのためのだろう。
またドキドキしはじめた心臓を鎮めながら、俺はゆっくりとページをめくた。

彼がうわ言で女の名前を口にした途端、その背中に鋭利な刃物が突き立った。

ゾクッとした。一瞬歩調が乱れる。
鋭利な刃物。
そんなものがどこから来るのか。
決まっている。ここには俺と師匠の他には、あの人しかいない。
コツコツと足音が背後からついてくる。背中の師匠が邪魔で後ろが見えない。
だが、そこにはあの人しかいないじゃないか。
すべてが繋がって来る。
『追跡』の中の主人公は、一人で行動しているように見える。
だからこそ現実で同行すると言い出した彼女の役割はただの観察者に過ぎなかったはずだ。
しかし、妙な引っ掛かりを感じていたのも事実だ。
冒頭のゲームセンターのプリクラ。
これはまだ良い。一人で撮る変わった奴もいるだろう。
雑貨屋やら喫茶店、ボーリング場も一人で入ったって良い。
けれど、ラブホテルだけはどうだ。『追跡』の主人公は果たして一人で部屋に入ったというのだろうか。
『追跡』は極端に省略された文章を使っているが、もしかすると意図的にもう一人の同行者の存在を隠していたのかも知れない。
つまり、彼女の役割はイレギュラーな観察者などではなくれっきとした登場人物なのかも知れないじゃないか。
俺は神経が針金のように研ぎ澄まされていく感覚を覚えた。
場所は図らずも、さっき「うしろすがた」に会った空き地の前だ。
師匠はむにゃむにゃとうわ言を繰り返している。その言葉は不明瞭でほとんど聞き取れない。
後ろ頭にかかる師匠の息が熱い。
『追跡』は師匠が刺される場面で唐突に終わっている。
バッドエンドだ。救いなど無い。

彼女は本当にこれに書いた内容を覚えていないのだろうか。この最後のページを見せないために、順番どおりに読んで行くべきだと言ったんじゃないのか。
でも彼女はいま刃物なんて持ってるのか。いや、小さなバッグがある。
そして彼女が雑貨屋で買ったものはなんだ?血染めのピコピコハンマーをやめて、最後に選んだものはなんだった?
思考と疑惑が頭の中でぐるぐると回る。
足は、なぜか止められない。
彼女は今、後ろでなにをしている?
そして決定的な時がやって来た。師匠のうわ言が一際大きくなり、俺にもはっきり聞こえる声が、こう言った。
「……綾……」
その瞬間、時間が止まったような錯覚を覚え、俺は自分の心臓の音だけを聞いていた。
彼女が、足音を響かせて近づいてくる。
そして、優しい声で言うのだ。
「なあに」
師匠は眠ってしまったようだ。寝息が聞こえてくる。
俺はまだドキドキしている胸を撫で下ろして、師匠がこの状況下で彼女の名前を呟いたことに不思議な感動を覚えていた。

後日、怪我の治ったという師匠のアパートへ行った。
「迷惑をかけたな。済まなかった」
頭を下げる師匠に、やだなあそんなキャラじゃないでしょと軽口を叩いて部屋に上がる。
そしてこのあいだの事の顛末を詳しく聞いた。

どうやら師匠は「人面疽がある女」という噂をどこかから聞きつけて、なんとしても見たくなったらしく、探し出してナンパしたのだそうだ。
一日でよくもまあホテルまで漕ぎつけたものだ。
「で、あったんですか。人面疽」
「いや、あれはただの火傷の跡だろう」
そしてもう用済みだから、女が行きたがっていたので予約しておいたレストランをなんとかキャンセルしてすぐにでも別れられないかと姦計を巡らせていた所、女の彼氏に出くわしてこんな目にあったということらしい。
「最悪だった」
最悪なのはあんたもだ、と言いたかった。あの事件はある意味当然の天罰だろう。
俺はふと思い出して、昨日気づいたばかりの発見を師匠に披露した。
「『追跡』の作者のペンネーム、カヰ=ロアナークでしたよね」
チラシの裏に、ボールペンで書き付ける。

KAYI ROANAKU

「たぶん、こう書くんですよ。ロアノーク島の怪をもじるにしても、少し重い感じがしたのは、使える文字が決まってたからなんです」
というのは、と続けながら俺はその下に並べて別の名前を書く。
倉野木綾 KURANOKI AYA
「綾さんの名前です。で、これを両方ともアルファベット順に並び替えると……」
AAAIKKNORUY
AAAIKKNORUY
「ね、アナグラムでしょう。これって」
師匠は頷く。
「さらに、綾さんの今のペンネームも同様に」
茅野歩く KAYANO ARIKU

AAAIKKNORUY
「どうです」
自慢げな俺に、師匠はあまり感心した様子も無く、「カヰ=ロアノークをやめたいから別のを考えてって言われて、こねくり回して今の名前を作ったの、僕だしね」と言う。
予想されたことだった。
しかし、この自分的に凄い発見に水を差された気がしてテンションが下がった。
そのせいだろうか、少し意地悪なことを言いたくなった。
「でも、よくあの場面で綾さんの名前を呟きましたね。といっても覚えてないでしょうけど」
「違う女の名前を口にしてたら刺されてたって?そんなことで刺されるなら、とっくに死んでるって」
ああ、やっぱりこの人はダメだ。
「でも綾さんの予知能力で書かれた、いうならば予言の書にあったんですよ。その運命を変える奇跡的な一言だったわけじゃないですか」
「まあしょせん、小説だからなあ」
その小説のおかげで助けられたのは誰だと言いそうになった。
「それにそれを読んでたの、一人だけじゃないわけだし」
何気ない一言に、煙に巻かれたような気分になる。
「どういうことですか」
詰め寄る俺を制しながら、師匠は飄々と言った。
「あの最後のページを読んでた時、僕も後ろで見てたんだよね。背中で。で、こりゃやっべーと思って、やっぱ丸く収まる名前をね」
狸寝入りかこの野郎。
俺はなんだか痛快な気持ちになって、腹の底から笑った。

貯水池

大学1回生の秋だった。
その頃の僕は以前から自分にあった霊感が、じわじわと染み出すようにその領域を広げていく感覚を半ば畏れ、また半ばでは身の震えるような妖しい快感を覚えていた。
霊感はより強いそれに触れることで、まるで共鳴しあうように研ぎ澄まされるようだ。
僕とその人の間には確かにそんな関係性があったのだろう。
それは磁石に触れた鉄が着磁するのにも似ている。その人はそうして僕を引っ張り上げ、またその不思議な感覚を持て余すことのないように次々と消化すべき対象を与えてくれた。
信じられないようなものをたくさん見てきた。
その中で危険な目にあったことも数知れない。
その頃の僕にはその人のやることすべてが面白半分の不謹慎な行動に見えもした。しかしまた一方で、時折覗く寂しげな横顔にその不思議な感覚を共有する仲間を求める孤独な素顔を垣間見ていたような気がする。
もう会えなくなって、夕暮れの交差点、テレビのブラウン管の前、深夜のコンビニの光の中、ふとした時に思い出すその人の顔はいつも暗く沈んでいる。
勝手な感傷だとわかってはいても、そんな時僕は何か大事なものをなくしたような、とても悲しい気持ちになるのだった。

「貯水池の幽霊?」
さして面白くもなさそうに胡坐をかいて体を前後左右に揺する。
それが師匠の癖だった。あまり上品とは言えない。
師匠と呼び始めたのはいつからだっただろうか。
オカルトの道の上では、何一つ勝てるものはない。しかし恐れ入ってもいなかった。貶尊あい半ばする微妙な呼称だったと思う。
「そうです。夕方とか夜中にそこを通ると、時々立ってるんですよ」
その日、僕は師匠の家にお邪魔していた。築何十年なのか聞くのも怖いボロアパートで、家賃は1万円やそこららしい。
部屋の中に備え付けの台所から麦茶を沸かす音がシュンシュンと聞こえている。
「近くに貯水池なんてあったかな」
「いや、ちょっと遠くなんですけど。バイト先からの帰り道なんで」
行きには陽があるせいか出くわしたことはない。
「高校のプール10コ分くらいの面積に、周囲には土の斜面があってその周りをぐるっと囲むようにフェンスがあります。自転車をこぎながらだと貯水池は道路から見下ろすような格好になって、行きにはいつもなんとなくフェンスのそばに寄って水面を眺めながら通り過ぎてます。それが結構高いフェンスなんですけど、帰りにそのこっち側、道路側に時々出るんですよ」
はじめは人がいると思って避けて通ろうとしたのだが、横切る瞬間の嫌な感覚は、これまで何度も経験した独特のものだった。
それは黒いフードのようなものを頭からかぶっていて男か女かも判然としない。
ただ足元にはいつも水溜りが出来ていて、フードの裾からシトシトと水が滴っている。晴れた日にもだ。

(関わらないほうがいい)

それは信じるべき直感だったが、かといって道を変えるほど素直でもなかった。
それからはバイト帰りには必ず道の反対側を通るようにしている。
といっても1車線の、あまり広いとはいえない道なので嫌が応にも横目で見る形ですれ違うことになる。気分が良いはずはない。
一度師匠をけしかけてみようと虫の良いことを思いついたのだが、どうやらあまり琴線に触れる内容ではなかったようだ。正直に「ナントカシテ」と言うのも情けない。
少しがっかりしながら、3回に1回くらいは向こう側に出ることもあると付け加えた瞬間、師匠の体の揺れがピタリとおさまった。
「なんて言った?」
「いや、だからフェンスのこっち側の時と向こう側の時があるって話です。立ち位置が」
師匠は首を捻りながら、へぇえと言った。僕は大学の授業で習っている中国語のピンインのようだと、見当違いなことを思った。第四声だったか。下がって上がるやつ。
「物理的な実体を持たない霊魂にとってフェンスという障害物なんてあってもなくても同じだから、こっちか向こうかなんて大した違いはなさそうに思えるかも知れないけど……実体を持たないからこそウチかソトかっていうのは不可逆的な要素なんだ。場についてる霊にとっては特にね」
だから地縛霊って言うんだ。
師匠はようやく乗り気になったようで、声のトーンが上がってきた。
「なにかあるね」
体の揺れの代わりに、左目の下を触る癖が顔を出した。そこには薄っすらとした切り傷の跡がある。興奮してきた時にはなぜか少し痒くなるらしい。何の傷かは知らない。
じっと見ていた僕に気づいて、師匠は「嫁にもらってくれるか」と冗談めかして言う。

とにかく、その貯水池に夜になったら行ってみようということになった。
しかし僕にとっては思った通りの展開だと、手放しで喜ぶわけにはいかない。なにか得体の知れない不気味な気配が、貯水池の幽霊の話から漂い始めているような気がしていた。
そのあと、師匠が作った夕飯のご相伴に預かったのだが、これが酷い代物で、なにしろ500グラム100円のパスタ麺を茹でてその上に何かの試供品でもらったという聞いたこともないフリカケをかけただけという、料理とも言えないようなものだった。
毎日こんなものを食べてるんですか、と訊くと「今はダイエット中だから」という真贋つきかねる回答。
家賃も安いし、一体何に金をつかっているのやら、と余計な詮索をせざるを得なかった。
あっという間に食べ終わってしまい、師匠は水っ腹でも張らすつもりなのか麦茶をがぶ飲みし、トイレが近くなったようだった。
「僕もトイレ借ります」
と言って、戻ってきた師匠と入れ違いに部屋を出る。このクラスのアパートだとトイレは普通、共有なのだろうがなぜかここには専用のトイレがある。ただし一度玄関から外に出ないと行けないという欠陥を持っていた。
生意気に洋式ではあったが、これがおもちゃのようなプラスチック製で、なるほどダイエットでもしていないといつかぶち壊れそうな普請だった。
便座を上げて用を足しながら(冬は外に出たくないだろうなあ)と、すでに秋も半ばというほのかな肌寒さにしばし思いを馳せた。
戻ってくると、師匠が上着をまとって「さあ行くか」と立ち上がった。
「雨、降りそうですよ」
「うん。車で行こう」
師匠の軽四に乗り込んだ時には、日はすっかり暮れていた。そして走り出して100メートルと行かないうちにフロントガラスを雨の粒が叩き始める。
「稲川淳二でも聞こう」
カーステレオからカツゼツの悪い声が流れてくる。師匠は完全に稲川淳二をギャグとしてとらえていて、気分が沈みがちな時にはその怪談話をケラケラ笑いながら聞き流してドライブするというのが常だった。
僕はその頃まだ稲川淳二を笑えるほどスレてはいなく、その独特の口調による怪異の描写に少しゾクゾクしながら助手席で大人しくなっていた。

雨の降り続く中を車は走り、やがて貯水池のある道路にさしかかった。
師匠はギアを2速に落とし、2メートルあまりの高さのフェンスを左手に見ながらそろそろと進む。
雨が車の窓やボンネットに跳ねる音と、ワイパーがガラスを擦るキュッキュッ、という音がやけに大きく響き、僕は少し心細くなってきた。
「あれかな」
師匠の声に視線を上げると、車のライトに反射する雨粒の向こうに人影らしきものが見えた。だんだんと近づくにつれ、それがフェンスの向こう側にいることに気づく。
近くに民家もなく、人通りもない。そこに雨の中、まして夜に一人で貯水池に佇んでいる人影が、まともな人間だとは思えない。少なくとも僕の良く知る世界のおいては。
さらにスピードを落として車は進む。そしてあと10メートルという距離に来た時、意表を突かれることが起こった。
そのフードをすっぽりとかぶった人影が、右手を挙げたのである。まるで「乗せてくれ」と言いたいかのように。
僕の知る世界において馴染みのある仕草に一瞬混乱し、次に起こった思いは「乗せてあげないといけない」という至極当然の人間心理だった。
雨の中、困っている人がいたらたとえタクシーでなくとも乗せてあげるだろう?
その、一見すると正しいように見える着想は、口にしたとたん次の瞬間師匠の一言に掻き消された。
「あれはヤバイ」
緊迫した声だった。

クラッチを踏んで、バックするべきか、刹那の迷いのあとで師匠の足は全開でアクセルを踏み込んでいた。
背もたれに押し付けられるような加速に息を詰まらせ、心臓がしゃっくりあげる。
「どうしたんですか」
ようやくそれだけを言うと、助手席の窓から右手を挙げたままの黒い人影がフェンスの向こうに立っている姿が一瞬見えて、そしてすぐに後方へ飛び去って行った。
顔も見えない相手と、なぜか目が合ったような気がした。
「雨に濡れて途方にくれてるヒトが、なんでフェンスの向こう側にいるんだ」
人間じゃないんだよ!
そんな言葉が師匠の口から迸った。
フェンスは高い。上部には鉄条網もついている。そして貯水池に勝手に入り込めないように、唯一の出入り口は錠前に固く閉ざされている。
その向こう側に、車に乗せて欲しい人がいるはずは、確かにないのだった。
そんな当然の思考を鈍らされ、僕一人ならそのまま確実に心の隙につけこまれていた。
ゾッとする思いで、呆然と前方を見るほかはなかった。しかしすぐに気を奮い立たせ、後ろを振り返る。リアウインドの向こうは暗い闇に閉ざされ、もう何も見えない。そう思った瞬間に、なんとも言えない悪寒が背筋を走り、視線が後部座席のシートにゆっくりと落ちた。

表面が水で濡れて、かすかに光って見える。

女が忽然と車中から消える、濡れ女という怪談が頭をよぎり、つい最近読んだのはあれは遠藤周作の話だったかと思考が巡りそうになったが、脊髄反射的に出た自分の叫び声に我に返る。
「乗せてなんかいないのに!」
僕の言葉に、師匠も首を捻って後部座席を一瞥する。そして、ダッシュボードから雑巾を取り出したかと思うとこちらに放り「拭いといて」と言った。
唖然としかけたがすぐに理性が反応し、座席を倒して腫れ物に触るような手つきで後部座席のシートの水を拭き取ると、師匠の顔を見て頷くのを確認してから手動でくるくるとウインドガラスを下げ、開く時間も惜しんでわずかな隙間から外へとその雑巾を投げ捨てた。
まだ心臓がドキドキしている。
手についた少量の水分を、おぞましい物であるかのようにジーンズの腿に擦り付ける。
車は、すでに対向車のある広い道に出ている。それでも嫌な感覚は消えない。
動悸が早くなったせいか、車のフロントガラスが曇りはじめた。
「これはちょっと凄いな」
師匠の口調は、すでに冷静なものに戻っている。しかし、その言葉の向かう先を見て、僕の心臓は再び悲鳴をあげる。
フロントガラス一面に、手の平の跡が浮かび上がって来たのである。
外側ではない。ワイパーが動いている。内側なのだ。
フロントガラスの内側を撫でると皮脂がつくのか、そのままでは何も見えないが、曇り始めたとたんにその形が浮かび上がって来ることがある。
まさにそれが今起こっている。
けれど、やはり僕らは乗せてなんかいないのだった。貯水池の幽霊なんかを。
師匠は自分の服の袖で正面のガラスを、一面の手の平の跡を拭きながら
「やっぱり捨てなきゃ良かったかな、雑巾」
と言った。
カーステレオからは稲川淳二の唾を飲み込むような声が聞こえてきた。
話を聞いてなんかいなかった僕にも、これから落とすための溜めだということが分かった。やはり僕にはまだ笑えない。
情けないとは思わなかった。怖いと思う心は防衛本能そのものなのだから。けれど一方で、その恐怖心に心地よさを覚える自分もいる。
師匠がチラッとこちらを見て「オマエ、笑ってるぞ」と言う。僕は「はい」とだけ答えた。
その夜はそれで解散した。「ついてきてはないようだ」という師匠の言葉を信じたし、僕でもそのくらいは分かった。

3、4日経ったあと、師匠の呼び出しを受けた。夜の10時過ぎだ。
自転車で師匠のアパートへ向かい、ドアをノックする。「開いてる」という声に、「知ってます」と言いながらドアを開ける。
師匠はなぜかドアに鍵を掛けない。
「防犯って言葉がありますよね。知ってますか」
と溜息をつきながら部屋に上がる。師匠は「防犯」と言って壁に立てかけた金属バットを指さす。なんか色々間違ってる人だが、いまさら指摘するまでもない。
「ここ家賃いくらでしたっけ」と問うと、「月一万円」という答えが返ってくる。
ただでさえ安いアパートで、この部屋で変死者が出たという曰くつきの物件であるためにさらに値引きされているのだそうだ。

「あの貯水池、やっぱり水死者が出てたよ」
本当に師匠はこういうことを調べさせたら興信所並みだ。
言うには、あの貯水池で数年前に若い母親が生まれたばかりの自分の赤ん坊と入水自殺したのだそうだ。
まず赤ん坊を水に沈めて殺しておいて、次に自分の着衣の中にその赤ん坊と石を詰めて浮かび上がらないようにして、足のつかない場所まで行って溺れ死んだという話だ。
「じゃああれは、その母親の霊ですか」
「たぶんね」
では何故迷い出てきたのだろう。
「死にたくなかったからじゃないか」
師匠は言う。
死にたくはないけれど、死ななくてはならないと思いつめていた。その死にたくないという思いを押さえ込むための重しが、服に詰めた赤ん坊の死体であり石だった。そしてそれは死んだのちも、この世に惑う足枷となっている……
「フェンスのウチかソトか、っていうのはそのアンヴィヴァレントな不安定さのせいだね。乗せてくれという右手と、乗ってはいけないというフェンスの内側という立ち位置」
「車に乗せてたら成仏してたわけですか」
「さあ」
乗せてみたらわかるんじゃないかな……
師匠の言葉はどうしてこんなに蠱惑的なのか。僕はもう今夜呼び出された目的を理解していた。
「じゃあ行こうか」
師匠が車のキーと金属バットを持って立ち上がる。
いくらなんでもそれは、職質されたらまずいですよ、と言う僕に師匠は「野球好きに見えないかな」と冗談めかし、「鏡を見て言ってください」と返したが、そもそもそういう問題なのかという気がして、「なんの役に立つんですか」と重ねるも、「防犯」というシンプルな答え。
もういいや、なんでも。
僕も覚悟を決めて師匠の車に乗り込んだ。今日は雨が降っていない。

「稲川淳二でも聞こう」
夜のドライブにはやはりこのBGMしかない。僕もすでに洗脳されつつあるらしい。
「あの手の平。フロントガラスの。あれ、2種類あったよね」
「え?」
「いや、気づいてないならいい」
師匠はあの異常な状況下でも、ガラスに浮かび上がった手の平の形を冷静に判別していたのだろうか。
「それって、どういう……」と問いかけた僕に、淳二トークのツボに入った師匠の笑い声がかぶさり、そのままなおざりにされてしまった。
車は前回と同じ道をひた走り、同じルートで貯水池へアプローチを始めた。
今夜は視界が良い。月も出ている。
同じ場所から減速をはじめ、師匠は「今日も出るかな」と言いながらハンドルをソロソロと操作する。

いた。
黒いフード。夜陰になお暗い、この世のものではない儚げな存在感。
その姿はまた今度もフェンスの内側にあった。そして右手を挙げている。
緊張が高まってくる。
車はその目前で停まり、エンジンをかけたまま師匠が降りる。
慌てて僕もシートベルトを外す。
師匠がフェンスの格子越しに黒い影と向かい合っている。
手には金属バット。空には月。
「乗る?」
あまりに直截すぎて、間が抜けて聞こえるが、師匠は師匠なりに緊張しているのが声の震えで分かる。
土の上に、なにか重いものが落ちる音がした。
フードの足もとに滴る水に混じって、黒い石が落下している。右手は挙げたままだ。
一度は遁走した霊を相手に、もう一度近づくだけならまだしも車に乗るように語り掛けるなんて、正気の沙汰ではない。
黒い影から石が落ちるのが止まった。
風が凪いだような空白の時間があった。
しかし次の瞬間、貯水池の水面がさざめいたかと思うと、なにか小さい黒いものが水の中から斜面に這い上がり、あっという間もなく黒いフードの影の背後からその足元に絡み付いた。
息をのむ僕の目の前で、黒い影が斜面を引きずられるようにして貯水池の方に引っ張られていく。挙げていた右手がそのまま、まるで助けを求めるようにこちらに突き出されている。
そして音もなく影は暗い水の中に引きずり込まれていき、気がついた時には微かな波紋が月の光に淡く残るだけだった。

静寂が訪れる。
僕らはフェンスに掻きつくように近づく。しかし、目の前には何事もないただの夜の貯水池の静かな情景が月明かりの下に広がっているだけだった。
僕の肺は急に小さくなってしまったようだ。息が、苦しい。
やがて師匠が口を開いた。
「フロントガラスの手の平は、大きい手と小さい手と二通りあった。多分小さい方が心中で先に殺された赤ん坊のものだろう」
母親の魂がこの世界を離れるのを、あの赤ん坊が留めているんだな。死んだ後も、その重石としての役割を果たして。
師匠の言葉に、さっき見た小さい黒いものが赤ん坊の姿かたちをしていたようなイメージが脳裏をよぎる。
では、あの二人はこの貯水池に永遠に縛られたままなのか。
その絶望的な想像に、僕はしゃがみこんだ。俯いて地面だけを見ている。
師匠は何を考えているのだろう。
僕には分からない心中という道を選んだ母親の心を想像しているのだろうか。
少し、寒くなってきた。車から、つけっぱなしの稲川淳二の声が微かに流れてくる。
師匠はそれが聞こえていたのか、ふいにクスッと笑うと踵を返して「バッテリーがあがる。帰ろう」と言った。

師匠の、フェンスを握っていた指が離れたのか、カシャンという音が響き、僕も我に返って振り向きながら立ち上がった。その次の瞬間。
目の前に、壁があることに気がついた。
いびつな菱形をした金網の格子。それが僕の体にぶつかったのだ。
格子の向こうには、車のライトとそこへ歩いてく師匠の背中がある。
鳥肌が全身に立つ。心臓が早鐘のように鳴る。
いつの間に、僕は、フェンスの内側にいたのか。
「師匠ーっ!」
格子に指をかけながら、思い切り叫んだ。
その瞬間、師匠は振り返り、目を剥いて僕を見た。
「いつの間に中に入った」
自然、声が大きい。
入ってなんかいない。どうやってこの鉄条網つきの高いフェンスの内側に入れるというのか。……けれど確かにここはフェンスの内側なのだ。
ばちゃん。
という音がして、背後を見た。
貯水池の黒々とした水面に、なにか手のようなものが突き出されている。
それが地面を掴み、ヌルヌル光る泥のようなものを纏いながら這い上がろうとしていた。
「退いてろ」
という声とともに、師匠の金属バットがフェンスを殴打する。
しかし小さな火花が散っただけで、衝撃は波のように左右へ広がるだけだった。
べちゃんべちゃんという気持ちの悪い音が地面を叩き、小さくて黒いものが斜面をよじ登ってくる。
「出入り口は!」
「反対側です」
心臓が止まりそうな恐怖を味わいながらも、僕は正確に答えた。
「でも金属の鍵が掛かってます」
「フェンスの下を掘れないか」
「無理そうです」
師匠の舌打ちが聞こえた。サッと走り去る気配。
僕はくだけそうになる足腰を、かろうじて支えながら貯水池に正対した。
斜面に泥の跡を残しながら、小さくて黒いものがこちらに這って来ている。
黒いフードの人影にはあった、わずかなヒトの意思というものが、この小さい黒いものからは一切感じられない。
ただ、怖いもの。危険なもの。嫌なもの。そして絶対に助からないもの。
水面から続く泥の筋が、まるで臍の緒のように伸びている。
僕は混乱する頭で、なにをするべきか考えた。
母親の魂が救われる手助けをしようとしたから、こうなったのか。
だったら、もうそんなことはしないということを伝えなければ。
そう思っても、その小さくて黒いものに向かうと何故か声が掠れて出てこないのだった。
貯水池のまわりを走り回って逃げる?
閉じられたフェンスの囲いの中でずっとそうしてるというのか。
僕は心が折れていくのを感じていた。
ジーンズのお尻が冷たい土の感触にふれ、(ああ僕はもう座り込むしかないんだな)と現実から乖離したような思考がふわふわと漂った。

次の瞬間、轟音がした。
タイヤがアスファルトを引っ掻く音とともに、車のフロントがフェンスに突っ込んできた。
金属の焦げたような匂いがして、フェンスが風を孕んだように大きくひしゃげている。たわんだ金網の破れ目から何かを叫びながら師匠が手を伸ばした。
僕はその瞬間に立ち上がり、金属の鋭利な突起に服を引っ掛けながらも脱出することに成功する。
すぐに車はタイヤをすり減らしながら、強引にバックで金網から抜け出し、僕を助手席に乗せて走り出した。
後ろは振り返らなかった。
そのわずかな間に色々なことを考えたと思う。でももう覚えていない。
そして僕は助かった。

師匠のアパートに戻ってきた時、鍵も掛けてないドアをあっさりと捻ると、なぜだか笑いが込み上げてきた。
このオカルト道の先達にとって、本当に怖いものは鍵など通用しない存在なのだと、今さらながら気づいたのだ。ドアはドアでありさえすればよく、鍵は緊急時の自分の行動を制限してしまうだけなのだと。
「怖い目に遭わせたなぁ」
部屋の電気をつけながら、師匠はあまり済まなそうでもなく言う。
「ちびりました」
僕の言葉に、師匠は「男物の下着はないぞ」と嫌な顔をした。
冗談ですよと返しながら、僕は車のことを謝った。フロントに傷がついてしまったはずだ。それよりも、あの破壊したフェンス……
「なんとでもなる」
そんなことより、スパゲティの残りを食うかと言って、師匠はあと200グラムほど残った束をほぐし始めた。
「ダイエットじゃないんですか」
と声を掛けると
「パワー不足を痛感した」と言って後ろも見ずに壁に立てかけた金属バットを指さす。
「防犯なら、それよりもボディーガードを置きませんか」
僕なりに、真剣な意味を込めて言ったつもりだった。
それが伝わったのか、師匠は台所からきちんとこちらに振り向いて
「さっきの霊が背中にくっついて来てるのに気づかないやつには無理だな」
と言った。僕は悲鳴を挙げて、飛び上がった。
「ウソだウソ」
笑う師匠。

ウソと笑える神経が分からない。服の内側、背中一面に泥がついている。なぜ気づかなかったのか。血の凍るような恐怖を感じながら、僕は背中に手をやって悶え続ける。金属バットに足が当たって、ガランという音を立てる。
ウソだよウソ……
師匠の声が、ぐるぐると回る。
「このクソ女!」
確か、そう叫んだはずだ。その時の僕は。

師匠の、長い話が終わった。
大学1回生の冬の始めだった。
俺はオカルト道の師匠のアパートで、彼の思い出話を聞いていた。
「これがその時の、バットでついた傷。まったく、ただの泥にえらい醜態だった」
そう言って壁の削れたような跡を指さす。
俺はまるでデジャヴのような感覚を覚えていた。
「まるで今の俺みたいですね」
師匠も1回生の頃は、そんな情けない青年だったのか。今からたった4、5年前の話なのに。
「情けなかったとも思わないけどなぁ。あの人みたいな化け物と一緒にされると、そう聞こえるかも知れないけど」
師匠の師匠、当時大学院生だったという女性は加奈子さんといったそうだ。
彼女がいなくなったあと、師匠は空き部屋になった彼女の部屋に移り住んだらしい。
つまり今のこの部屋だ。

「でも、当時の家賃が1万円って、今より千円も高いじゃないですか」
値上げするならまだしも、値下げされるなんて、よっぽど酷い物件なのだろう。
「その加奈子さんって人は、今はどうしてるんです」
師匠は急に押し黙った。目が、昏い光を帯びてくる。
そしてゆっくりと口を開き、死んだ、と言った。
この部屋の家賃が、下げられた理由が分かった気がした。
けれど、いつどこで、どうしてということを続けては聞けなかった。何事にも順序というものがあり、師匠が師匠になるまでにしかるべき段階があったように、一人の人間がこの世からいなくなるのにも、相応しい因果があるのだろう。
その彼女の死は、師匠の秘密の根幹ともいうべき暗部であるという、確信にも似た予感があった。
ただその時、彼女はまだ、少しはにかみながら師匠が語る思い出話の中で、不思議な躍動感とともに息づいていたのだった。

人形

人形にまつわる話をしよう。
大学2回生の春だった。
当時出入りしていた地元のオカルト系フォーラムの常連に、みかっちさんという女性がいた。
楽しいというか騒がしい人で、オフ会ではいつも中心になってはしゃいでいたのであるが、その彼女がある時、こう言うのである。

「今さ、友だちとグループ展やってるんだけど見に来ない?」

大学の先輩でもある彼女は(キャンパスで会ったことはほとんどないが)美術コースだということで絵を描くのは知っていたが、まだ作品を見せてもらったことはない。
「いいですねえ」
と言いながら、ふと周囲のざわめきが気になった。
居酒屋オフ会の真っ只中に、どうして俺だけを誘ってきたのか。確かによくオフでも会うが、それほど彼女自身と親しいわけでもない。フォーラムの常連グループの末席に加えてもらっているので、自然に会う機会が増えるという程度だ。
なにか裏があるに違いないと、嗅ぎつける。
追求するとあっさりゲロった。
「gekoちゃんの彼氏を連れてきて」と言うのだ。

gekoちゃんとはその常連グループの中でも大ボス的存在であり、その異様な勘の良さで一目置かれている女性だった。その彼氏というのは俺のオカルト道の師匠でもある変人で、そのフォーラムには「レベルが違う」とばかりに鼻で笑うのみで参加をしたことはなかった。
もっとも彼はパソコンなど持っていなかったのであるが。
その師匠を連れてきてとは一体どういう魂胆なのか。

「いやあ、そのグループ展さあ、5日間の契約で場所借りてて今日で3日目だったんだけど……なんか変なんだよね」

聞くところによると、絵画作品を並べているギャラリーで誰もいないはずの場所から誰かのうめき声が聞こえたり、見物客の気分が急に悪くなったりするのだそうだ。
「昨日なんてさ、終わって片付けして掃除してたらさ、床に長くて黒い髪の毛がやたら落ちてんの。お客さんっていっても、わたしの友だちとかばっかだし、たいていみんな髪染めてんのよ。先生とかオッサン連中はそんな髪長くないしね。気味悪くてさあ」
みかっちさんは演技過剰な怖がり方で、肩を抱えてみせた。
「こういう時頼りになるgekoちゃん、この間からなんか実家に帰ってていないし。キョースケは東京に出て行っちゃったし」
肘をついてブツブツと言う。
「というワケで、噂のgekoちゃんの彼氏しかいないワケよ」
みかっちさんは師匠と直接会ったことはないようだが、やはり噂は漏れ聞いているみたいだ。どんな噂かはさだかではないが。
「とにかくコレ、案内状。明日来てよね。私、明日は朝から昼まで当番だから、昼前に来て」
ずいぶん強引だ。「明日は平日なんですけど」と言うと、めったに講義出ないんでしょと小突かれた。

翌日、一応師匠を誘うと「面白そうだ」とノコノコついて来た。
二人で案内状を見ながら街を歩き、たどり着いた先は老舗デパートのそばにある半地下のこじんまりとしたギャラリーだった。
少し外に出ればアーケード街があり、平日の昼でも人通りが絶えないのであるが、ここはやけに静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。

中に入ると、学生らしきショートボブの女性が「いらっしゃいませ」と笑顔をこちらに向けてくれた。みかっちさんと同じ美術コースの人だろうか。暗めの照明に、壁中に大小様々な絵が飾られた店内が照らし出されている。
「あ、ホントに来たんだ」
呼んでおいてホントもなにもないと思うが、みかっちさんがギャラリーの奥から出てきた。そして師匠を見るなり目を見開いて呟く。
「ちょっと、gekoちゃん。見せないワケだわ……」
師匠はそれを無視して、視線をギャラリー内に走らせる。ここに来るまで冷やかし気味だった雰囲気が少し変化していた。
「ここって何人ぐらいで借りてるの」
師匠の問いかけに、みかっちさんは「6人」と答える。
「コースの仲間と、後輩。学割が効くんですよ、ココ」
「で、自分たちで描いた絵を期間中、置いてもらうわけか」
「そうです。で、6人で順番に当番決めてお客様対応」
ふうん。
師匠はもう一度、視線を一回りさせる。
「あ、そうそう。わたし犯人っぽいのわかっちゃったかも。こっちこっち」
みかっちさんは俺たちをギャラリーの奥まった一角に案内した。
それまでバスケットのフルーツなど、静物画を中心に並んでいたのに、一つ明らかに異質な絵が出現した。

それは人形の絵だった。
全体的に青く暗い背景の中、オカッパ頭の人形の絵がまるでヒトの肖像画のように描かれている。
明らかに人間をデフォルメしたものではなく、写実的な表現で一目見て人形と分かるように出来ている。黒髪の頭に赤い着物。それらが妙に煤けた感じで、小さな額に納まっていた。

「ね」
とみかっちさんは小さな声で言った。
確かに不気味な絵だ。市松人形というのだろうか。可愛らしい人形を描いた絵とは少し言い難い。何故かは自分でもよくわからないが、人間ではないものが人間を擬してそこにいるような嫌悪感があった。
「これは誰の絵?」
「わたし」
みかっちさんは後ろ頭をわざとらしく掻く。困ったような表情も浮かべている。
「モデルがあるね」
「……友だちの持ってる人形。すっごく古いの。ちょっと興味があって描かせてもらったんだけど」

伏目がちな童女のふっくらした顔が不気味な翳を帯びている。胸元を締める浅葱色の帯が所々剥げてしまって、どこか哀れな風情だった。
師匠は真剣な表情で絵に顔を近づけ、何事かぶつぶつ言っている。
「やっぱこれかなあ。どうしよう。結構気に入ってるんだけど」
「なにか曰くがある人形なんですか」
「あるよ。すっごいの。でもこれはタカガわたしが描いた絵だし、全然気にしてなかったんだよね」
「その曰くって、どんなのですか」
俺がそう口にしたところで、師匠が顔を離し、難しい顔で「逆だ」と呟いた。
「え?」と訊くと、絵から目を逸らさないまま「いや」と言い淀み、首を振ってから
「やっぱり、よくわからないな。これが原因だとしても、ただの媒体にすぎない。本体の方を見たいな」
と言う。
みかっちさんは「う~ん」と言ったあと、ニッと唇の端をあげた。
「込み入った話だとここじゃちょっとね。近くの喫茶店で話さない?」
師匠と俺は頷く。みかっちさん、最初は敬語気味だったのにいつの間にか師匠にもタメ口だ。
「あ、でも交替要員が来るまでまだ結構時間あるから、絵でも見てて」
来た時は俺たちしか居なかったのに、いつの間にかもう一人初老の男性がやって来てショートボブの女性が応対している。

俺はギャラリーの真ん中に立って、目を閉じてみた。精神を集中し、違和感を探る。
するとやはり、人形の絵がある方向になにか嫌な感じがする。照明があたり難いせいなのかも知れないが、あの辺は妙に暗い気がする。
「ねえミカ、友だち?なに熱心に見てたの」
ショートボブの女性が声をかける。
「うん。人形の絵をちょっとね」
「人形の絵?」
首をかしげる女性に、みかっちさんはなんでもない、と手を振った。
俺と師匠は一通り絵の説明を受けながらギャラリーを見ていったが、素人目には上手いのか下手なのかもよくわからない。ただモダンな感じの難解な絵はなく、わりとシンプルで写実的な作品が多かった。
「見て見てこれ、あたしがモデル」などと言って裸婦の絵を指さしなど、テンションの高いみかっちさんとは裏腹に、俺たちは絵画鑑賞などすぐに飽きてきてしまった。
特に師匠など露骨で、ショートボブの女性が熱心に紹介してくれているのに気乗りしない生返事ばかり。そして少しイライラしてきたらしい女性が
「絵はあまりお好きじゃないみたいですね」
と言うと、それに応えて思いもかけないことを口にした。
「絵なんて、ようするにすごく汚れた紙だ」
絶句する女性に、畳み掛けるように続ける。
「見るくらいにしか役に立たない」
平然と言ってのけた師匠を、さすがにまずいと思った俺がむりやり引きずって外に出した。
みかっちさんには「近くの喫茶店にいますから」と言い置いて。

ザワザワと耳障りな雑踏の音が飛び込んでくる。
やはりああした所は、鑑賞中に気が紛れない様に防音が効いているのだろう。
俺は師匠を問い詰めた。
「なんであんなこと言うんです。人がせっかく描いた作品に」
「別に貶したつもりはなかったんだけどな」
「自分が好きなものをバカにされたら誰だって怒りますよ」
師匠はう~ん、と言って顎を掻く。
「オカルトの方がよっぽど役に立たないでしょ」
俺は自分自身への自虐も込めて師匠を非難した。
すると師匠は急に遠くを見るように目の焦点をさ迷わせ、横を向いてじっとしていたかと思うと、こちらへゆっくりと向き直って言った。
「役に立たないものは、愛するしかないじゃないか」
二人の間に足元に駐車禁止の標識の影が落ちていた。
俺は一瞬なんと返していいかわからず、ただ彼の目を見ていた。
その言葉は、今では師匠の好きだったある劇作家の言葉だと知っている。あるいは戯れに口にしたのかも知れない。それとも彼の深層意識から零れ落ちたのかも知れない。
けれどその時の俺は怒ると言うより呆れていて、そんな言葉をくだらないと思い、なんだそれと思い、そしてそれからずっと忘れなかった。

喫茶店で軽食をとりながら30分ほど待ったところで、みかっちさんがやってきた。
「ごめーん、遅くなったあ」などと軽い調子で席に着き、さっきの師匠の失言などまるで気にしてない様子だった。
みかっちさんはホットサンドを注文してから、さっそく本題に入る。
「あの絵の人形って、高校時代の友だちの持ち物なんだけど、なんか死んだおばあちゃんがくれた凄い古いヤツなんだって」
その友だちは礼子ちゃんといって今でも良く一緒に遊ぶ仲なのだそうだが、最近少し様子がおかしかったと言う。
ある時彼女の家に遊びに行くと
「なんかわかんないけど江戸時代くらいの和服の女の人が何人かいて、真ん中の人がその人形を抱いて座ってる写真」
を見せられたそうで、自分はその人形を抱いている女性の生まれ変わりなのだと言い出したらしい。
聞き流していると怒り出し、その人形が家にあると言ってどこからか引っ張り出してきて、それを抱きしめながら「ねっ?」と言うのだ。
写真の女性と似てるとも思えなかったし、どう言っていいのかわからなかったが、そんな話自体は嫌いではないのでそういうことにしてあげた。
それにそんな古い写真と人形が共にまだ現存していたことに妙な感動を覚えて、「絵に描きたい」と頼んだのだそうだ。

「その絵があれか」
師匠がなにごとか気づいたように片方の眉を上げる。なにかわかったのかと次の言葉を待ったが、なにもなかった。
みかっちさんはコーヒーにシュガースティックを流し込みながら、珍しく強張った表情を浮かべた。
「でね、それから何日か経って、あ、今から3週間くらい前なんだけど、その礼子ちゃんとか高校時代の友だち4人で温泉旅行したんだけど」
少し言葉を切る。その口元が微かに震えている。
「電車に乗ってさ、最初四人掛けの席が空いてなくて二人席にわたしと礼子ちゃんとで座ってたんだ。ずっとおしゃべりしてたんだけど、1時間くらいしてからなんか、持ってくるって言ってた本の話になってさ。礼子ちゃんがバッグをゴソゴソやってて、あっ間違えた、って言うのよ。なに~?別の本持って来ちゃったの?って聞いたらさ」
唾を、飲み込んでから続ける。
「ズルッて、バッグからあの人形が出てきて、『本と間違えちゃった』って……」
俺はそれを聞いてさっきのギャラリーでは感じられなかった、鳥肌が立つような感覚を覚えた。
「別に頭がおかしい子じゃないのよ。その旅行でもそれ以外は普通だったし。ただ、なんなんだろ、あれ。人形って魂が宿るとかいうけど」
それに憑りつかれたような……
みかっちさんが続けなかった言葉の先を頭の中で補完しながら、俺は師匠を見た。
腕組みをして真剣に聞いているように見える。やがておもむろに口を開く。
「その人形を描いた絵が、さっきのグループ展での不思議な出来事の元凶ということか」
「だよね、どうかんがえても」
みかっちさんは、どうしよ、と呟いた。
「絵を処分しても解決したことにはならないな。勘だけど、その人形自体をなんとかしないと、まずいことになりそうな気がする」
師匠は身を乗り出して、続けた。
「その子の家にはお邪魔できる?」
「うん。電話してみる」
みかっちさんは席を立った。
やがて戻って来ると、「今からでも来ていいって」と告げた。

そうして俺たちは3人でその女性、礼子さんの家に向かうことになったのだった。
喫茶店から出るとき、師匠は俺に耳打ちをした。
「面白くなってきたな」
俺は、少し胃が痛くなってきた。
みかっちさんの車に乗って、走ること15分あまり。街の中心からさほど離れていない住宅地に礼子さんの家はあった。
2階建てで、広い庭のある結構大きな家だった。
チャイムを鳴らすと、ほどなくして黒い髪の女性が出てきて「あ、いらっしゃい」と言った。
案内された客間に腰を据えると、用意されていたのか紅茶がすぐに出てきた。スコーンとかいうお菓子も添えられている。
「いま家族はみんな出てるから、くつろいでくださいね」
言葉遣いも上品だ。こういうのはあまり落ち着かない。
「大学のお友だちですって?ミカちゃんが男の人をつれてくるのは珍しいね」
俺たちはなにをしに来たことになっているのか、少し不安だったが、「ああ、写真ね。今持ってくる」と言ってスカートを翻しながら部屋から出て行った様子に安堵する。
みかっちさんが小声で、「とりあえず、古い写真マニアっぽい設定になってるから」
やっぱり胃が痛くなった。

戻ってきた礼子さんは「死んだ祖母の形見なんです」と言いながら、木枠に納められた写真をテーブルに置いた。
色あせた白黒の古い写真をイメージしていた俺は、首を傾げる。ガラスカバーの下にあるそれは、妙に金属的で紙のようには見えなかったからだ。
しかしそこには着物姿の3人の女性が並んで映っている。モノクロームの写りのせいか、年齢は良く分からないが若いようにも見えた。
椅子に腰掛け、何故かみんな一様に目を正面から逸らしている。
そして真ん中の女性が膝元に抱く人形には、確かに見覚えがあった。
あの絵の人形だ。

「私の祖母の家は、明治から続く写真屋だったそうです。この写真はそのころの家族を撮ったもので、たぶんこの中に私のひいひいおばあちゃんがいるそうです」
礼子さんはうっとりとした表情で装飾された木の枠を撫でながら、「真ん中の人かな」と言った。
師匠は、食い入るような目つきで顔を近づけて見ている。おお、マニアっぽくていいぞ、と思っていると彼は急に目を閉じ、深いため息をついた。
「これは銀板写真だね」
目をゆっくりと開いた師匠の言葉に、礼子さんは軽く首を傾げた。わからないようだ。
俺もなんのことかわからない。
「写真のもっとも古い技術で、日本には江戸時代の末期に入ってきている。銀メッキを施した銅板の上に露光して撮影するんだ。露光には長くて20分も時間がかかるから、像がぶれないように長時間同じ姿勢でいるためにこうして椅子に座り……」
と言いながら師匠は着物の女性の髷を結った頭部を指さす。頭の上になにか棒のような器具が出ている。
「こういう、首押さえという道具で固定して撮る。ただ、この銀板写真も次世代の技術である湿板写真の発明によってあっという間に廃れてしまう。長崎の上野彦馬とか下田の下岡蓮杖なんかはその湿板写真を広めた職業写真家の草分けだね。
明治に入ると乾板写真がそれにとって代わり、日本中に写真ブームが広がる。その中で出てきたのが、写真に撮られると魂を抜かれるだとか、真ん中に写った人間は早死にするだとかいう噂。それからそこにいないはずの人影が写った幽霊写真。今の心霊写真の元祖は明治初期にはすでに生まれていて、そのころからその真偽が論争の的になっている」

ほー、という感心したような吐息が女性陣から漏れる。
本当に古い写真マニアだったのかこの人は。いや、というよりは、やはり心霊写真好きが高じてというのが本当のところだろう。
「というわけで、銀板写真は明治の写真屋の技術ではないんだ。だからこれは商売道具で撮影したものではなく、回顧的もしくは技術的興味で撮られた写真だろう。
像も鮮明だから、露光時間が短縮された改良銀板写真技術のようだね」
やはり感じたとおり、材質は紙ではなかった。銅版なのか。
俺はしげしげと3人の女性を見つめる。100年も前の写真かと思うと、不思議な気持ちだ。
本当に写真は時間を閉じ込めるんだな、と良くわからない感傷を抱いた。
「魂を抜かれるって、聞いたことがありますね。真ん中で写っちゃいけないとかも」
礼子さんの言葉に師匠は頷きかける。
「うん。それは当時の日本人にとっては切実な問題だったんだ。鏡ではなく、まるで己から切り離されたように自分を平面に写し込むこの未知の技法を、どこか忌まわしいもののように感じていたんだろう。
この写真の女の人たちが目を背けているのも、その頃の俗習だね。視線を写されるのは不吉だとされていたらしい」
本来の目的を忘れて師匠の話に耳を傾けていると、そこから少し口調が変わった。
「この、真ん中の女性が抱いている人形もそうだ」
みかっちさんの肩も緊張したように、わずかに反応する。
「真ん中の人間の寿命が縮むというのは明治時代、日本中に広がっていた噂でね。今で言うミーム、いや都市伝説かな。そんな噂を真に受けて不安がる女性客に、写真屋が手渡すのがこれだよ」
師匠は女性の膝の人形を指さす。
「人形を入れれば、全部で4人。真ん中はなくなる。それに椅子に斜めに腰掛けることで、人間ではなく膝の上の人形が正確に写真の中心にくるような配置になっている。つまり寿命が縮む役の身代わりということだ。そうした写真の持つ不吉さを、人形に全部被せていたんだ」

ゾクゾクしはじめた。
身代わり人形だったのだ。穢れの被り役としての。
恐らく、写真屋は同じ人形を使い続けただろう。その頃、写真を撮るような客は上流階級に属している者ばかりのはずだ。そんな客に、使い捨ての安っぽい人形を持たせる訳にもいくまい。
つまり、こういう、上質な市松人形のようなものが、ずっとその役目を負い続けるのだ。
意思を持たないものに、悪意を被せ続ける……
そのイメージに俺はぞっとした。
何年何十年という時間の中で穢れは、悪意は集積し、この人形の内に汚濁のように溜まっていく。そして……

シーンと静まる家の中が、やけに寒く感じられた。
「ちょっと、なんでそういうこと言うのよ」
礼子さんの口から鋭く尖った言葉が迸った。
「この子は私のひいひいおばあちゃんの大切な人形よ。そんな道具なんかじゃない。だってずっと大事にされて今の私にまで受け継がれたんだから。見ればわかるわ」
そう捲くし立てて礼子さんは凄い勢いで部屋の出口へ向かった。
唖然として見送るしかない俺の横で、師匠は叫んだ。
「そんなものが実在すればね」
一瞬、礼子さんの頭がガクンと揺れた気がしたが、彼女はそのまま部屋を飛び出していった。
「どういうこと?」
とみかっちさんが訝しそうに眉を寄せる。
「まあ見てな」
師匠は余裕の表情で革張りのソファに深く体を沈めた。
俺は写真にもう一度目を落とし、人形を良く観察する。
色こそついていないが、やはりあの絵と全く同じ人形のようだ。髪型や表情、帯や着物の柄も同じに見える。
師匠はこの写真からなにかわかったのだろうか。

やがて静まり返っていた家の中に、女性の悲鳴が響き渡った。
全員腰を上げ、客間を出る。スリッパの音がバラバラと床を叩いた。
みかっちさんが先導して1階の奥の部屋へ足を踏み入れると、広々とした和室に礼子さんの後姿が見えた。
「いないのよ。あの子が」
屈み込み、取り乱した声で畳を爪で引っ掻いている。
和箪笥など古い調度品が並ぶ中、奥に床脇棚があり、その上に空のガラスケースが置かれていた。
ガラスケースの中には薄紫色の座布団のような台座だけがぽつんと残されていて、丁度あの人形が納まる大きさのように思えた。
「誰なの。どこへやったの」と呻く様に繰り返している礼子さんに、みかっちさんが駆け寄り「落ち着いて」と背中をさする。
次の瞬間、バン、という大きな音がして横を見ると、師匠が後ろ手で壁を叩いた格好のまま険しい顔つきで女性二人を睨んでいる。
「落ち着くのは、キミもだ」
そう言いながら床脇棚に近づき、ガラスケースを持ち上げる。台座を触り、その指を二人に見せ付けた。
「この埃は、少なくとも何年かここに人形なんか置かれていなかったことの証だ。あの絵を見た時からおかしいと思っていたが、写真を見て確信した。人形なんかこの家にはないじゃないかと」

礼子さんが怯えたような顔で、頭を抱える。みかっちさんも目の焦点が合っていない。
「先日の温泉旅行、その人形がバッグから出てくるところを見たのは彼女の他にキミだけだ。それは本当にあの人形だったのか?」
師匠の詰問に、みかっちさんはうろたえて「え、だって」と口ごもった。そして「あれ?あれ?」と両手で自分の頭を挟むように繰り返す。
「人形を絵に描いたと言ったが、具体的にどこでどうやって描いたか、今説明できるか」
「え?うそ?あれ?」
みかっちさんは今にも崩れ落ちそうに小刻みに震えながら、なにも答えられなかった。
「あの写真持ってきて」との師匠の耳打ちにすかさず従い、ほどなく俺は3人の前に写真を掲げた。
「僕はその人形を描いたという絵の着物の襟元を見ておかしいと思った。それは合せ方が通常と逆の左前になっていたからだ」
師匠は洋服とは違い、和服は男女ともに右前で合せるのが伝統だと語った。
「これに対し、死んだ者の死装束は左前で整えられえる。北枕などと同じく葬儀の際の振る舞いを『ハレ』と逆にすることで死の忌みを日常から遠ざけていたんだ。
だから子どもの遊び道具であり、裁縫の練習台であった、いわば日常に属する市松人形が左前であってはおかしい」
こんなことは説明するまでもなかったか、と呟いてから師匠はみかっちさんの方を向いた。
「モデルを見て描いたのであれば、こんな間違いは犯さないはずだ。絵の技法上の意図的なものでない限り、彼女はその人形を見ていないんじゃないかとその時少し不審に思った」
そして写真を指さす。
「そこで出てきたのがこの銀板写真だ。銀板写真は明治の志士の写真などで知られる湿板写真やその後の乾板写真と大きく異なる性格を持っている。それは被写体を左右逆に写し込むという技術的性質だ」
え?と俺は驚いて写真を見た。
文字の類は写真に写っていないので、左右が逆であるかどうかは咄嗟に判断がつかない。
そうだ。着物の襟だ。と気づいてからもう一度3人の女性の襟元をよく見た。本人から見て左側の襟が上になっている。
「ホントだ。左前になってます」と言うと、師匠に話の腰を折るなと言わんばかりに「バカ、左前ってのは本人から見て右側の襟が上に来ることだ」と溜め息をつかれた。
あれ?じゃあ写真の女性は右前なわけで、正しい着方をしていることになる。左右逆に写っていないじゃないか。
師匠は人さし指を左右に振ってから続けた。

「これが日本人の迷信深いところだ。銀板写真が撮られた当時、被写体は武家や公家などの支配階級の子弟たちだったわけだが、出来上がった己の写真が死装束である左前となっていては縁起が悪いために、わざわざ衣服を逆に着て撮影していたんだ。もっとも単に見栄えの問題もあったのだろう。
武士など刀まで右の腰に挿し直して撮っている。
当時の銀板写真を良く見ると、襟元や腰の大小が変に納まり悪く写っているから、彼らの微笑ましい努力の跡が垣間見えるってものだ」
ということは、つまりこの着物姿の3人の女性も撮影時にわざわざ左前にしてカメラの前に座ったのか。
俺は感心し、言われなかったら気づかなかったであろう100年の秘密に触れたことに、ある種の快感を覚えた。

「そこで、もう一度この真ん中の女性が抱える人形を見て欲しい」
師匠の言葉に、視線をそこに集中させる。
人形の襟元が、他の女性たちと逆に合せられている。左前だ。銀板写真は左右を逆に写すので、つまり撮影時には右前だったことになる。
「市松人形としてはこれで正しい。ただ撮り終わったあとの写真が間違っていただけだ。だから……」
と言って、師匠はみかっちさんに視線を向け、笑い掛けた。
「キミのあの絵は、この写真の一見左前に見える人形を描いたものなんだ。キミは人形を絵に描いたと言いながら、人形を見ていない。奇妙な記憶の混濁があるようだ。なぜならそんな人形はもう存在していないんだから」

キャアァー!!
という甲高い金属的な悲鳴が家中に響き渡った。
俺は背筋を凍らせるような衝撃に体を硬直させる。頭を抱えて俯いている礼子さんの口から出たものにしては、おかしい。まるで家中の壁から反響してきたような声だった。
「その人形がどうしてなくなったのかは知らない。あなたの口からそれが聞けるとも思わなけど。戦争で焼けたのか。処分されたのか……
ただあなたの中に棲みついて、そこにいる友だちの中にも感染するように侵入したそれは、この世に異様な執着を持っているみたいだ。自分の存在を、再び世界と交わらせようとする意思のようなものを感じる。
実際に、絵という形で、一度滅びたものが現実に現れたんだから」
ミシミシという嫌な圧迫感が体に迫ってくるようだ。
これは、髪が伸びるだとか、涙を流すだとかいう人形にまつわる怪談と同質のものなのか?
いや、絶対に違う。
俺は底知れない嫌悪感に体の震えを止めることが出来なかった。
「その人形。あなたの先祖の家業だった写真屋の、これは商売道具のはずだ。だから実のところ、一見して左前に見えてはおかしいんだ。衣服だけでなく刀などの道具立ても左右逆にしつらえて撮るように、膝に抱く人形だって持ち主に合せるべきだ。
市松人形はもともと女性や子どもの着せ替え人形なんだ、合せ方を逆にして着せるなんて容易いはず。同じ目的でずっと使う人形ならばなおさらそうすべきだ。
しかし、この写真に残されている姿はそうではない。何故だかわかるかい。それは」
師匠は憂いを帯びたような声で、しかし俺にだけわかる歓喜の音程をその底に隠して続けた。
「真ん中に写ったものが早死にするという噂のためにこの人形を真ん中に据えるってことと同じ目的のためだ。写真にまつわる穢れをすべて人形に集中させるため、徹底した忌み被せが行われている。
つまりわざわざ死者の服である左前で写真に写るように、この人形だけは右前のままにされているのさ」

吐き気がした。
師匠につれまわされて今まで見聞きしてきた様々なオカルト的なモノ。それらに接する時、しばしば腹の底から滲み出すような吐き気を覚えることがあった。
しかしそれは大抵の場合、霊的なものというよりも人間の悪意に触れた時だったことを思い出す。
「付喪神っていう思想が日本の風土にはあるけど、古くから人間の身代わりとなるような人形の扱いには特に注意が払われていた。しかしこいつは酷いね。その人形に蓄積された穢れの行き着く先を誤っていれば、どういうことになるのか想像もつかない」
柱時計の音だけが聞こえる。
静かになった部屋に、畳を擦る音をさせて師匠が俯いたままの礼子さんに近づいた。
「あなたが魅入られた原因は、実にはっきりしている。なくなったはずの人形がこの世に影響を及ぼす依り代としたもの。それは真ん中で写ったものの寿命が縮まるという噂と同じくらいポピュラーで、江戸末期から明治にかけて日本人の潜在意識に棲み続けた言葉。
『写真に写し撮られたものは、魂を抜かれる』
という例のあれだ」
師匠は俺の手からもぎ取った写真の人形のあたりを手のひらで覆い隠すようにして続けた。
「あなたがおばあちゃんから貰ったというこの写真こそが元凶だよ。人形の形骸は滅んでも、魂は抜かれてここに写し込まれている」
そう言いながら礼子さんの顔を上げさせた。
目は涙で濡れているが、その光に狂気の色はないように思えた。
「これは僕が貰う。いいね」
礼子さんは震えながら何度も頷いた。師匠は呆然とするみかっちさんにも同じように声を掛け、「あの絵は置かない方がいい。あれも僕が貰う」と宣告する。
そうして最後に俺に笑い掛け、「おまえからは特に貰うものはないな」と言って俺の背中を思い切りバンと叩いた。
いきなりだったのでむせ込んだが、その背中の痛みが俺の体を硬直させていた嫌な感じを一瞬忘れさせた。

引き上げようと、師匠は静かに告げた。
その後、礼子さんは糸が切れたようにぐったりと客間のソファーに横たわった。その顔はしかし、気力と共に憑き物が取れた様に穏やかに見えた。俺たちは礼子さんに心を残しつつもその大きな家を辞去した。

みかっちさんが青ざめた顔で、それでも殊勝にハンドルを握り元来た道を逆に辿っていった。
「あんた何者なのよ」
小さな交差点で一時停止しながら掠れたような声でそう言って、横の師匠を覗き見る。
彼女の中で、『gekoちゃんの彼氏』以外の位置づけが生まれたのは間違いないようだ。
その位置づけがどうあるべきか、迷っているのだ。それは俺にしても、出会った頃からの課題だった。
「さあ」と気の無い返事だけして師匠は窓の外に目をやった。
車は街なかの駐車場に着いて、俺たちはグループ展の行われているギャラリーに舞い戻った。
「ちょっと待ってて」と言ってみかっちさんは店内に消えていった。
と、1分も経たない内に「絵がない」と喚きながら飛び出して来た。俺たちも慌てて中に入る。
「どこにもないのよ」
そう言って閑散としたギャラリーの壁に両手を広げて見せた。

確かにない。奥の、照明が少し暗い所に飾ってあったはずの人形の絵がどこにも見当たらない。
「ねえ、私の人形の絵は?どこかに置いた?」
とみかっちさんは受付にいた二人の、同年齢と思しき女性に声を掛ける。
「人形の絵?知らない」と二人とも顔を見合わせた。
「あったでしょ、4号の」
畳み掛けるみかっちさんの必死さが相手には伝わらず、二人とも戸惑っているばかりだ。
俺と師匠も絵があったはずのあたりに立って周囲を見回す。
人形の絵の隣はなんの絵だったか。瓶とリンゴの絵だったか、2足の靴の絵だったか……
どうしても思い出せない。しかし、壁に飾られた作品が並んでいる様子を見ると、他の絵が入り込む隙間など無いように思える。
薄ら寒くなって来た。

やがてみかっちさんが傍に来て、「搬入の時のリストにもないって、どうなってんの」と打ちひしがれたように肩を落とす。
「なんかダメ、あたし。あの人形がらみだと、全然記憶があいまい。何がホントなのか全然わかんなくなってきた」
それは俺も同じだ。つい数時間前にこの目で見たはずの絵が、その存在が、忽然と消えてしまっている。
「ねえ、このへんから変な声がしたり、黒い髪の毛がいっぱい落ちてたりしたよね」
とみかっちさんは再び仲間の方へ声を掛けるが
「えー、なにそれ知らない。あんたなに変ことばっかり言ってんの」
と返された。
「その髪の毛は一人で掃除したのか」
納得いかない様子ながらも、師匠の言葉に頷く。そんなみかっちさんは兎も角、俺たちまで幻を見ていたというのか。

師匠にその存在を否定されてから、あの人形の痕跡が消えていく。俺は目の前の空間が歪んで行く様な違和感に包まれていた。まるでこの世を侵食しようとした異物が己に関わるすべてを絡めとりながら闇に消えていくようだった。
「まさか」
と俺は師匠が脇に抱える布を見た。木枠に納められたあの写真をグルグルに巻いている布だ。
これまで、どうにかなっているようだと、それこそ頭がどうにかなりそうだった。
「これは、見ない方がいいな」
師匠は強張った表情でしっかりとそれを抱え込んだ。
そのあと師匠がそれを処分したのかどうかは知らない。

エレベーター

大学1回生の秋だった。
午後の気だるい講義が終わって、ざわつく音のなかノートを鞄に収めていると、同級生である友人が声を掛けてきた。
「なあ、お前って、なんか怪談とか得意だったよな」
いきなりだったので驚いたが、条件反射的に頷いてしまった。
「いや違う、そうじゃなくて、怪談話をするのが得意とかじゃなくて、あ~、なんつったらいいかな」
友人は冗談じみた笑いを浮かべようとして失敗したような、強張った表情をしていた。
「……怖いのとか、平気なんだろ?」
ようやくなにが言いたいのか、わかった。彼の周囲で何か変なことがあったらしい。だが頷かなかった。平気なわけはない。
「外で聞く」
まだ人の残った教室では、あまりしたくない話だ。俺はその頃はまだ、できるだけ普通の学生であろうとしていた。

夕暮れの駐輪場で、自転車にもたれかかるようにして経緯を聞く。
彼は郊外のマンションに一人で住んでいるのだと言った。エレベーター完備の10階建てで見通しの良い立地場所なのだとか。親が弁護士で、仕送りには不自由していないのだそうだ。
口ぶりから自慢げな雰囲気を嗅ぎ取った俺が、「帰っていい?」と言うと、ようやくそのマンションで気味の悪いことが起こっているという本題に入った。

「エレベーターで1階に降りようとしたらさ、箱の現在地の表示ランプが上の方の階から下がってくるわけよ。それで自分トコの階まで来たら開くと思うじゃない?
それが、なんでかそのまま通過するんだよ。ちゃんと下向き矢印のボタン押してるのに」

それが頻繁に起こったので、彼は管理人に電話したのだそうだ。故障しているのではないかと。
しかし、数日後「業者に見てもらったが正常に作動中」だとの返答。他の住民に「最近、エレベーターの調子悪くないですか」と聞いてもみたが、「さあ」と返されただけだった。

「箱の現在地が下の方の階にある時だって同じことが起こるんだ。ボタン押して待ってても、開かずに通り過ぎるんだよ。それでランプ見てると上の方の階で停止してるだろ。上の階の人が先にボタン押して箱を呼んでても、途中の階で後からボタン押したらちゃんと止まるよなあ。デパートとかだと。
まあでも設定が違うのかもと思ってさあ、イライラしながら待ってたらやっとランプが降りてきて、自分トコの階で止まるわけよ。それでドアがスーッと開いたら……」

彼はそこで言葉を切って、微かに震える声で言った。
「誰もいないわけよ」

ちょっとゾクッとした。
確かになにか変だ。
自分の階をスルーして上の階で止まったはなんなのだ。誰かが乗ろうとしてエレベーターを呼んだのではないのか。

「そんなことが続いてさあ。もうなんか、気味悪くて」
俺の部屋、4階なんだ……
それがさも因縁めいているかのように、彼は言う。
しかも、5号室。てことは、ひぃふぅみぃよぉの、4つ目の部屋なんだ……
「最悪だよ」
そう言って溜息をついた。
彼はそういう数字的なものを気にするタイプらしい。サッカー部に属している彼に快活なイメージを持っていた俺は、そのうなだれる姿を意外に思った。

俺は腕時計を見た。見たところで、今日はもうなんの予定もないことに気づく。
「今からそこに行ってもいいか?」
友人も俺に習ってか、儀式的に腕時計を見た後、「いいよ」と言った。
俺が行ったところで問題が解決するとは思えないが、少なくともなにか怖い目には遭えるかも知れない。友人がこの話を俺にしたのも案外解決という目的ではなく、漠然とした共有のためかも知れないじゃないか。
好奇心猫を殺す。
思わずそんな呟きが自嘲気味にこぼれ出た。昨日の夜、漫画を読んでいてそんな言葉が出て来たのがまだ頭にこびりついていたらしい。俺にぴったりの格言だと思う。
けれどその頃の俺は、手に届く距離にあるオカルトじみた話を無視できる心理状態になかったのは確かだ。
「克己心じゃなかったっけ」
という友人の間の抜けた声が聞こえた。

夕暮れが深まる中を、自転車で駆けた。
密集した住宅街から少し離れた郊外に友人のマンションはあった。上空から見たとすればそれは大きなLの字のような構造をしているようだ。
駐車場に自転車を止め、夕日に巨大な影を伸ばすその威容を見上げる。とうてい学生向けの物件には見えない。
実際、敷地内には小さなブランコや昆虫の形をした遊具が散見できた。ここには小さな子どものいる多くの家族が住んでいるのだろう。
「いいとこ住んでんなあ」と漏らしながら、友人の後をついて玄関へ向かった。

1階のフロアに入ると、すぐ正面にエレベーターが現れる。L字のちょうど折れているあたりだ。右手側と、振り返る背後に各部屋のドアが並んでいる。

「階段もあるけど、あっちの端なんだ」
と友人は背後の、L字の短い方の端を指差した。
「ちょっと不便な感じ」
そう言いながら、友人は思ったよりあっさりとエレベーターの上向き矢印ボタンを押した。
現在の階数表示では5階のランプが点灯している。あまり待つことなくすぐにランプが降りてきて、1階のそれが一瞬点灯するかしないかのうちに扉が開いた。
「なんか、前振りあった分、緊張するな」
そんなことを言って、友人は中に乗り込んだ。
俺も後に続く。

「4」のボタンを押してから、「閉」のボタンを押す。
扉が閉まる。
閉まる瞬間、正面の灰色の壁に顔のような模様が見えた気がしてドキッとする。音も無くエレベーターは上昇する。息が、詰まる。
「今も、目に見えない誰かが乗ってたりすんのかな」
友人は軽い口調でそう言う。かすかに、語尾が震えている。
何ごとも無く、エレベーターの箱は4階についた。扉が開き、俺たちは外に出る。
友人は軽く肩を竦めて、両方の手の平を返した。
「昇る時は、大丈夫なんだよ」
夕焼けが立ち並ぶ部屋のドアをフロアの端まで赤く染めている。友人はその一つを指さして「俺んちだけど、よってくか」と言う。微かな起動音とともに背後のエレベーターが下に呼ばれ、ランプが一つ、二つ、と降りていく。二人とも、なんとはなしにそちらから目を逸らす。

外から子どものはしゃぐ声と走り回る足音が響いて来た。
脇の高さの塀から顔を出して下を覗いてみると、数人の小学生くらいの子どもがおもちゃの剣らしいものを振り回しながら敷地内の舗装レンガの道を行ったり来たりしている。
しばらくそれを眺めたあとで、「情報収集してみよう」と言って俺は視線を戻し、人差し指を下に向けた。
「オッケー。でも先に荷物置いてくる」
友人はドアの鍵を開けると二人分のバッグを玄関先に放り込んで戻ってきた。
そしてエレベーターの前に再び立つ。箱の現在位置は8階に変わっている。

今度はなかなか矢印ボタンを押さない。少し緊張しているようだ。
横目で言う。
「その、変なことが起こる確率はどのくらい?」
「あー、ご……5回に一回くらいかな。いや、10回に一回かも。……わかんねえや」
俺は質問を変えた。
「昨日と今日は?」
「……あった。昨日の夜、酒買いに降りようとしたらよ……」
そこまで言ったところで、「ちょっとごめんなさーい」という声とともに40代くらいの主婦と思しき年恰好の人が俺たちの立ち位置に割り込んできた。まるでエレベーターの前で立ち話をしている俺たちを邪魔だと言わんばかりに。
後ずさりして場所を空けた俺たちの目の前で主婦は下向き矢印を素早く押し、エレベーター上部の階数表示ランプを見上げた。
7、6、5とランプが下がって来て4の表示が光ろうかという時、俺たちは顔を見合わせて(このおばさんと一緒に降りるべきか)とわずかに思案した。
が、次の瞬間驚くことが起こった。

4の数字が光るタイミングが来てもエレベーターの扉は開く気配も見せず、表示ランプはそのまま4、3と下がっていったのだった。
あっけにとられた俺の前で主婦は「チッ」とあまり上品でない舌打ちをしたかと思うと、踵を返してさっさと階段の方へ去って行ってしまった。
取り残された俺たちは、再び人気のなくなった空間にたたずんで顔を見合わせた。

「これか」
俺の言葉に友人は神妙に頷く。
ぞわっと背筋が寒くなった気がした。
けれど、冷静に考えるとやはりただの故障のような気がしてくる。口を開きかけた時、友人が思惑外のことを言い始めた。
「あのおばさん、なんかニガテなんだよ。たぶん9階に住んでるんだけど、4階に友だちがいるみたいで時々すれ違ったりすんだよ。最初に会った時、なんていうか挨拶するタイミングみたいなのって、あるじゃん。それがなんかどっちも噛み合わなかったっていうのか、まあシカトみたいになっちゃって。
それから、こないだ挨拶しなかったのに、今回はするって変な感じがして、結局毎回シカトみたいになってて。
いや、そういうのあるだろ。わかるよな」

確かにわかる。俺も近所づきあいとか、苦手なほうだ。

「こないだなんか、1階からエレベーター乗ったらよ。先にあのおばさんが乗ってて、オレの顔見るなりチッって舌打ちしたんだぜ。こっちには聞こえてないつもりだったかも知んないけど、感じ悪いわぁ」
友人は首を捻って悪態をついた。

エレベーターの表示は1階で止まったまま動かない。
この4階を素通りしたあと、誰かが箱を降りたのだろうか。乗るために箱を呼んでいたのなら、1階から再び上ってきているはずだから。
ということは、さっき俺たちの前を素通りしていった箱には、誰かが乗っていたことになる。
いったい誰が……
今からダッシュで階段を降りてもきっと、立ち去ったあとだろう。
オレは顔の部分が黒く塗りつぶされた人物がこのマンションを徘徊しているイメージを頭に浮かべ、少し薄気味が悪くなった。扉の透明なタイプのエレベーターなら、このもやもやも解消されたかも知れないのに。

「どうする、階段にするか」
「いや、エレベーターにしよう」
俺はもう一度下向き矢印のボタンを押そうとして、ハタと手を止めた。
矢印のボタンはランプがついたままだった。
「やっぱり故障じゃないか」
この階に来て扉を開けという命令を示すランプが点灯しているのに、箱が1階に止まったままなのだから。
俺は矢印ボタンを連打した。たぶん機械が古くなって本体の反応が悪くなっているのだろう。
俺の連打が効いたのかようやく箱の現在位置は動き始め、俺たちの前で扉が開いた。中には誰も乗っていない。友人を促して乗り込む。

操作盤の1階のボタンを押してから、閉のボタンを押す。すぅっと扉は閉まり、落ちていく感覚が始まる。箱の中にわずかに残る香水のような匂いを、鼻腔が感知する。不快だ。
顔が黒く塗りつぶされた人物のシルエットが、俺の中でおばさんパーマに変わる。

1階についた。
すんなり開いた扉を出て、無人のエレベーターの中を振り返る。
ほんとうにただの故障だろうか。
夕日が射す中を、扉は影を作りながら閉じていく。完全に扉は閉まり、箱の中は見えなくなった。

ふと、思う。
今この場でもう一度ボタンを押してこの扉を開いたとして、中に誰かがいたら、どうしよう……
嫌な空想だ。自分で勝手に恐怖を作ろうとしている。我ながら悪癖だと思う。けれど、以前ある人が言っていたことを思い出す。

『想像って、自発的なものとは限らないだろう。ババ抜きの最後の2択で片方だけ取り易いように少し出っ張ってたら、そっちがババじゃないかって想像するよな。なにかに誘発される想像もあるってことだ。
もし目に見えないジョーカーを視覚以外のなにかで知覚したなら、それは想像の皮を被って現れるかも知れない』

もって回った表現だが、俺はそれを彼なりの警告と捉えている。つまり、感じた恐怖を疎かにするなということなのだろう。けれど、あまり真剣には受け取っていない。
そんな想像をこそ、妄想というのだろうから。

「で、どうする」
チッチッ、という音がして、石ころが舗装レンガの上を滑っていく。何人かの子どもがそのあとを駆け抜ける。マンションの壁に遮られてその姿が見えなくなっても、長く伸びた影だけが、何かの戯画のように蠢いて地面をのたうっている。
俺はそちらにゆっくりと歩いていき、声をかけた。
「このマンションの子?」
ギョッとした表情で全員の動きが止まる。6、7人いただだろうか。小学校高学年と思しき一人が疑り深そうな目で「なんですか」と言った。
「ちょっとききたいんだけど」と間を置かずに切り出して、このマンションのエレベーターで何かおかしなことはないかと訊いた。
一瞬顔を見合わせる気配があったが、おずおずと一人が代表して「知りません」と答える。
エレベーターじゃなくてもいいけど、オバケが出るとかいう噂がないか、重ねてきいていると、すでに後ろの方にいた何人かが石ころを再び蹴飛ばして走り始めた。
代表の男の子もそちらに気を引かれて、もじもじしている。
「何か変なものを見たとか、そういうこと聞いたことないかな」
男の子は気味の悪そうな顔をして、「ナイデス」と小さな声で何度か繰り返し、すぐ後ろにいた子に「おい、行こうぜ」とつつかれてからクルリと背を向けて走り去っていった。

「あ~あ」
友人がため息をついた。子どもはこういう話、好きそうなのに。と呟く。
「大人にも聞く?」と問う俺に、「う~ん」と気乗りしない返事をして、彼は傍らのブランコに足をかけた。
「苦手なんだよな。ここの人たち」
「どうして」
俺ももう一つのブランコに腰をかける。
キイキイと鎖を軋ませながら友人は「オレの実家は田舎でさあ」と話し始めた。

隣近所はすべて顔見知りだったこと。近所づきあいは得意な方ではなかったが、道で会えば挨拶はするし、食事に呼ばれることもあったし、いたずらがばれて叱られたりもした。良くも悪くも、そこでは人間関係が濃密だった。
けれど大学に入り、ここで一人暮らしを始めてから隣近所の人との交流がまったく無くなっていること。
「最初は挨拶してたんだけど、反応がさ、薄いんだよね。シーンとしてる狭い通路ですれ違っても、こう、会釈するだけ。立ち話なんてしないし、隣の家の子どもが二人なのか三人なのか知らないんだぜ、オレ」

友人の言いたいことは俺にも分かった。俺自身、今のアパートに越してから、同じアパートの住人とほとんど会話を交わしていない。学生向きの物件ということもあったが、生活時間もみんな違うし、隣の人の顔も知らない。知りたいとも思わない。すれ違っても妙な気まずさがあるだけだ。

「無関心なんだよな」
友人はぼそりと言った。
そうとも。そして俺たちもそれに染まりつつある。
こんな風に密集して生きていると、みんなこうなっていくのだろうか。
ふと、高校の頃に習ったバッタの群生相の話を思い出した。

「知らない住人とさ、エレベーターに乗り合わせたら凄く息が詰まるよ。デパートのエレベーターならそれほどでもないのに」
顔を上げると、日が落ちて薄闇が降りてきたマンションの中へ、顔も見えない誰かの後ろ姿が吸い込まれていくところだった。
キイキイという音だけが響く。
匿名だ。何もかもが匿名だ。匿名のままこの巨大な構造物の中を無数の人々が影のように蠢いている。
そうして、小一時間無為にブランコを漕いでいた俺たちだったが、あたりがすっかり暗くなり小腹も空いてきたのでもう帰ろうと腰を浮かしかけた時だった。

PHSに着信があり、出てみると俺にくだんの「目に見えないジョーカー」の忠告をした人からだった。俺のオカルト道の師匠だ。
明後日行く予定の心霊スポットについての確認の電話だったが、俺はついでとばかり今居る場所とそのマンションのエレベーターについての噂を知らないかと聞いてみた。
「知らない」
そんなに期待した訳ではないが、地元民でもないのにやたらとこういう話を仕入れている彼ならばひょっとして、と思ったのだ。
やっぱりね、というニュアンスの言葉で切ろうとしたのが気に障ったのか、詳しく話せという。
そこで俺は、友人の体験したいくつかの例や、今日あったことなどを手短に告げた。
師匠は少しの間押し黙ったあと、「そのエレベーターのところで待ってて」と言って電話を一方的に切ってしまった。
何か分かったのだろうか?
電灯に照らされたマンションの入り口へ歩く。「何? 誰?」と訊く友人に、「サークルの先輩」とだけ説明して、かわす。
彼が何者かなんて、俺だって知りたいのだ。
コツンと靴の音が響く。
エレベーターの前に立つと不思議な感じがした。マンションという匿名の箱の中のさらに匿名の空間。
今閉じているこの扉の向こうに誰がいるのか俺は知らない。階数表示の光だけ流れ、人の動きを想像する。そこには本当に人がいるのか俺には分からない。
いや、分からなくなった。
顔の無い幻影が彷徨うイメージが一人歩きしはじめた。

PHSの着信音に我に返る。等間隔に伸びる天井の電灯が通路を照らしている。
「お待たせ。色々書いてある表示盤は外にある?なかったら中に入って」
言われるまま、友人を促してエレベーターの中に入る。
「操作盤の中か、近くになんか色々書いてるシールかプレートがあるだろう。メーカー名はなんて書いてある?」
閉じそうになった扉を手でガードして、開ボタンを友人に押していてもらう。
「えーと、外国製っぽいです。どれがメーカー名だろ……」
どうやらこれらしいという文字を見つけて読み上げる。
師匠は電話口で笑いを堪えているような音を立てた。
「OK。じゃあもう一人の友だちに3階に行ってもらって」
師匠はいくつか指示を飛ばしてから、電話を切った。
俺たちは何が起こるんだろうという不安な気持ちで、それでも言うとおりにする。
1階に俺。3階に友人という布陣でそれぞれエレベーターの前の立った。
そして1階からエレベーターの中に乗り込んだ俺は、指示された通り、中の操作盤で5階と閉のボタンを2本の指で同時に押した。それから通話中にしていたPHSで友人に「押した。そっちも押して」と言う。
打ち合わせ通り、友人も3階で下向き矢印のボタンを押したはずだ。
ほどなくして扉が閉まり始める。向こうの壁の模様がやっぱり何かの顔に見えた。
シミュラクラ現象、シミュラクラ現象と、最近知ったばかりの心理学用語をお経のように頭の中で唱える。
ゆったりと箱が上昇する感覚があり、すぐに3階で停止するはずと身構える。
しかし箱は3階では止まらず、5階のランプがついたところで静止し、扉が開いた。
夜風が侵入してくる。外には誰もいなかった。
足を踏み出し、呆けたままの俺の残して背後で扉が閉じた。

階段を駆け上ってきた友人が、軽く息を切らせて通路の端から飛び出てくる。
「何だ今の。なんで通り過ぎるんだ」
「そっちこそ、ちゃんと3階でボタン押した?」
「押した。矢印のランプの点灯してたし」
まるきり友人が体験してきた怪現象の再現だ。師匠から着信。
「ナンですかコレ」
声が上ずる俺に、師匠はバカバカしい、というような口調で「急行モード」と言った。
「外国製のエレベーターの中にはあるんだよ。こういう裏コマンドが」
このメーカーの物は閉ボタンと目的階ボタンを同時押しすることで、その後どこの階で呼び出しボタンが押されてもすべてキャンセルされるのだそうだ。
現在の階数表示を見上げると5階のままだ。この扉の向こうにまだ箱はある。友人が3階で押した呼び出しボタンは無視されているのだ。
「ということは……」
「そう、そのマンションの連中はそれを知ってて普段から使ってるってこと」
そう言ってから、最後に「明後日遅れんなよ」と付け加えて師匠は電話を切った。

俺は今日あったことを思い浮かべる。
荷物を友人の部屋に置いて4階から下に降りようとした時、上の方の階から箱が下りてきたのに、4階を素通りして1階まで行って止まった。
あの時、一緒にいた主婦は舌打ちをしていた。あれは急行モードを使った誰かに舌打ちをしていたのだ。
友人が先日、その主婦と乗り合わせた時、その時も彼女は舌打ちをしたという。それは他人が一緒に乗ったことで急行モードが使えなかったことに対するイラ立ちだったのだろうか。
友人が体験したことを一つ一つ検証しても、すべてこの急行モードの存在で説明がつくようだ。

あっけなく解決してしまった「怪現象」の正体に俺たちは拍子抜けして立ち尽くしていた。
目に見えない扉の向こうに怯えていたのが馬鹿らしくなってくる。
あの子どもたちも知っていたのだろうか。道理で話に乗ってこないはずだ。きっと親から秘密にするように言われているに違いない。これ以上急行モードを知る人が増えないように。
そうだ。自分だけ知っていればいいんだ。他人が使う急行モードは迷惑なだけなのだから。

「オレ、やっぱり怖いよ」
友人がぽつりと言った。
他人を待たせても自分が便利ならそれでいいと思うその心理に、俺も背筋が寒くなる思いがした。
きっとそれは匿名だから。エレベーターの前で待ちぼうけを食わされる人が匿名だからだ。
誰だか知らない人を待たせる悪意。誰だが知らない人に苛立つ悪意。そんなささやかな悪意がこのマンションに充満して、それが俺たちの心をどうしようもなく暗く沈ませるのだった。

友人は2回生にあがる時、そのマンションから2階建てのアパートに引っ越した。それまでの間、彼は階段しか使わなかったそうだ。

トイレ

大学1回生の春だった。
休日に僕は一人で街に出て、デパートで一人暮らしに必要なこまごまとしたものを買った。
レジを済ませてから、本屋にでも寄って帰ろうかなと思いつつトイレを探す。

天井から吊り下がった男と女のマークを頼りにフロアをうろつき、ようやく隅の方に最後の矢印を見つけた。
角を曲がると、のっぺりした壁に囲まれた通路があり、さらに途中で何度か道が折れて、結局トイレルームに至るまでには人の気配はまったくなくなっていた。
ざわざわとした独特の喧騒がどこか遠くへ行ってしまい、自分の足音がやけに大きく響いた。
ふと、師匠から聞いた話を思い出す。

『あのデパートの4階のトイレ、出るぜ』

オカルト道の師匠の言うことだ。もちろんゴキブリやなにかのことではないだろう。
僕はここが4階のフロアだったことを記憶で確認し
「よし、ちょうどいい。確かめてやろう」
と思う。
確か師匠はこう続けたはずだ。

『4階の身障者用のトイレでな、自分以外誰もいないはずなのに近くで声が聞こえるんだ。その声は小さくて何を言っているのかとても聞き取れない。キョロキョロしたって駄目だ。小さい音を聞くために、どうしたらいいか、考えるんだ』

ドキドキしてきた。
通路を進むと男性用と女性用のマークがはめ込まれている壁の手前に、車椅子のマークのドアがあった。身体障害者用の個室だ。
入るのは初めてだった。

クリーム色の取っ手を横に引くと、ドアは大した力もいらずにスムーズに滑った。
パッと明かりがつく。自動センサーのようだ。内側に入り、ドアから手を離すと自然に閉まっていった。
中は思ったより広い。普通のトイレの個室とはかなり違う。入り口から正面に洋式の便座があり、右手側には洗面台がある。その洗面台の上部に取り付けられている鏡を見て、少し違和感を覚える。
鏡の真正面に立っているのに、自分の顔が見えない。胸元が見えているだけだ。
よく見ると鏡は前のめりに傾けられていた。なるほど、車椅子の人が使うことを想定して、低い位置から正対できるようになっているらしい。
顔の見えない鏡の中の自分と向かい合っていると、まるで鏡に映っているのが見知らぬ誰かであるような気がして、気持ちが悪かった。

僕は鏡から目を逸らし、便座に近づく。手すりが壁に取り付けられ、壁から遠い側には床から丈夫そうなパイプが伸びている。
グッと体重をかけて手すりとパイプを両手で掴みながら体を反転させる。
ストン、と便座に腰を落とす。

静かだ。換気扇の回る振動だけが伝わってくる。
心霊スポットだからって、いつもいつも「出る」わけでもないだろう。ましてこんなに明々とした個室で、しかも昼間っからだ。
残念に思いながらも少しホッとした僕は、ついでだからとズボンを下ろし、用を足した。
水を流すボタンはどれだ?
壁側を探ると、赤いボタンが目に付いた。あやうく押すところで思いとどまる。
『緊急呼出』
そんな文字が書いてあった。危ない。
緊急時の呼び出しボタンらしい。紛らわしい所に置くなよ、と文句を言いそうになるが、少し考えて合点がいく。
体調急変時のボタンなのだから、手が届くところで、かつ目立つ場所にないといけないのだろう。

『洗浄』のボタンをその近くに見つけて、押し込む。
ザーッという水が流れる音がして、そしてまた静かな時間が戻ってくる。

が……

立ち上がろうとした瞬間、僕の耳はなにかの異変を捉らえた。

……ボソ……ボソ……ボソ……

何か、小さな声が聞こえる。
瞬間に、空気が変わる。
重くねっとりした空気に。
僕は頭を動かさず、目だけで室内を見回す。
天井、照明、換気扇、ドア、洗面台、鏡、壁、手すり、床。
なにも変化はない。音は目には見えない。
ボソ、ボソ、という誰かが囁く様な音は続いている。
ここから逃げたい。
けれど、足が竦んでいる。
そして、足が竦んでいること以上に、僕はその声の正体を知りたかった。

『キョロキョロしたって駄目だ』

師匠の言葉が脳裏を掠める。
僕は考える。誰かの口が、動いているイメージ。イヤホンから何かが聞こえるイメージ。ラジオのスピーカーの無数の穴からそれが聞こえるイメージ。
そうだ。音はいつも「穴」から聞こえてくる。

僕は視線を床に落とした。
タイルの真ん中に、排水溝の銀色の蓋が嵌っている。
便座から立ち上がり、屈んでその排水溝を覗き込む。中は暗い。照明を遮る僕自身の影の下で、何も見えない。

……ボソ……ボソ……ボソ……

囁き声は、この下から聞こえてくる。
僕はタイルに手をついて、排水溝に耳をつけた。正面の白い無地の壁を見ながら、心は真下に向けて耳を澄ます。

…………ボソ…………ボソ…………

遠い。聞き取れない。さっきよりももっと遠い。
何も聞き取れないまま、やがて音は消えた。
僕は身を起こし、その場にしゃがみ込む。
なんだ?
何事も起きないまま、怪異は去った。
いや、そもそも怪異だったのかすらよく分からない。ただ小さな声、いや、音が聞こえたというだけだ。
その時僕の頭に、ある閃きが走った。
もう一度、『洗浄』のボタンを押す。水が流れる音がして、やがてその一連の音も収まる。そして聞こえてきた。

……ボソ……ボソ……ボソ……

もう一度、排水溝に耳をつける。
今度は空気の流れを、耳の奥にはっきりと感じる。
どういう仕組みかわからないが、便座洗浄をするための水が流れると、振動だか水圧だかのせいで、排水溝からこんな音が聞こえてくるのだ。
くだらない。
肩の力が抜けた。
師匠もこんな単純なオチに気づかないなんて大したことないな。
そんなことを考えていると、笑いが込み上げてくる。このトイレの話をした時の、彼の真剣な顔が道化じみて思い出される。
(そういえば、最後に変なことを言ってたな)
確か……

『利き耳はだめだ。利き耳は、現実の音を聞くために進化した耳だからだ。いつだって、この世のものではない音を聞くのは、反対側の耳さ』
バカバカしい。
師匠のハッタリもヤキが回ったってものだ。
僕は薄笑いを浮かべながら、左の耳たぶを触る。今まで確かになんの意識もせずに右の耳を排水溝に近づけていた。考えたことはなかったが、右が僕の利き耳だったのだろう。
だけど左で聞いたからってどうなるっていうんだ?

師匠を馬鹿にしたい気持ちで、僕はもう一度床のタイルに両手をついた。
さっきと同じ格好だ。入り口のドア側から体を倒して床に這いつくばっている。排水溝は個室の真ん中にある。奥側は便座がある分、這いつくばるようなスペースがないからだ。
スッと左の耳を床に向けた時、得体の知れない悪寒が背筋を走りぬけた。
何だろう。タイルについた膝が震える。
だけど止まらない。
僕の頭は排水溝の銀色の蓋に近づき、その穴に左の耳がぴったりとくっついた。

さっきとは違う。右と、左では明らかな違いがある。どうしてこんなことに気がつかなかったのか。
心臓は痛いくらい収縮して、針のような寒気を全身に張り巡らせていく。
今、僕の目の前には壁がない。右耳を排水溝にくっつけた時にはあった、あの白い無機質な壁が、今はない。
左耳で聞こうとしている僕の目の前には今、洗面台の基部と床との間にできたわずかな隙間がある。モップさえ入りそうもないその隙間の奥、光の届かない暗闇から、誰かの瞳が覗いている。
暗く輝く眼球が、確かにこちらを見ている。

……ボソ……ボソ……ボソ……

左耳が囁きを捉える。地面の奥底から這い上がってくるような声を。
僕はその小さな声が、言葉を結ぶ前に跳ね起きてドアを開け、外に転がり出た。ドアから出る瞬間、視線の端に洗面台の鏡が見えた。顔のない僕。あれは本当に僕なのか。
振り返りもせずに駆け出す。角を何度か曲がる。

フロアに出た時、騒々しい、デパート特有の様々な音が耳に飛び込んで来た。
冷たい汗が胸元に滑り込んでいく。今見たものが脳裏に焼きついて離れない。
僕は壁際のベンチの横で、寒気のする安堵を覚えていた。

たぶん、床の隙間のあの眼を見てしまった後、あの個室から逃げ出すまでの間に、一瞬でも
『このドアは開かないんじゃないか』
と思ってしまっていたら、きっとあのドアは開かなかったんじゃないかという、薄気味の悪い想像。
そんな想像が沸いてくるのを、止められなかった。

古い家

聞いた話である。
「面白い話を仕入れたよ」
師匠は声を顰めてそう言った。
僕のオカルト道の師匠だ。面白い話、などというものは額面どおり受け取ってはならない。

「県境の町に、古い商家の跡があってね。廃墟同然だけど、まだ建物は残ってるんだ。誰が所有してるのかわからないけど、取り壊しもせずに放置されてる。誰も住んでいないはずのその家から夜中、この世のものとは思えない呻き声が聞こえるっていう噂が立ってね。怖がって地元の人は誰も近寄らない。どう、興味ある?」

大学2回生の夏だった。
興味があるのないのというハナシではない。ただその時の僕は、(ああ、今回は遠出か)と思っただけだ。

その夏は、1年前の夏と同様にいやそれ以上に、怖いもの、恐ろしいものにむやみやたらと近づく毎日だった。
その日常はなだらかに下る斜面の様に狂っていた。
普通の人には触れられない奇怪な世界を垣間見て、恐ろしい思いをするたびに、目に見えない鍵を渡されたような気がした。
その鍵は一体どんな扉を開けるものなのかも分からない。使うべき時も分からないまま、鍵だけが溜まっていった。
僕はそれを持て余して、ひたすら街を、山を、森を、道を、そして人の作った暗闇をうろついた。
その日々は頭のどこか大事な部分を麻痺させて、正常と異常の境をあいまいにする。
どこか現実感のない、まるで水槽の中にいるような夏だった。

ゴトゴトと軽四の助手席で揺られ、僕は窓の向こうの景色を見ていた。
師匠の家を夕方に出発したのであるが、今はすっかり日が暮れ、そそり立つ山々が黒い巨人のような影となって不気味な連なりを見せている。
最後にコンビニを見てからどれくらいだろうか。
寂れた田舎の道は曲がりくねり、山あいの畑の向こう側に時々民家の明かりが見えるだけで、あとは思い出したように現れる心細い街灯の光ばかりだ。
カーステレオはさっきから稲川順二の怪談話ばかりを囁いている。時々師匠がクスリと笑う。僕はその横顔を見る。
ハンドルを握ったまま、ふいに師匠がこちらを向いて言った。

「こないだ、くだんを見たよ」

え?と聞き返したが彼女は繰り返してくれなかった。代わりにぷいと視線を逸らして、「やっぱ鈍感なやつには教えない」と言った。
なんだか釈然としない思いだけが残ったが、師匠の言動は解釈がつくものばかりではない。

気がつくと道が広くなり、山が少し遠くへ退いて見える。
道の傍の防災柱が目に入ると、時を置かずに農協の看板が現れた。ポツリポツリと民家や、小さな公共施設が見え始める。
「この辺に停めよう」と言って、師匠は土建会社の資材置き場のようなスペースに車を乗り入れて、エンジンを切った。
人気はまったくない。師匠はダッシュボードから懐中電灯を取り出して、手元を照らす。手描きの地図のようだ。

「こっち」

バタンとドアを閉めながら師匠は歩き出した。僕は後ろをついていく。
死んだように静まりかえる古い田舎町の中を進むあいだ、動くものの影すら見なかった。
懐中電灯に照らし出された道には時々なにかの標語が書かれた看板が見え、どこか遠くでギャアギャアと鳴く鳥の声ばかりが間を持たせるように聞こえて来る。
腕時計を見ると、まだ深夜12時にもなっていない。ここでは僕らが知るそれよりも夜が長いのだ、と感じた。

こうも寂しいと逆に人とすれ違うのが怖いな、と思って内心ゾクゾクしていたが、誰とも会わなかった。
かすかに聞こえてきた蛙の鳴き声が大きくなり、やがて用水路のそばの畦道に行き当たった。そこを道なりに進んでいくと黄色い街灯がポツリと立っていて、その向こうに暗い建物の影が見えた。

「あれかな」

師匠が懐中電灯を向ける。近づくにつれ、その打ち捨てられた家屋の様子が分かってくる。
一体どれほど昔からここに建っているのか。
背後の雑木林もまったく手入れがされた様子はなく、黒々とした巨大な手のようにその家の敷地へ枝を伸ばしている。
周囲にはかつて家が建っていたらしい土台や、ボロボロで屋根もない小屋などが散見できたが、かつて商家があった一角の面影はまったくない。
この世のものとは思えない呻き声が聞こえる、という噂を思い出し自然耳をそばだてたが、聞こえるのは蛙の鳴き声と風の音だけだった。

段々と心細くなっていた僕は
「何もないみたいだし、もう帰りましょう」
と師匠に提案しようとしたが、彼女が自分の目の下のあたりを指で掻いているのを見て口を閉ざした。
そこには古い傷があり、興奮した時には薄っすらと皮膚上に浮かび上がるとともにチクチクと痛むのだという。
僕にとって彼女がそれを触る時は、あるべき、いや、そうあるはずだと他愛なく僕らが思い込んでいるこの世界の構造が、捻じ曲がる時なのだ。

ガサガサと、生い茂る雑草を掻き分けて師匠はその家に近づいていく。
やがて醤油の『醤』という字のような意匠がかすかに残る家の正面の板張りを懐中電灯が照らす。かつては醤油問屋だったのかも知れない。
師匠がその板張りをガタガタと揺らすが開きそうになかった。明かりを上に向けると、2階部分の正面の窓が照らし出される。格子戸がはめ込まれているそこは、下に足場もなく入り込めそうな感じではない。
と――

その格子のわずかな隙間から、中で何かが動いたような空気の流れが見えた気がした。
目を擦るが、すぐに2階はもとの闇に包まれる。師匠が明かりを下げて「どこから入れるかな」と呟きながら裏手へ回ろうとしていた。
なんだろう。すごく嫌な感じがした。
もう一度耳を澄ます。
やっぱり蛙と風の音だけだ。

回り込むと土塀がぐるりと囲んでいたが、人が通れそうな潜り戸が見つかった。
半分崩れた木戸を押すと、中は丈の長い雑草が群生する空間になっている。
「裏庭か」
師匠がその中へ足を踏み込んでいく。
周辺を懐中電灯で照らすと、倒れた灯篭の火袋や埋められた池の跡、倒壊した土蔵や便所と思しき小屋の痕跡などがひんやりと浮かび上がってくる。
雑草を掻き分けて家屋の裏手の方へ足を向けると、いたるところが剥げかけている漆喰の壁に戸板が厳重に張られた箇所があった。

「裏口か。でも開かないかな、これは」

師匠がゴンゴンと板を叩く。パラパラと木屑が落ちる音がする。

「こっち、縁側がありますよ」

うっすらとした月の光にかすかに濡れて見える縁側が夜陰に佇んでいる。しかし、その向こうにはやはり雨戸らしき木の板が一面を覆っている。
ゴトゴトと二人して揺すってみるが、中からつっかえ棒でもしているのだろう、まったく開く気配はなかった。

舌打ちをしながら師匠はそこから離れ、裏庭の端まで行くと土塀と家の外壁の隙間に身体を滑り込ませて、奥へと侵入していった。
バキバキとなにかを踏み壊すような嫌な音だけが聞こえてくる。残された僕の辺りに闇が降りて来る。少し心細くなる。
やがて悪態をつきながら師匠がその隙間から戻って来た。

「ぺっ、ぺっ。なんだよこれ。全然入れるトコないじゃん」

そうですね。
そんな言葉を吐きながら、僕は2階建てのその家屋を見上げた。
どれほどの時間、この構造物はここに建っているのだろう。
明治時代から?江戸時代から?
今、人工の無機質な光に照らされる薄汚れた白壁は、滅びた家の物悲しさを纏っているように見えた。
リー、リー、と虫が鳴く。
師匠が「金属バット、持ってくればよかったな」と言った。
嫌な予感がした僕に、間髪要れず容赦のない言葉が降って来る。
「体当たり」
え?と聞き返すが、彼女はもう一度それを繰り返しながら懐中電灯で裏口の戸を示す。
なにか色々と、言いたいことがあった気がしたが、すべて僕の中で解決がついてしまい、うな垂れながらも諾々と従うこととした。
最初は軽く肩からぶつかってみたが、ズシンという衝撃が身体の芯に走っただけで、戸は歪みさえしなかった。
「中途半端は余計痛いだけだぞ」
という師匠の無責任な発言を背に受けて、僕は覚悟を決めると、今度は十分に勢いをつけて全身でぶつかっていった。
バキッ、という何かが折れる音とともに戸が内側に破れ、僕は勢いあまって中に転がり込む。
その瞬間にカビ臭い匂いが鼻腔に入り込んできて頭がクラクラした。

戸は砕けたというよりは、内鍵の代わりとなる差し板が折れただけのようだ。ギイギイという音を立てながら反動で揺れている。
僕を引き起こし、師匠は明かりで家の中を照らした。
足元は土間だ。流し台のようなところに甕がいくつか並んでいる。木製の椅子が積みあげられた一角に、竈の跡らしきものが見える。そして足の踏み場もないほど散乱した薪の束。

「おまえ、こういう家詳しいんだろう」

師匠の言葉にかぶりを振る。専門は仏教美術だ。古い商家など守備範囲ではない。
「でもたしかこういうの、通りにわ、っていうんですよ。それでこっちが座敷で」
と、僕は骨だらけになった障子を指差し、次いで入ってきた裏口と逆の方向の奥を指して
「あっちが店の間ですね」
と言った。
「ほう」と言いながら師匠は障子を開け放ち、埃が積もった畳敷きの座敷に足を踏み入れた。もちろん土足だ。

調度品の類はまったくない。ガランとした部屋だった。ただ腐った畳が嫌な匂いと埃を舞い立たせているだけだった。
「これ以上進むと、ズボッといきそう」
師匠はその場で壁を照らす。土気色の壁には板張りの上座の上部に掛け軸が掛かっていたような痕跡があったが、今は壁土が剥がれて無残な有様だった。
上を見ると、天井の隅に大きな蜘蛛の巣があった。蛾が何匹もかかっている。

「うそっ」
と師匠が息を呑む。
信じられないくらい巨大な蜘蛛が光をよけて梁に身を隠す瞬間が確かに見えた。
気持ち悪い。
人の住まなくなった家屋の中で、虫たちの営みは変わらず続いているのだ。
続きの隣の部屋も似たような様子だった。
次に僕と師匠は店の間に恐る恐る入り込んだ。
「蜘蛛、いる?」
急に腰が引けた師匠が、暗闇に僕を押し込もうとする。
押した押さないの問答の末、二人して入り口から中を覗き込むと、背の低い陳列台のようなものがいくつかあるだけで、ほとんどなにも残っていなかった。
ただ僕と同じように、そこかしこに光から逃げるような影があるような気がしたのか、師匠はむやみたらと明かりを四方八方に向けては「うぅ」と唸っている。
店の正面玄関にあたる戸の裏側(『醤』の字が書かれていた戸か?)には、やはり頑丈そうなつっかえ棒が何重にもしてあるのが見えた。
こっちに全力で体当たりしてたら、と思うと僕はぞっとした。

その後も、二人で家の中の小部屋などを探索したが、なにも目立った成果はなかった。
つまり、『この世のものとは思えない呻き声が聞こえる』という噂にまつわるような何事も起きなかったし、何も見つからなかった。

「人の気配はまったくないですね」

僕の囁きに師匠は、「う~ん」と首を捻る。
なにかに合点がいかない様子だ。
確かにこんなところまで遠征して来て、不法侵入までしてなにもなかったでは納得がいかないのだろう。
そう思っていると、師匠が首を捻ったままポツリと呟いた。
「2階へはどうやって上るんだ」

ゾクッとした。

2階?
外から見えていた2階の格子戸。あの奥には部屋があるはずだ。
あそこへはどうやって上る?この家には階段がないじゃないか。
見落としがあったのかも知れない。そう思ってもう一度家の中をぐるりと回る。
しかし、階段はおろか、その跡さえ見つからなかった。

「こういう造りの家だと、階段はどこにあるのが普通なんだ」
師匠の言葉に答える。
「たいていは店の間の端です。まあ台所の横にあったりもしますが」
「ないじゃないか。どこにも」

おかしい。
縄梯子で出入りでもしているのかと思って天井を観察したが、そんな痕跡は見当たらなかった。
ひょっとして、家の外側から架け梯子などで出入りしていたのではないか。そう思いはじめた頃、僕の耳は魂の芯が冷えるようなものを捉えた。

うううううう…………

そんな、呻き声がどこからともなく聞こえた気がした。
思わず身を硬くする。
気のせいじゃない。その証拠が僕の目の前にある。
師匠が口唇に人差し指をあてて、険しい表情で姿勢を低くしているからだ。
静かに。
そう、僕に目で指示をしてから師匠はゆっくりとすり足で進み始めた。
嫌な汗がこめかみを伝う。

僕らがいた店の間から通りにわに入り、懐中電灯の丸い光がつくる埃の道を息を殺して進む。急に暗闇が深くなった気がした。
室内には、単一の光源では届かない闇があるのだと、今更ながら思い知る。一瞬目を離した隙に、その闇の中へなにかが身を隠したような想像が沸き起こる。

うううううう…………

微かな呻き声に耳をそばだてながら、師匠が足を止めた。
最初に上った座敷の前だ。
ゆっくりと畳に足を乗せ、師匠は座敷に上り込んだ。
たわんだ畳に引っ張られるように骨だけの障子がカタリと音を立てた。
「おい」
という押し殺した声に引っ張り上げられて、僕も座敷に上る。
師匠は部屋の隅の、押入れの跡に光を向ける。
取り外されたのか、襖もない。ただ部屋にぽっかりと開いた穴のような空間だった。
まだ呻き声は続いている。
しかも明らかに近くなったようだ。
師匠が押入れの床をモゾモゾと撫で回していたかと思うと、ズズズ……という木が擦れるような音とともに、目に見えない空気の流れが顔に押し寄せてきた。
師匠が僕の方を振り返る。
そして押入れの床を明かりで照らす。光はある一点で吸い込まれるように消えている。

そこには隠し板の蓋を外された穴があった。大きさは人が優に入り込めるほどのもの。
師匠の身振りに近くへ寄った僕は、その穴の中を恐る恐る覗き込んだ。

そこには、地下へ伸びる木製の階段があった。
空気が吹き上がってくる。

うううううう…………

空洞を抜ける風の音。
これが唸り声の正体か。
ごくりと唾を飲み込む僕に、師匠が囁く。
目を爛々と輝かせて、「さあ、行こうか」と。

僕は思い出していた。
父方の祖父の家にある古い土蔵。その奥に地下へ伸びる隠された階段がある。
その下には秘密の部屋があり、巨大な壷が置いてあった。
子どものころ、父に連れられてその階段を降りる時の、あの、気づかないほどゆるやかに少しずつ自分が死んでいくような感覚。
いたずらを叱られた僕は、父にその壷の中へ押し込められるのだ。
壷はあんまり静かに立っているので座っているように見える、と言ったのは誰だったか……
どちらにしても黄色い照明が照らす地の底で一人きり壷に呑み込まれた僕は身を丸め、重い石でそらに蓋をされるのを見ていることしかできない。
そうして一切の明かりのない世界に閉じ込められた僕は、遠ざかっていく足音を聞く。
それからやがて、自分のいる場所が地の底とは思えなくなってくる。もっと下が、あるような気がしてくるのだ。

「どうした」

と呼ばれ、我に返る。
師匠が懐中電灯を下に向けながら、ソロソロと足を階段に掛けていく。僕もそれに続く。
ギイ、ギイ、と古い木が軋む音。2階から1階に降りる階段とは違う。たとえ外が見えない建物の中でも、地中へ入っていく階段は確かにそれと分かる。
皮膚感覚で。あるいは臓器で。

階段は急だ。1段1段が物凄く高く、また足を置く踏み面も狭い。下を見ると、ほとんど垂直に降りているような錯覚さえ抱く。
足を滑らせたら、大変だ。
そう思って慎重に一歩一歩進めていく。
すぐに壁に突き当たる。右側に開いた空間に回りこむとまた下に伸びる階段が続いている。ただの折り返しだ。
「地下で醤油でも寝かせてるのかな」
師匠が呟いたが、そうは思えない。
醤油が湿気の多い地下で保存するのに適したものとは思えないし、なにより入り口が押入れに隠されていたというのが不穏当だ。

地下から吹き上がってくる微かな風が、頬に触れる。黴臭い匂いが鼻につく。
すぐにまた壁に突き当たった。師匠がゆっくりと明かりを右側へ向けていく。
「おい」
という声。
僕もそこに並ぶと、下に伸びる階段が目に入る。
まだ下があるぞ。と師匠が呟く。
懐中電灯に照らされる下には、また同じような漆喰の壁が光を反射している。そしてまったく同じように右側の空間が光を吸い込んでいる。

「どこまで地下があるんだ」

僕らはその階段を降りていった。ギイギイという木の音と、風の音。薄汚れた漆喰の壁と、またくるりと折り返されて続く道。
2回。3回。4回。5回。6回。
折り返しの数を数えていた僕は、頭の中に虫が飛ぶような奇妙な雑音が入ってだんだんと次の数字が分からなくなる。
7回。8回。9回。
次は10回だ。10回。10回だ。ああ。また階段が。
これで11回だから次で。いや、今ので10回じゃなかったか。次で……

先へ進む師匠が、急に足を止めた。
天井に懐中電灯を向ける。

「煤だ」

天井と言っても、それは低く斜めになって下へ伸びる木製の天板。
僕らが降りてきた階段の底板が、その下の階の天板になっているのだろう。
その天井一面が、薄っすらと黒くくすんで見える。
「気づかなかったけど、足元も煤でいっぱいだ」
頭の中に、蝋燭を持ってこの階段を降りる人間のシルエットが浮かんだ。
いったいどれほどの長い時間、この地下への階段が使われていたのか。
師匠が身体を屈めて踏み面を凝視する。

「おい。見てみろ。積もった埃と煤に、薄っすら踏み荒らされた跡がある」
「そりゃあ、この家の人が昔、出入りしてたでしょうから」
「でもあの上の家屋の荒廃っぷりからしたら、この階段も使われなくなって相当時間がたってるはずだ。煤はともかく、埃が溜まっているはずなんだ。その上にどうして足跡がついている?」

誰か、この下にいるのか。
今でもここを昇り降りしている人間がいるのだろうか。

『この世のものとは思えない呻き声が聞こえる』という噂。
あれは、この階段を吹き抜ける風の音ではなかったのだろうか。
いや、僕の頭はその時、同時にまったく別のことを想像していた。

それは、折り返しの回数を数えている間に脳裏をよぎった薄気味の悪い考えだ。
何度か振り払おうとしたが、今、目の前の誰のとも知れない微かな足跡を見て、それが言葉を成した。

これは「僕らの足跡ではないだろうか」と。

その瞬間、ぞわぞわと背筋に嫌な感覚が走り、僕は立ち上がった。
「上、見てきます」
師匠にそう言い置いて、もと来た階段を昇り始める。まるで壁のように立ち塞がる急峻な1段1段を、両手をつきながら昇っていく。
1つ。2つ。3つ。4つ。
折り返しをいくつ繰り返せば、元の押入れに出るのか。
僕らは降り続けていたはずのに、何故か同じ場所をぐるぐると回っていたのではないか?
そんなはずはない。
そう思いながら、バタバタと音を立てながら駆け昇っていく。苦しい。息が切れる。
そして暗い。何も見えない。しまったな。明かりを借りてくれば良かった。

何度目の折り返しだっただろう。ふいに僕の耳は女性の悲鳴を聞き取った。
下だ。

師匠の名前を叫びながら、踵を返して再び階段を駆け降りる。足がもつれて階段を踏み外しそうになりながら僕は急いだ。
ガタタタタと、ついに尻餅をついて半ば滑り落ちながら師匠の持つ懐中電灯の光を視界に捉える。
「ど、どうしました」
顔をしかめながらようやくそう言った僕に、師匠は少しバツが悪そうな調子で
「いや、蜘蛛が」
と言って壁際の天井の隅に巣を張る蜘蛛の姿を照らし出した。
僕はホッと息をつきながらも、その大きな背中の模様が人の顔に見えて思わず目を逸らす。
「なあ」
と師匠が小声で話しかけてくる。
「上でも、蜘蛛がいただろう。蜘蛛の巣もいっぱいあった」
何を言い出したのかと思って、先を待つ。
「ここでもそうだけど、その蜘蛛の巣は全部天井とか柱の上の方にあって、私らの顔にベタってついたりはしなかったな」

そうだった。
そうだったが、それは言われてみると確かになにか変だ。
「ヒトが通る空間にだけ蜘蛛の巣がないってことはさ。誰かそこを通ってるってことじゃないか」
たとえば、ここも。

師匠がまた下への階段を照らす。
ひくっと、喉が鳴った。それは僕のだろうか。それとも師匠のだっただろうか。
あ、まずい。この感じは。
師匠が「戻るか?」と囁いた。
僕は「行きましょう」と応える。
止まるべき所で止まれない感じ。それは確実に僕の寿命を縮めているような気がした。
ミシ、ミシ、という音とともに再び僕らは地下へ降り始めた。蜘蛛の巣を見上げながら角を曲がると、階段はまた下へ続いている。
なんだこれは。
いくらなんでも深すぎる。

これだけ地下へ穴を掘ると水が出るはずだ。大きな水脈に当たらなかったとしても、水の浸入を防ぐためには壁を何重にもしなくてはならないだろう。
そんな面倒なことをしてまで地下へ降りる階段を作る、どんなメリットがあるというのか。それもおそらく明治時代以前の工法で。

壁に当たって、折り返す。壁に当たって、折り返す。

その繰り返しをどれほど続けただろう。途中から数を数えることさえ忘れてしまった。
外は夜だ。晴れた夏の夜のはずだ。けれどここはまるで時間が止まってしまったかのような空間だった。
たとえ外が曇りでも、雨でも、朝でも、昼でもなにも変わりはしないだろう。10年前も、20年前も、日本が戦争に負けた時だって、この地下の空間はこのままの姿でここにあったのだろう。
風が、頬に触れる吐息のようにさらなる地下の存在を囁く。
自然に僕も師匠も息を殺しながら進む。

「なあ」
先を行く師匠が頭をこっちに向けもせずに言う。
「この家ってさあ。どっからも入れなかったよな」
「はい」
応えながら、(戸をぶち破らせたのは誰だよ)と心の中で毒づく。
「この家を放棄した人間たちは、どっから出たんだ」
ああ。そんなこと、今は忘れてしまっていたい。
ゾクゾクと嫌な震えが背中を通り抜ける。
でも確かに、かんぬきだかつっかえ棒だかは、すべて内側からだった。
現代のように外から開け閉めできるような鍵はない。
では、戸締りをした最後の一人はいったいどうやって外に出たのか……

まるですべてが、この廃墟の中の住人の存在を示しているようじゃないか。
それはつまり、この階段の行き着く先に、「それ」がいるということだ。
僕は息を飲みながら足を動かし続け、早く階段の先の壁が尽きることを半ば望み、そして半ば以上、恐れていた。
高すぎる蹴上に頭がガクガクと上下に揺られ続け、意識が少しずつ朦朧としてくる。
終わらない階段は麻薬のように僕の脳を冒し始めているのかも知れない。
どこまでも深く降り続ける感覚が、どうしようもなく心地良くなってくる。
足を踏み出すたびに階段の床が軋み、壁が軋み、天井が軋む。
懐中電灯の光に、パラパラと振ってくる埃が小さな影をつくる。きっと身体中真っ黒になってしまっていることだろう。
眼下に師匠の頭が揺れている。試しに階段を一段一段数えてみる。

……50を越えたあたりでやめてしまった。
ふと、子どものころ体験した祖父の家の土蔵の地下のことを考える。
ひょっとすると僕も師匠も、いつの間にか死んでいるのかも知れない。
どこまでも深く降りていく狭い階段に「いつ」がその瞬間だったのか気づきもしないで。
まるでこの階段自身が呼吸しているかのように、風がかすかな唸り声を纏って身体をすり抜けていく。
誰も何も喋らなくなった。もう上がどうなっているか確かめようなんて気は起こらない。ひたすら、下へ。下へ……
気持ちが良い。底なんてなければいいのに。

「あ」

師匠の声が僕の意識を覚醒させる。
折り返しの壁に沿って身体を反転させようとした師匠が立ち止まって右側を見ている。
僕もその横から首を伸ばして、懐中電灯の光の先を見る。

階段はもう無かった。
四方を壁に囲まれた窮屈な板張りの廊下が水平方向に伸びている。
息を潜めながら師匠がゆっくりと足を踏み出していく。
僕は眼を閉じてしまいたかった。それでも師匠の背中に隠れるように後を続く。
懐中電灯の丸い光が、朽ち果てたような木戸を闇の中に照らし出す。
「気をつけろよ」
そう囁きながら師匠が軽く左手で押す。

キィ
という音とともに戸は奥へ開いていった。
「なんだここ」
師匠がすり足で慎重に中に足を踏み入れる。
そこは畳敷きの部屋だった。八畳間くらいだろうか。
師匠が8の字に波打つように懐中電灯を動かし、部屋の中を少しづつ照らしていく。
背の低い和箪笥が壁際にぽつんとあるのが見えた。そしてその隣には錆付いた燭台。
壁の表面の一部が崩れて、土くれが床にぽろぽろと転がっている。

殺風景な部屋だった。人の気配はない。生活の気配も。
畳からは黴の匂いが立ち込めてくる。
天井には蜘蛛の巣。
地下に部屋があると知った時点で、座敷牢のような所を想像していた僕はむしろ心地の悪いズレのようなものを感じた。
まるでこの家の住人の一人にあてがわれた、ただの部屋のような佇まいだったからだ。
あの長い階段さえなければ。

ふいに師匠の呼吸が止まった。
僕の頬を生暖かい風が撫でていく。
時が止まったように、風の吹いてくる方向を師匠は見つめている。
正面の壁に、四角く刳り抜かれた穴がある。
両手を広げたくらいの幅のその穴の外周には木で出来た枠がある。

窓だ。
そう思った瞬間、身体の中を無数の手が這い登っていくような気持ちの悪い感覚に襲われる。
窓には格子戸がかかっている。
その格子と格子の間の狭い隙間から、向こうの景色が微かに覗いている。
師匠がゆっくりと近づいていく。
揺らめく懐中電灯の光が、格子とその隙間とに妖しい縞模様を映し出している。
師匠が窓辺に立って、ゆっくりと息を吐く。
僕も何かに魅入られたように足を運び、師匠の隣に並ぶ。

格子の隙間から風が入り込んできている。その向こうには、暗い空間が広がっている。
暗いけれど、闇ではない。
遠くに黄色く光る街灯がぽつんと立っている。静かな畦道が横に伸びている。
黒々とした山なみがその果てに見える。蛙の鳴き声がかすかに聞こえる。

いったいここはどこなんだ?

応えるものはなにもなく、ただ朧夜の底の光景が僕らの前にあった。
畦道の向こうから、揺れる明かりが近づいて来るのが見える。
わずかに見下ろす。ここは地面よりも少し高い所にあるらしい。
明かりとともに畦道をやって来る人影が見えた。ここからでは遠くて、人形のように小さい。

ああ。近づいてくる。

そう思った瞬間、僕は師匠の腕を掴んだ。そして有無を言わさず窓際から引き離す。
「戻りましょう」
そう言って、入って来た部屋の戸に向かう。
胸がドン、ドン、と高鳴っている。

怖い。
怖い。

頭が、それ以外の言葉を紡ぐのを恐れている。
戸惑ったように動きの鈍い師匠から懐中電灯をもぎ取り、板張りの廊下へ先に踏み出す。
早足で狭い廊下を抜け、仰ぐように聳える階段に足をかける。そして降りて来た時より、もっと高くなったような気がする一段一段を、闇雲に昇っていく。

怖い。
怖い。

壁に突き当たり、左に曲がる。
折り返すとまた階段が上に続いている。どこまでも続いている。
足音が一人分しか聞こえない。
そう思った瞬間、バキィッ、という破壊音が空気を震わせた。
足が止まる。下からだ。

僕は振り向くと、飛ぶように階段を駆け降りた。下まで着くと、嫌な音のする廊下を走り抜け、戸が開いたままの部屋に飛び込む。
師匠が金属製の燭台を両手で振り上げ、窓の格子戸に叩きつけている。
木製の格子が1本、2本と砕けて、外に落ちていく。
僕は師匠の名前を叫んで腰のあたりに組み付いた。

その頃の僕にはまだ、けっして越えてはならない境界線というものが確かにあったと思う。
この世のことわりが捻じ曲がり、目に映らなかった世界が剥き出しになる瞬間にさえ、自分の戻るべき場所を振り返ってしまう、そんなくだらない人間だった。
燭台を投げ捨て、格子戸の大きく破れた部分に手をかけて外へ身を乗り出そうとする師匠を必死で止める。
羽交い絞めにして、ジタバタともがく身体を窓から引き剥がす。
なにかを喚いているが、聞かない。
その格好のままズルズルと引っ張って、もと来た部屋の戸口に向かう。
師匠を前に向けて廊下を進み、階段の下まで来ると斜め前方に無理やり押し上げた。
そして師匠のお尻に頭のてっぺんをつけて、グイグイと力任せに押していく。

「……っ!……っ!」

何かを叫んでいる。
折り返しをいくつか過ぎたあたりでようやく耳に入った。
「わかった。わかったから。危ないから、もう押すな」
それで、少し勢いを落とした。師匠は溜息をつきながら、僕に押されないように早足で進む。たった一つの懐中電灯は再び師匠に渡してしまった。
昇っても昇っても階段は先へ続いている。息が荒くなり汗が額から滴り落ちる。でも止まれなかった。得体の知れない強迫観念に追い立てられて。

やがて僕の耳は、僕のでも師匠のものでもない別の足音を捉える。酸素が足らなくなり、前方の視界が暗くなる中で僕はその音が現実なのかどうかを考える。
真上から聞こえてくるような気がした。その足音が降りてきているような。
次の角を曲がった時には、それと出くわしてしまうような……

急に前を行く師匠が立ち止まり
「目を閉じて息も止めてろ」
と早口に言った。
僕はとっさに反応し、右足だけ次の段に掛けたまま目を閉じて息を止める。
苦しい。平常時ならともかく、今は30秒ももちそうにない。
その苦しさが恐怖心を一瞬忘れさせた時、僕の身体の中を嵐のような声が通り過ぎた。
たくさんの人間の唸り声のような、呻き声のようなそれは、僕の身体を凍りつかせた後、背中から抜けてそのまま階下へと消えていった。
やがてそれは、僕らの足元の遥か下の階を降りていく足音に変わる。それは、すれ違うこともできない狭い一本道を、一度も僕の身体に触れないまま通り過ぎて行ったのだった。

「行こう」
と言うように服を引っ張られ、目を開ける。
一体なにが通り抜けて違ったんですか?
そんな問い掛けを口にしようとして、僕の目の前にいるそれが、師匠ではないことに気づく。
悲鳴をあげそうになり、口を押さえる。
青白く、冷たい相貌。僕を不安定にさせる氷のような顔。
ああ、これは父だ。僕を怖い場所へ連れて行く父だ。僕の手を掴んで、地面の底へと……

「どうした」
いきなり平手が飛んで来た。
頬の痛みに僕は我にかえり、その瞬間に吸い込んだ酸素が脳髄に行き渡る。
視界の端に視神経の火花がキラキラと散る。
「幻覚でも見たか」
目の前の人間が師匠の姿に戻り、その右手が僕の手の甲を掴んだ。
そして僕を引っ張りあげるように、高い階段を昇り始める。
「さっきのは、なんだか、正直、わからん」
師匠のハァハァという息遣いが螺旋状の狭い筒のような空間に響く。煤で汚れた手で汗を拭くので、僕らは顔中が黒くなっていることだろう。
降りる時には有限だった折り返しが、今度も有限である保障なんてどこにもない。
けれど、僕は今一人ではない、というその一点だけにしがみついて、ひたすら足を上げ続けた。
足が震え、一歩も歩けなくなりかけた時、懐中電灯の照らす上空にポッカリと四角く開いた空間が出現した。
「戻ったぞ」

師匠がその穴から這い出る。僕も続く。
そこは座敷の押し入れで、脇に避けられた木製の蓋も、饐えた畳の匂いも、もと来た時のままだった。
随分時間が経ったような気がするし、あっという間だったような気もする。
ただあれほどおっかなびっくり探索していた古い家の中が、まるで自分の部屋のように感じられてしまうのは不思議だった。
師匠が「よっ」と力を入れて蓋を動かし、地下への入り口を封印する。
蓋が閉じきる寸前に、狭くなった空気の通り道を生暖かい風が抜けて嫌な音を立てた。

うううううう…………

その呻き声のような音もやがて消えた。
完全に隙間なく蓋を閉めると、空気は漏れないようだ。これでこの家にまつわる噂もなくなるだろうか。
そう思った瞬間、ズズズズン、という地の底から響いてくるような衝撃が周囲の闇を振るわせた。崩落を示す振動。
地下の階段からだ。それはすぐに直感した。
そして、もう地面の奥底のあの部屋にはたどり着けなくなったことも。
土埃のような匂いが蓋から染み出してくる。
師匠は「あ~あ」と言って、鼻を鳴らした。そして息を整える暇もなく
「出よう。嫌な感じだ」
という言葉に、僕は従う。

走らない程度に急いで、入る時に僕が壊した裏の戸口から外に出た。
裏庭を抜け、雑草を掻き分けて土塀の朽ちた木戸を潜る。そのあいだ、僕ら以外のなんの気配も感じなかった。
「お風呂に入りたい」
師匠がそう言いながら家に背を向け、遠くの黄色い街灯を目印に畦道の方へ進む。
僕は立ち止まり、その家の「醤」と書かれた正面の構えを眺める。
その僕の様子に気づいて師匠が振り返り、懐中電灯を二階に向けた。
二階の窓の格子戸は最初に見た時のまま整然と並んでいる。

「調べてみたいなんて言うなよ」

師匠の声が冷たく響く。
「あの葡萄は酸っぱい、だ」
師匠は踵を返して歩き出す。置いていかれまいと、追いかける。
蛙の鳴き声を聞きながら、僕は落ち込んでいた。

あの、地下室の窓辺で取り乱していたのは僕だった。
喚いて、羽交い絞めを振りほどこうとしていた師匠ではなく。
それは僕にも師匠にも良く分かっている。
また失望させてしまったし、それを面と向かって責められないことも逆に辛かった。

けれどあの時、師匠を止めていなかったとしたら、僕にはその後の世界を想像できないのだ。

「すみません」
と言って、僕は頭を垂れた。

天使

京介さんから聞いた話だ。

怖い夢を見ていた気がする。
枕元の目覚まし時計を止めて、思い出そうとする。
カーテンの隙間から射し込む朝の光が思考の邪魔だ。
もやもやした頭のまま硬い歯ブラシをくわえる。
セーラー服に着替え、靴下を履いて鏡の前、ニッと口元だけ笑うとようやく頭がすっきりして来る。
そしてその頃になってまだ朝ごはんを食べていないことに気づく。
ま、いいか、と思う。
朝ごはんくらい食べなさいという母親のお説教を聞き流して家を出る。

今日は風があって涼しい。
本格的な夏の到来はもう少し先のようだ。
大通りに出るとサラリーマンや中高生の群れが、思い思いの歩調で行き来している。
私もその流れにのって、朝の道を歩く。

この春から通い始めた女子高校は、ただ近いからという理由だけで決めてしまったようなものだ。
それがたまたま私立だったというわけで、両親にはさぞ迷惑だったことだろう。
薄くて軽い鞄を片手に、歩くこと10分あまり。
高校の門をくぐって、自分の下駄箱の前に立つと、今ごろになってお腹が減ってくる。
ああ、バターをたっぷりぬった食パンが食べたい。
そんなことを思いながらフタを開けると、上履きの他に見慣れないものが入っていた。

手紙だ。
可愛らしいピンクのシールで封がされている。
とりあえずそのままフタを閉じる。

記憶を確認するまでもなくここは女子高校で、ということは下駄箱に入っていたピンクのシールの手紙などというものは、つまり「そういう」ものなのだろう。
男子より女子にモテた暗い中学生時代の再現だ。
いや、共学でなくなったぶん、もっと事態は深刻だった。

げんなりしながらもう一度下駄箱を開け、手紙を取り出して鞄にねじ込む。
上履きの踵に人差し指を入れて、右手を下駄箱について片足のバランスを取っていると、ふいに誰かの視線を感じた。
顔をあげると、廊下からこっちを見ている女子生徒がいる。
ずいぶんと背が高い。
その大人びた表情から、3年生かとあたりをつける。

え?
なんでこっち見てるの。
まさかあの人が手紙の差出し人だったらどうしよう。今かなりグシャグシャに鞄に入れちゃった。

そんな自分の逡巡もすべて見透かしたような目つきで彼女は微かに笑ったかと思うと、「恨みはなるべく買わない方がいいわ」と、小鳥がさえずるような囁き声で言った。
そして制服を翻し、目の前から去っていった。

その瞬間だ。

周囲に耳が痛くなるような雑音が発生し、何人もの生徒たちが袖の触れ合う距離で私のそばを通り過ぎていった。
ついさっきまで私はなぜかこの下駄箱の前に自分しかいないような錯覚をしていたのだ。
しかし確かにさっきまで、この空間にはこの私と廊下のあの女子生徒の2人しか人間はいなかった。
始業の10分前という慌しい時間に、そんなことがあるはずがないにも関わらず、そのことになんの疑問も持たなかった。
まるで、夢の中で起こる出来事のように。

笑い声。
朝の挨拶。
下駄箱を閉開する音。
無数の音の中で、廊下から囁く声など聞こえるはずはなかった。
私は昇降口のざわめきの中で一人、立ち尽くしていた。

「ちひろ~?どうしたの。気分悪いの?」
その日の休み時間、浮かない顔をしていた私にヨーコが話かけてきた。
奥という苗字だったが、彼女には奥ゆかしさというものはない。
席が近いこともあって、入学初日からまるで旧来の友人のように私に近づいてきた子だった。
はじめはその馴れ馴れしさに戸惑ったが、元来友だちを作るのが苦手なタイプの私が、新しいクラスでの生活ですぐに話し相手得られたのは有り難かった。

「ねえ、どったの。」
椅子の背中に顎を乗せて、体を前後に揺すっている。
椅子の足がそれに合わせてカコカコと音を立てる。
「うるさい。それやめて。」
そう言うと
「うわ。ご機嫌斜め。」
と嬉しそうな顔をして椅子を止める。
「腹減った。」
思わず出てしまった言葉に、ヨーコは頷く。
「やっぱりそれか。大食いのくせに低血圧のお寝坊さんなんて、不幸よね。」
べつに寝坊してるワケじゃない。というようなことを言おうとして、ふと思い出した別のことを口にした。
「背が高いショートの人、知ってる?」
たぶん3年生だと思うんだけど。と言いながら、朝の昇降口で見た切れ長の目やその整った顔つきの説明をなるべく正確に伝える。
するとヨーコは少し考えたあと
「それって、間崎さんじゃないかな。」
と言った。
「へえ、有名なんだ。」
「有名ってわけじゃないと思うけど。同じ1年だし、見たことくらいあるよ。ホラ、A組の。」
「え?同い年なのか。」
少し驚いた。
「その間崎さんがどうしたの。告られたとか?」
朝のことを説明しようとして、やめた。
めんどくさい。
「でも、間崎さんってなんか気持ち悪いらしいよ。良く知らないけど、呪いとかかけちゃうんだって。」

ドキッとする。
私も中学時代に、趣味の占いを学校でもやっていたらそんな噂を立てられたことがあった。
高校では少し大人しくしておこうと、学校には今のところ趣味を持ち込んでいない。
「呪い、ね…」
教室を何気なく見回した。

その時、遠くの席に座る子と目が合った。
地味な目鼻立ちに小柄な体。
髪型こそ違うが、どこか似ている子が2人、顔を寄せ合ってこちらを見ている。
私の視線に気づいたヨーコもそちらを見る。
2人はハッとした表情を一瞬見せたあと、怯えたように目を伏せた。

なんだろう。
まだ会話もしたことがない子たちだ。名前も出てこない。
クラスの中でも一番印象が薄いかも知れない。
「ちひろ。怖がらせちゃダメよ。」
ヨーコが楽しそうに言う。
「あなた見た目怖いんだから。」
そんなことを言って、チクリと私の心のキズを刺す。

目つきが鋭いのは生まれつきで、けっして怒っているわけではないのだが時として善良な女子から怖がられることがあった。
不本意なことに、背が高いというだけでそのイメージがさらに増幅されるようだ。
眼鏡を掛けている方が島崎いずみ、頬に絆創膏を貼っているのが高野志穂だとヨーコが教えてくれた。
明日には少なくともどちらかは忘れてしまいそうだ。
マイナーキャラねとヨーコは笑った。本人たちにも聞こえるかも知れない声で。

5時間目が急に自習になり、私は適当な時間に教室を抜け出した。
校舎裏の人気のない一角が私の密かなお気に入りだった。
壁の構造に沿って微かな風が吹き、髪の先を揺らす。
私は切り取られたような小さな空を見上げながら、どこからか聞こえてくる屋外スポーツのざわめきに耳を傾ける。
こうしている時間は好きだ。
たくさんの人がいる場所の片隅に、ぽっかりとあいた穴のような孤独な空間がある。
そう思えるから学校なんていう息の詰まる所に毎日来られるのだし、そんな空間こそ自分の本当の居場所であるような気がして心が充足していく気がする。

2本目の煙草に火をつけたとき、壁の曲がり角に誰かの気配を感じた。
慌てて足元に落とそうと身構えると、その誰かは能天気な声を発しながら姿を現した。
「あ~、不良はっけーん。」
ヨーコだった。心臓に悪い。
「時々いなくなるのはココだったのね。静かでいいねぇ。あ、怒っちゃった?」
怒りはしないが、秘密の場所の占有が崩されたことにわずかな失望を覚えたことは確かだった。
ヨーコは隣にツツツと寄って来て壁に背中をあずける。
「昼休みにさあ、なんかイカツイ先輩来てたけど、あれなに話してたの?」
「ああ、あれは……」
中学時代にやっていた剣道部の先輩だった人が、高校でもやらないかと私を勧誘しに来ているのだ。
何度か断ったがなかなかにしつこい。
「どうして入んないの?」
別に大した理由はない。
子どものころ、父親に言われるままに通い始めた剣道の道場には今でも週に2回は顔を出しているし、学校ではもういいや、と思っただけだ。
「ふうん。やればいいのに。もったいない。」

それから2人でとりとめもない話をした。
時間はゆっくりと流れていた。
教室に残したノートは清清しいほど真っ白のまま。
それでも、悪くない気分だった。

チャイムが頭の上から鳴り響き、ため息をついて体を起こす。
そのとき、ヨーコが言った。
「あのさ、ちひろ。自分がヤンキーとかって噂があるの知ってる?」
「私が?」
笑ってしまう。
「いや、結構マジで。どっかの不良高の男とつるんでるとか、夏休みまでは大人しくしてるだけとか、そんな噂があるし。じっさい怖がってるコ、多いよ。」
真剣な顔でそんなことを言われ、思わず手元の煙草を見つめる。
どうでもいいや、めんどくさい。
そう思いながら火を踏みつけた。

その日の放課後、鞄を机の上に乗せて身支度をしているとヨーコが遊びに行こうと誘って来た。
「またカラオケ行く?奢っちゃうよ。ゲーセンは?あ、気になってる喫茶店あるんだけど、行かない?」
周囲にも聞こえる声だった。
ひょっとするとヨーコなりに私をクラスに馴染ませようとしてくれていたのかも知れない。
けれど他からの参加希望の声はあがらなかった。
私はクスッと笑って
「わかったわかった。行こう。」
と言った。
「やった。デートだ。」
そんなことを言っておどけるヨーコに、私はたしなめるように問いかける。
「それにしてもよくそんなにしょっちゅう遊びに行けるな。小遣い足りなくなっても貸さないぞ?」
「いーじゃない。お金は若いうちにあるだけ使わないと。」
ヨーコはからかうように言い返す。
よく見ると彼女は腕時計や靴にさりげなくお金をかけている。
休日に私服で会うと、なんだか自分の服装がみすぼらしく感じて気恥ずかしくなる。
根掘り葉掘りと聞いたことはないけれど、きっと親が金持ちなのだろう。
私のような庶民とは少し感覚がズレているのかも知れない。

連れ立って教室を出ようとしたとき、背筋に絡みつくような視線を感じた。
反射的に振り向くと2人の女子がビクリと肩を震わせながらこちらを見ている。
また、あの2人だった。
島崎いずみに高野志穂。
強張った表情を浮かべたかと思うと、2人してくるりと振り返り、教室の後ろのドアから逃げるように出て行った。
「なにあれ、感じ悪い。」
ヨーコが眉を寄せて言い放つ。
確かに感じが悪い。
まるで本当に私を怖がっているようではないか。
さっき聞いたばかりの私に関する噂を思い出して、気分が悪くなった。

島崎いずみが自殺未遂をしたというニュースを聞いたのはそれから1週間後だった。
あの時怯えたような目で私を見ていた2人の女子の名前を両方ともすっかり忘れてしまっていたので「そんなコいたっけ?」というのが第一の感想だった。
そう言われてみると眼鏡の子はここ2、3日学校に来ていなかったようだ。
なんでも家が近所だという同じクラスの女子が、昨日たまたま通りがかった時に彼女の家の前に止まっている救急車に気がついたのだという。
すでに数人集まっていた近くの主婦たちから聞くところによると、学校を休んで1人で家にいた島崎いずみが風呂場で手首を切ったのだとか。
流れ出る血に怖くなって自分で救急車を呼んだらしく、軽症と言えそうだがその後とりあえず入院することになったらしい。
そんな話が始業前にすでにクラス中に広まっていた。

みんな身近で起こった事件に、不謹慎な興味とそれからわずかな罪悪感を持って噂をしあった。
「どうして」という部分には、大なり小なり自分たちも関わっているという自覚があったに違いない。
表立って苛められているというわけでもなかったが、地味なやつ、つまらないやつ、というレッテルを貼られた子がクラスでどういう位置にいたか誰だって知っているのだから。
かばい合うようにいつも一緒にいた高野志穂は、好奇の目で見られることに耐えらなくなったのか、それとも友だちの自殺未遂という選択にショックを受けたのか、1時間目に青い顔をして早退を申し出て、許された。
重そうな鞄を持って教室を出る彼女の横顔を見ていた私は、その頬の絆創膏が1週間前から増えていることに気づいた。
こんな不愉快な噂話に乗っかるのは自分でも嫌だったが、どうしても気になってヨーコに聞いてみた。
「ああ、高野さんの絆創膏?彼女たしかバレー部に入ってるから…相当しごかれてる、っていうかいびられてるらしいよ。」
そう言うヨーコもニュースがショックだったのか、いつものハキハキした調子がない。
私にしても、まったく身に覚えのない罪悪感がひっそりと肩に乗っているのを感じていた。

どうして彼女たちは私をそんなに怖がったのだろう。
頭の中に真っ黒い雲がかかったようで気持ちが悪かった。

だからだろうか、3時間目の休み時間にクラス中でひそひそと交わされる噂話にそれとなく耳を傾けていた私は、ある単語に強い関心を惹かれた。
「間崎京子」
そんな名前が、飛び交う無数の言葉の中であきらかな異質さを持って飛び込んで来たのだ。
思わずその話をしていたグループの所へ行って詳しい話を聞く。
「え?だから、その間崎さんのトコに島崎さんが出入りしてたって話。なんでって、よく知らないけど。あの人、なんか占いとかするらしいから、悩み相談でもしてたんじゃないかな。」
礼を言って、自分の席に戻る。

間崎京子。
1週間前、昇降口で私に話しかけてきた女子。
あの時の彼女の言葉が頭の中でグルグルと回る。
「恨みはなるべく買わない方がいい。」
ひょっとするとあれは、目の前で顔も知らない誰かのラブレターを乱暴に扱った私に対する警告ではなかったのかも知れない。
彼女は別のなにかを知っていてそう言ったのではないだろうか。
たまらなくなって席を立ち、教室を出る。

あちらこちらでセーラー服のかたまりが出来ているざわつく廊下を抜け、間崎京子がいるはずの教室を目指した。
教室の前にたどり着くとドアは開け放たれていたので、そっと中を覗く。
何人かの女子が私に気づいて無遠慮な視線を向けてくる。
このクラスのことは全く知らないので、間崎京子が普段どのあたりに座っているのか見当もつかない。
しかし見渡した限りはどこにもいないようだった。
軽い失望を覚えた時、見知った顔に出くわした。
「石川さん」
と呼ぶと、向こうでも私と認めたらしく笑顔でドアの所までやってきた。
「ちひろちゃん、どうしたの?」
同じ中学だった子だ。
それほど親しかったわけでもないけれど、このさい縁にすがらせてもらおう。
「間崎さんはこのクラスだよね。」
石川さんは一瞬表情を硬くした。そして声を潜めて言う。
「そう。だけどさっき早退したよ。」
肩を叩かれ、誘導されるままに廊下の隅に身を寄せた。
リノリウムの床がキュッキュッと鳴る。
「あのさ。島崎いずみさんのことだよね。」
驚きながらも頷いた。
どうやら噂はこんな遠くの教室まで短時間に飛び火していたらしい。

石川さんの話によると、島崎いずみは本当に間崎京子の所へ時々来ていたらしい。
そして教室の一番奥の席でなにごとか語り合っていたそうだ。
間崎京子の所には彼女だけじゃなく、他にも数人の女子がまるで女王を慕うように出入りしていたとのことだった。
「間崎さんってさ、なんていうか人の心を見透かしてるみたいな冷たい目をするのよね。凄い美人だからそれが余計凄みがあるっていうか。怖いくらい。話してみても、時々意味わかんないこと言うし。クラスのみんなは彼女を警戒して避けてるって感じかな。」
私の第一印象と同じだ。
彼女には気を許せない雰囲気がある。
「こないだなんてさ、それこそ島崎さんと2人で向かい合ってさ。なんか机の上にトランプみたいなカードを並べてるの。なんかね、土って字の形に。気持ち悪かった。」
なんだろう。
間崎京子がよくしているという占いの一種だろうか。
「島崎さんはなにをしにきていたんだろう。」
石川さんは首を振って、「わかんない」と言った。
「ただね、その時間崎さんがなにかを言って、島崎さんが泣いてたみたい。」
そんなことがあったから石川さんは、島崎さんが自殺未遂したという話を聞いて間崎京子にカマをかけてみたのだそうだ。
「どうして島崎さんが自殺なんかしたんだろうね。間崎さん知らない?」
と。

「どう答えたんだ?」
知らず知らずにトーンが高くなってしまう。
「それが…」
石川さんは首を捻りながら、思い出すように言った。
「たしか、オリンピック精神ね、みたいなことを言ってた。」
オリンピック精神?
とっさに意味が分からない。
なるほど、こういう突飛なことを言うから気味悪がられているのか。
ドアの方から「七瀬ぇ~」という声がして、その呼びかけに応えてから石川さんは「じゃ、またね」と言って教室に戻っていった。
残された私はしばらくその場で考え込んでいた。

土の形に並べられたカード。
自殺未遂をした島崎いずみと、その彼女が慕っていたという間崎京子。
そしてオリンピック精神という言葉。

それぞれのパーツがバラバラに飛び回り、考えがまとまらない。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、背中を押されるように自分の教室へ足を向ける。
席に戻るとヨーコが「どこ行ってたの。」と囁いてくる。
「ん、ちょっと」と、別に隠す必要もない気がしたが、なんとなくはぐらかした。
自分でも気づかないうちに、この一連の出来事からなにか危険な匂いを感じ取っていたのかも知れない。
「奥!どこ見てる。」という教師の声にヨーコは舌を出して授業を受ける姿勢に戻った。
その現代国語の時間中、私はノートをとることも忘れて考えていた。

占いをするという間崎京子の所へ、クラスで肩身の狭い思いをしていた島崎いずみが行ってなにをしていたのか。
恐らく、自分の立場、居場所に関する悩み事の相談だろう。
そしてそれを受けて、間崎京子がしたことは土の形にトランプのようなカードを並べること…トランプではないのだ。
トランプのような見た目で、かつ印刷されている内容が違うもの。
そして占いに使うとなれば、あれしかない。

タロットカードだ。

そこまで考えて、何故すぐに気づかなかったのかと自分のバカさ加減を悔やんだ。
タロットカードは質問に対し、出たカードのパターンによって回答をする古典的な占いだ。
例外もあるが、大抵は22枚の大アルカナと呼ばれるカードのみか、もしくはそれに56枚の小アルカナと呼ばれるカードを加えた78枚のデックで行う。
そのデックから質問に対する回答のためにカードを選ぶ方法だが、これが様々あって、ある意味タロットカードの奥深さを表す醍醐味と言える。
その選び方のことをカードを並べる展開法、「スプレッド」と言い、それぞれ並べる枚数も違えば並べ方によるカードの意味も違ってくる。
そしてそのスプレッドのなかで、土の形と結びつくものがあった。(ケルト十字か……)
オーソドックスなスプレッドで、10枚のカードを並べるのだが、最後まで並べると「十|」という十字架の右隣に縦棒を置いたような形になるのだ。
それは時計回りに90度倒すとそのまま土という漢字に見える。

私は授業が終わるとすぐに教室を出て、もう一度間崎京子の教室へ向かった。
タロットカードならば自分もよく知っている。
そこからなにかヒントがつかめるのではないかと思ったのだ。

「石川さん。」

昼休みのお弁当のために机を並び替えようとしていた石川さんは、驚いた顔でこちらを見た。
それでも迷惑そうなそぶりも見せずに、仲間たちを置いて教室から出てきてくれた。
「タロットカード」という言葉を出してもピンとこなかった彼女に、なんとかその時のことを思い出して欲しいと畳み掛ける。
「え~と、確か太陽のカードがあったかな。それからあとは、あれ、剣が刺さって倒れちゃってる人のカード。う~ん、あとは覚えてない。そんなマジマジ見てたわけじゃないし。」
剣が刺さった男?!
私は息をのんだ。
「それ、土のどの部分にあった?それからどっちの方向にむいてた?剣の柄は間崎さんから見てどっちだった?」
石川さんは暫く考えたあと、確か…と前置きしてから答えた。
「端っこだったから、土の最後の止めの部分かな。柄の向きは、あんまり自信ないけど私の方に向いてたと思うから、間崎さんから見たら剣の先が正面になるのかな。」
石川さんはそれがどうしたのと怪訝そうな顔で私を見つめる。

剣が刺さった男は、小アルカナの剣の10。
そして間崎京子に切っ先が向いていたということは正位置。
最悪のカードだ。
個人的には塔の正位置よりも不吉な感じのするカードだった。
そして土の止めの部分ということは、ケルト十字における「最終結果」を表すカード。
私は心臓が高鳴りはじめたのを感じていた。
剣の10が暗示するものは
破滅・決定的な敗北・希望の喪失・さらなる苦しみ…
間崎京子はその最終結果を島崎いずみに飾ることなく告げたのだろう。
そして彼女は泣いた。
悩み事に対する答えとして、この仕打ちはあんまりだった。
それが良いとこ取りばかりをしない、占いのあるべき姿だとしても。
ましてそれが、島崎いずみ自身の運命だったとしても。
私は誰に向けるべきなのかも分からない波立つような怒りが身の内に湧いて来るのを感じていた。
私の様子を不審げに見ていた石川さんが、「もう教室に戻るけど」と言うのを制して、これが最後だからと太陽のカードの位置を聞いた。
「確か、真ん中のへん。ごめん、ホント忘れた。え?向き?太陽に向きなんてあるの?」

聞き出せたのはそこまでだった。
礼を言って、教室の前から立ち去る。
彼女はきっとこれから昼ごはんを一緒に食べる仲間たちと私の噂話をするのだろう。
なんか、気持ち悪いよね。占いとかしてる人って。
石川さんも占いばかりしていた中学時代の私に、後ろ指をさしていた1人だったはずだ。
胸の中に渦巻く怒りと微かな棘の痛みが私の心を揺さぶり、平常な精神でいられなくした。

私は教室に戻らず、昼ごはんも食べないまま校舎裏の秘密の場所で時間が過ぎるのを待った。
結局数行読んだだけで捨てたあのラブレターには校内で見かけたという私の容姿のことばかり並んでいた。
差出人もこんな私の本性を知れば出すのを止めただろうか。

煙草の吸殻が何本足元に落ちても、誰も来なかった。
風が遠くの喧騒を運んで来る。
すこしずつ、身体の中に硬い殻が形成されるようなイメージ。
誰も傷つけない。誰からも傷つけられない。
空は高かったけれど、まがい物のような青だった。

4日後、あの日早退して以来休んでいた高野志穂がようやく登校してきた。
青白い顔をして、緊張気味に唇を固く引き結んだまま誰とも挨拶を交わそうとしない。
気がついていなかっただけで、あるいは彼女はいつもそうだったのかも知れない。
周りのクラスメートたちは、遠巻きに、そして腫れ物に触るように接していた。
彼女たちにとって、島崎いずみと高野志穂は区別のない同じ存在なのだろう。
島崎いずみはまだ学校に来ない。
退院したという噂は聞いたが、今も家に閉じこもっているのだろうか。
学校はまったく自殺未遂のことに触れようとしない。
私たちがしている噂話を漏れ聞いていないはずはないのに。
あるいは学校との関わりが確認されない限り、無視を決め込んでいるのかも知れない。

けれど私はどうしてもこのままにはしておけなかった。
高野志穂に話しかけたくてうずうずしていた。
その気持ちを見透かされたのか、ヨーコが眉を寄せて私を見る。
「ちょっとちひろ。なんか嗅ぎまわってるみたいだけど、やめときなよ。こんなことに関わらない方がいいよ。」
面と向かってそう言われると、確かにそうだという良識が私の中で頷く。
この数日で、かなりのことが分かっていた。
同じ中学で、2人とも苛めを受けていたこと。
そして今の学校での、そしてクラスでの立場。
これ以上何を知っても不快なだけだ。
私自身クラスで浮いている身であり、その私がなにか出来ることなどないし、なにより面倒くさい、どうでもいいという投げやりな気持ちの方が強かった。
休み時間にも俯いて机の上に広げたノートをじっと見ている高野志穂の姿に、好奇心以外の気持ちが湧かない自分に気づく。
彼女はしきりに顔の絆創膏を気にして触っている。
このあいだよりまた増えていた。
その様子を見ていて、オリンピック精神という言葉が一瞬頭をよぎる。
これだけは意味が分からない。この一連の出来事にそぐわない響きだ。
間崎京子は一体なにを思ってそんなことを言ったのか。

あれから何度かあの教室を覗いたが、彼女はすでに早退した後か休みかのどちらかで、結局会えなかった。
もともと休みがちだったというが、これはどういうことなのか。
透けるような色白で、スラリと伸びた細すぎる身体に病弱そうな雰囲気は感じ取ったが…
ともあれ、オリンピック精神と聞けば「参加することに意義がある」とかいう陳腐なフレーズしか浮かばない。
それが自殺未遂にどう繋がるのだろう。
高野志穂が在籍しているというバレー部となにか関係があるのだろうか。
そう言えば、島崎いずみの方はいわゆる帰宅部で、中学時代からなんのクラブ活動もしていなかったらしい。
毎日の放課後、バレー部の練習のために学校に残る高野志穂と別れ、寂しそうに1人で帰る姿をいつも目撃されている。
「オリンピック精神」
小さく口にしても、真実に迫るようなインスピレーションはなにも湧いてこない。
自殺未遂にはそぐわない、健康的なイメージばかりが浮かんでは消える。
そう言えば、間崎京子はなにかクラブ活動をしているのだろうか。
そう思った時、横からヨーコに小突かれた。
「ちょっと、ちひろ。重症ね。もうそんなこと忘れてパーッといきましょう。今日、放課後、私と遊ぶ、OK?」
ヨーコはすっかりいつもの調子だった。
苦笑して、頷いた。
背中に高野志穂の怯えたような視線を微かに感じながら。

「ねこがフェンスでふにゃふにゃふにゃ~」
というヨーコのでたらめな歌を聴きながら空き地の金網のそばを歩く。
「トムキャットのフェンスって、良い曲だよ。でもカラオケに入ってないんだよね。」
くるりと振り向いたかと思うと、そう訴える。

ヨーコはいつも唐突だ。
一緒にいると疲れることもあるが、いつも楽しげな彼女を見ているとこちらも元気づけられる。
「そうそう、最近オープンしたおしゃれな喫茶店が近くにあるんだけど行かない?」
連れられるまま5分ほど歩くと、古着屋やレコードショップなどカラフルな外観の店が立ち並ぶ通りに目的の喫茶店が現れた。
さすがに真新しく清潔感のある店先だ。中高生などの若い女性客が多く入っているのがウインドウ越しに見てとれた。
店内に入ると、白を基調にした壁に可愛らしい天使の絵が一面に描かれている。
「おすすめケーキふたつ。あとアイスティーもふたつ。」
と勝手に注文するヨーコを尻目に、私はなにか引っ掛かるものを店内から感じていた。
席について、いついつの情報誌にここが出ていたなどと語るヨーコの話にも上の空で、私は壁の絵ばかりを見ていた。
「あー、これなんか見たことある。」
そう言ってヨーコは1つの絵を指さした。

椅子に腰掛けて両手を胸にあてる女性に、羽の生えた人物が何かを語りかけている。
処女であるはずのマリアに、天使が受胎を告知する聖書のワンシーンだ。
しかし随分デフォルメされてしまっていて、子どもじみた絵になっている。
「ガブリエル」
私の言葉にヨーコが「え?」と聞き返す。
「この天使の名前。」
ヨーコは感心した表情で、「天使に名前なんてあるんだ。みんな一緒かと思ってた。」とつぶやく。

私は心臓が裂けそうにドキドキと脈打つのを感じていた。
そして頭の中で言葉が鐘のように鳴る。
天使。天使の名前。
そうだよ、ヨーコ。
天使に名前はあるんだ。

私は椅子の足を鳴らせて、席を立った。
「どうしたの」と聞くヨーコを横目で見ながら、「ゴメン、急用思い出した。先帰る」と一方的に言って、おすすめケーキとアイスティーの代金をテーブルに置き、出口に向かう。
ヨーコの非難するような声が背中に届いたが、無視した。
店を出た後、その足を町の図書館へと向ける。
嫌な予感がする。
自分の記憶が間違っていてくれたら、と思う。
けれどその30分後、広げた大きな事典の中にその名前を見つけた時、人気の無い静かな図書館の片隅で私は深い息をついた。
心臓が冷たい血を全身に送っている。
そしてそれはぐるぐると巡り、もう一度心臓に還って来る。
すべてが繋がっていく。
とても冷酷に。
バラバラだったパズルの欠片がひとつ、ひとつと繋ぎ合わされ、見えつつある絵の向こうから途方もなく暗い誰かの目が覗いていた。

怖い夢を見ていた気がする。
枕元の目覚まし時計を止め、身体をベッドから起こしながら思い出そうとする。
カーテンの隙間から射し込む光に目を細め、思い出そうとしたものを振り払う。
セーラー服に袖を通し、朝ごはんをかきこんで家を出た。
足がスイスイと前に出ない。
気分が沈んだまま、いつもより時間をかけて学校にたどり着いた。
人でごった返す昇降口で、靴箱から上履きを出していると廊下の方に目が行った。

スラリとした長身。
ショートカットの髪が耳元に揺れる。
切れ長の涼しい目。
透き通るような白い肌。
間崎京子だった。
あっという間に通り過ぎて見えなくなった彼女を、その残像を、睨みつけて私は心の中で暴れる感情を抑えていた。

その日の1時間目は英語の授業だった。
黒板の英文をノートに書き写している私の机に、丸めた紙がコツンと落ちて来た。
広げると
「やい、ちひろ。おかげでケーキふたつも食っちまったゾ。おデブちゃんになったらどうしてくれる `皿´」
という文面。
「スマン。スマンついでに昼休み、ちょっとつきあってくれ」
と書いたノートの切れ端を返す。
「OK」の返事。
何事もなく時間は過ぎ去り、やがて昼休みを告げるチャイムが鳴った。
ざわめきが教室に広がるなか私は立ち上がり、高野志穂の席へ向う。
「ちょっと来て」
その瞬間、緊張したような空気が周囲に流れる。
私はかまわず、金縛りにあったように身を固くした高野志穂の腕を取って、強引に立たせた。
「ちょっと、ちひろ」
と言いながら近づいてきたヨーコにも、有無を言わせない口調で「一緒に来て」と告げる。
クラス中の匿名の視線を浴びながら私は二人とともに教室を出た。

早足で、校舎裏の秘密の場所に向かう。
相応しい場所は、そこしかないような気がしていた。
なにかぶつぶつ言いながらもついてくるヨーコは不機嫌な顔を隠さなかった。
高野志穂は蒼白とも言っていい顔色で、足取りもふらついて見える。
私は彼女の腕をつかむ手に軽く力を込めた。
しっかり歩け、と。
誰もいないその場所に着いて、私は高野志穂を壁側に立たせた。今は遠くのざわめきも聞こえない。
校舎の壁に反射して、陽射しが目に痛い。
白く輝きながら、夏がもうそこまで来ている。

「怖がらずに答えて欲しい。」

高野志穂は生唾を飲みながら、それでもコクコクと頷く。
その目は正体なく泳いでいる。
「島崎さんが自殺しようとした理由を知ってるな。」
頷く。
「そのことで、彼女は間崎京子の所へ相談に行ったな。」
頷く。
「占ってもらった結果を知って、ショックを受けた彼女は思い余って手首を切った。」
頷く。
「その絆創膏の下は、バレー部の練習でついた傷じゃないな。」
頷く。
「島崎さんとあなた。2人とも誰かに恐喝されていたな。」
……頷く。
「かなりの額のお金を脅し取られていたな。」
頷く。
「他の人に言えば、もっと怖い人から酷い目に遭わされると?」
頷く。頷く。
「恐喝していたのは、こいつだな。」
ヨーコが悲鳴をあげた。
私が強い力で腕を引っ張ったからだ。

「ちょ、ちょっと、なに言うのよ、ちひろ。痛い。痛いって。」
わめくヨーコの目の前で高野志穂は今にも倒れそうな顔つきをしながら、しかし歯を食いしばるように必死で頷いていた。
私は冷たい心臓が送り出す血が、体内でチロチロと低温の火を点しているようなイメージを抱きながら、言葉を続けた。
「あなたたちが私の方を怯えたような目で見ていたのは、いつも隣にいたこいつを恐れていたからだったんだな。」
またヨーコが悲鳴をあげる。
暴れる腕を遠慮ない力で捻りあげた。
「私はあなたたちが想像したような人間じゃないから安心しろ。こいつを今こうしているのが証拠だ。だから答えてくれ。いつからだ。どうしてこいつに?」
高野志穂は震えながらもやがてボソリ、ボソリと語り始めた。

自分と島崎さんは奥さんと同じ小学校だった。
その頃、2人は奥さんとそのグループから酷い苛めを受けていた。
中学校に上がって、奥さんとは別の学校になれたが、やっぱりそこでも別の人たちから苛めを受けた。
もう、この輪から抜け出すには自分が変わるしかないと思った。
高校に上ったら運動部に入って、引っ込み思案な自分の殻を破りたい。
そう思っていた。
しかしその生まれ変わる場所のであるはずの高校には、あの奥さんがいた。
あの頃の乱暴なだけの少女とは少し違う、狡猾な顔で。

小学校の頃に命令されるままにやった窃盗のことをバラすなどと理不尽なことで脅され、お金を要求された。
自分も島崎さんも、抵抗する気さえ起きなかった。
明るい、にこやかな表情で、自分たちの腹や背中を殴り、蹴りつける彼女に冷酷で無慈悲な悪魔をダブらせた。
バレー部に入った私には、傷が目立たないだろうと顔まで殴った。
おかげで顔から絆創膏がな取れるとはなかった。
奥さんは、私だからまだいいんだ、と言った。
私の友だちがキレたら、おまえら「売り」をさせられるよ、と言った。
その友だちは他校の不良とつるんで、そんなことばかりしている本物の怖い人だと。

「ウソよ、ウソ。あんたなにウソ言ってんのよ。謝りなさいよ。ふざけんなよ。」
わめくヨーコを壁に押し付け、耳元に顔を寄せた。
「おい。私が不良だのなんだのと、噂を流したのはおまえ自身だな。私がそんな噂にいちいち弁解して回らないタイプの人間だと判断した上で。あの2人の様子に私が不審を抱いた途端に、そんな噂があるとバラして、恐喝の秘密から遠ざける…ずいぶんと知恵が回るじゃないか。
でもな、ずっと学校を休んでいた子が、バレー部の練習にも出てないのに絆創膏が増えてたってのはいただけないな。おまえらしくないミスだ。」
学校を休んでいる間にも呼び出し、口止めを図っていたのだろう。
私に動きを封じられたままヨーコは、ガチガチと歯を鳴らして涙を浮かべている。
なによ。なによ。
私を憎しみのこもった目で睨みつけながら、そんな言葉を口の中で繰り返している。
「金がそんなに欲しかったのか。ブランドものの服を買って、好きなものを食って。それが他人を踏みつけて得た金でも、なにも感じないのか。」
ぺっと、唾が頬に飛んできた。
目をつぶり、開けた瞬間、己の中の冷たい怒りの炎がいつの間にか暗く悲しい色に変わっていることに気づいた。
「友だちだと、思っていたんだ、陽子。」
ゆっくりと、それだけを言うと私は彼女の頬を思い切り打った。
その勢いで身体を強く壁にうち、ヨーコは崩れ落ちた。
嗚咽が、丸めたその背中から漏れる。
「落ち着いたら、高野さんに謝るんだ。それから島崎さんにも謝りに行こう。私もついていくから。それが済んだら…絶交だ。」
ヨーコの背中にそんな言葉を投げかけ、高野志穂には「もう教室に戻りな」と言った。
それから私は2人を残して駆け出し、校舎の中に入った。

一直線に間崎京子の教室へ向かう。
廊下でスレ違う平和ボケしたような女子生徒の顔がやけにイラつく。
「どけ」
そんな言葉を吐くと、相手は怯えたように道をあける。
自分は今どんな顔をしているのだろう。
閉まっていたドアを乱暴に開けると、教室の中からハッと驚いたような気配が返って来た。
かまわずに、間崎京子の元へ歩み寄る。
彼女は席に座ったまま肘をついた両手の指を絡ませ、まるで来ることを知っていたかのように平然と私を見上げながら薄っすらと微笑みを浮かべている。
「島崎いずみを脅していた相手を知っていたな。」
答えない。
「事件のことで石川さんにカマをかけられた時、おまえはこう言ったな。オリンピック・スピリッツと。」
オリンピック精神と、又聞きで伝えられた私にはその意味が分からなかった。
しかしそう言い換えた石川さんは責められない。そちらの方が確かに馴染みのある言葉だからだ。
ただオリンピック・スピリッツには同じ響きで、もう一つ別の意味があった。
この事件の真相を言い当てる意味が。

あの日、図書館で私は天使の名前が網羅された事典を開いていた。
そこにおぼろげだった記憶の通りの名前が出てきた時に、私はすべてを知ってしまったのだ。
天使とはユダヤ教やキリスト教、イスラム教などに現れる神の使いの総称だ。
それらの天使には階級があるとされ、多くの天使がそのヒエラルキーに取り込まれている。
ミカエルやガブリエルなどの有名な四大天使は、その名の通り大天使として第8階位、つまり下から2番目の低位につけられていたりする。
その9階位に属さない天使も数多くあり、様々な宗派によってその役割も象徴する意味も異なる。
その中に、オリンピアの天使と呼ばれるグループがある。
聖書ではなく、魔術書に現れる天使だ。
その、人間の役に立てるために使われるという性質は、どちらかと言えば天使というよりデーモンに近い。
日本語に訳される時も「オリンピアの天使」とする場合もあれば「オリンピアの霊」などと表記される場合もある。
英語では、「Olympic spirits(オリンピック・スピリッツ)」とも。
それらは惑星を支配する存在とされ、それぞれに象徴される7つの星が当てられる。
水星はオフィエル。金星はハギト。火星はファレグ。木星はベトール。土星はアラトロン。月はフル。そして太陽は―オク。
奥陽子。
その名前をあげつらって、間崎京子は言ったのだ。
オリンピアの天使、オリンピック・スピリッツと。

黒魔術などのオカルトに詳しい人間でないと絶対に分からないだろう。
そういう人間だけに向けて彼女は真相を発信したのだ。
すべてを知りながら。
頼ってきた島崎いずみを言わば見殺しにして。
あまつさえ、剣の10という最悪の結末の暗示を本人に告げて。

私にはそれが許せなかった。
知っていたならば、なにか出来ることがあったはずだ。
傍観者としてなにも行動しなかった私自分にもその怒りの刃は向いて、身体の中のどこかを傷つけた。

「太陽は。太陽のカードは、ケルト十字の2枚目に出ていたんだな。」
答えない。
ケルト十字スプレッドにおける2枚目のカードは1枚目の上に交差されるように置かれる。
それはやがて周囲に展開されるカードの並びの中で、十字架の真ん中の位置となる。
表すものは「障害となるもの」。
大アルカナ22枚のうちの19番目のカードである太陽(The Sun)は、正位置ならば創造・幸福・誕生etc。
逆位置ならば破局・不安・別離etc。
しかしこの場合、陽子という太陽を暗示させる名前そのものを指している。
少なくとも、島崎いずみ自身にとっては。
彼女の悩みの根源を成す「障害」として。
そしていつかの私に対する警告。
「恨みはなるべく買わないほうがいい。」
というあれは、すべてを見透かした上での言葉だったのか。
「彼女の手にした刃物は、結局自分に向かった。それは彼女自身の選択よ。」
間崎京子の口から音楽のように言葉が滑り出した。
「おまえは何様なんだ。」
周囲から、固唾を飲んでこのやりとりを注視している無数の気配を感じる。
誰も表立ってこちらを見てはいない。
しかしその無数の悪意ある視線は、確実に私の心を削り取っていった。

「あなたも、まだあの子を救える気でいるなんて、おめでたいわね。」
ヨーコのことか。
なぜそんなことをこいつに言われなくてはならない。
「7つの星に対応する数多くの象徴の中で、7つの大罪がどういう配置になっているかご存知?」
表情はまったく変えていないのに、微笑が、嘲笑に変わった気がした。
その時私は、この女をはじめて恐ろしいと思った。
「水星は大食。金星は欲情。火星は憤怒。木星は傲慢。土星は怠惰。月は嫉妬。それから太陽は―」
芝居じみた動きで彼女は指をひとつ、ひとつと折り、7番目となった左の人差し指をゆっくりと折り畳みながら言った。
「強欲。」
その言葉と同時に、私は彼女の机を両手で強く叩いた。
周囲がビクリとして、一瞬静かになる。
そこに、冷ややかな言葉が降って来る。
「ねえ、わかるでしょう。彼女は彼女自身の星からは逃れられないわ。この世界には、変わろうとする人間と、変わろうとしない人間しかいない。それはあなたのせいでも、わたしのせいでもない。」
怒りだとか、悲しさだとか、悔しさだとか、そんな様々な感情が私の中で嵐のように渦巻いて、目の前にパチパチと輝く火花を発している。
私は唇を噛んで、この氷細工のような女を殴りたい気持ちを必死で抑えていた。
そんな私の姿を一見変わらぬ笑みで見据えながら、彼女は誘惑するような甘い囁きでこう言った。

「かわりに、わたしがあなたの友だちになってあげる。」

それが、間崎京子との出会いだった。

怪物・起

京介さんから聞いた話だ。

怖い夢を見ていた気がする。
薄っすらと目を開けて、シーツの白さにまた目を閉じる。鳥の鳴き声が聞こえない。
息を吐いてから、ベッドから体を起こす。静かな朝だ。

どんな夢だっただろうと思い出しながら記憶を辿ろうとする。
すると「スズメは魂を見ることができる」という話がふと頭に浮かんだ。
どこかの国の伝承で、スズメは生まれてくる前の人間の魂を見ることができるという。
朝、スズメがさえずるのはその生まれてくる魂に反応しているのだと。
その魂がやってくる場所が空っぽになっていると、魂を持たない子どもが生まれて来る。そんな子どもが生まれる朝にはスズメはさえずらない。
だから、スズメの声の聞こえない朝は不吉さの象徴だ。

カーテンを開けると2階の窓から見える家並みはいつもと変わらない姿で、慌しい一日の始まりの息吹がそこかしこに満ちている。
そう言えば今日は何曜日だっただろう。
目を閉じて、一秒数えたら、他愛もなくありふれた土曜日の朝でありますように。
その日、つまり憂鬱なる月曜日。学校への通学路の途中、道行く人々の群れの中でふと足を止めた。
視覚でも、聴覚でも、嗅覚でもなく、まだどれにも分かれない未分化の感覚が、街の微かな違和感をとらえた気がした。

私にぶつかりそうになったサラリーマンが舌打ちをしながら袖を掠めていく。
色とりどりのたくさんの靴が、それぞれのステップで私を追い越していく。
その雑踏の中で私は、ギギギギギ……という古い家具が軋むような音を聞いた気がした。
蠢き続ける人間の群れの中で身を固くする。

夏が一瞬で終わったような肌寒さを感じた気がした。
アスファルトから立ち上る、降りもしない雨の匂いを嗅いだ気がした。
けれどそのどれもが幻だということもまた同時に感じた。
なにか本質的なものがそれらのヴェールの向こうに潜んでいるような、得体の知れない嫌悪感が身体にまとわりついてくる。
道端のゴミ捨て場に集まっていたカラスが鳴いた。一羽が鳴くと他のカラスたちにも伝播するように鳴き声が波のように広がる。
そばを通る何人かの人間がそちらを見た。
その声は求愛でも、縄張りを主張するものでもなく、ただ「何かを警戒せよ」という緊迫した響きを持っている気がした。
けれど誰もそれに必要以上の関心を示さず、足を止める人はいない。
私もまた形にならないどこか遠くにあるような不安感を胸に抱きながら、それを振り払い、学校への道を急ぐのだった。

何かがこの街に起こりつつある。
はっきりそう感じたのは次の日、火曜日の学校の昼休みだった。

「わたし、昨日怖い夢見た~」

昼のお弁当を早々に食べ終わり、どこか涼しいところで昼寝でもしようかと立ち上がりかけた時にそんな言葉を耳にした。
教室の真ん中あたりで机を4つ並べてお昼ご飯を食べているグループだった。

その言葉に反応したのは、なにか理由があったわけではない。いわばカンだ。
けれどその子の次の言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがカチリと音を立てた。
「でもなんか~、どんな夢だったか忘れちゃった」
その音は鍵穴が立てる音なのか、それとも時計の針が綺麗な数字を指した音なのか。
私はドッドッドッ……と少しずつ早くなる鼓動をじっと聴いていた。

「なんで忘れたのに怖い夢って分かんのよ」
「そういや、そっか~」
他愛のない会話が続き、彼女たちの話題は何の引っ掛かりもなく見る間に変わっていった。
昨日・怖い・夢を・見た・どんな・夢か・忘れた・けど
その言葉を、私は今朝も聞いた。確かに聞いた。既視感ではない。
あれは歩いて登校する時の、通勤ラッシュでごった返す人の群れの中だった。誰が話していたのか、顔も見ていない。ただその時、私は思ったのだ。
(そういえば私もだな)

今、まるで同じ言葉を耳にして私の中の動物的本能が不吉なものを察知した。
立ち上がり、教室を出る。外の空気が吸いたい。
廊下を上履きが叩く音が二重に聞こえた。誰かがついてくる懐かしい音。
でも私の行く後をいつもついて来ていた子は今、学校を休んでいる。近々転校するのだと人づてに聞いた。小さな針が、胸の内側をつつく感じ。
「山中さん」
という声に振り向くと、目立たない顔立ちの小柄な子が立っている。高野志保という名前のクラスメイトだ。
少し前にある事件で関わってから妙に懐かれてしまっていた。良い気分ではない。
私は出来るだけ一人でいたい。

「あの……私も見たよ。昨日。怖い夢。占いとか得意なんだよね。山中さん。ちょっと占ってくれないかな」

私は立ち止まり、顔を突き出した。

「急いでるんだ。また今度ね」
「あ、うん。ごめん」

踵を返してその場を立ち去る。ああ。嫌なヤツだ。
軽い自己嫌悪に苛まれながら私は急いだ。
どこに?
どこか、人のいない処に。

その日の夜、私は暇つぶしに妹の部屋にあったローカル情報誌を拝借し、自分の部屋に寝転がって読んでいた。
テーブルの上のラジオからは知らない洋楽が流れている。
その雑誌を適当に飛ばし読みしていると、星座占いのコーナーで手が止まった。地元では有名な占い師が持っている頁だ。
行ったことはないけれど、街なかに占いの店も出しているらしい。
その情報誌は月刊なので、ひと月分の運勢が星座ごとに並んでいる。
星座ごとで、しかも一ヶ月通じての運勢だなんて、血液型占いと同じくらい胡散臭い。
とりあえず自分の星座を確認して、それからもう一つの星座を読む。
こんなところがどうしようもなく女子高生っぽくて自分でも嫌になる。
その後、適当に前後の星座の運勢を読んでいると、どれもあんまり良くない書かれ方をしているのに気がついた。

「じっとしているが吉」「『外出は控えて」「大事なものを失う暗示?」「もう一度考えて」……

星座の名前のすぐ横に5つの星が並んでいて、そのうち黒い星の数が多いほど運勢が良いということらしいのだが、私の星座は星1つ。ほかの星座も1つとか2つばかりで、3つというのが最高だった。

どういうことだろう。
天井を見ながら少し考える。

急にドアをノックする音が聞こえて、ドキッとした。
適当に返事をすると妹が廊下からニュッと顔を出し、いきなりこちらを指さした。
「やっぱりここだ。返してよ。まだ読んでないんだから」
雑誌をもぎ取られそうになるのを力ずくで押さえ込んで
「この占いのページって、いつもこんな星のアベレージ?」
と聞く。
妹はじっとそのページを見つめ
「いつもはそんな低くないよ」
と答えた。
星3つとか、4つとかが普通とのことらしい。
「えー、なにこれ、やな感じ。この星占いのオバハン、なんか嫌なことでもあったんじゃない?」
妹はそんなことを言いながら、力を緩めた私の手から奪取した雑誌をまじまじと読み始めた。
「自分の部屋で読め」と追い出すと、なにか文句を言っていたが無視してベッドに寝転ぶ。

「嫌なことがあったから、腹いせで読者の運勢を悪く書いてみた」
やはりどこか違う気がする。何故なら、悪くしないための警句ばかり並んでいたからだ。
ローカル誌か……
呟いて、それから目を閉じる。

いつの間にかウトウトしていたらしい。ラジオの音に目が覚めた。
「……え?どんな夢だったかなぁ。忘れたけど。怖い夢だったってのだけは覚えてんだけどね。まあいいか。ははは。じゃあ、俺もお仲間だったということで、次のハガキね。え~と、うちのオカン最悪です、エロ本整理されました、っていきなりだなオイ」
ラジオに飛びついてボリュームを上げる。
けれどエロ本談義の次はこの夏コンサートでやって来る大物外人の話題で、その後二度と夢の話は出なかった。
やがてコマーシャルが流れ始め、地元のカジュアルショップの名前が連呼されているのを聞きながら私は、この街で何かが起こりつつあるという正体不明の予感に、足元を揺らされているような恐怖を感じていた。

怖い夢を見ていた気がする。
目覚まし時計を止め、あくびを一つしてから身体をベッドの上に起こす。
いつもはエンジンの掛かりが遅い私の頭が、今は急速に回転を始める。

思い出せ。
どんな夢だった?
暗いイメージ。嫌な。嫌なイメージ。怖いイメージ。
テーブルに置いてあったノートを広げ、ペンを持つ。
コツ、コツ、コツ、と叩いてからやがてガクリとその上に突っ伏す。

駄目だ。
忘れてしまった。
やけに静かな朝だ。イライラする。リズムがない。リズムさえあれば思い出せたのに。
スズメだ。スズメはどうして鳴かないんだ。
いきなりドアをノックする音が聞こえた。
ドキッとする。するより早く、胸の中に、サッと赤黒い暗幕が掛かった気がした。
「煩いな、いま起きるよ!」
自分でも思わぬ大きな声が出た。
その向こうで、わずかに開いたドアから母親の驚いた顔が覗いていた。
その日の朝ご飯どき、母親に乱暴な言葉遣いを説教されて一層不機嫌になった私は、学校でも朝からムカムカして気分が悪かった。
こちらに話しかけたそうな高野志保の遠慮がちな視線にもイライラさせられた。
水曜日の2時間目は美術だ。さっそくエスケープした私は、人の来ない校舎裏に直行した。
煙草でも吸わないと、やってられない。
深く息を吐いて、白い煙が青い空に溶けていくのを見ているとようやく気分が落ち着いてくる。
昨日から今朝にかけて起こったことを一つ一つ順番に考えてみた。

いや、始まりは昨日ではない。怖い夢を見たという漠然とした記憶は、かなり前から始まっていた。
この夏が始まるころ、いやあるいはもっと前から、緩やかにそれは私の日常を侵食し、そしてこの街の中に染み込んでいたのかも知れない。
誰にもその意味を気づかれないままに……

3本目の煙草を箱から出した時だった。
突然キーンという耳鳴りに襲われた。まるで、周囲の高度が劇的に変わったかのようだった。
(まずい。なにか起こる)
そう直感して、とっさに姿勢を低くする。全身を恐怖が貫いた。
けれどいつまで待っても何も起こらなかった。
恐る恐る身体を起こして、周囲を見回す。
地面にも、校舎の壁にも異変はない。空を見ても、さっきとなにも変わらない。入道雲が高くそびえているばかりだ。
胸はまだドキドキしている。
そういえば耳鳴りがしたあの瞬間、どこか遠くで雷のような音が鳴ったような気がする。
目を閉じて耳を澄ましてみたが、今はもう何も聞こえない。
耳鳴りもいつの間にかおさまっていた。

「なんなんだ」
自分に問いかけて、それから出しかけた煙草を箱に戻す。
授業に戻ろうかと考えて、やっぱりやめることにした。
さっきの耳鳴りがなにか反復性のもののような気がして、とっさに逃げ場のない教室には戻りたくなかったのだ。
次に学校から抜け出してみようかと思った。それは素晴らしい思いつきに感じられて、いてもたってもいられなくなり、学校の敷地から出るために塀をよじ登ることさえ苦にならなかった。

誰にも見つからず抜け出すことに成功した私は、川の方に行ってみるか、それとも図書館に足を伸ばすか思案した。
真っ昼間に制服だと目立つな、と思いながら歩いていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
救急車の音だ。
そう思った瞬間、駆け出していた。
それはさっき耳鳴りがした瞬間に雷のような音が鳴った方角に向かっているような気がしたからだ。その時にはどこから聞こえたのか分からなかったのに。
救急車のサイレンにキョロキョロとしている通行人を追い抜き、大通りを通り過ぎて、路地裏に入っていく。

10分ほども走っただろうか。
ざわざわとした人の気配が強くなり、角を曲がった時にその光景が飛び込んできた。
商業地から住宅地に少し入ったあたりの、寂れた2階建ての建物が並ぶ一角に救急車の赤いライトがくるくると回っている。
周囲には割れたガラスが散乱し、何人かの人が頭や腕を押さえて道路に座り込んでいた。野次馬がその周りをウロウロしている。
地面には血の跡がポツポツと落ちている。けれどそれ以上に私の目を惹くものが地面に落ちていた。

石だ。
パチンコ玉くらいのものから、子どもの握りこぶし大のものまで大小様々な石が周囲に散らばっている。

「落ちてきたって」「雹が?」「石だろ、石」「雹じゃないの」「空から落ちてきたんだって」

そんな言葉が辺りを飛び交っている。
雹という単語を聞いて、思わず手に取ってみたがやはりそれは石だった。どこにでもあるただの石だ。公園や校庭に転がっていそうな。
空を見上げたが、電線が一つ横切っているだけであとは飛行機雲一つない。
その路地の100メートルくらい先まで、石が乱雑に道路に飛散している。
ガラスも建物の窓が石で割られたものらしい。
よく見ると家の瓦屋根が割れているのも目に付いた。

本当に石がこの晴れた空から降ったのか?天気雨のように?
そんなことがあるのだろうか。
隕石という言葉が頭に浮かんだが、どう考えてもそんな大げさなものではない。
「どいてどいて」
道路につっ立っていると消防隊員に邪険にどかされた。救急車が出るらしい。
私は少し考えてから、その石を一つだけスカートのポケットに入れた。そして向こうからパトカーがやって来ているのに気づき、慌ててその場を離れる。
警察はまずい。平日の真っ昼間に高校の制服を着たままだったからだ。
彼らは例外なく皆お節介で、そして中高生のあらゆる非行が学校をサボることから始まると固く信じている。
後ろ髪を引かれる思いでその路地を後にした私は学校に戻ろうかとも考えたが、5秒で却下する。
しばらく路地裏を目的もなくうろうろしていたが、鋏を買うつもりだったことを思い出し、近くの文房具屋に足を向けた。
そう言えばこの辺りは最近来ていないなと思いながら、ささやかな商店街を歩く。
その間も頭はさっきの石の雨のことを考えていた。

たくさんの目撃者もいるようだ。なによりあの割れたガラスや瓦屋根、そして怪我をした人間がその証拠だ。
石は降った。それは間違いないだろう。
だがどこからかなのか。それが問題だった。
近くにもっと高いビルでもあればその上の方の階や屋上からばら撒かれた可能性もあるが、区画上の規制でもあるのかそんな高い建物は見当たらなかった。
飛行機?
でも航路ではなかったはず。なにより飛行機にあんな石なんて積んだりするものだろうか。ましてそれを落っことすなんて。飛行機雲も残っていなかったし。
「……」
集中しすぎて行き過ぎてしまったのでバックする。
その目立たない文房具屋には、何故か鋏がなかった。店のオバサンに聞くと「売り切れ」とのこと。
「眉毛切る細いのならあるよ」という申し出を丁重に断り、店を出る。
近くにあったもう一つの小さな文房具屋でも鋏は置いてなかった。というか、他の客もいなければ、店員もいなかった。何か万引きでもしてやろうかと思った後、やっぱりやめておくことにする。
そんなに差し迫って欲しかったつもりもないが、鋏ごときが手に入らないとなるとなんだかムカついてくる。
ちょっと遠いがデパートまで足を伸ばすことにした。
幸いにしてそろそろ学校も昼休みになる時間だ。お節介な人に見つかっても言い訳のしようがある。
大通りを抜けてデパートに着くと、さっそく雑貨のコーナーに向かう。
思ったより数が少なくてあまり選べなかったが、中でも大きめの使いやすそうなものを購入した。

何か食べて行こうかと思いながら、通りがかったフロア内の本屋に寄り道する。
特に探している本があったわけではなかったが、適当に巡回しているとその背表紙を見た瞬間に思わず棚から抜き出して手に取った。

「世界の怪奇現象ファイル」
晴れた日に空から不思議なものが降ってくるという現象はどこかで聞いたことがあった。
パラパラと頁をめくっていると、こんなタイトルの章があった。
【空からの落下物】
その話題に思ったより頁を割いていて、ボリュームがある。本をひっくり返して値段を確認した後レジに向かった。昼ご飯は抜くことになった。

その日の夜、晩御飯を食べながら夕刊を読んでいると母親に小言を言われた。
「まるでお父さんね」
大半は聞き流したが、この一言が一番効いた。いつもは食べながら新聞を読むなんてことはしないのだけれど、今日はどうしても気になることがあったのだ。
なのにこの言われようはなんだ。
「こんどお父さんが食べながら読んでたら、まるでちひろねって言ってあげれば」
と反撃したが、3倍くらいにして言い返されたので、もう黙る。

「真昼の椿事?石の雨」
他のローカル記事に埋もれていたが、そんな小見出しをようやく見つけた。
午前中のことだったから、やはり夕刊に間に合ったらしい。
それは短い記事だったがあの路地に降った石の雨のことを取り上げていた。

軽傷者4名。被害にあった建物は13棟。
救急車に乗った人も大した怪我ではなかったらしい。目撃者の談話が載っていた。

「バリバリという大きな音のあと、急に空から石がバラバラと降って来た。最初は雹かと思った」

音か。
私が聞いた気がしたのは、その音だったのだろうか。
住民も首を捻っている
そんな言葉でその記事は締めくくられ、結局石の雨の正体はわからないままだ。
「ごちそうさま」
と言って席を立つ。
残した料理のことについて母親に小言を言われることは目に見えていたので早足でダイニングを出ると、背中を追いかけてくる言葉を無視して2階の自分の部屋に逃げ込む。
ドアを後ろ手で閉めるとテーブルの上に置いたままの紙袋を手にとって、「世界の怪奇現象ファイル」を取り出し、ゴロンと絨毯に寝転んだ。
つけておいた折り目を目印に、目当ての頁をすぐに探し当てる。

【空からの落下物】の章にはこうある。
「にわかには信じられない話だが、この世には空から雨以外の奇妙なものが降ってく来るという現象がある。
それは魚介類やカエル、氷や石、それに肉や血や金属や穀物、そして紙幣など実に多種多様なものだ。
それらは紀元前の昔より世界中で多くの人に目撃されており、この現象に興味を持った超常現象研究家チャールズ・フォートにより「ファフロツキーズ(FAllS FROM THE SKIES)」と命名された……」
そんな説明に続いて、具体的な事例があがっている。
カエルや魚が降ったというケースが多いようだ。

1954年イギリス、バーミンガムのサトンパークでは海軍のセレモニーの最中、雨とともに何百匹、何千匹というカエルが空から降って来て見物人たちの傘にぶつかり、地面に落ちたあともピョンピョンと飛び跳ねていたという。
1922年フランスのシャロン=シュル=ソーヌでは、2日間にも渡ってカエルの雨が降り続いたと当時の新聞が伝えている。
近年の例では1989年オーストラリアのクィーンズランド州で民家の庭に1000匹のイワシが降ったとされる。

私はそんな膨大な事例の中から、石が降ったという記録を探し出していった。
1968年宮崎県の迫町で、ある薬局に小石に雨が降り、それが誰の悪戯とも判明しないまま半年間も続いたという事例。
そして1820年イギリスのサウスウッドフォードでは、ある家に石の雨が降り、通報によって警察官が配置される事態になったが、結局その石がどこからやって来るのか分からなかったという事例。
1922年カリフォルニア州チコの町の片隅に降った石の雨は、その現象が数ヶ月にも及んだが大学の調査チームにもその正体が分からなかった。

まだまだあったが、どれにも共通しているのは石の雨が広範囲に渡って降ったというわけではなく、むしろ極めて狭い範囲に集中してたということだろう。
1820年小石川の高坂鍋五郎の屋敷だとか、1600年代ニュー・ハンプシャーのジョージ・ウォルトンの屋敷だとかという記録を見ると、実にその個人に対して石の雨という攻撃が行われているような感想を覚える。
まるでその家の持ち主に恨みを持つ人間の仕業であるかのような気がする。
石がどこから来るのか分からないと言っても、誰かが見張っている時にはその悪戯を決行しなければいいだけの話だ。
そして監視がない時を見計らって、物陰から投石をする。
その場に居合わせない人間が考えると単純な構造に思えるけれど、実際はどうなのだろうか。

その「世界の怪奇現象ファイル」には、このファフロツキーズ現象についてのいくつかの仮説が紹介されていた。
チャールズ・フォートは地上からのテレポーテーションによって移動した魚やカエルなどが大気圏中のある空間に蓄えられ、それが時に奇怪な雨となって地上に降り注ぐのだと考えた。
他にもプラズマや空中携挙といった荒唐無稽な説もあったが、現実的に思えたのは飛行機からの落下説と竜巻説だった。
飛行機説はほとんどの落下物を説明しうる可能性を持っているが、個々の事例においてその飛行機の目撃が否定されるケースが多く、魚介類の落下など時代的に飛行機の登場の前後にあってもその出現パターンが変わらないように見える事例を解釈し辛い。
また、同じ場所に長期間に渡ってその現象が続くケースの説明にはならない。
竜巻説は地上の物体を空中に巻き上げて移動させ、別の場所に落下させるという現実に観測されるありふれた自然現象なのでもっとも有力な説にも思える。
しかしカエルばかりだとか、ニシンばかりだとか、トウモロコシばかりだとか、1種類の動植物のみが落下することの説明となると苦しい。
竜巻がそんなものを選り分けているのならともかく、地上にあっては他の動植物や石や砂を同時に巻き上げているはずだし、海や川にあっては水と一緒に水中の生物を種別に関わりなく吸い上げているはずだからだ。
空中に上ったあとで、その空気抵抗に応じた落下のタイミングがそれぞれ同じ種別を自然と振り分けるのではないかというもっともらしい解釈もあるが、やはり同じ場所に降り続けるケースの説明が出来ないし、周囲数百キロ圏内にその動植物が存在しないというケースも多々あるのだ。

そんな解説をつらつらと読んでいて、思った。
個々のケースを同じ現象で説明しようとするからややこしいんじゃないかと。
これは竜巻、これは飛行機、これはイタズラ、そしてこれは嘘。
そんな風に分けて考えれば、案外シンプルなんじゃないか。
立ち上がり、壁に掛けたスカートのポケットを探る。
そして昼間にあの路地で拾った石を取り出して、テーブルの上に置いた。

「これは、なんだろうな」
そう呟いて指でつつくと、それはコトンと音を立てて傾いた。
「世界の怪奇現象ファイル」を本棚に仕舞い、読み疲れた目頭を手の平の腹で抑えながらベッドに横になる。

その夜、私は母親を殺す夢を見た。

怪物・承

怖い夢を見ていた気がする。
朝の光がやけに騒々しく感じる。

天井を見上げながら、両手を頭の上に挙げて伸びをする。自分が嫌な汗を掻いていることに気づく。
掛け布団を跳ね除けて身体を起こす。

夢の残滓がまだ頭の中に残っている。
現実の眼は閉じられていたのに、視覚情報として記憶に刻み込まれた夢の光景。
今まで不思議だとは思わなかったのに、今日はそれが酷く奇妙なことに思えた。

夢の中で私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
やがて外から足音が聞こえて私は動き出す。玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
足音が下から登ってくる。
私はその足音が、母親のだと知っている。
やがてその音がドアの前で止まる。ドンドンドンというドアを叩く振動。
背伸びをして、チェーンを外す。
そしてロックをカチリと捻る。
ドアが開けられ、私はその向こうに立っている人間に話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
ただ月だけがその背中越しに冴えている。
そして血飛沫が舞って、私の視界を真っ赤に染める。
世界がたったの一つの色になる。
母親は崩れ落ち、もう呼吸をしなくなる……

「うああ」

ベッドのシーツを握り締めながら、思わずそんな声が出た。自分でも驚いた。
それは恐怖心を身体の内側から逃がすための自己防衛本能だったのかも知れない。
すぐに冷静になる。生々しい夢だった。母親とは最近衝突することが多いが、まさか殺してしまう夢を見るなんて。
これが私の潜在意識の底にある願望なのだろうかと思うと、寒気がしてくる。
この間からずっと見ていた怖い夢は、この夢だったのだろうか?

壁のカレンダーを見る。木曜日。今日も学校がある。憂鬱だ。
そのころになってようやく窓の外の音に気がついた。遠くで釘を打っているような音。
いや、ハンマーで杭を叩いている音か。
どちらにしても耳障りだ。

イライラとしながら服に着替える。母親が起こしに来る前に。
今日もスズメの鳴き声は聞こえない。かわりの朝のリズムが、こんな不快な音だなんて。
そのせいで、あんな夢を見たのだろうか。
そうだったら、まだいい。
その日の朝の食卓は、気まずかった。

学校へ向かう途中、私はどこで工事をしているのかと思い、音を頼りにキョロキョロとしていたが出処は判然としなかった。
やがてその耳障りな音も途絶える。
こんな平日の朝早くから迷惑だな。
その時はまだ、その程度に思っていただけだった。

遅刻寸前で教室に滑り込んだ直後のホームルーム中、先生が意外なことを言った。
「昨日は変な一日だったなぁ。新聞見たか。あれ、近所なんだよ」
石の雨のことだ。
そう思ったけれど、そのすぐ後に先生はボソリと言った。
「木がなあ……」
木?
首を傾げていると、さっさと話題を切り上げて先生は教室を出て行った。

1時間目が始まる前に出来るだけ情報収集する。いつもはあまりクラスメートと会話をしない私だが、なりふり構っていられない気分だった。
すぐにさっき先生が言っていたのが昨日の夕刊ではなく、今日の朝刊だったことが分かる。
しまった。読んでいなかった。母親に怒られてでも食べながら読めば良かった。

話を総合するに、どうやらこんなことがあったらしい。

昨日の夜9時過ぎ、市内の住宅地の道路沿いの並木が15メートルに渡って何者かに掘り返され、根っこごと引っこ抜かれてその場に転がされているのを通りがかった住民によって発見された。
付近の住民によると、夜9時前には間違いなく並木はいつも通り揃っていたらしい。
わずか数十分で6本もの成木を土から引っこ抜くとなると、重機でもなければ不可能だろう。
それが、周辺住民の誰もそんな騒動に気づかなかったというのだ。
いったい誰が?という疑問とともに、どうやって?という点も大きい。
そして何故?

けれど私がもっと驚いたのは次の休み時間だった。
チャイムが鳴った後、教室中で交換される情報に耳をそばだてていた私は、この街で昨日起こったことが石の雨や、並木の事件だけではなかったことを知った。
市民図書館の本棚の一つから、収められていた本がいきなりすべて飛び出して床中に散乱した事件。
天井からぶらさがったガソリンスタンドの給油ホースが風もないのに大揺れをして、1時間近く給油できなかった事件。
アーケード内の大時計の短針と長針が何もしていないのにぐるぐると高速で回り続けた事件。
駅前のビルが原因不明の停電に襲われ、その後フロアごとにでたらめな照明の点滅を繰り返したという事件。
どれも不思議な出来事ばかりだ。

一つ一つを取ると「不思議だね」という言葉で終わってしまい、1ヶ月もすると忘れられる程度の噂話なのかも知れない。
けれどそのどれもが昨日のたった一日で起こったのだと考えると、薄ら寒くなってくる。

3時間目の休み時間には私も自然な風を装って、クラスメートたちの噂話の輪に入り込む。
そのグループでは情報通の親から仕入れたらしい噂を興奮気味に話す子が中心になっていた。
「そのコンビニが凄かったらしいよ。誰も触ってないのにアイスのボックスのカバーが開いたり、電気がいきなり消えたり、勝手にシフトが動いたり、なんにもしてないのに棚の雑誌がパラパラめくれたりしたらしいよ」
シフトは関係ないだろう、と思いながら聞いていたが、なんだか段々と内容が扇情的になってきている気がする。どこまでが本当なのか分からない。
昼休みには、いつもよりゆっくりお弁当を食べながら複数のグループのお喋りに耳を尖らせていた。

「あとさぁ。今日の朝、なんか変な音がしてたんだよね」
そんな言葉にピクリと反応する。
喋ったその子にお箸を向けて、別の子が
「あ、あたしの近所も。どっかで朝っぱらから工事してんのよ。騒音公害よね」
と言った。
私の中にインスピレーションが走り、席を立つ。そして校内に一つだけある公衆電話に早足で向かった。
電話の周囲にはほとんど人がいない。何故か分からないが、あまり目立ちたくなかったので好都合だ。
備え付けの電話帳で市役所の番号を探す。
どこが担当なのか分からないので、代表番号に掛けて内容を告げる。内線でお繋ぎします、という言葉のあと、保留音をたっぷり聞かされてからようやく電話の相手が出た。
聞きたいことを単刀直入に話す。苛立ったような声が返ってきた。

「あのですね。今、市内でそんな公共工事はやっていません。じゃあ民間企業の騒音公害だって言われても、それがどこでやってるのかもわからないじゃ、注意のしようもないでしょう?朝からなんなんですかいったい」

聞きもしないことまで返ってきた。そして電話は切られる。
思わず時計を見るが、12時を回っている。
ということは、朝からとは別の人からの電話のことらしい。それも1件や2件ではなさそうだ。

分かったことは、市内の恐らく複数の場所で工事をするような音が聞こえているということ。
しかもどこで行われているのか誰にも分からない工事が。

いったい、これはなんだ?
なにかが私たちの周囲で起こりつつあるのに、それがなんなのか未だに分からない。
ただすべてが見えない糸で繋がっていることだけは分かる。
鳴かないスズメ。思い出せない怖い夢。落ちてくる石。引き抜かれる並木。音だけの工事。街中で起こった奇妙な出来事。
表面の手触りに騙されてはいけない。本質から眼を逸らしてはいけない。
公衆電話の前で私の心は静かになっていった。

廊下へ向けて歩き出す。
あいつはいるだろうか。
会わなくてはいけない。そして聞かなくては。

すれ違う女子学生たちと、私は同じ服を着ている。
彼女たちは教材を抱いている。もたれるように笑いあっている。パンと牛乳を持って歩いている。私は教室へ急いでいる。
けれどそこには明らかな断絶がある。それは私自身が一方的に作ってしまった断絶なのかも知れない。でもその断絶を心地よく感じている自分がいる。
同じ噂を聞いているのに、私だけは日常から足を踏み外している。
探ろうとしているのだ。
次に起こることを。そしてどう備えるべきかを。
自嘲気味に笑った瞬間を廊下の向こうから来た女子に見られ、変な顔をされる。
見たことがある子だ。同じ1年生だろうか。また怖がられるな。
案外とウジウジしたことを考えている自分に気づき、軽く頬を張る。
その教室についた時、廊下側の窓際でお喋りをしている数人の女子がいた。
中の一人に遠目から話しかける。

「石川さん、あいつ、今日来てる?」

その子はこちらをチラリと見て人差し指を教室に向ける。
私は「ありがとう」と言って、教室のドアに手をかけた。

自分のクラスではないが、このところココへ来ることが増えつつある気がする。
教室の中はどこにでもあるようなざわざわとした空気が満ちていたが、明らかに異質な雰囲気が隅の方の一角から漂っている。
説明しがたいが、眼に見えない透明な泡がその辺りを覆っているような感じがする。
このクラスの連中はみんなこれに気づいているのだろうか。
その泡の中心に氷で出来たような笑みを表情に張り付かせた短い髪の女が座っている。
間崎京子という名前だ。

教室に入ってきた私に気づいたのか、周囲にいた数人の子に何事かを告げて席から離れさせたようだ。
取り巻きができつつあるというのは本当らしい。この油断ならない女のどこにそんな魅力があるのか分からない。

「聞きたいことがある。ちょっと出られるか」

なにか意地の悪い軽口でも出そうな気配だったが、意外にも彼女は頷いただけで立ち上がった。
そしてドアに向かうため踵を返そうとした私の顔の近くで、「やっとデートに誘ってくれたわね」と言う。
やっぱり出た。
ムカッとしながら、それを無視してさっさと教室から出る。私たちは非常口の外の階段まで歩いた。
風が首筋を吹き抜け、空から夏の陽射しが降り注いでくる。他に人はいない。

「で」
間崎京子は手すりに身を寄せて地面を見下ろした後、顔をこちらに向ける。
「知っていることを全部話せ」
「……唐突ね」
さして驚いた様子もなく京子はニコリと笑う。
私はこの女と腹の探り合いをすることの面倒さを考慮して、こちらが知っていることをすべて並べ立てた。
本を買って調べた『ファフロツキーズ』のことまで。
彼女はそれを面白そうに聞きながら、ワザとらしい動きで顎を右手の親指と人差し指で挟む仕草をする。
「不思議ね」
「それだけか」
この何もかも見通しているような女が、街に起こりつつある異変を察知していないはずはない。
「不思議ね、と言うだけで満足する人たちのようにはなれないのね。あなたは」
まるで100点を取った子どもを褒めるような口調だった。そうして京子は視線を逸らし、遠くの街並みに目を向ける。
つられて私も初夏の陽射しを照り返して浮かび上がる建物の屋根やねに目を細める。

「たいしたことじゃないけど、『ファフロツキーズ』ってチャールズ・フォートの言い出した言葉じゃないわ。アイバン・T・サンダーソンの命名よ」
京子は街を見下ろしたまま淡々と言った。

「チャールズ・フォートこそ、『ファフロツキーズ』という言葉に振り回された人間だったのかも知れない。空から落ちてきた物を、すべて一つの概念にまとめようというのがどれだけ無謀なことだったか、なんとなく分かるでしょう?」
前から思っていたが、こいつはなんでこんなに偉そうな物言いをするのだろう。
「あなたも一度その『ファフロツキーズ』という言葉を捨てて考えてみたらどうかしら」

その問いかけは単純な忠告なのか、それともこの異変の正体を知った上で私に与えているヒントなのか。
私は京子の横顔を睨みつける。
「もうすぐチャイムが鳴るね」
京子は手すりから手を離し、私に向き合った。
「クイズ」
「は?」
「クイズを出すからよく聞いてね」
相変わらず唐突だ。思考を読めない。
「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何?」
「……人間」
「じゃあ、道行く人にその謎を出して答えられなかった人を食べちゃう怪物は?」
「スフィンクス」
「さすがね。では、そのスフィンクスとキマイラとの共通点は?」
キマイラというのはあれか。ライオンの頭と山羊の身体を持つ怪物のはずだ。
片やライオンの胴体、片やライオンの頭部を持っている。それが共通点だろうか。
「じゃあ、それらとスキュラの共通点は?」
スキュラ?
とっさに姿が浮かばなかったが、なんとか記憶を掘り返すとどうやら上半身が女で下半身が犬という怪物だったような気がする。
スフィンクス、キマイラ、スキュラの共通点。なんだろう。少し考える。
「……身体が2種類以上の生物で構成された化け物」
「なるほど。じゃあそこにケルベロスを加えると?」
ケルベロスは首が3つある地獄の門番だ。2種類以上の生物がくっついてはいなかった気がする。
「分からない?じゃあヒュドラも加えてみて」
ヒュドラはヤマタノオロチみたいなやつだったはずだ。ケルベロスのように首が複数ある。
でもスフィンクスやキマイラは首が複数ではない。スキュラは下半身の犬が何匹かに分かれていたようだが。
「分からないのね。じゃあこれが最後。オルトロスも加えて、すべての共通点を探してみてね」

チャイムが鳴った。
その音と同時に京子はスカートを翻し、手の平を振りながら立ち去ろうとした。
「待て。なにを知っている?」
掴もうとした手を、京子は避けなかった。
けれどその手は空を切る。まただ。
何故だか分からないが、この女には暴力的な力が通じない。
私の意識下に、『それをしては負けだ』という強迫観念が働いているのだろうか。
「クソッ」
苛立つ私を冷ややかな目で見つめ、京子は軽く会釈をしてから非常口を出て行った。

怪物たちの共通点だと?
次から次に宿題が増えていく。
がんっ
ドアを蹴る音が思ったより大きく響いた。

その日の放課後。
私は市内の図書館に足を運んだ。始めはどこかでおかしなことが起きてはいないかと街なかを散策していたが、なにも起きるような気配はないし、そもそも目星もなく歩き回るのは無駄な労力だと思い至ったのだ。
かわりに、間崎京子が出した謎の答えを探りたかった。
答えを見つけたとしても、なんの意味もないのかも知れないが、要は白旗をあっさりと揚げるにも私のささやかな自尊心がそれを許してくれないのだった。
図書館に着くと私は必要な資料を片っ端から書棚から引き抜いて来て、テーブル席に陣を張る。
まず私はオルトロスという怪物を調べた。
こいつだけよく知らない名前だったからだ。
資料によるとオルトロスはケルベロスの弟で、首の二つある犬の姿をしているらしい。
兄は三つ首。弟は二つ首か。その下の弟がいれば首は一つだろうか、と考える。
首が一つの犬だとしたら、それではただの犬だな。
苦笑して図鑑を閉じる。
犬か。スキュラの下半身も犬だったな。
そう思いながら、別の本を開く。スキュラは上半身が女性で、下半身に6体の犬が生えている挿絵つきで説明されている。
近くにあったヒュドラについての図説も確認した後、ケルベロスの項を開く。
ケルベロスは3つ首の魔犬と紹介されているが、竜の尾を持っているとも書いてあった。
なんだ、ケルベロスも2種類以上の生物で構成された合成獣としての要素を持っているじゃないか。
いや、しかしヒュドラにはそんな記述はない。
別の本を何冊か開いたが、やはりヒュドラは多頭の蛇という以外に別の生物の要素を持ってはないようだ。
分からない。共通点はなんだ?
イライラして机をトントンと指先で叩く。向かいの席で参考書を所狭しと広げている学生が睨みつけてくる。反射的に睨み返すと学生は驚いた様子であっさりと目を逸らす。
勝った。
少し気を良くしてスフィンクスに関する本の頁を開く。
ピラミッドのそばに鎮座している、王の顔にライオンの身体という見慣れた姿ではなく、女性の顔と胸、そしてライオンの胴体に鷲の翼を生やした怪物の挿絵が目に入った。

(おや?)と思って詳しく説明を読むが、ギリシャ神話に出てくるスフィンクスはこういうものらしい。
例の4本2本3本と移り変わる足の謎かけは、このスフィンクスがオイディプスに対して問いかけたというエピソードに基づくようだ。
なんとなく子どものころからのイメージで、砂漠を旅する人にあの石でできたスフィンクスが謎かけを挑んで来るように思っていたが、違ったらしい。

そう考えると、おぼろげながら共通点が見えた気がする。
スフィンクス、キマイラ、スキュラ、ヒュドラ、ケルベロス、オルトロスと、すべてギリシャ神話に登場することになるのだ。
だがそんな大雑把な共通点が分かったところで、焦点がぼけすぎてなにも見えてこない。
もう一度それぞれの説明を読み返す。
いくつか同じ固有名詞が出てきている。同じ英雄に倒されたのかとも思ったが、ヘラクレスが3匹ほどやっつけているものの、あとは別の英雄の仕事だった。
しかしすぐに別の固有名詞が重複して出てくることに気づく。
『ケルベロスはテュポーンとエキドナの子である』
『キマイラはテュポンとエキドナの娘であり、ペガサスを駆るベレロポンに退治された』
……etc。
どれも巨人テュポンと下半身が蛇の女の怪物エキドナが作った子どもたちばかりなのだ。
スキュラをその両者の子とするのは異説のようだが、確かにそんな解説をする本もあった。
だが、スフィンクスの解説で手が止まる。
スフィンクスはテュポンとエキドナの娘とする説もあるが、エキドナが我が子オルトロスとの間に作った娘であるとする説の方が一般的なようだ。

私は本を閉じ、背中を反らせて図書館の高い天井を見上げた。
そこから導き出される共通点は、こうだ。
『6体の怪物はすべて、エキドナから生まれた』
これが答えだろう、間崎京子。
紙をめくる乾いた音が周囲から響いている。深いもやがかかっていた頭が、ほんの少しだけクリアになった気がする。

「共通点を探してみてね」とあの時あいつは言った。
そしてその謎掛けの答えからあの女のメッセージが浮かび上がってくる。
氷細工のような顔の口元がイメージの中で滑らかに動き、私をそれを読み取る。
『エキドナを探せ』
溜息をついた。なんて回りくどいんだ。
あの女に次会った時にはなんとかして殴ってみよう、と思った。

その時、静かだった館内にちょっとした騒ぎが起こった。
立ち上がって駆け寄ると、私がさっきまで本を漁ってた書棚から、大量の本が落下して床にぶちまけられている。
近くにいたらしいパーマ頭のおばさんが狼狽して、自分じゃない、としきりに訴えている。

係りの人間が飛んで来て、本を拾い始めた。
その人の「いい加減にしてくださいよ」という、誰にぶつけていいのか分からないようなうんざりした声を、私は確かに耳にした。

怪物・転

図書館からの帰り道、私はクレープを買い食いしながら商店街の路地に佇んでいた。
夕焼けがレンガの舗装道を染めて、様々なかたちの影を映し出してる。
道行く人の横顔はどこか落ち着かないように見える。
みんな心の奥深い場所で、説明しがたい不安感を抱いているようだった。

そう思った私の目の前を女の子たちの笑い声が通り過ぎる。
息を吐いて、最後の一口を齧る。
どの人の表情も、私の心の投影なのかも知れない。ロールシャハテストだ。
笑い顔以外に、すれ違うの人の気持ちを理解できる機会なんてまずないんだから。

結局あの図書館の本の落下の原因はわからないままだった。
こんなことが、昨日の水曜日から今日にかけて、街の至る所で起きているらしい。
私は起こっていることより、この一連の出来事の向かう先のことが気に懸かっていた。
いったいどういうカタルシスを迎えるのか。そう考えながら目を閉じると、何かをせずにはいられない気持ちになるのだった。

『エキドナを探せ』

その言葉に、糸口を見出せそうな気がする。さっきからそのことばかり考えている。
クレープの包みをクズ籠に放る。

私にこのヒントを投げ掛けた間崎京子は、街中で起こっている怪異を怪物に例えた。
そしてその怪物たちを生み落とすのは蝮の女エキドナだ。
これがいったい何の隠喩なのか定かではない。
定かではないが、私はこう考えている。

少なくとも間崎京子は、一見バラバラに発生しているように見える怪奇現象が単一の根っこを持っていると思っている。
それも、ナントカ現象だとかナントカ効果だとかといった包括的ななにかではなく、信じがたいことにそれはたった一つの人格と言えるような存在に収束されているような気がするのだ。
ハ。
こんなこと、誰かに話せるようなものではない。
つくづく一人が好きだな。
暗鬱な気持ちが、帰り道をやけに遠くさせた。

家に帰り着き、玄関の前に立った時から気づいていたが、やはりその夜の晩御飯はカレーだった。
「そんなに水ばかり飲んでると消化が悪くなるわよ」
という母親の小言を聞きながらカレーをスプーンでかき込み、水で流し込む。
「今朝どっかで工事してた?」
さりげなく聞いてみたが、「そういえば、どこでやってのかしらね」と母親が首を傾げる。
父親は「知らん」と言いながら夕刊を読んでいる。
妹は身体を反転させて皿を持ったまま居間のテレビを見ている。
父親が読み終わるのを待ってから夕刊に目を通したが、特に変わった記事はなかった。

それから自分の部屋に引きあげる。
明かりとラジオをつけて、部屋の真ん中。隅に転がっていたクッションを引き寄せる。
なにをすればいいのか正直分からない。
とりあえず昨日ファフロツキーズの項だけ読んで投げていた「世界の怪奇現象ファイル」を通して読んでみることにした。
ラジオがくだらない話題でけたたましい笑い声を出し始めたのでスイッチを消し、適当なCDをかける。
そして黙々と頁をめくる。
どこかで聞いたことがあるような怪奇現象ばかりが列挙されているが、情報の量と質にはかなり偏りがあり、ファフロツキーズの項のような詳細な解説はあまりなかった。
そんな中、CDの7曲目が過ぎたあたりだっただろうか。
私は半分読み飛ばしかかっていた文の中になにか引っかかるものを感じ、思わず姿勢を正す。
それは『ポルターガイスト現象』の項だった。

「…ポルターガイスト現象の例としては、室内にバシッという正体不明の音が響く、手も触れていないのに家具が動く、皿が宙に舞う、スイッチを入れていない家電製品が作動するといった目に見えない力が働いているかのようなものから、何もない空間から石や水が降ってきたり、火の気のない場所で物が発火したりといった怪現象などが挙げられる…」

私は緊張した。
石降り現象!
そういえば、ポルターガイスト現象を題材にしたドラマだか映画だかで、室内に石が降って来るという場面を見たことがあった。
完全に失念していた。
間崎京子はこれを言っていたのだ。「ファフロツキーズ」という言葉に振り回されるなと。
自分の間抜けさに腹が立つ。
石の雨が降るという現象には、別のアプローチの方法があったのだ。
「クソッ」
本を投げて立ち上がる。
ポルターガイスト現象の項はあきらかにやっつけ仕事で、情報量としては私でもおぼろげに知っていた程度のことしか載っていなかった。

鞄からアドレス帳を引っ張り出して、目当ての番号を探す。
中学時代の先輩だ。部活が同じだった。
彼女は子どものころに身の回りでポルターガイスト現象としか思えないような不可解な出来事が続いたらしく、やがてそれが収まった後もなにかと話のタネにしていた。
散々同じ話を聞かされたので内心ウンザリしていたものだが、2年ほど経った今では案外忘れてしまっている。

「晩に済みません。しかもいきなりで。ちょっと教えてもらいたいことがあるんですが」

突然の電話にも関わらず彼女は私を懐かしがって、「電話より、今からウチ来る?」
と言ってくれた。
「すぐ行きます」と言って電話を切り、廊下から居間の方に向かって「ちょっと出てくる」と大きな声で告げてから家を飛び出した。

生ぬるい空気が夜のしじまを埋めている。一日、熱エネルギーを吸収したアスファルトがまだ冷めないのだ。
自転車に乗って、住宅街の路地を急ぐ。
街灯がぽつんとある暗い一角に差し掛かった時、コンクリート塀の傍らに設置されている公衆電話が目に入った。
何故か昔から苦手なのだ。
小さいころに「お化けの電話」という怪談が流行ったことがあり、ある9桁の番号に公衆電話から掛けるとお化けの声が受話器から聞こえてくるという、他愛もない噂だったのだが、私は近所の男の子と一緒にこの公衆電話で試したことがあった。
記憶が少し曖昧なのだが、たしかその時はその男の子が「聞こえる」と言って泣き出し、受話器をぶんどった私が耳をつけるとツーツーという音だけしか聞こえなかったにもかかわらず、その子が「だんだん大きくなってきてる」と喚いて電話ボックスから飛び出してしまい、取り残された私も怖くなってきて逃げ出してしまった。
それ以来、この道を通る時には無意識にその電話ボックスから目を逸らしてしまうのだ。
気味は悪かったが、今は何ごともなく通り過ぎて先を急ぐ。
先輩の家には15分ほどで着いた。
玄関先で待っていてくれたので、チャイムを鳴らすこともなく家に上げてもらう。
時計を見ると夜の9時を回っていたので「遅くに済みません」と恐縮すると、母親が現在別居中で、父親は仕事でいつも遅くなるから全然ヘイキ、と笑って話すのだった。
兄弟姉妹もいないのでいつもこの時間は家に一人だという。
先輩の部屋に通されて、クッションをお尻に敷いてからどう話を切り出そうかと思案していると、彼女は苦笑しながら私を非難した。
「同じ学校に入って来たのに、挨拶にも来ないんだから」
ちょっと驚いた。
中学時代の2コ上の先輩だったが、そういえば高校はどこに進学したのか知らなかった。まさか同じ学校の3年生だったとは。
向こうは何度か学内で私らしき生徒を見かけたらしく、新入生だと知っていたようだった。

しばらく学校についての取りとめもない話をする。
正直、早く本題に入りたかったのだが先輩の話は脱線を繰り返している。ただひとつ
「校内に一ヶ所だけ狭い範囲に雨が降る場所がある」
という奇妙な噂話だけはやけに気になったので、今度確かめてみようと密かに心に決める。

「で、聞きたいことってなに?」

先輩が麦茶を台所から持ってきて、それぞれのコップに注ぐ。
ポルターガイスト現象のことだとストレートに告げた。
先輩は目を丸くして、「ピュウ」と口笛を吹く。
「あれ?あなたにはあんまり話してなかったっけ?」
いや、聞きました。耳にタコができるくらい聞かされました。

先輩が小学校4年生くらいのころ、家の中でおかしなことが立て続いて起こったそうだ。
例えば食器が棚から勝手に飛び出し地面に落ちて割れたり、窓のカーテンが風もないのにまくれ上がったり、部屋のどこからともなく何かがはじけるような音が断続的に響いたり、ある時など家族の目の前で花瓶に挿していた花がフワフワと宙に浮き始め、いきなり凄い勢いで天井に叩きつけられたこともあったらしい。
それが数日置きに何週間も続き、ある時パタリと止んだかと思うとまたしばらくして急に起こり始める。
困惑した両親はついに有名な祈祷師を紹介してもらい、家のお払いをしてもらった。
その後、物が動いたりといったことはなくなり、何かがはじけるような物音や屋根裏を誰かが這っているような音は時々あったそうだが、やがてそれも起こらなくなった。
今お邪魔しているこの家でのことだ。
思わず部屋の天井の辺りを見上げたが、特になにも感じる所はなかった。

「聞きたいのは、石が降ってきたことがあったかどうかです」
「石?家の中に?」
「家の外でもいいですけど」

先輩は記憶を辿るような視線の動きを見せた後、「なかったと思う」と言った。
「じゃあ石じゃなくてもいいですけど、家の中になかったはずのものがどこからと もなく現われたりしたことは?」
「…お皿とか果物とか色々飛んだり落ちたりしてたけど、全部家にあったものだからなあ。ないモノが出てくるって、なんか凄いね。サイババみたい」
先輩は面白がって、最近テレビで見たというサティア・サイ・ババのアポート(物品引き寄せ)について喋りだす。
「こんなしてさ、手のひらぐるぐる振ってから、出しちゃうのよ」
テーブルの上にあった鋏を手に持ってその様子を実演してみせてくれる。私は少しがっかりした。

「そんなにポルターガイストとかに興味あるの?あたしも最近は全然だけど、むかし気になって色々調べたから、そっち系の本があるよ。読みたいなら貸すけど」
「是非」と言うと、先輩は「ちょい待ち」と部屋の本棚をゴソゴソと探し回って何冊かの本を出してきてくれた。いずれもオカルト系の雑誌の類だ。
それぞれポルターガイスト現象に関する所に付箋がついている。
礼を言って、おいとまをしようとした時、先輩が私の顔をまじまじと見つめてきた。
「あなた、ちょっと変わったね」
先輩こそ剣道部で後輩をしごいていたころからしたら、随分肉がついてしまってるじゃないですか。
そんなことを婉曲に言ってみたが、先輩は自分のことはまったく耳に入らない様子でブツブツと口の中で呟いている。
「変わったというか、変わっている、途中、みたいな」

その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた気がして振り返りそうになる。
「あ、ごめん。気にした? まあ、また今度ゆっくり話そ」
なんだろう。今の感じ。
その嫌悪感を、私は知っている。そんな気がした。
玄関を出て、家の前で見送ってくれる先輩に最後に一言だけ問いかける。
「最近、怖い夢を見ませんでしたか」
先輩は顔を強張らせたかと思うと、柔和な笑みでそれをすぐに包み隠す。
「そう言えば今朝がた見たけど。変な夢だったな。ありえない夢」
オヤスミ。と手を振って先輩は家の中へ消えていった。
誰もいない、たった一人の家に。

私は自転車に乗っかると全速力で漕ぎ出した。
家に帰り着くのが遅くなるにつれて母親の小言の量が比例して増えるのだ。
星を、空に見ながら夜の道を急いだ。

「ポルターガイスト現象の事例として名高いのは1848年、ニューヨーク州ハイズビルのフォックス家を襲った怪現象がその筆頭として挙げられる。
また近年では1967年、ドイツのローゼンハイムにあるアダム弁護士事務所で起きた事件や、1977年以降、ロンドン北部エンフィールドのハーパー家で起きた怪異も広く知られている」

そんな説明を読みながら、ふと、学校の教科書もこのくらい熱心に見ていたらもっと成績も上がるだろうに思い、自虐的な笑いが込み上げて来る。
もう時計は夜の12時を回っている。
先輩から借りた本をさっそく読んでみたのだが、かなりの分量がある。
明日も学校があるし、適当なところで切り上げて早く寝た方が良いと分かっているのだが、何故か気が逸って手を止められない。
ハイズビル事件ではフォックス家の次女マーガレット(15)と三女ケイト(12)の周辺で壁や天井を叩くような奇妙な物音が聞こえ始め、その物音とある合図によって交信を図ることで霊とのコミュニケーションをとることに成功したと言われている。
ローゼンハイム事件では電話機の異常から始まり、蛍光灯の落下や電球の破裂、金庫やオーク材のキャビネットが独りでに動くなどの怪現象が起こった。
エンフィールド事件では娘のジャネット(11)が部屋で聞いた「何かを引きずる音」に端を発し、おはじきや積み木が空中を飛んだり、タンスが独りでに数十センチも動いたり、ジャネットが寝ようとするとベッドからトランポリンのように投げ出されるといった不可思議な出来事が1年あまりも続き、その間に近所の住民やマスコミ、ソーシャルワーカー、イギリス心霊現象研究協会のメンバーなど延べ30人以上の人間がこれらを目撃したと言われている。
その他の様々な事例の紹介を見ていくと、本の総論として解説されるまでもなく、かなりの割合でその現象の焦点になっているのがティーンエイジャーの若者、それも女性であることに気づく。
ローゼンハイム事件では弁護士事務所の秘書、アンネマリー・シュナイダーが現象の中心にいたとされているが、彼女は当時まだ18歳であり、怪現象は彼女が出勤している時にばかり起こっていることを超心理学研究所のハンス・ベンダー教授に指摘されている。
その後アンネマリーが解雇されると怪現象はピタリと収まった。

ポルターガイスト現象とはその名の通り、ポルター(騒がしい)・ガイスト(霊)の起こす現象とされることが多かったが、近年では様々な解釈がなされている。
低周波や水撃音などで科学的に説明しようとするものや、売名目的のでっちあげとする説、また超心理学者などはこれを超常現象の一種であると位置づけている。
その超常現象説では現象の焦点になっているのが若年者であることに注目し、精神的に不安定である思春期前後の彼女らが抑圧されたフラストレーションの捌け口として、無意識的にサイコキネシス現象を発動しているのではないかとした。
超心理学者たちはこの現象をRSPK(反復性偶発性念力)と呼ぶ。
無意識に起こるPKなので、その当事者も基本的には自らを被害者であると認識している。
エンフィールド事件では焦点となったジャネット自身、ベッドから跳ね飛ばされて寝れないという被害を受けている。
その瞬間を捉えたという写真が本に掲載されていたが、なんともコメントしづらい写真だ。
宙には浮いているのだが、自分で跳んでいるようにも見える。

「RSPKか」

ボソリと口にすると、なんだか面映い。
そんな変な言葉で説明するより、もっと単純な解釈があるように思えてならない。
思春期の子どもがいる家で起こった現象なら、真っ先にイタズラじゃないかと疑うべきだろう。
実際ハイズビル事件ではフォックス姉妹が後に、あれは関節を鳴らすなどした自分たちのトリックだったと告白しているらしい。
一つの事例がトリックだったからといってすべての事例がトリックだと断言するのは乱暴だが、疑われてしかるべきだろう。
ただローゼンハイムの事件では事務所の備品が破損したり、掛けていないはずの電話で多額の電話代を請求されたりといった実害があったために電気系統の技術者や物理学者、警察などが調査にあたったがいずれも合理的な説明を出来なかったという。
ノイローゼ気味だったという秘書のアンネマリーが起こしたイタズラだとするには、複数の人間の目の前で動いた180キロのキャビネットは重すぎた。
そのためローゼンハイム事件は最も信憑性の高いポルターガイスト現象の例とされているそうだ。

信じるか、否か。それが問題だ。
本を閉じ、昨日一日でこの街に起こった出来事をひとつひとつ考えてみる。

音だけの工事。
棚から飛び出した図書館の本。
コンビニ内の怪現象。
駅前のビルの奇妙な停電。
掘り出された並木。
ガソリンスタンドの揺れる給油ホース。
針がでたらめに動くアーケードの大時計。
そして石の雨。

いずれもポルターガイスト現象の例に含まれてもおかしくない内容だ。
逆に言うと、ポルターガイスト現象がそれだけ間口の広い、言わばなんでもありの括り方をされているということだろう。
先輩は経験しなかったという石が降るという現象も、過去の事例を紐解くと散見できた。
石降り現象はどちらかというと心霊現象というより、RSPK説を補強するようなものと言えそうだ。
ただ昨日街で起きた事件のうち、ポルターガイスト現象と呼ぶには少しおかしい部分がある。
それは工事の音と、並木、大時計、そして石の雨の4つだ。
これらはいずれも家屋の中で起こったものではない。ポルターガイスト現象は基本的には家屋の中で起こるものとされているのに。
あるいはガソリンスタンドの事件も屋外としてもいいかも知れない。
イタズラにせよ、RSPKにせよ、屋外で影響を成した「焦点」とはいったい誰なのか。
大時計はなにか仕掛けが出来たとしても、短時間で誰にも気づかれずに並木を掘り起こすことと、100メートルにも渡って路地に石の雨を降らせることは一体何者に可能だというのだろう。
そしてなによりこれらが昨日のたった一日で起こった出来事だという事実。

私の中で、ある気味の悪い仮定が生まれつつあった。
その仮定は私の妄想の深い霧の中から、奇怪なオブジェとして現れてきた。まだそのすべてが見えているわけではない。
けれどわずかに覗くそれは、どうしようもなく不吉な姿をしている。
昨日一日で起きた怪現象が、それぞれ偶発的な個別のポルターガイスト現象でないとすると…

私は立ち上がり、窓のカーテンの隙間を指で広げる。
その向こう、闇の中にはまだ起きている家の明かりがぽつぽつと点在している。
それは夜の海に浮かぶ儚い小船の明かりのように見えて、私を心細い気持ちにさせる。
目を閉じて心を落ち着かせ、夜のしっとりとした甘い匂いを鼻から吸い込む。
間崎京子は『エキドナを探せ』と告げている。
私は探さなくてはならないのだろうか?怪物たちのマリアを。
怖い夢を見ていた気がする。

次の日、金曜日の朝。
私は寝不足の瞼を擦りながら目覚まし時計を叩く。昨日は何時に寝たのだったか。全身がだるい。そして寝汗をかいている。
ベッドの上に胡坐をかいて、髪の中に指を突っ込む。
ふつふつと記憶が蘇ってくる。

私は明け方の夢の中で、母親を殺した。
昨日の夢と同じだ。
夢の中で私は足音を聞く。そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。
顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる。胸には憎しみと悲しみに似た感情が混ざりあって渦巻いている。
血を間欠泉のように噴き出して崩れ落ちる母親を見ながら、私は自分自身の吐く息をどこか遠くから吹く隙間風のように無関心に聞いている…

「しまった」
ベッドの上で、搾り出すように言った。
ただの夢ではないのは明らかだ。
まったく同じ夢。
これ自体が、怪現象の一部なのだ。あるいはその本体に近いなにか。
そもそも私がこの街に起こりつつある異変にはっきり気づいたのがこの夢からだった。
怖い夢を見たという記憶だけあるのに、その中身を思い出せない。そんな人間が恐らくこの街のいたる所にいたはずだ。私もその一人だった。
その夢が朝の光の中に残るようになった。その意味をもっと真剣に考えるべきだった。
クラス中で囁かれる奇妙な噂話に気を逸らされて、誰にも夢の話を聞いていない。
まさにその夢を忘れなかった朝から、まるで手のひらを返したように怪異が街に噴き出し始めたというのに。
最短でこの怪現象の正体に迫る方法を私は見過ごしてしまっていた。このロスが致命的なものにならないことを祈るしかない。
「クソッ」
昨日から数えて何度目かの悪態を枕にぶつける。
致命的?
その無意識に浮かんだ言葉に私は思わずゾクリとする。
直感が、この街になにか恐ろしいことが起ころうとしていることを告げているのか。
バシン、と両手で頬を張る。
パジャマを脱ぎ、急いで服を着る。
するすると皮膚の上を走る布の感触。
頭は今日するべきことを冷静に考えている。
制服に着替え終えるとドアを出て、まず妹の部屋に向かった。
「入るぞ」
妹はベッドに腰掛けたままで、もぞもぞとパジャマを脱ごうとしている最中だった。
「な、なに」
警戒する様子にも構わず、前に立って見下ろす。
「夢を見たか」
「はあ?夢?見てない」
たぶん。と付け加えた妹は訝しげに私の目を見る。
最近母親がやたらムカつかないか、と聞いてみたが「別に」との答え。
OK。嘘をついている様子はない。
さっさと部屋を出る。
つまり受け取る側にも強弱があるのだ。受信アンテナの性能とでもいうのか。
波長が合ってしまった人間だけが、強制的にある感情を植えつけられている。
階段を降り、リビングに向かう。台所では母親が冷蔵庫から牛乳を取り出している。
「おはよう」「おはよう」
自然な挨拶が交わされる。
大丈夫だ。母親を憎む気持ちは収まっている。少なくとも殺してしまうような角度にメーターはない。
無事にパンと牛乳の朝食を終え、急いで家を出る。
昨日の工事の音は、今朝は聞こえない。今日も暑くなりそうな陽射しの強さだ。
歩きながら朝刊の記事のことを考える。
【UFOか?市内で目撃相次ぐ】
そんな見出しに、潰れたような写りの悪い写真が添えられていた。
昨日の午後6時過ぎ、北の空に謎の発光現象が起こるのを多くの人が観測したという内容だった。
私が図書館にいた時間帯か。見たかったな。
けれどこんな事件にはもうあまり価値はない。
ばら撒かれるピースに顔を寄せて覗き込んでもなにも見えてこない。
私は昨日得た強引な仮説に基づいて、この怪現象の全体像を捉えようとしているのだから。

学校に着いた。
校門の内側で人だかりが出来ている。
近寄ると校内の地面に20センチほどの深さの凹んだ跡があった。
その周囲1メートル四方にまるで巨大なハンマーで力任せに叩いたようなヒビが入っている。
昨日まではなかった。夜の間にこうなっていたらしい。
教師たちに追い払われ、みんなヒソヒソと口を寄せながら昇降口に吸い込まれていく。
不思議だがこれもただのノイズのようなものだ。実体ではない。捉われてはいけない。
教室に入ると、いつにも増して妙にざわついた雰囲気が辺りを覆っている。
朝礼で担任の教師が生徒に向かって「浮わついているようだから、気を引き締めるように」という、まったく具体性のない説教を自信なさげに口にした。
先生自身なにをどう注意すればいいのか分からないのだろう。

1時間目の授業は生物だった。内容に全然集中できない。
(今日は金曜日か)
休日よりも平日の方が情報収集には向いている。今日一日でどれだけ情報を集められるかが勝負だ。
1時間目が終わり、休み時間に入る。
さっそく今朝の校門のそばの凹んだ地面についての噂話が始まる中を強引に割り込むようにして私は次々と質問をしていった。
「怖い夢を見なかったか」
と。
誰も戸惑いながら顔を強張らせて答える。
多くは「見てない」という答えだったが、ぽつりぽつりと「見た」という返事も混ざっていた。
普段クラスメートとは距離を置いている私が、ズカズカとプライベートに踏み込んで来るのを不快そうにする連中から、それでもなんとか重要な部分を聞き出す。
「見たよ。お母さんを殺しちゃう夢」
そんな答えをした子が、複数いた。

やっぱりだ。
みんな同じ夢を見ている。
細部まで同じ。ドアのチェーンを外して、迎え入れた母親に刃物で切りつける夢だ。
私は昨日今日と繰り返された夢の中で現実と異なる場面が2度も続いたことが引っ掛かっていた。
私の家の玄関のドアには、チェーンなんかないのに。
そして背伸びをしてそのチェーンに手を伸ばしたこと。これは明らかにおかしい。
170センチを超える私が背伸びしなくてはいけないなんてことはないはずだ。
子どものころに植えつけられた記憶でもない。ずっとあの家に住んでいるのだから。
だから、あの背伸びをしてチェーンを外す感覚は、私の中ではなくどこか外側からやって来たものなのだ。

そう。例えば、母親を憎み、殺したがっている子どもの意識が、あるいはそのために見ている母親殺しの夢が、その子の小さな頭蓋骨から漏れ出て、夜の闇を彷徨い、侵食し、融解し、私たちの夢の中へと混線するように入り込んで来るのだ。
それは夜毎に私たちの深層意識へ吐き気のするような暗い感情をひたひた、ひたひたと刷り込んでいく。

私は教室の真ん中で、肘を抱えて動けなくなった。
怖い。
誰かこの震えを止めてくれ。
クラスメートたちの視線が容赦なく突き刺さる。
変なヤツだろう。私もそう思う。
しばらく固まったまま呼吸を整える。恐怖心が霧のように散っていくのを待つ。
よし。
まだ頑張れる。
そして歩き出す。

その日の昼休み。私は自分の席にノートを広げ、これまでに集めた情報を整理していた。
まず聞いて回った「怖い夢」について。
分かったことはみんなかなり以前から「怖い夢を見ている」という漠然とした記憶があったこと。
そして昨日、つまり木曜日の朝、私のように初めてその夢の内容を覚えていたという子が何人かいる。
その夢は母親を殺す夢。
覚えている鮮明さに差はあっても、ほぼ同じ内容の夢であることは間違いない。
つまり、現実の玄関のドアにチェーンがある子もない子も一様に、夢の中では玄関にチェーンがあり、それを外して母親を迎え入れている。
母親の顔はそれぞれの母親のものだ。けれど間違いなく自分の母親の顔だったかと問われると、みんな口ごもる。
それは母親というイメージそのものを知覚し、朝起きてからそれを思い出そうとしたときに自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、記憶の中で再構築が行われているということなのかも知れない。
私も夢の中でドアを開けて入って来る母親の顔に、いや、その表情に違和感を感じている。
本物そっくりだけれど輪郭の定まらない仮面を着けているような、違和感。
『違和感』とノートに書こうとして、漢字が分からず直しているうちにグシャグシャにしてしまい、目玉をつけて毛虫にした。
みんな母親を殺す夢を見たことを周囲に話していない。
確かに他人に話しても気分の良いものではないだろう。だから、お互いが同じ夢を見ていることをまだ知らない。
どうする?注意を喚起するべきか。
それはすぐに却下する。意味がない。せめてこれから何が起こるのか、あるいは何も起こらないのか、分かってからだ。

もう一つ重要なことがある。「怖い夢」を見ていたという漠然とした認識があった子もいれば、そんな認識がない子もいる。
そして認識があった子の中でも、昨日の木曜日から夢を覚えている子もいれば、今朝初めて覚えていたという子もいるし、そしてまだ「なんか怖い夢を見たけど忘れちゃった」という子もいるのだ。
この個人差が、あるいは霊感と呼ばれるものの差なのかも知れない。
けれど何故か単純にそう思えないのだ。
その霊感が影響しているのも間違いないだろう。
でも、ここにはなにか別の要素があるように思えてならない。

私は鞄から、折り畳んで突っ込んでおいた市内の地図を取り出す。
そして一昨日から起こっている様々な怪現象の出現ポイントを地図上にオレンジ色のマーカーで落としていく。
昨日一日にも色々と起こっていたらしい。これまでの休み時間に恥も外聞もなく掻き集めた情報だけでもかなりの数の異変が確認できる。
風もない緑道公園の上空を、大きな毛布がふわふわとゆっくり飛んでいたかと思うと急に落下して川に落ちたという事件。
資格試験のための予備校で、講師のマイクが原因不明の唸り声を拾ってしまい授業にならなかったという事件。
住宅街の電信柱が、誰も気づかない内に引き抜かれ、その場でコンクリート塀に立てかけられていたという事件。
こんな奇妙な出来事が頻発しているというのだ。
なかにはただの思い違いや、誰かのイタズラが混じっているかも知れない。でもひとつひとつに取材をして確認していく余裕はない。
私はとにかくそうした情報があった場所を地図に書き入れ続けた。

「出来た」

顔をノートから離し、俯瞰して見る。
点在するオレンジ色。一見なんの法則もないように見えるそれを慎重に指で追う。
一番右端、つまり東の端にある点にシャーペンの芯を立て、その左斜め上にある点まで線を引く。そのままスムーズに伸ばすと次の点がある。紙を滑るシャーペンの音。
そうして地図上の一番外側のオレンジ色を結んでいくと、そこには少しいびつな格好の「円」が現れた。
他のオレンジ色はすべてその内側にある。
想像が現実になっていくことにゾクゾクする。
次に私は家から持って来た同級生の住所録を鞄から取り出す。まさかと思いながらも昨日立てた仮説に役立つかも知れないと用意したのだが、さっそく使う場面が来た。
初めて開く住所録を片手に、今日聞いた「怖い夢」を見ていたという子の家がある辺りを、ひとつひとつ蛍光ペンで塗っていく。
木曜日に見た子。金曜日に見た子。そしてまだ内容を思い出せない子。
それぞれ赤、青、緑の3つの色を使って塗り分ける。
それらの色とオレンジ色との関連性は見つけられない。接近しているのもあれば、全く離れているものもある。オレンジの円の外側に位置しているもさえある。
けれど赤、青、緑には明らかに相関性があった。
赤が最も円の中心に近く、青、緑の順にそこから離れていっている。
早い時期に夢を思い出せた人ほど、円の中心に近い場所に住んでいるのだ。
ふぅ、と息をついてペンを置く。

昨日、ポルターガイスト現象についての本を読みながら私は考えていた。
もし仮に、街中で起きた怪現象がそれぞれ個別の現象でないとしたら。
もし仮に、この怪現象の焦点となっているのがたった一人の人間だとしたら。
もし仮に、通常、閉鎖的な家屋の中でしか影響を及ぼさないはずのポルターガイスト現象が、壁を越えて屋外までその力を及ぼしているのだとしたら。
そしてもし仮に、ポルターガイスト現象の正体が、RSPK、反復性偶発性念力による無意識の自己顕示性と暴力性の発露だとしたならば…
とんでもない力だ。そら恐ろしくなるような。
市内全域のほぼ半分をその影響下に置いてしまっているなんて。
寒気が頭の芯にまで這い上がってくる。

『エキドナを探せ』

間崎京子の声が脳裏を掠める。
怪現象を怪物になぞらえたあの女は、非常階段で話をした昨日のあの時点で、今の私と同じ推論に達していたのだろうか。
(まさかあいつが)
と思ったが、住所録に載っている間崎京子の住所は市内の外れにあり、オレンジの円の外側に位置している。
違うな。あいつは違う。
なにより「怖い夢」との整合性が取れない。

恐らく、想像に想像を、いや妄想を重ねているが、「怖い夢」を見ている主体こそがエキドナなのだろう。
彼女が見ている夢が目に見えない霧のように夜の街に漏れ出て、それを眠っている私たちの脳のどこかがキャッチする。
そしてまるで自分のことのように、悪夢としてそれが再生される。
その漏れ出る夢が急に強くなり、影響する半径を広げている。そのタイミングは怪現象が街に噴出し始めたのとほぼ同じだ。

私は地図に目を落とし、赤、青、緑の順に外へ広がっていく点を見つめる。
夜毎に蓄積されていく身に覚えのない母親への憎悪。そしてその悪意が、殺意に変わったとき、一体なにが起こるのか。
母親の首筋から吹き出す鮮血の記憶。
危険だ。以前から漠然と感じていた不安などより、はるかに。
そして多分エキドナは小さな子どもだ。ドアのチェーンを外すために背伸びをしているから。
彼女はなんらかの理由で母親を憎み、その状況を打破できないでいる。
そのストレスがポルターガイスト現象の原因となっている。

彼女?
そこまで考えて、ふと引っ掛かるものを感じた。
自然と浮かんだ三人称だったが、これはギリシャ神話に出てくる怪物エキドナが女だったからだろうか。
いや、私は「なった」から分かるんだと思う。
夢の中で、暗い部屋に一人で母親を待っている子どもは女の子だ。
その子は、今もそこにいるのかも知れない。

(見つけたい)
そう思った。
見つけたとしても、救えるとは思わない。私もただの高校生1年生にすぎないのだから。
(でも見つけたい)
イタズラにせよ、RSPKにせよ、ポルターガイスト現象の焦点になっているティーンエイジャーたちの心の叫びは、たぶん一つだ。
『ぼくを見て』『わたしに気づいて』
そんな声にならない声が世界には満ちている。
急に悲しい気持ちが胸にあふれてきて、思わず席を立った。
教室では、昼のお弁当を食べ終わったクラスメートたちがそれぞれの群れを作っておしゃべりに興じている。
誰も私を見ていない。
群れを避けるように一人でトイレに向かう。
分かっている。クラスメートたちとの間に壁を作っているのは私自身だ。でも誰もその内側に入れたくない。
一人でいる限り、誰にも裏切られない。
廊下を歩く上履きの音。
後ろからついて来ているもう一つの音に振り返る。
「高野さん」
高野志穂はその呼び掛けにビクリとして立ち止まった。
同じような光景を最近見た気がする。軽いデジャヴ。
「なにか用?」
つっけんどんな口調で問うと、彼女は「いや、あ、別に」と言って口ごもってしまう。
それでも顔をスッと上げたかと思うと、「最近、少しおかしいよね」と言った。
おかしいとも。クラスの連中のように噂話がしたいんなら、他を当たってくれ。
そんな意味の言葉を口にすると、彼女は手のひらをこちらに向けて振りながら言う。
「あ、そうじゃなくて、山中さんが。なんていうか。いつもはもっと、周りに興味がないっていうか。昨日もだけど、今日も他のコに話し掛けてたし」
イラッとした。
そんなこと、こいつになんの関係があるんだ。
私の表情に苛立ちを読み取ったのか高野志穂は「ゴメン」と頭を下げ、それでも意を決したような顔で続けた。
「山中さん、なにか背負い込んでるように見えるから。もし手伝えることがあったら、手伝うよ」
そう言ったあと、彼女はもう一度「ゴメン」と頭を下げて、踵を返そうとした。

その瞬間、デジャヴの正体が急に分かった。
あのときも高野志穂は廊下で私に話し掛けてきた。そして
『私も見たよ。怖い夢。…山中さん。ちょっと占ってくれないかな』
と言った。
あれはいつだった?クラスメートが「思い出せない怖い夢」について話しているのを初めて聞いた時だ。
水曜日?いや、水曜日は学校を抜け出して石の雨の現場を見た日だ。
ということはその前。火曜日だ。

私の中で、微かに感じていた引っ掛かりが急に膨らんでいく。
高野志穂は占って欲しいと私に頼んだ。何を?当然夢のことだ。
そして、その時点で彼女は私にトランプだかタロットだかで占ってもらうだけの材料を持っていたことになる。
「高野さん、お母さんを殺す夢を見た?」
高野志穂は驚いた顔をしたあと、コクリと頷く。
「火曜日の朝が初めて?」
彼女は少し首を捻り、思い出す素振りをしたあとで口を開いた。
「月曜日」
それを聞いた瞬間、私は唾を飲んだ。
みんなより、そして私より、3日も早い。私が初めて夢を覚えていたのが木曜日の朝なのだから。
「来て」
と言って私は彼女の手を取り、教室に引き返した。
彼女は「え? え?」と戸惑いながらもついてくる。
教室の中に入り、私の机の中から市内の地図を取り出して広げる。
「あなたの家はどの辺?」
やけにカラフルになった地図を前にして高野志穂は少し躊躇する様子を見せたが、私の顔を伺ってから人差し指をそっと下ろす。
オレンジの点で出来たいびつな円のほぼ中心を指している。
円は怪現象の目撃ポイントで構成されているけれど、サンプルが少なすぎるために正確な円を作れていなかった。
所詮クラスメートの噂話だけで集めた情報なのだ。
たまたま知らなかっただけの怪現象がもし円周の外側に付近にあったとすると、それだけで円の形が変わり、その中心のズレてしまう。
中心にこそエキドナがいるはずなのに。
だがこれでその中心の位置がほぼ判明した。

高野志穂の月曜日というのは早すぎる。だから彼女は中心から極めて近い地域に住んでいる。間違いない。
大雑把に引いた円周の線からも、ほとんど矛盾がない。
そこにあるのは、急激に「怖い夢」と怪現象が影響を拡大していく前の、小さな円だ。
スッと彼女の指先の下にボールペンで丸をつけた。
エキドナはそこにいる。怪物たちの小さなマリアが。今も暗い部屋にうずくまって。

私は微笑みを浮かべようとして、それに少し失敗して、それでもなんとか笑って、言葉を乗せた。
「助かった。……ありがとう」
高野志穂は、よく分からないままに礼を言われたことに不思議な顔をしながらも、嬉しそうに「うん」と言った。

怪物・結【前編】

その日の放課後、私は3年生の教室へ向かった。
ポルターガイスト現象の本を貸してくれた先輩に会うためだ。廊下で名前を出して聞いてみるとすぐに教室は分かった。
先輩は私の顔を見るなりオッ、という顔をして手招きをしたが、席まで行くとすぐに両手を顔の前で合わせて謝る。
「ゴメン。今日はこれから部活なんだ」
剣道は止めたんじゃなかったんですか、と聞くと「文科け~い」と言ってトランペットを吹く真似をする。吹奏楽部かなにからしい。
「一つだけ教えてください」
そう言う私に、「ま、座りなさい」と近くの席から椅子を引っ張ってくる。
その周りでは帰り支度をする生徒たちが私を物珍しそうに横目で見ている。

多少は時間をとってくれるようなので、順序立てて聞くことにする。
「先輩の家で起こったポルターガイスト現象は、イタズラでしたか?」
先輩は目を丸くしてから笑う。
「いきなりだな。でも違うよ。私だって驚いてた。ホントに目の前で花が宙に浮かんだりしたんだ」
「じゃあ原因はなんですか?」
「…あの本もう読んだんだ?私に聞くってことは」
頷く。
「まあ、知ってると思うけど、あたしの家って両親が仲良くないワケよ。今も別居してるし。
そんで小学4年生のころって、一番バチバチやりあってた時期なのよ。家の中でも顔あわせれば喧嘩ばっかり。子どもの目の前で酷い口論してたんだから。
まるであたしがそこに居ないみたいに」
私のイメージの中で、シルエットの男と女がいがみ合っている。
そしてその傍らには10歳くらいの少女が怯えた表情で身体を縮ませている。

「超能力だか心霊現象だか知らないけど、たぶん原因はあたしなんだろうと思う。今となっては、だけど」
「じゃあ。どうやってそれが収まったんですか」
「昨日言わなかったっけ?祈祷師が来たの。家に。そんで、ウンジャラナンジャラ、エイヤーってやったわけよ。そしたら変なことはほとんどなくなったな」
「祈祷師がポルターガイストを鎮めたんですか」
「…なんかいじわるになったね、あなた。分かってるクセに。たぶん、満足したんだと思うよ。あたしが。『親がここまでやってくれた』って。今でも覚えてるもん。両親が二人とも、祈祷師の後ろで必死になって手を合わせて拝んでんの。
それで、お祈りが終わった後にあたしの頭を抱いて『これで大丈夫だ』って二人して言うの。それであたしもなんだかホッとして、ああこれで大丈夫なんだ、って思った。最初は二人ともラップ音とか、お皿が割れたりしたこととか、なんでもないことみたいに無視してたのよ。気味が悪いもんだから、気のせいだ、見てない、聞いてないってね。
それをきっとそのころのあたしは、自分を無視されたみたいに感じてたのね。だから余計に酷くなっていったんだと思う」

結局、思春期の子どもが起こすイタズラと同じなのだ、と私は思った。
自分を見て欲しくて、構って欲しくて、とんでもないことをしでかすのだ。
それで怒られることが分かっていながら、しないではいられない。
それはアイデンティティの芽生えと深く関係している部分だからなのだろう。自分が自分であるために、身近な他者の視線が必要なのだ。

「どうしてこんなことが気になるの」
先輩の目が私の目に向いている。
先輩もこの街を騒がせている怪現象の噂くらい聞いているだろう。
それが、たった一人の人間が焦点となっているポルターガイスト現象なのだと聞かされたら、笑うだろうか。
私はそれに答えないまま、別のことを言った。
「先輩が見たっていう怖い夢は、もしかしてお母さんを殺す夢ですか」
空気が変わった。おっとりとして優しげだった目元が険しくなる。
「どうして知ってるの」
その迫力に呑まれそうになりながら、私は言葉を繋ぐ。
「先輩が言っていた、『ありえない夢』って、別居していていないはずのお母さんを、家の玄関で刺し殺す夢だったんでしょう」
ガタン、と椅子が鳴って先輩が立ち上がる。
「あなた、占いが好きとか言ってたわね。そんなこと、勝手に占ったの?」
しまった。怒らせた。

ポルターガイスト現象の焦点となったことのある人間に、あの夢はどう映ったのか。それを聞いてみたかっただけなのだ。
そこになにかヒントが隠されていると思って。
けれど先輩は私の言葉を完全に誤解し、修正が効きそうにない雰囲気だ。
いや、誤解ではないのだろう。他人に触れられたくない部分を土足で踏みにじったのは事実なのだから。
「ごめんなさい」
私は深々と頭を下げる。
「もういいでしょう。部活、行くから」
先輩のその言葉に私は引き下がらざるを得なかった。

知らない人ばかりの3年生の教室の廊下を俯いて帰る。足が重い。
(今度、ちゃんと謝らなきゃ)
と思う。
そういえば占いなんて暫くしていないことに気がつく。
間崎京子はどうやって真相に近づいたのだろう。またタロット占いでもしたのだろうか?
それとも私のように目と耳を使って情報を集め、推理を重ねていったのか。
5時間目の休み時間に教室を覗いてみたが、あいつは席にいなかった。朝、廊下ですれ違ったので多分また早退だろう。
そういえばすれ違い様に「母親を殺す夢を見たか」と問い掛けたとき、あいつは「見てない」と言った。
遅刻しそうだったので、去っていく後姿を引き止めはしなかったが、あれは本当だったのだろうか。
確かにあいつの家は地図上のオレンジの円の端の方にあり、まだ見た夢を思い出せない人たちを表す緑色の点が存在するエリアの中なのではあったが、この不思議な現象が単に距離によるアンテナの精度だけに依存している訳ではないのは明らかだ。

1年生のフロアに戻った私は、まだ帰宅せず残っている他のクラスの生徒たちから出来るだけの情報を得る。
そして地図を蛍光ペンで埋めていった。
やはりだ。赤、青、緑という夢に関する3つの色はバームクーヘンのようにはっきりエリアで別れているけれど、中にはオレンジの円の外周にあたる緑のエリアの中にぽつりと青い点があったり、青のエリアに赤い点があったりしている。
そういう子に追加取材を試みるといずれも霊的な体験をよくするという言質が取れた。
この私自身、木曜日に初めて見た夢を覚えていたのに、住んでいる家は金曜日を表す青い点のある半径エリアにあるのだ。
おそらく、直観だか、霊感だかのイレギュラー的な個人の能力もここには影響している。
それを踏まえて、考える。あの間崎京子がまだ夢を思い出せない緑の点のひとつなどで収まっているものだろうか。
分からない。あの女独特の、得体の知れない感じのバックボーンがなんなのか、私にはまだ分からないのだから。

廊下や教室に人影もまばらになったころ、私はようやく蛍光ペンを置いた。
結局、高野志穂の他に、木曜日以前から夢を覚えていた人はいなかった。
高野志穂の家の近所に住んでいる子は居たが、その子は怖い夢を見ていることさえ気づいていなかった。
まあ、いい。出来る限りの精度は上げた。
地図に落とされたボールペンの丸をもう一度見つめる。
急ごう。
地図を鞄に仕舞い、私は校舎を後にする。

早足で歩き、一度家に帰って自転車を手に入れる。
サドルに跨りながら空を見上げるとまだ陽は落ちていなかった。
さあ、行こう。そう呟いてペダルを漕ぎ出す。
途中、思いついて公衆電話に寄ろうとした。
しかしちょうど通り道にあった公衆電話は例の「お化けの電話」だ。なんとなく嫌だったので、少し遠回りして別の公衆電話へ向かう。
ほどなくして電話ボックスにたどり着き、自転車を脇に止めて、中に入って受話器を上げる。
テレホンカードを入れて、覚えている番号をプッシュする。
コール音が数回鳴ってから相手が出た。いないだろうと思って、留守番電話に入れるつもりだったのに。
仕方がないので、忙しいから今日は会えないということを伝える。
案の定、ケンカになった。毎週金曜日に会う約束をしていたのに、これで2週連続私からドタキャンしてしまった。
だからと言って別に浮気をしているワケではない。止むに止まれぬ事情があるのだから。
逆に私へのあてつけのように、今夜は女を買うなどと口にしたことの方がよほど許せない。
「死ね」と言って電話を切った。
電話ボックスを出たときは頭に血が上り冷静さを欠いていたが、しばらく自転車を漕いでいると次第に我に返ってくる。
いけない。方向が違う。
自転車のカゴから地図を取り出して確認する。この辺りはまだ青のエリアだ。ハンドルを切って方向を修正した。
立ち漕ぎで先を急ぐ。

景色がヒュンヒュンと過ぎ去っていく。
その中へ溶けていくように、涙がひと筋だけ流れて消えていった。
ホントに、私はなにをやっているのだろう。
駄目だ。このところ、心と身体のバランスを崩している。ちょっとしたことで落ち込んだり、悩んだり。今もこんな訳の分からないことでいつの間にか必死になっている。
いったい私はどうしてしまったのか。

『あなた、ちょっと変わったね』
と昨日の夜先輩は言った。
高校に入ってから私は変わり始めてしまったらしい。何故なのだろう。
剣道部を続けていた方が良かったかも知れない。

そう思いながら自転車を漕ぎ続ける。
気がつくと私は赤のエリアに入っていた。そしてその最深部までは目と鼻の先だった。ただのありふれた住宅街だ。今はなんの不吉な印象も受けない。
なのに緊張してしまうのは頭で考えてしまうからなのだろう。
三差路の角を曲がったとき、私は心臓が止まるほど驚いた。
コンクリート塀に電信柱が無造作に立てかけられている。元あったと思しき場所には穴が開いていて、そこからまるで力任せに引き抜かれたかのような痕跡が地面のひび割れとなって現れていた。
電線の角度が変わって片方はピンと張り、もう片方はたわんでブラブラと揺れている。
まるで子どもがおもちゃの箱庭で遊んでいるような現実離れした光景だった。

目に見えない巨大な手が空から降ってくるような錯覚を覚えて私は思わず身体を仰け反らせる。
聞き集めた怪現象の中にこんなものがあったはずだ。でもこれは多分別件だろう。
全く誰もこの異変に気づいた様子はない。誰かにここでこうしているのを見られたらと思うと煩わしくなり、すぐに自転車を発進させた。

高野志穂の家はそこから5分と掛からなかった。
わりと新しい住宅が並んでいる一角の、青い屋根が印象的なこじんまりとした家だった。
家の前に自転車をとめて私は腕時計を見る。
彼女はバレー部の練習に行くと言っていたので、まだ部活から帰っていない時間のはずだ。
深呼吸をしてから呼び鈴を押す。
インターフォンから「はあい」という声がして、暫し待つと玄関のドアが開いた。
高野志穂に良く似た小柄な女性が顔を覗かせる。母親らしい。
「あら。どなた」
そう言いながらドアを開け放ち、こちらに歩み寄ってくる。
内側にチェーンは…ない。
目線の動きを悟られないように素早く確認した後、私は出来る限りのよそいきの声を出した。
「志穂さんはいらっしゃいますか」
「あら、お友だち?珍しいわねぇ。でもゴメンなさい。まだ帰ってないのよ。
…どうしましょう。ウチに上がって待ってくださる?散らかってるけど」
「いえ、いいんです。ちょっと近く来たので寄っただけですから。また来ます」
そう言って私は頭を下げ、申し訳なさそうな母親にヘタクソな笑顔を向けて自転車に跨った。
「さようなら」
家を辞する挨拶として、適当だったのか分からない。ああいうときはなんと言うのだろう。お休みなさい、かな。でも少し時間帯が早いか。
そんなことを考えながら角を曲がるまで背中に高野志穂の母親の視線を感じていた。

あの家は、違う。
チェーンのこともそうだが、エキドナの気配はない。
根拠のない自信だが、エキドナの母親であればたぶん一度顔を見れば分かるはずだ。

さあこれからどうしよう。
地図をもう一度取り出して眺めると、ボールペンで丸をつけた部分は一見小さく見えるが、現実にその場に立ってみるとかなり広いことに気づく。
住宅街であり、そこに建っている家だけでも二桁ではきかない。
もう少し範囲を絞れないだろうかと考えて頭をフル回転させるが、いかんせんあまり性能が良くない。
やむを得ず、カンでぶつかってみることにした。
それっぽい家(なにがそれっぽいのか基準が自分でも良く分からないが)の呼び鈴を鳴らして回った。
表札に出ている子どもの名前を使おうかと考えたが、本人が居た場合話がややこしくなると考え、「志穂さんはいますか?」と言って訪ねてみた。
するとたいていの家では母親が出て来て「志穂さんって、ひょっとして高野さんの所のお嬢さんじゃないかしら」と言いながら、高野家の場所を口頭で教えてくれる。
そして私は「家を間違えてしまって済みません」と言いながら立ち去る。
なんの問題もない。
スムーズ過ぎて、なんの引っ掛かりもないことが逆に問題だった。
ドアにチェーンのある家も中にはあったが、エキドナがいるような気配は全く感じなかった。
応対してくれる主婦もごくありふれた普通のおばさんばかりだ。
もっと突っ込んで、家の中でポルターガイスト現象が起こっていないかとか、家庭内で子どもとなにか問題が起きていないかなどと聞いた方が良いのだろうか、と考えたがどうしてもそれは出来そうになかった。
クラスメートならともかく、初対面の人間にそんな変なことを聞いて回るだけの図太い神経を私は持ち合わせていないのだった。

日が暮れたころ、私は疲れ果ててコンクリート塀に背中をもたれさせていた。
駄目だ。なんの手掛かりも得られなかった。
範囲が広すぎてどこまで回っていいのかも分からない。
慣れないことをしているせいか、身体が少し熱っぽくなってる気もする。
「もう帰ろ」
そう呟いてヨロヨロと立ち上がる。
自転車のハンドルを握りながら、なにか別のアプローチを考えないといけないと思う。
どんな方法があるのか全く名案が浮かばないままで疲れた足を叱咤しながらペダルを漕ぐ。
帰り道、日の落ちた住宅街にパトカーの赤い光が見えた。引き抜かれた電信柱のある辺りだ。
ふと、この数日の間街で起こったおかしな出来事を警察は把握しているのだろうかと考えた。
電信柱や並木が引き抜かれた事件は明らかに器物損壊だろう。当然犯人を捜しているはずだ。
もし私が、自分の知っている情報をすべて警察に伝えたらどうなるだろう。
聞き込みのプロである彼らが人海戦術であの円の中心の住宅街を回ったならば、恐らく半日とかからずにエキドナを見つけ出せるはずだ。母親に殺意を抱く少女を。
でも駄目だ。警察はこんなことを信じない。取り合わない。それだけははっきりと分かる。
私だって信じられないのだから。
街中のすべての怪現象が、たった一人の少女によって引き起こされているなんて。

パトカーの赤色灯と野次馬たちのざわめきを尻目に私はその道を避けて少し遠回りしながら帰路に着いた。
家に着くと、母親が「ご飯は?」と聞いてきた。
心身ともに疲れているせいか食欲が湧かず、制服を脱ぎながら「あとで」と返事をする。
なにか小言を言われたが、適当に聞き流した。まともに応対したくない気分だった。
些細な口喧嘩でもそれがエスカレートすることを恐れていたのかも知れない。
自分の部屋を見回しながらクッションに腰を下ろし溜息をつく。
小さなテーブルの上には水曜日に買った『世界の怪奇現象ファイル』が伏せられている。
その周囲には昨日先輩に借りたポルターガイスト現象に関連するオカルト雑誌の類が乱雑に転がっている。
そしてその横の本棚には中学時代に買い集めた占いに関する本が所狭しと並んでいた。
勉強している形跡のない勉強机の上には怪しげな石ころ…

なんて部屋だ。
我ながら顔を手で覆いたくなる。
今時の女子高生の部屋としては「惨状」とも言うべき有様を複雑な気持ちで眺めていると、ふいにテーブルの下に落ちている物に気がついた。
紙袋だ。デパートの包装がしてある。
なんだっけ、と思いながらなんの気なしにそれを手に取り、封をしているシールを剥がす。
中からは鋏が出て来た。
緑色の、ありふれた鋏。
私はそれを見た瞬間、氷で身体を締め付けられるようなジワジワとした不安感に襲われた。

なんだこれは?
鋏だ。ただの鋏。
いつ買った?

そう、あれは石の雨が降った水曜日。
デパートで『世界の怪奇現象ファイル』を手に入れたときに一緒に買った物だ。
待て、おかしいぞ。思い出せ。
そもそも私はデパートにその本を買いに行ったのではない。鋏を買いに行ったのだ。
石の雨の現場を見た後、その近くの商店街の雑貨店で売り切れていたので、わざわざ足を伸ばして…
ドキンドキンと心臓が脈打つ。
「鋏を買わないといけない気がしていた」
そのときは。確かに。
何故?
思い出せない。
その鋏を買って帰った日、私はそんな物を買ったことも忘れてこうして放り出している。
要らない物をどうして買ったんだろう?
急に頭の中に夢の記憶がフラッシュバックし始めた。

夢の中で私は足音を聞く。
そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。
顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる…
吐き気がして、口元を押さえる。
刃物だ。あの夢の中で自分が持っている刃物はなんだ?
もやもやして、握っている感覚が思い出せない。
ただキラリと輝いた瞬間だけが脳裏に焼きついている。
あれが、鋏だったんじゃないのか。
最悪の想像が頭の中を駆け巡る。
夢の中で少女になった私は鋏で母親に切りつけた。
その思い出せなかった記憶が潜在意識の奥底で私の行動を縛り付け、半ば無意識のうちに新しい鋏を購入させたのだろうか。
だとしたら…

私は立ち上がり、鋏を手に部屋を飛び出して「ちょっと外、行く」と居間の方に一声叫んでから玄関を出た。
自転車に乗って駆け出す。
途中通り過ぎたゴミ捨て場に鋏を投げ捨てる。
「ちくしょう」
自分のバカさ加減に心底腹を立てていた。
外は暗い。何時だ?まだ店は開いている時間か?
気が逸ってペダルを踏み外しそうになる。
人気の少ない近くの商店街にはまだポツリポツリと明かりが灯っていた。
自転車をとめ、子どものころからよく来ていた雑貨屋に飛び込む。
息を切らしてやって来た私に驚いた顔で、店のおばちゃんが近寄って来る。
「なにが要るの?」
その言葉に、息を整えながらようやく私は「はさみ」と言う。
するとおばちゃんは申し訳なさそうな顔になって、「ごめんねぇ。ちょうど売り切れてるのよ」と言った。
想像していたこととは言え、ゾクリと鳥肌が立つ感覚に襲われる。
「誰か、大口で買ってったの?」
「ううん。今週はぽつぽつ売れてて昨日在庫がなくなっちゃったから、注文したとこ。明日には入ると思うけど…」
どんな人が買っていったのかと聞いてみたが、若者もいれば年配の人もいたそうだ。
「どうする?明日来るなら取っとくけど」
と聞くおばちゃんに
「いい。急ぎだから他を探してみる」
と言って店を出る。
少し足を伸ばし、私は鋏を置いてそうな店を片っ端から見て回った。
店仕舞いをした後の店もあったが、閉じかけたシャッターから強引に潜り込み
「鋏を探してるんですが」
と言った。
そのすべての店で同じ答えが返って来た。
『売れ切れ』
と。
最後に私は一昨日の水曜日に鋏と本を買ったデパートに向かった。
閉店時間まぎわでまばらになった客の中を走り、まだ開いている雑貨コーナーに飛び込む。
中ほどにあった日用品の棚には異様な光景が広がっていた。
ありとあらゆる日用雑貨が立ち並ぶなか、格子状のラックの一部だけがすっぽりと抜け落ちている。
カッターも、鉛筆も、定規も、消しゴムも、修正液も、ステープルも、コンパスでさえ複数品目が取り揃えられているのに。
鋏だけがなかった。ただのひとつも。
私はその棚の前に立ち尽し、生唾を飲み込んでいた。
鋏が街から消えている!
いや、消えているのではない。その懐の奥深くに隠されて、使われるときをじっと待っているのだ。
それは今日かも知れないし、明日かも知れない。
夢を見ている少女が母親を殺すことを決めた日に、私たちはその殺意に囚われて己の母親にその刃を向けることになるのかも知れない。

どうしたらいい?どうすればいいんだ?
自らに繰り返し問い掛けながら私は家に帰った。するべきことが見つからない。
けれど今動かなかったら取り返しのつかないことになるかも知れない。
どうすればいいのか。するべきことが見つからない。
巡る思考を持て余して、どういう道順で帰ったのかも定かではない。
兎にも角にも帰り着き、玄関からコソコソと入ると母親に見つかった。
「どこ行ってたの。もう知らないから、勝手に食べなさい」
台所にはラップで包まれた料理が置かれている。
食欲は無かったが、無理やりにでもお腹に詰め込んだ。体力こそが気力の源だ。あまり良くない頭にも栄養を少しだけでも回さないといけない。
食べ終わってお風呂に入る。
今日は学校が終わってから休む暇がないほど駆け回っていた。それも夏日のうだるような暑さの中を。
それでも湯船に浸かることはせず、ほとんど行水で汗だけを流して早々に上がる。
次に入る妹と脱衣場ですれ違ったとき、「お姉ちゃん、お風呂出るの早っ。乙女じゃな~い」とからかわれた。
一発頭をどついてから自分の部屋に戻る。
ドアを閉め、机の引き出しに入れてあった愛用のタロットカードを取り出す。
それを手にしたままじっと考える。
時計の音がチッチッチッ、と部屋に響く。濡れた髪がピタリと頬にくっつく。
駄目だな。
私ごときの占いが通用する状況ではない。もっと早い段階ならば、この事態に至るまでにするべきことの指針にはなったかも知れないけれど。
今必要なのは、エキドナを、母親に殺意を抱く少女を探し出すための具体的な方法だ。
あるいは、探し出さずともこの事態を解決するだけの力だ。

私は机の上に放り投げた鞄から同級生の住所録を取り出す。
今日の昼間、カラフルな地図を完成させるのに活躍した資料だ。
パラパラと頁を捲り、間崎京子の連絡先を探し当てる。そこに書いてある電話番号をメモしてから部屋を出て、階段を降りてから1階の廊下に置いてある電話に向かう。
良かった。誰もいない。居間の方からはテレビの音が漏れてきている。
メモに書かれた番号を押して、コール音を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…
「はい」
ななつめか、やっつめで相手が出た。聞き覚えのある声だ。ホッとする。良かった。
家族が出たらどうしようかと思っていた。それどころか、使用人のような人が電話口に出ることさえ想定して緊張していたのだ。
彼女の妙に気どった喋り方などから、前近代的なお屋敷のような家を想像していた。そんな家にはきっと彼女のことを「お嬢様」などと呼ぶ使用人がいるに違いないのだ。
だがひとまずその想像は脇に置くことにする。
「あの、私、ヤマナカだけど。同じ学年の」
少しどもりながら、あまり親しくもないのにいきなり電話してしまったことを詫びる。
電話口の向こうの間崎京子は平然とした声で、気にしなくて良い、電話してくれて嬉しいという旨の言葉を綺麗な発音で告げる。
どう切り出そうか迷っていると、彼女はこう言った。
「エキドナを探したいのね」
ドキッとする。
私のイメージの中で間崎京子は何度もその単語を口にしていたが、現実に耳にするのは初めてだった。
ギリシャ神話の怪物たちの名前を挙げて共通点を探せと言った彼女の謎掛けが、本当にこの街に起こりつつある怪現象を理解した上でそれを端的に表現したものだったのだと、私は改めて確信する。
いったいこの女は、なにをどこまで掴んでいるのか。

母親を殺す夢を見ていないというその彼女が何故あんなに早い時点で、街を騒がせている怪現象がたった一人の人間によって起こされているのだと推理出来たのか。
私のようにあちこちを駆けずり回っている様子もないのに、怪現象の正体を恐ろしく強大なポルターガイスト現象だと見抜いた上で、『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるな、などという忠告を私にしている。
どうしてこんなにまで事態を把握できているのだろう。
「…そうだ。これからなにが起こるのか、おまえなら知っているだろう。それを止めたい。力を貸してくれ」
「なにが起こるの?」
間崎京子は澄ました声でそう問い掛けてくる。
私は儀式的なものと割り切って、今日一日で私がしたこと、そして知ったことを話して聞かせた。
「そんなことがあったの」
面白そうにそう言った後、彼女の呼吸音が急に乱れる。
受話器から口を離した気配がして、そのすぐ後にコン、コン、と咳き込む微かな音が聞こえた。
「どうした」
私の呼び掛けに、少しして「大丈夫。ちょっとね」という返事が返って来る。
今更ながら彼女が病欠や早退の多い生徒だったことを思い出す。
彼女は私よりも背が高いけれど、線が細く、透き通るようなその白い肌も含め、一見して病弱そうなイメージを抱かせるような容姿をしている。
そう言えば今日も早引けをしていたな。
そう思ったとき、つい先ほどの「駆けずり回っている様子もないのに、どうしてこんなに事態の真相を掴んでいるのか」という疑問がもう一度浮き上がってくる。

もし。もし、だ。
もし彼女の病欠や体調が悪いからという理由の早退がすべて嘘だとしたならば。
彼女には、十分な時間がある。
水曜日に昼前からエスケープした以外は、真面目に授業に出ていた私(授業を受ける態度はともかくとして)以上に、彼女にはこの街で起こりつつあることを調べる時間があったのかも知れないのだ。
もしそうだとしたならば、今の、まるで同情を誘うような咳は逆に私の中に猜疑心を芽生えさせただけだ。
だが分からない。すべては憶測だ。けれど少なくとも、この女に気を許してはいけない、ということだけはもう一度肝に銘じることが出来た。

「エキドナを探したい。知っていることをすべて話してくれ」
単刀直入に懇願した。だがこれも駆け引きの一部だ。彼女の一見意味不明な言動は聞く者を戸惑わせるが、その実、真理の、ある側面を語っているということがある。
短い付き合いだが、それは良く分かっているつもりだ。彼女は無意味な嘘をつかない。
嘘をつくとしても、それは真実の裏地に沿って出る言葉なのだ。意味は必ずある。
それを逃さないように聞き取れば良いのだ。
「……探してどうするの」
止めたい。
電話の冒頭で口にしたその言葉をもう一度繰り返そうとして、本当にそうだろうかと自分に問い掛け、そして胸の内側から現れた別の言葉を紡ぐ。
「見つけたい」
「それは探すことと同義ではないの」
「言葉遊びのつもりはない。ただ、本当にそう思っただけだ」
「面白いわね、あなた」
それから僅かな沈黙。
電話のある静かな廊下とは対照的に、居間の方からは相変わらずテレビの音が流れて来ている。
「正直に言って、あなたの鋏の話は驚いたわ。人を殺す夢を見ても、それが現実の人間の行動に影響を与えるなんて思ってもみなかった」
考えろ。これは嘘か、真か。
押し黙る私を尻目に彼女は続ける。
「わたしも夢の中で握っているはずの刃物の感触が思い出せない。あれが鋏だとするなら、確かにすべての辻褄が合うわね」
嘘だ!
これは嘘だ。
間崎京子は、そんな夢を見ていないと言ったはずだ。それとも今朝私にそう言ってから、この夜までの間に彼女は眠り、エキドナが見る夢とシンクロして母親殺しを追体験したというのか。
クス、クス、クス…
コン、コン、コン…
忍び笑いと、咳の音が交互に聞こえる。
「わたしは、嘘なんてついてないわ。ただあなたが『母親を殺す夢を見たか』と聞くから『見てない』と言っただけよ」
「それのどこが嘘じゃないって言うんだ。おまえも刃物で切りつける夢を見ているじゃないか」
声を荒げかける私に、淡々とした声が諌めるように降って来る。
「わたしが見ていた夢は、『知らない女を殺す夢』よ」
なに?
予想外の答えに私は一瞬思考停止状態に陥る。
「月曜日だったかしら、それとも火曜日だったかな?チェーンを外して、ドアから首を出す見覚えのない女の首筋に刃物で切りつける夢を見たのよ。一度見てからは毎日。他のみんなはそれが母親の顔だと思っているみたいね」
どういうことだ?
間崎京子だけは、夢の中で殺した相手が母親ではないと言うのか?何故だ。
「おかしいと思わない?夢に出てくるチェーンのついたドアだとか、それに手を伸ばして背伸びをする感覚は、みんな実際の自分のものではない、言うならば個を超越した共通言語として出て来るのに、殺した相手の顔だけは現実の自分の母親の顔だなんて」
待て。それについては考えたことがある。私はこう思ったのだ。
『…それは母親というイメージそのものを知覚し、朝起きてからそれを思い出そうとしたときに自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、記憶の中で再構築が行われているということなのかも知れない』
と。
「チェーンのついたドア」や「届かない手」という記号が、そのままの姿でもその本質を見失われないのに対し、「母親」という記号が、もし仮に別の知らない女の顔で現れたとしたならば、それは本質を喪失し私たちにその意味を理解させることさえ出来ないに違いない。
「母親」であるために、母親の仮面を被っていたのだ。
では、間崎京子の見た「知らない女」とは…
「わたしに、母親を殺す夢なんて見られるわけがないわ。だって、わたしはママの顔、知らないんですもの」
静かに、彼女はそう言った。
「ママはわたしが生まれる時に死んだわ。家には写真も残っていない」
受話器から淡々と陶器が鳴るような声が聞こえて来る。
「見たことはなくても、あんな醜い顔の女が、わたしのママではないことくらい分かるわ」
自分の美貌のことを暗に言いながら、それを鼻にかけるような嫌味さを全く感じさせない自然な口調だった。
間崎京子のケースは、母親と別居しているというポルターガイスト現象の経験者でもあった先輩とは、明らかにその背景が異なっている。
先輩は家にいないはずの母親を殺す夢を、『ありえない夢』と称したけれど、殺す相手の顔は「母親」の顔として認識している。
今現実に母親がいなくとも、その顔を知ってさえいれば良いのだ。
間崎京子はその顔すら知らず、「知らない女」が「母親」という意味を持つための仮面を被せることが出来なかったのだ。
ならば、間崎京子の夢に現れた女こそ、エキドナに殺意を抱かせた母親そのものなのではないのか。
「母親」という仮面の下の、素顔だ。
「そう。その女が、怪物たちの母親の母親。罪深いガイアね」

捕まえた。
ついに捕まえた。
間崎京子にさえ協力してもらえれば、エキドナは見つけられる。
あるいは、今日訪ねて回った家々の主婦たちの中の誰かがその母親だったのかも知れない。
「その女の顔は、まだはっきり覚えているか」
拝むような私の問い掛けに、彼女は優しい口調で答えた。
「覚えているわ。似顔絵を描きましょうか。わたし、絵は得意なのよ」
良し。良し!
私は思わず受話器にキスしそうになる。案外いいヤツじゃないか。間崎京子は。
そんなことを頭の中で叫んでいた。後にして思うと、我ながら単純だったと思う。
「どっちにしても明日ね。こんな夜には探せないわ。明日、絵を描いていくから」
またコン、コン、という咳が漏れる。
「ああ、ありがとう。無理しなくてもいから。身体に気をつけて」
じゃあ、明日学校で。
そう言って私は受話器を置いた。

明日だ。
明日には見つけられる。目を閉じて、それをイメージする。
「ムリしなくてもいいから。カラダに気をつけてぇ」
声に振り向くと、妹が廊下でくねくねと身体を揺らしながら私の物真似をしていた。
オトコとの電話だと邪推しているようだ。エキドナだとか母親殺しだとかの怪しげな部分は聞かれていないらしい。
「もう寝ろ、ガキ」
「自分だってまだ子どもじゃん」
「キャミソール返せ」
「あ、やだ、もうちょい貸して」
そんなくだらないやりとりをしたあと、私は部屋に戻った。
疲れた。
ばたりとベッドに倒れ込む。

転がって仰向けに姿勢を変えてから、今日あったことを順番に思い出してみる。
2度目の『母親を殺す夢』。学校での情報収集。円形の地図の完成。先輩を怒らせたこと。中心地の聞き込み。無駄足。買ったままの鋏。鋏の消えた街。間崎京子との電話…

(そういえば、先輩の部屋にも鋏があったな)
先輩がサイ・ババの真似をしていたときに手に持っていた鋏。
テーブルの上に無造作に置かれていたものだったけれど、手のひらから(私には服の裾からにしか見えなかったが)宝石や灰を出してみせるという奇蹟の再現をするのに、隠しにくい鋏は適切な物だっただろうか。
消しゴムやなんかの方が、よほど上手く出来るだろう。
(新品に見えたけど、あの鋏もなんとなく買ったのかな)
何故それが要るのか、深く考えもしないで…
ふと、電話で注意した方がいいだろうか、と思った。
いや、駄目だな。夕方に怒らせたばかりだし、こんなに遅い時間に電話してまた変な話をしたのでは、きっとまともに聞いてくれないだろう。
あれ?そう言えば、私もまだ持ってたな、鋏。
机の引き出しのどこかに、昔から使ってるやつがあるはずだ。
あれも捨てて来た方が良かったかも。
あ…でも眠いや…
明日にしよう…明日に…
眠りに落ちた。

暗い。暗い気分。泥の底に沈んでいく感じ。
私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
やがて外から足音が聞こえて私は動き出す。玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
暗い気持ち。殺したい気持ち。
足音が下から登ってくる。
私はその足音が、母親のだと知っている。
やがてその音がドアの前で止まる。ドンドンドンというドアを叩く振動。
背伸びをして、チェーンを外す。そしてロックをカチリと捻る。
手には硬い物。私の手に合う、小さな刃物。
ドアが開けられ、ぬうっと、青白い顔が覗く。
母親の顔。見たことのない表情。見たくない表情。
ドアの向こう、母親の背中越しに月。真っ黒いビルのシルエットに半分隠れている。
どこかから空気が漏れているような音がする。それは私の息なのだろうか。
いや、私の身体にはきっとどこかに知らない穴が開いていて、そこから隙間風が吹いているんだろう。
私は入り込んでくる顔に、話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
ただ手の中にある硬い物を握り締め、暗い気持ちをもっと暗くして。

「……ッ」
悲鳴が聞こえた。
それは私が上げたのだと気づく。
動悸がする。息が苦しい。
夢だ。夢を見ていた。
身体を起こす。ベッドの上。
天井から降り注ぐ光が眩しい。明かりがついたままだ。

時計を見る。夜中の1時半。服を着たままいつの間にか寝てしまっていた。
手にはじっとりと汗をかいている。
まだなにか握っているような感覚がある。
何度か手のひらを開いたり閉じたりしてみる。
辺りを見回すが、特に異変はない。粟立つような寒気だけが身体を覆っている。
そのとき、床に置いたラジオから奇妙な声が聞こえてきた。
ひどく間延びした音で、笑っているような感じ。
夜の家は静まり返っている。カーテンを閉めた2階の窓の向こうからもなんの音も聞こえない。
ただラジオだけが、間延びした笑い声を響かせている。
私は思わずコンセントに走り寄り、コードを引き抜いた。
ぶつりとラジオは黙る。
つけてない。私は眠る前に、ラジオなんてつけてない。
なんなのだ、これは。
家電製品の異常。まるでポルターガイスト現象だ。
私は机の引き出しを恐る恐る開け、乱雑に詰め込まれた文房具の中から鋏を探し出した。
中学時代から使っている小ぶりな鋏。手に持ってみたが、特におかしな所はない。
ひとまずホッとして引き出しを閉める。

どういうことだろう。
今までの夢は明け方、目覚める直前に見る明晰な夢だった。
他の人たちの体験談も一様に同じだ。
しかし今のは1回目か2回目のレム睡眠時の夢だ。
今までだって本当はこの、眠りについてあまり経っていない時間帯にも同じ夢を見ていたのかも知れない。ただ忘れてしまっているだけで。
でもさっきのリアルさはなんだ?明らかに今までの夢とは違う。鋏を握る感触もはっきり残っている。
私は左手で自分の顔を触った。そしてこう思う。
(こっちが夢なんてことはないよな)
母親に鋏を突き立てようとしている少女こそが本当の私で、今こうして考えている私の方が彼女の見ている夢なんていうことは…
なんだっけ、こういうの。漢文の授業で聞いたな。胡蝶の夢、だったか。
ありえない、と首を振る。
だが少なくとも、今までの夢とは緊迫感が違った。恐怖心のあまり途中で目覚めてしまったのだから。
(夢…だよな)
私は恐ろしい想像をし始めていた。真夏の夜の部屋の中が冷たくなって来たような錯覚を覚える。
これまでのは、焦点となっているその少女の見ていた殺意に満ちた夢が夜の街に漏れ出したもので。
今見たのは、現実のドス黒い殺意がリアルタイムで私の頭に干渉していたのではないか、という想像を。
だとしたら、さっきの光景の続きは?
もし夢を見ながら彼女の殺意に同調していた街中の人間たちが、私のようにあのタイミングで目覚めていなかったとしたら?
私は居ても立ってもいられなくなり、部屋の中をぐるぐると回った。
油断なのか。もう明日にも手が届くと思ってだらしなく寝てしまった私のせいなのか。
でもなにが出来たって言うんだ。あんな遅くに間崎京子の家まで行って似顔絵を描かせ、それを手にまたあの住宅街を聞き込みすれば良かったのか?
せめて家の場所が特定できれば…
そう考えたとき、私は視線を斜め下に向けた。

待て。
ドアの向こうの景色。月が半分隠れていたビルのシルエット。夢の中の視線。
あのビルは知っているぞ。
市内に住む人間ならきっと誰でも知っている。一番高いビルなのだから。
ビルの位置と、月の位置。それが分かるなら、場所が、それらが玄関の中からドア越しに見えている家が、ほぼ特定出来るかも知れない!

私は部屋を飛び出した。
そして階段を降りながら、眠っている家族を起こさないようにその勢いを緩める。
家の中は静まり返っていて、父親のいびきだけが微かに聞こえてくる。
私は玄関に向かおうとした足を止め、客間の方を覗いてみた。
いつもは2階で寝ている母親だが、最近は寝苦しいからと言って風通しの良い客間で寝ているのだ。
襖をそっと開け、豆電球の下で掛け布団が規則正しく上下しているのを確認する。
良かった。何事もなくて。
そして踵を返そうとしたとき、暗がりの中、鈍く光るものに気がついた。
それは私の右手に握られている。さっきから右手が妙に不自由な感じがしていた。
なのに、何故かそれに気づかず、目に入らず、あるいは目を逸らし、気づかないふりをして、ずっとここまで持って来ていた。
鋏だ。
机の引き出しを閉めながら、鋏は仕舞わなかったのだ。右手に持ったままで。
逆再生のようにその記憶が蘇る。
全身の毛が逆立つような寒気が走り、ついで、目の前が暗くなるような眩暈がして、私は鋏をその場に落っことした。
鋏は畳の上に小さな音を立てて転がり、私は後も見ずに玄関の方へ駆け出す。叫びたい衝動を必死で堪える。
ギィ、というやけに大きな音とともにドアが開き、湿り気を含んだ生暖かい夜気が頬を撫でた。
外は暗い。
玄関口に据え置きの懐中電灯を手にして、駐車場へ向かう。そして自転車のカゴにそれを放り込んで、サドルを跨ぐ。
始めはゆっくり、そしてすぐに力を込めて、ぐん、と加速する。
(鋏を持ってた!無意識に!)
混乱する頭を風にぶつける。いや、風がぶつかって来るのか。
私は今、自分がしていることが、すべて自分自身の意思によるものなのか分からなくなっていた。
もうたくさんだ。こんなこと。もうたくさんだ。

寝静まる夜の街並みを突っ切って自転車を漕ぎ続ける。空は晴れていて、遥か高い所にあるわずかな雲が月の光に映えている。
この同じ空の下に、目に見えない殺意の手が、無数の枝を伸ばすように今も蠢いているのか。
それに触られないように、身を捩りながら、前へ前へと漕ぎ進む。

と――――
耳の奥に、風の音とは違うなにかが聞こえて来た。
聞き覚えのあるような、ないような、音。
人を不安な気持ちにさせる音。
夜の、電話の音だ。
自転車のスピードを落とす私の目の前に、暗い街灯がぽつんとあるその向こう、公衆電話のボックスが現れた。
音はそのボックスから漏れている。
DiLiLiLiLiLiLi…DiLiLiLiLiLiLi…と、息継ぎをするようにその音は続く。
ばっく、ばっく、と心臓が脈打つ。
お化けの電話だ。
そんな言葉が頭のどこかで聞こえる。
誰もいない、夜の電話ボックス。
私は自転車を脇に止め、なにかに魅入られたようにフラフラとそれに近づいていく自分を、どこか現実ではないような気持ちで、まるで他人ごとのように眺めていた。
擦れるような音を立てて内側に折れるドア。中に入ると自然にドアは閉まり、緑色の電話機が天井の蛍光灯に照らされながら、不快な音を発している。
私はそろそろと右手を伸ばし、受話器を握り締める。
フックの上る音がして、Lin、という余韻を最後に呼び出し音は途絶える。
この受話器の向こうにいるのは誰だろう?
そんなぼんやりした思考とは別に、心臓は高速で動き続けている。
「もしもし」
声が掠れた。もう一度言う。
「もしもし」
受話器の向こうで、笑うような気配があった。
「…行ってはいけない」
この声は。
そう思った瞬間、脳の機能が再起動を始める。
間崎京子だ。この向こうにいるのは。
「鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で歩いたものが、ヒトの中でなにをしたか、わかって?」
冷え冷えとした声が、ノイズとともに響いてくる。
「何故だ。どうやってここに掛けた」
沈黙。
「お前も見たのか。あの夢を。行くなとはどういうことだ」
コン、コン、コン、とせせら笑うような咳が聞こえる。
「…その電話機の左下を見て」
言われた通り視線を落とす。そこには銀色のシールが張ってあり、電話番号が記されている。この電話機の番号だろうか。
「みんな案外知らないのね。公衆電話にだって、外から掛けられるわ」
その言葉を聞きながら、私は頭がクラクラし始めた。思考のバランスが崩れるような感覚。
この電話の向こうにいるのは、生身の人間なのか?それとも、人の世界には属さないなにかなのか。
「夢を見て、あなたがそこへ向かうことはすぐに分かったのよ。そしたら、その電話ボックスの前を通るでしょう。一言だけ、注意したくて、掛けたの」
「どうして番号を知っていた」
「あなたのことなら、なんでも知ってるわ」
あらかじめ調べておいたということか。いつ役に立つとも知れないこんな公衆電話の番号まで。
「行ってはいけない。わたしも、少し甘く見ていた」
「なにをだ」
再び沈黙。微かな呼吸音。
「でもだめね。あなたは行く。だから、わたしは祈っているわ。無事でありますようにと」
通話が切れた。
ツー、ツー、という音が右耳にリフレインする。
私は最後に、言おうとしていた。電話を切られる前に、急いで言おうとしていた。
そのことに愕然とする。
いっしょにきて。
そう言おうとしていたのだ。
頼るもののないこの夜の闇の中を、共に歩く誰かの肩が、欲しかった。

受話器をフックに戻し、電話ボックスを出る。
少し離れた所にある街灯が、瞬きをし始める。消えかけているのか。
私は自転車のハンドルを握る。
行こう。一人でも、夢の続きを知るために。
自転車は加速する。耳の形に沿って風がくるくると回り、複雑な音の中に私を閉じ込める。
振り向いても電話ボックスはもう見えなくなった。離れて行くに従って、さっきの電話が本当にあった出来事なのか分からなくなる。
何度目かの角を曲がり、しばらく進むと道路の真ん中になにかが置かれていることに気がついた。
速度を緩めて目を凝らすと、それはコーンだった。工事現場によくある、あの円錐形をしたもの。パイロン、というのだったか。
道路の両側には民家のコンクリート塀が並んでいる。ずっと遠くまで。アスファルトの上に、ただ場違いに派手な黄色と黒のコーンがひとつ、ぽつんと置かれているだけだ。
当然、向こうには工事の痕跡すらない。誰かのイタズラだろうか。
その横をすり抜けて、さらに進む。
500メートルほど行くとまた道路の真ん中に三角のシルエットが現れた。またコーンだ。
避けて突っ切ると、今度は10秒ほどで次のコーンが出現する。通り過ぎると、またすぐに次のコーンが…
それは奇妙な光景だった。

人影もなく、誰も通らない深夜の住宅街に、何らかの危険があることを示す物が整然と並んでいるのだ。
だが行けども行けどもなにもない。ただコーンだけが道に無造作に置かれている。
段々と薄気味悪くなって来た。あまり考えないようにして、ホイールの回転だけに意識を集中しようとする。
だが、その背の高いシルエットを見たときには心構えがなかった分、全身に衝撃が走った。
今度はコーンではない。細くて長く、頭の部分が丸い。道でよく見るものだが、それが真夜中の道路の真ん中にある光景は、まるでこの世のものではないような違和感があった。
『進入禁止』を表す道路標識が、そのコンクリートの土台ごと引っこ抜かれて道路の上に置かれているのだ。
周囲を見回しても元あったと思しき穴は見つからない。いったい誰が、そしてどこから運んで来たというのか。
ゾクゾクする肩を押さえながら、『進入禁止』されているその向こう側へ通り抜ける。
これもポルターガイスト現象なのか?
しかしこれまでに起きた怪現象たちとは、明らかにその性質が異なっている気がする。
石の雨や、電信柱や並木が引き抜かれた事件、中身をぶちまけられる本棚やビルの奇妙な停電などは、意図のようなものを感じさせない、ある意味純粋なイタズラのような印象を受けたが、この道に置かれたコーンや道路標識は、その統一された意味といい、執拗さといい、何者かの意図がほの見えるのである。

く・る・な。

その3音を、私は頭の中で再生する。
ポルターガイスト現象の現れ方が変わった。それが何故なのか分からない。
現れ方が変わったと言うよりも、「ステージが上った」と言うべきなのか。
これでは、RSPK、反復性偶発性念力などという代物ではない。もっと恐ろしいなにか…

私は吐く息に力を込める。目は前方を強く見据える。怖気づいてはいけない。
ビュンビュンと景色は過ぎ去り、放課後に訪れたオレンジの円の中心地である住宅街へ到着する。
結局、道路標識はあれ以降出現しなかった。言わば最後の警告だった訳か。
私は夜空を仰ぎ、月の光に照らされたビルの影を探す。
この街で一番高い影だ。
そして月がそのビルに半分隠れるような視点を求めて、息を殺しながら自転車をゆっくりと進める。
動くものは誰もいない。ほとんどの家が寝静まって明かりも漏れていない。
様々な形の屋根が、黒々とした威容を四方に広げている。
やがて私は背の低い垣根の前に行き着いた。街にぽっかりと開いた穴のような空間。
向こうには銀色の街灯が見える。遮蔽物のない場所を選んで通るのか、風が強くなった気がする。
公園だ。
私は胸の中に渦巻き始めた言いようのない予感とともに、自転車を入り口にとめ、スタンドを下ろしてから公園の中に足を踏み入れた。

靴を柔らかく押し返す土の感触。銀色の光に暗く浮かび上がる遊具たち。見上げても月はビルに隠れていない。
ここではない。
けれど今、私の視線の先には、街灯の下に立つ二つの人影があるのだ。
ごくり、と口の中のわずかな水分を飲み込む。
人影たちも近づいて行く私に明らかに気づいていた。こちらを見つめている複数の視線を確かに感じる。
風が耳元に唸りを上げて通り過ぎた。
「また来たよ」
影の一つが口を開いた。
「どうなってるんだ」
ようやくその姿形が見えて来た。
眼鏡を掛けた男だ。白いシャツにスラックス。ネクタイこそしていないが、サラリーマンのような風貌だった。
神経質そうなその顔は、30歳くらいだろうか。
「こんな時間に、こんな場所に来るんだから、私たちと同じなんでしょうね」
声は若いが、外見は50過ぎのおばさんだった。地味なカーキ色の上着に、スカート。小太りの体型は、不思議と私の心を和ませた。
「あの、あなたたちは、なにを…」
そこまで言って、言葉に詰まる。
「だから、言ってるでしょ。同じだって。あんたも見たんだろ、アノ夢を」
真横から聞こえたその声に驚いて顔をそちらに向ける。
小さな鉄柵の向こうにブランコがひとつだけあり、そこにもう一人の人物が腰掛けていた。
キィキィと鎖を軋ませながら足で身体を前後に揺すっている。
「あんた、高校生?」
馬鹿にしたような言葉がその口から発せられる。目深にキャップを被っているが、若い女性であることは、声と服装で分かる。
太腿が出たホットパンツにTシャツという、涼しげな格好。あまり上品なようには見えない。
「ま、ここまでたどり着いたってことはタダモノじゃない訳だ」
意味深に笑う。
私の体内の血液が徐々に加熱されていく。
同じなのだ。この人たちは。私と。
彼らは街で起こった怪奇現象と母親殺しの夢の秘密を解いて、ここに集った人間たちなのだ。
得体の知れない不吉さと不安感に駆られて動き回った数日間が、絶対的に個人的な体験だったはずの数日間が、並行する複数の人間の体験と重なっていたということに、歓喜と寒気と、そして昂揚を覚えていた。

「あなた、さっきの夢は、どこまで?」
おばさんがこちらを向いて聞いてきた。私はありのままに話す。
「やっぱり」
少し残念そう。
「みんな同じ所までで目が覚めてるのね」
「も、もういいよ。ここでいつまでも話してたってしょうがないだろ」
眼鏡の男が手を広げて大げさに振った。
「でもねぇ、これ以上はどうやっても探せないのよね」
おばさんが頬に手のひらを当てる。
「あんな、月とビルの位置だけじゃ、ある程度にしか場所を絞れないし、時間経っちゃったから、余計に分かんないのよね」
「こうしてたって、余計分かんなくなるだけじゃないか」
「そうよねえ。取り合えず、近くまで行けばなにか分かるんじゃないかと思ったんだけど…」

そんな言い合いを聞きながら、私の脳裏には先週の漢文の授業で先生が教えてくれた「シップウにケイソウを知る」という言葉が浮かび上がっていた。
確か、強い風が吹いて初めて風に負けない強い草が見分けられるように、世が乱れて初めて能力のある人間が頭角を現すというような意味だったはずだ。
昼間には無数の人々が行き来するこの街で、誰もかれも自分たちのささやかな常識の中で呼吸をしながら暮らしている。
それが例え、日陰を選んで歩く犯罪者であったとしても。
けれど、そんな街でもこうして夜になれば、常識の殻を破り、この世のことわりの裏側をすり抜ける奇妙な人間たちが蠢き出す。
普段は、お互いに道ですれ違っても気づかない。それぞれがそれぞれの個人的な世界を生きている。
それが今はこうして、同じ秘密を求めてここにいるのだ。
のっぺりとした匿名の仮面を外して。
私はそのことに言い知れない胸の高鳴りを覚えていた。
「4人もいたら、なにか良い知恵が浮かんできそうなものなのにね」
おばさんがため息をつく。
キャップ女が鼻で笑うように
「4人だって?5人だろ」
と指をさした。
みんながそちらを見る。大きな銀杏の木がひとつだけ街灯のそばに立ってる。
その木の幹の裏に隠れるように、白い小さな顔がこちらを覗いていた。
私はそれが生きている人間に思えなくて、髪の毛が逆立つようなショックがあった。
けれどその顔が、驚きの表情を浮かべ、恥ずかしそうに木の裏に隠れたのを見て、おや?と思う。
「え?あら。女の子?」
おばさんが甲高い声を上げる。
「お、おいおい。いつからいたんだ。全然気づかなかったぞ」
と眼鏡の男が呟いて、額の汗をハンカチで拭う。
「ねぇ、あなた近所の子?こんな遅くに外に出て、だめじゃないの」
おばさんが優しい声で呼び掛けると、顔を半分だけ出した。10歳くらいだろうか。
「あら、この子、外人さんの子どもかしら」
言われて良く見ると、眼球が青く光っている。街灯の光の加減ではないようだ。
「帰った方がいい。ここは危ない」
眼鏡の男が早口でそう言い、近寄ろうとする。女の子はまた木の裏側に隠れた。
男が腕を前に伸ばしながら、回り込もうとする。
すると、その子はその動きに沿ってぐるぐると反対側に回る。
「あれ、なんだこいつ。なに逃げてんだよ、おい」
眼鏡の男が苛立った声を上げるのを、ブランコに揺られながらキャップ女がせせら笑う。
「あんたロリコン?」
「うるさい」
「ちょっと、やめなさいよ。怯えてるじゃないの」
おばさんが男をなだめる。
「大したものだな。この子、この歳であたしたちと同じモノ見てるんだよ」
キャップ女の口の端が上る。
そんなバカな。こんな小さな子どもが、私と同じことを考えてここまでやって来たというのだろうか。
そう思ったとき、私の耳がある異変をとらえた。
「し」と誰かが短く言う。
息を呑む私たちの耳に、鳥の鳴き声のようなものが聞こえて来た。
ギャアギャアギャア…
カラスだ。
私はとっさにそう思った。公園の中じゃない。
全員が身構える。
鳴き声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
ブランコが錆びた音を立ててキャップ女が降りて来る。
「なんて言ったと思う?」
誰にともなく、そう問い掛ける。
「警戒せよ、だ」
彼女は私の顔を見てそう言った。なぜかデジャヴのようなものを感じた。
足音を殺して、全員が公園の出口に向かう。行動に転じるのが早い。躊躇わない。
私も深呼吸をしてからそれに続く。

公園の敷地を出てから、すぐにアスファルトを擦る靴の音がやけに大きく響くことに気づく。眼鏡の男の革靴だ。みんな足音を殺しているのに。
複数の睨むような視線に気づきもしない様子で、彼は先頭を切って公園に面した道路を右方向へと進む。
月の光に照らされる誰もいない夜の道を、5つの影が走り抜ける。
5つ?
振り向くと、小さな少女が厚手の服をヒラヒラさせながら、少し離れてついて来ている。
青い眼が月光に濡れたように妖しく輝いて見える。
あれも肉体を持った人間なのだろうか。なんだかこの夜の街ではすべてが戯画のように思える。
そしてこれから、なにかもっと恐ろしいものを見てしまうような気がして足を止めたくなる。
それは、昼と地続きの夜を生きる人にはけっして見えないもの。
引き抜かれた道路標識などとはまた違う、自分の中の良識を一部、そして確実に訂正しなくてはならないような、そんなものを。
私はいつのまにか現実と瓜二つの異界に紛れ込んでいるのではないだろうか。
慎重に足を動かしながらそんなことを考える。

細長い緑地が住宅地の区画を分けていて、その一段高い舗装レンガの歩道の上に大きな木が枝を四方に張っていた。
生い茂る葉が月を覆い隠し、その真下に出来た闇に紛れるように小動物の蠢く影が見えた。
立ち止まる私たちの目の前でギャアギャアという不快な声を上げ、その影がふたつ飛び立った。
カラスだ。
2羽は鈍重な翼を振り乱して、あっというまに夜の空へ消えて行く。
私たちは息を潜めてカラスたちがいた場所を覗き込む。暗がりに、それはいる。
ああ。やはりこちらが夢なのかも知れない。私の知っている世界では、こんなことは起きない。
「エエエエエエエ…」
弱弱しい声を搾り出すようにして、身を捩じらせる。それは、まるで巣から落ちてしまったカラスの雛のように見えた。
さっきの2羽が心配して覗き込んでいた両親だろう。
けれどあの悲鳴のような鳴き声は、我が子を案じる親のそれではなかった。

警戒せよ。警戒せよ。この異物を、警戒せよ。
そう言っていたような気がする。

「エエエエエエエ…」
そんな力ない呻きが、ありえないほど小さな人間の顔から漏れる。
赤ん坊のようなその顔の下には、薄汚れた羽毛に包まれたカラスの雛の胴体がくっ付いている。
それは生きていること自体が耐えられない苦痛であるかのように小さな身体をくねらせて、レンガの上を這いずっている。
それを見下ろしている誰もが息を呑み、動けないでいた。
掠れながら呻き声は続く。私の知るそれより、はるかに小さい赤ん坊の顔は、閉じられた目から涙を流しながらクシャクシャと歪んで小刻みに震えている。
やがてその呻き声が少しずつ変調し、聞こえる部分と聞こえない部分が生まれ始める。

「こ、これは、おい、なんだ、これは…」
眼鏡の男が口を押さえて震えている。
「黙りなさい」
その隣でおばさんが短く、しかし強い口調で言う。
風が吹いて頭上の葉がざわめいた。声が聞こえなくなり、私たちは自然と顔を近づける。
「…か…い…に…」
赤ん坊の頭部を持つそれは、呻きながら同じ言葉を繰り返し始めた。
なんと言っている?
耳を澄ますけれど、目に見えない誰かの手がその耳を塞ごうとしている。
いや、その手は私の中の危険を察知する敏感な部分から、伸びているのかも知れない。
でももう遅い。聞こえる。
か・わ・い・そ・う・に。
そう言っているのが、聞こえる。
涙を流し、苦痛に身を悶えさせながらそれは、かわいそうに、かわいそうに、という言葉を繰り返しているのだ。
「くだん、だ」
眼鏡の男が呆然として呟いた。

くだん?
くだんというのは確か、人の顔と牛の身体を持つ化け物のことだ。
生まれてすぐに災いに関する予言を残して死んでしまうという話を聞いたことがある。
人の頭部と、動物の胴体を持っている部分だけしか合っていない。
そう言えば最近、身体が2種類以上の動物で構成された化け物のことを考えたことがあるな。
あれはなんのことだったか。はるか昔のことのように思える。
そうだ。あれは間崎京子の謎掛けだ。
共通点はなに?化け物を生んだのは誰?
思考がぐるぐると回る。

「なにか来る!」
キャップ女の鋭い声に振り向くと、黒い塊がこちらに向かって飛び込んで来た。
一番後ろで屈んでいた青い眼の少女が弾けるようにそれを避け、勢い余って尻餅をつく。
私を含む他の4人も瞬時に身体を反転させて、その体当たりから身をかわす。
黒い塊は荒い息遣いを撒き散らしながら、歯茎を見せて私たちを威嚇するように唸り声を上げる。
犬だ。
首輪もしていない。野犬だ。
目は血走って、焦点が合っていないように見える。
地面に手をついていた私はすぐに立ち上がり、犬から離れる。他の人たちも後ずさりしながら木の下から遠ざかる。
おばさんが尻餅をついてまま動けないでいる少女を抱き起こしながら慌てて逃げ出す。
犬は、離れていく人間には興味を示さずに、舌を垂らしながら木の根元の暗がりへ首を伸ばした。
そして、ぐるるるる、という唸り声と、肉が咀嚼される気持ちの悪い音が聞こえて来る。
「く、喰ってる」
10メートル以上離れた場所から、腰の引けた状態の眼鏡の男が絶句する。
もうその木の下からは人の声は聞こえない。ただ肉と骨が噛み砕かれる音だけが夜陰に篭ったように響いているだけだ。
私はどうしようもなく気分が悪くなり、そちらを正視できないほどの悪寒に全身が震え始めた。

怪物・結【後編】

遠巻きにそれを眺めることしか出来ない私たちが動きを止めているその前で、徐々に犬の立てる物音が小さくなり、やがて湿り気のある呼吸音だけになる。
空腹を収めることが出来たのか、犬は始めとは全く違う緩慢な動きで舌を這わせ、口の周りを舐め始める。見えた訳ではない。
犬は向こうを向いたままだ。ただそういうイメージを抱かせる音がピチャピチャと聞こえている。
そしてひとしきり肉食の余韻を味わった後、犬は一声鳴いて木の幹を回り込むようにして闇に消えていった。

その最後に鳴いた声は気味の悪い声色で、耳にこびり付いたようにいつまでも離れない。
かわいそうに。
と、私の耳には確かにそう聞こえた。
犬の影が見えなくなると住宅街の中の緑地は静けさを取り戻す。

「なんだったの」
おばさんが少女の手を取ったまま声を絞り出し、眼鏡の男が恐る恐る木の根元に近づいていく。
「喰われてる」
そんな言葉に私も首を伸ばすが、そこには黒い血の染みと散らばった羽毛しか残ってはいなかった。
「畸形、だったのか?」
自問するように眼鏡の男が口走る。それを受けて、キャップ女が「なわけないだろ」と嘲る。
私もそう思う。畸形だろうがなんだろうが、自然界があんな冒涜的な存在を許すとは思えなかった。
ならば…
「幻覚?」
私の言葉に全員の視線が集まる。
「でも、みんな同じものを見たんだろ。その…くだんみたいなやつを」
「ちょっと待て。あんただけ牛を見たのかよ」
キャップ女が突っかかる。
「ち、違う。じゃあなんて言うんだよ、ああいう人間の顔したやつを」
「そう言えば、人面犬ってのが昔いたねぇ」
とおばさんが少しずれたことを言う。
「くだんなら、予言をするんだろ。戦争とか、疫病とかを」
キャップ女が両手を広げてみせる。
「言ってたじゃないか」
「かわいそうに、が予言か?。いったい誰がかわいそうだっていうんだ」
その言葉に、言った本人も含め、全員が緊張するのが分かった。
ざわざわと葉が揺れる。

そうだ。かわいそうなのは、誰だ?
脳裏に、何度も夢で見た光景が圧縮されて早回しのように再生される。この場所に来た理由を忘れるところだった。
とっさに空を見る。
月は、雲に隠れることもなく輝いている。
月の位置。そして一番背の高いビルの位置。
近い。と思う。
「月はどっちからどっちへ動く?」
と眼鏡の男が周囲に投げ掛ける。
「太陽と同じだろ。あっちからこっちだ」
とキャップ女が指でアーチを作る。
「あ、でも1時間に何度動くんだっけ?忘れたな。あんた、現役だろ?」
いきなり振られて動揺したが「たぶん、15度」と答える。
「1時間、ちょい過ぎくらいか、今」
そう言いながら眼鏡の男が指で輪ッかを作って月を覗き込む。
「15度って、どんくらいだ」
輪ッかを目に当てたまま呟くが、誰も返事をしなかった。
「でもたぶん、近いわね」
とおばさんが真剣な表情で言う。
「手分けして、虱潰しに探すか」
眼鏡の男の提案に、賛同の声は上がらなかった。
やがて「こんな時間に一般人を叩き起こして回ったら、警察呼ばれるな」と自己解決したように溜息をつく。
暫し気分的にも空間的にも停滞の時間が訪れた。
キャップ女とおばさんが、小声でなにかを話し合っている。眼鏡の男はぶつぶつと独りごとを言っていたが、木の幹に隠れるように寄り添っていた青い眼の少女に向かって「おまえもなんか言えよ」と投げ掛けた。
少女は、身構えたようにじっとしたまま瞼をぱちぱちとしている。
私はさっきのフラッシュバックに引っ掛かるものを感じてもう一度夢の光景を思い出そうとする。
それは些細なことのようで、また同時にとても重要な意味を持っているような気がする。
どこだ?
揺らめく記憶の海に顔を漬ける。
刃物の感触?
違う。ロックが外れる音。チェーンを外すための背伸び。叩かれるドア。
違う。まだ、その前だ。足音。その足音を、母親のものだと知っている。足音は、下から登ってくる…
ハッと顔を上げた。

確かに、足音は下の方から聞こえて来た。何故それをもっと深く考えなかったのか。
2階以上だ。2階以上の場所に玄関があるということは、集合住宅。マンションか、アパートか。
私は夜の中へ駆け出した。他の人たちの驚いた顔を背中に残して。
考えろ。フラットな場所の足音ではない。登ってくる音だった。マンションなら、部屋の中から通路の端の階段を登ってくる足音が聞こえるだろうか。端部屋なら、可能性はある。
でも、例えば、階段が部屋の玄関のすぐ前に配置されているようなアパートなら、もっと…

私の視線の先に、それは現れた。
比較的古い家が並んでいる一角に、木造の小さな2階建てのアパートがひっそりと佇んでいる。
1階に3部屋、2階にも3部屋。玄関側が道に面している。
ささやかな手すりの向こうにドアが6つ、平面に並んで見える。1階から2階へ上がる階段は、1階の右端のドアの前から2階の左端のドアの前へ伸びている。
赤い錆が浮いた安っぽい鉄製の階段だ。
登れば、カン、カン、とさぞ騒々しい音を立てることだろう。
立ち尽くす私に、ようやく他の人たちが追いついて来た。
「なんなのよ」
「待て、そうか、足音か」
「このアパートがそうなのか」
「…」
アパートに敷地に入り込み、階段のそばについた黄色い電灯の明かりを頼りに、駐輪場のそばの郵便受けを覗き込む。
上下に3つずつ並んだ銀色の箱には、101から203の数字が殴り書きされている。名前は書かれていない。
そして101と、201、そして203の箱にはチラシの類が溢れんばかりに詰め込まれている。
綺麗に片付けられた番号の部屋には、現在まともに住んでいる入居者がいるということだろう。
2階で綺麗なのは202だけだ。
道理で、母親の足音だと分かったはずだ。階段を登ってくるものは、他にいないのだろう。
同じようにその意味を理解したらしい人たちの息を呑む気配が伝わって来る。
階段を見上げながらそちらに歩こうとすると、いきなり猫の鳴き声が響いた。
見ると、青い眼の少女の前から1匹の汚らしい猫が逃げて行くところだった。敷地の隅に設置されたゴミ置き場らしきスペースだ。黒いビニール袋やダンボールが重ねられている。
青い眼の少女は猫の去ったゴミ置き場から目を逸らさずにじっとしていた。
その異様な気配に気づいた私もそちらに足を向ける。

じっとりと汗が滲み始める。さっき走ったせいばかりではない。
暗い予感に空間がグニャグニャと歪む。私の鼻は微かな臭気を感知していた。
肉の匂い。腐っていく匂い。
ゴミ置き場が近くなったり、遠ざかったりする。雑草が足に絡まって、前に進まない。どこからともなく荒い息遣い。そしてその中に混じって、かわいそうに、かわいそうに、という声が聞こえる。
幻聴だ。雑草も丈が短い。ゴミ置き場も動いたりなんかしない。
理性が、障害をひとつ、ひとつと追い払っていく。
けれど臭気だけは依然としてあった。
ひときわ中身の詰まった黒いゴミ袋が、スペースの真ん中に捨てられている。
2重、いや3重にでもされているのか、やけにごわごわしている。
誰も息を殺してそれを見つめている。肩が触れないギリギリの距離で、皆が並んでいる。
胸に杭が断続的に打ち込まれているような感じ。手をそこに当てる。見たくない。
でも目を逸らせない。

眼鏡の男が、腰の引けたままゴミ袋の上部に出来た破れ目に指をかける。さっきの猫の仕業だろうか。
ガサガサという音とともに、中身が月の光の下に現れる。
土気色の肌。
目を閉じたまま、口を半開きにした幼い女の子の顔が、ゴミ袋の破れ目から覗いている。生きている人間の顔ではなかった。
それを見た瞬間、全身の血が沸騰した。
足が土を蹴り、無意識に階段の方へ駆け出す。
けれど次の瞬間、前に回りこんだ何者かの手に肩を押さえられる。遠慮のない力だった。
目の前に顔が現れる。目深に被ったキャップの下の険しい表情。
「落ち着け」
その言葉が私に投げ掛けられるすぐ横を、眼鏡の男がなにか喚きながら駆け抜けようとする。
キャップ女は間髪要れずに右足を引っ掛け、眼鏡の男はその場に転倒した。
「なにするのよ」
とおばさんが叫んで、私の背中を押す。
その力は私の前進しようとする力と併わさり、じりじりとキャップ女は後退を始める。
「落ち着け。なにをする気だ」
なにをする気?決まってる。
報復をしなければいけない。同じ目に遭わせてやる。
子どもをゴミ同然に捨てながら、202号室のドアの向こうにのうのうと生きているあの母親を。
「どきなさいよ」
とおばさんが上ずった声でキャップ女を怒鳴りつける。
すぐ横では眼鏡の男が立ちあがろうとする。
「クソッ」と呻きながら、キャップ女が右足を跳ね上げ、男の顔面を蹴った。
ジャストミートはしなかったが、眼鏡が弾けるように宙に飛んで草むらに消えた。
「うわっ」と、眼鏡の男は両手で顔を押さえる。
足を上げたせいでバランスを崩したキャップ女が体勢を立て直す前に、私は掴まれた肩を振りほどきながら一気に突進した。
一瞬、押し返されるような強い反動があったが、堰が切れるようにその壁が崩れる。
3人が絡み合うようにひっくり返り、勢いあまったキャップ女の側頭部が階段の基部のコンクリートに叩きつけられるのが目に入った。
私も地面に肘を強く打っていた。痛みに顔を顰めるが、すぐに立ちあがろうとする。
でもなにかが太腿の裏に乗っている。邪魔だ。おばさんの胴体か。「アイタタタタ」じゃない。すぐに部屋に行かないと。
この頭を掻き回すざわめきが、どこかに去っていってしまう気がして。
いきなり服を引っ張られた。後ろからだ。
首を廻すと、青い眼の少女が震えながら私の上着を両手で掴んでいる。
頭を振って、なんらかの否定の意を表現しようとしている。
「離せ」
そう口にした瞬間、なにか蛇のようなものが首の根元に絡みついた。
ついで、ぴたりとその本体が私のうなじのあたりに接着する。
「悪いね」
そんな言葉が耳元で囁かれ、絡みついたものが私の首を締め上げる。狙いは気道ではない。頚動脈だ。
とっさに腕を背後に回そうとするが、もっと力の強い別のなにかが私の胴体ごと腕を挟み込む。
意識が遠のいていく。夜空には月が冷え冷えと輝いている。星はあまり見えない。
暗い。月も暗くなっていく。苦しいけれど、少し心地よい。
そこで世界はぶつりと途絶えた。

目が覚めたとき、私はベンチで横になっていた。
額の上に水で濡れたハンカチが乗っている。
指で摘みながら身体を起こすと、銀色の光が目に入った。
公園だ。辺りは暗い。
街灯に照らされた大きな銀杏の木の影がこちらに伸びて来ている。キィキィとブランコが揺れる音がする。

「起きたな」
ブランコが止まり、そちらからいくつかの影が歩み寄ってくる。
「良かった。なかなか気がつかないからどうしようかと思ったのよ」
おばさんがホッとしたような顔で言った。
「だから言ったろ。寝てるだけだって」
キャップ女が疲れたような動きで右手を広げる。
じわじわと記憶が蘇って来た。そうだ。
私は、裸締めで落とされたのだ。彼女に。

私は目を閉じ、ドス黒い感情が身体の中に残っていないのを確認する。
あれほど目標を破壊したかった衝動がすべて体外に流れ出してしまったかのように、すっきりとした気分だった。
「ぼ、僕たちはあの子の思念に同調しすぎたんだ」
と眼鏡の男が言った。
「あ、あやうく、人殺しをさせられるところだった」
「ほんと勘弁して欲しいよ。3対1だったんだから。おっと、あの青い眼のお嬢ちゃんも入れて3対2か。まあ手荒な真似して悪かったな」
力なく笑うキャップ女に眼鏡の男が頭を下げる。
「いや、おかげで助かった。ありがとう」
その眼鏡のフレームは少し歪んでしまっている。
私はそのとき、キャップ女の頬を伝う黒い筋に気がついた。こめかみから伸びる乾いた血の跡だ。転倒したときに階段の基部で打った部分か。
「ああ、これか。カスリ傷だ」
「痕にならないといいけど」
とおばさんが心配げに言う。
「他にもいっぱいあるし、いいよ別に」
そんなやり取りを聞きながら、私は肝心なことを思い出した。
「あの子は、どうなったんですか」
一瞬、風が冷たくなる。
キャップ女がゆっくりと口を開く。
「現場維持のまま、撤退して来た。…おい、ここでまたキレんなよ。とにかく、ここから先は警察の仕事だ。わたしたちが動いていい段階は終わったんだ」
あの子を、あの子の死体を、ゴミ袋に入れられた状態のまま放置したのか。
思わずカッとしかける。
「あの子は、母親を殺さなかった。殺す夢を見ても、殺さなかった。最後まで、殺されるまで、殺さなかった。ギリギリのところで、そんな選択をした。
わたしたちが、この街の人たちが、こうして静かな夜の中にいられるのもそのおかげだ」
目に映る住宅街の明かりはほとんどなく、目に映るすべてが夏の夜の底に眠っている。
「ここに来るべきじゃなかった。そんな警告すら、あの子はしていたような気がする。もう終わったことだ。招かれざる侵入者は。目を閉じて去るべきだ」
キャップの下の真剣な目がそっと伏せられた。

警告。
そうか、あのコーンや道路標識はそのためなのか。
ではあの、カラスとヒトがくっついたような不気味な生き物は?
誰もその答えは持っていなかった。分からない。分からないことだらけだ。
私は自分の住む世界のすぐそばで、目を凝らしても見えない奇妙なものたちが蠢いていることを認めざるを得ないのだろうか。
子どものころから占いは好きだったけれど、心のどこかではこんなもの当たるわけないと思っていた。
それでも続けたのは、予感のようなものがあったからなのかも知れない。
100回否定されても、101回目が真実の相貌を覗かせれば、私たちの世界のあり方は反転する。そんな期待を持っていたのかも知れない。
『変わってる途中、みたいな』
そうだ。私は変わりつつある。
何故だか、身体が武者震いのようなざわめきに包まれる。
その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた。それも強烈に。誰もいないはずの背後の空間から。
キャップ女の身体が目にもとまらないスピードで動き、私の座るベンチの端に足を掛けたかと思うと、全身のバネを使って虚空に跳躍した。
そして闇の一部をもぎ取るようにその右手が宙を引き裂く。
一瞬空気が弾けるような感覚があり、耳鳴りが頭の中で荒れ狂い、そしてすぐに消え去る。
キャップ女の身体が落ちて来る。そして土の上で受身を取る。
「逃がした」
起き上がりながら指を鳴らす。
なにが起こったのか分からず、みんな唖然としていた。
「今、空中に眼球が浮かんでたろ?」
誰も見ていない。頭を振るみんなに構わず彼女は続ける。
「あれは、今回の件とは別だな。個人的なもの。あんたについてたんだ。心当たり、あるか」
名指しされて私は混乱する。誰かに見られているような感覚は確かにあった。
先輩の家でポルターガイスト現象の話を聞いた夜。いや、その感覚はその前から知っている。
なんだ?視線。冷たい視線。笑っているような視線。表情を変えずに、微笑が嘲笑に変わって行くような…
私の中にある女の顔が浮かぶ。その女は、私のことはなんでも知っていると言った。
そして私が駆けずり回って調べたようなことを、まるで先回りでもするようにすべて知っていた。
はっきりとは言わないが、間違いなく。
「気に入らないな。ああいう、顕微鏡覗いてマスかいてるような輩は」
キャップ女は口の端を上げて犬歯を覗かせた。
「迷惑なやつなら、シメてやろうか」
強い意志を秘めた炎が瞳の中で揺らめいている。私はそれにひとときの間、見とれてしまった。
「ま、困ったことになったら言えよ。私はいつでも―」
夜をうろついているから。
彼女はそう言って、ずれてしまったキャップを深く被り直し、私たちに背を向けて歩き始めた。
「そういやさ」
思いついたように急に立ち止まって振り向く。
「こんくらいの背の、若いニイちゃん、誰か見なかった?」
私たちのようにこの住宅街までたどり着いた人間という意味だろうか?
全員が首を横に振る。
「あの、ボケェ」
キャップ女はそう吐き捨てる。
「じゃあこ~んな眉毛の、ゴツイ奴は?」
またみんなの首だけが左右に振られる。
「アンニャロー」
そう言っておかしげに笑い、「じゃあね」とまた踵を返して歩き出す。
「あ、そうそう。ケーサツ、電話しとくから。逃げといた方がいいよ。わたしたちみたいな連中はこんなことに関わると、めんどくさいだろ。いろいろと」
前を向いたまま、高く上げた右手を振って見せた。
その影が公園の出口へ消えて行くのを見届けたあとで、残された私たちは顔を見合わせた。
「ぼ、僕も帰る。明日は朝から会議なんだ。じゃ、じゃあね」
眼鏡の男が踵を返そうとする。その回転がピタリと止まって、もう一度その顔がこちらに向いた。
「僕は、変なものを、よく見るんだけど、お化けとか、そんなの、だけじゃなくて、なんていうかな。その、もう一人のキミが、いるよね」
ドキッとした。秘密を覗かれた気がして。
「それ、きっと悪いものじゃないから。気にしないでいいと思うよ」
じゃあ、と言って彼は去って行った。
「あら、そう言えばあの外人さんの子どもは?」
おばさんがキョロキョロと辺りを見回す。
銀杏の木の影に二つの光が見えた。次の瞬間、太い幹の裏側にスッと隠れる。
「ちょっと。おうちまで送ってあげるから、わたしと一緒に帰りましょう」
おばさんが木の幹に沿って、裏側に回り込む。まるで眼鏡の男が始めにしたような光景だ。
しかし見つめる私の目の前で、おばさんだけが反対側から出て来る。女の子の姿はない。
「あら? いない」
狐につままれたような顔で木の裏側を見ようとおばさんが再び回り込もうとする。
女の子が上手に逃げている訳ではない。私の目にもおばさんだけがグルグルと木の周りを回っているようにしか見えない。
女の子は忽然と消えていた。

「なんだったのかしら」
おばさんは立ち止まり首を捻っていたが、気を取り直したように私の方を見た。
「わたし、市内で占い師をしてるから、今度会ったららタダで占ってあげるわよ」
そう言ってウインクをしたあと、痛そうに腰をさすりながら公園の出口へ歩いて行った。

一人残された私は、今までにあった様々な出来事が頭の中に渦を巻いて、軽い混乱状態に陥っていた。
蛾が、街灯にぶつかって嫌な音を立てる。
色々な言葉が脳裏を駆け巡り、目が回りそうだ。その中でも、ある言葉が重いコントラストで視界に覆い被さってくる。
「救えなかった」
それを口にしてみると、ゴミ袋から覗く土気色の顔がフラッシュバックする。
そして暗い気持ちが、段々と心の奥底に浸透し始める。
ゴミ置き場に無造作に捨てるなんて、死体を隠そうという意思が感じられない。
まるで本当のゴミを捨てるようなあっけなさだ。
どんな家庭で、どんな母親だったのか知らないけれど、精神鑑定とやらでひょっとすると罪に問われなくなるのかも知れない。
子どもを殺したのに。
いや、直接手を下したのかどうかは分からない。
だけど彼女はしかるべき罪に問われるべきだ。
ふつふつとドス黒い感情が胸の内に湧き始める。
いけない。

顔を上げて、深呼吸をする。呼吸の数だけ、視界がクリアになっていく気がする。
また同じ過ちに身を委ねるところだった。
しっかりしないと。もう自分しかいないのだから。
ゆっくりと土を踏みしめ、公園の出口に向かう。そして車止めのそばにとめてあった自転車に跨る。

終わったんだ。全部。
そう呟いて、夜の道を、帰るべき家に向かってハンドルを切った。
雲に隠れたのか、月はもう見えなかった。

疲れ果て、最後の気力を振り絞って自転車を漕いでいた私は、家まであと少しという場所まで来ていた。
すべてが終わったという安心感と、なにもできなかったという無力感で、力が抜けそうになる足を叱咤してどうにか前に進んでいた。
両側に家が立ち並ぶ住宅地だったが、街灯の数が足らないのか、いつも夜に通ると少し心細くなる一角だった。
その暗い夜道の向こうに、緑色の光が見える。公衆電話のボックスだ。
子どものころの経験から、お化けの電話と呼んでいる例の箱。
今、その電話ボックスからヒトを不安にさせるような音が漏れて来ている。
DiLiLiLiLiLiLi…DiLiLiLiLiLiLi…と、息継ぎをするように。
それに気づいたとき、一瞬ドキッとしたがすぐにその正体に思い当たる。
またあの女だ。
私が帰る時間を見計らって、ずっと鳴らしていたのだろうか。
それとも今も、私の行く先をどこかで覗き見ているのだろうか。
どっちにしろ、近所迷惑だ。こんな夜中に。
無視したいのは山々だったが、溜息をついて自転車を降りる。
内側に折れるドアを抜け、箱の中に滑り込む。ベルの音が大きくなった。
緑色の鈍重そうなそのフォルムを一瞥したあと、受話器をフックから外す。そして耳と顎をくっつける。
「もしもし」
私の呼び掛けに、受話器の向こう側で誰かの呼吸音が微かに聞こえた。
「もしもし?」
もう一度繰り返す。耳を澄まして少し待つ。
ようやく、受話器から声が聞こえて来た。
「あなたはだあれ?」
間崎京子じゃない。
一気に緊張した。爪先から頭まで、電流が走り抜ける。
「あなたは誰なのかな。若い子ね。同い年くらいかな」
聞いたことのない声だ。けれど相手は若い女性であることだけは分かる。
「まあいいわ。言うべきことを言うね。…あなたは今、すべてが終わったと思っているわね。でもだめ。終わってないの」
淡々と語る口調は、いったいこの世のものなのだろうか。私の脳が生み出した幻覚ではないという保障は?
なんという名前だったか、あの近所の男の子。お化け電話から声が聞こえると言って怯えて逃げ出した子。私の耳には聞こえなかった。
誰か、今すぐここへ来て、私の代わりに受話器に耳をあててくれないか。
「あなたは死体の顔を見たわね。すっかり血が抜けたみたいに土気色をしていた。いったいどれくらい前に死んだのかしら。6時間?半日?一日?どちらにしても、きっとあなたが駆けつける前からとっくに死んでいたわね。そう、死臭も嗅いだはずよ」
なんだ?なにを言ってる?
なにを、言ってるんだ?
「あなたの、あなたがたの最後に見た夢は、いったい誰の見た光景なんでしょうね」
爪先から頭まで電流の走り抜けた場所に、今度は冷たい金属を流し込まれたような悪寒が発生する。
「終わってないのよ。途絶えたはずの意識に、続きがあった。そのかわいそうな子どもの魂は、肉体の檻から解き放たれて、今は夜の闇を彷徨っているわ。そして少しずつ、とっても恐ろしいものに生まれ変わろうとしている。それは檻の中にあっても街中に手が届くような力を持っていた。名前はまだない。怪物に、名前をつけてはいけない。きっと取り返しのつかないことになるから」
ねえ、聞いてる?
受話器の向こうで誰かが首を傾げる。
「あなたはもう一度それに遭うことになる。そして病いにも似た刻印を押され、真綿で締められるような苦しみの中に身を置くことになる。忘れないで。今夜出会った人たちがきっと助けになるでしょう。顔をよく覚えておくことね。あ、でもだめ。一人はいなくなる。『代が替わる』のね」
なにを言ってるんだ、いったい。
「わたしにも分からないのよ。ただこんな電話を掛けたという記憶があるだけ。夢の中でわたしが話してるのね。それを再現してるのよ。運命が変えられるかどうかは分からない。でも心構えをするってことが、大事になることだってあるでしょう」
クラノキ、と彼女は名乗った。
「顔も知らない人の夢を見るなんて珍しいな。きっといつかあなたとわたしは友だちになるのかも知れないね。そのころのわたしは、今夜の電話のことなんて忘れてしまってるでしょうけど」
じゃあ、お休みなさい。
そう言って電話は切られた。

混乱する頭を抱えて、私は電話ボックスを出る。
夢。まるで夢の中だ。なにが現実なんだろう。
ポルターガイスト現象の焦点だった少女が、エキドナが、怪物たちのマリアが、最期に恐ろしい怪物を産み落としたというのか。
それがやがて私に苦しみをもたらすと?
なんなのだ。どこからどこまでが現実なんだ。
目を閉じて、一秒数えよう。目を開けたら、他愛もなくありふれた土曜日の朝でありますように。
そのときだ。
目を閉じた私の中に、説明しがたい奇妙な感覚が生まれた。
それは言うならば、どこか分からない場所で、なんだか分からないものが、急に大きくなっていくような感覚。
私の五感とは全く関係なく、それが分かるのである。

私は辺りを見回す。離れたところにあったはずの街灯がもう消えてしまって、見えない。
大きくなってる。まだ大きくなってる。
熱を出したときに、布団の中で感じたことのあるような感覚だ。
象くらい?クジラくらい?もっとだ。もっと大きい。ビルくらい?ピラミッドくらい?
もっと。もっと、大きい。

私は訳もなく涙が出そうな感情に襲われた。それは恐怖だろうか。哀しみだろうか。
道の真ん中で空を見上げた。
月が見えない。
大きい。とてつもなく大きい。山よりも。天体よりも。どんなものよりも大きい。
夜に、鱗が生えたような。
呆然と立ち尽くす私の遥か上空を、にび色の魚鱗のようなものが閃いて、音もなく闇の彼方へと消えていった。

薄っすらと目を開けて、シーツの白さにまた目を閉じる。土曜日の朝。カーテンから射し込み、ベッドの上に折り畳まれる、優しい光。
窓の外からスズメの鳴き声が聞こえる。
いったい、スズメはなんのために囀っているのだろう。
ベッドの上に身体を起こす。
この私は昨日までの私だろうか。
あくびをひとつする。髪の毛の中に指を入れる。気分はそんなに悪くない。朝が来たのなら。
『運命が変えられるかどうかは分からない』という言葉が昨日の記憶から蘇り、羽根が生えたように周囲を飛び回り始めた。
もう一度寝そべって、シーツに指で文字を書く。
fate
暫くそれを眺めたあとで、手前にもう一つ文字をくっつけた。
no
それから、私は久しぶりに笑った。
怖い夢は、見なかった気がする。

三人目の大人

小学校2年生の教室で、図工の時間に『あなたの家族を描いてね』という課題が出た。
みんなお喋りをしながら色鉛筆で画用紙いっぱいに絵を描いた。

原っぱにお父さんとお母さんと女の子がニコニコ笑いながら並んでいる絵。
スベリ台のようなものに乗って遊んでいる子ども2人を、お父さんとお母さんが見ている絵。
お父さんとお母さんだけではなく、おじいちゃんおばあちゃんも一緒に並んでいる絵。
飼っている猫や犬も一緒に描いている子が多かった。
その年代の子どもはペットも家族の一員という認識が強いのだろう。

授業が終わり、描きあがった作品をひとつひとつ見ていた先生は、ふと、ある子が描いた絵に首を傾げた。
それはクラスでも大人しい、目立たない男の子が描いたもので、見た目には何色もの色鉛筆をふんだんに使い、賑やかで楽しい絵になっている。
けれどそこには奇妙な違和感があった。

画用紙には家族がテーブルらしきものを囲んで座っている絵が描かれている。
食事どきの団欒の風景だろうか。
みんなこちらがわを向いているのだが、その構成がどこかおかしい。
左からお父さんらしい眼鏡を掛けた大人と、お母さんらしいパーマ頭の大人、そして男の子が一人。さらに右端にはもう一人の大人がいる。
みんな笑っていて、口の中は赤い色で豪快に塗られているのに、右端の大人だけは口を閉じたまま、無表情で座っている。目は糸のように細い。
大人だということは身体の大きさで分かる。

クラスの子どもたちはみんな、子どもである自分と大人をはっきり大きさで区別している。
その右端の無表情の大人は、年齢はよくわからないが、皺を表す線がまったくないので少なくとも老人ではないようだった。

三人の大人と一人の子ども。
……それはどこか人を不安な気持ちにさせる絵だった。

先生はその男の子の家族構成を思い出す。
団地のアパートの一室に住んでいる一家で、お父さんとお母さんとその一人息子の三人家族だったはず。
ではこの三人目の大人はいったい誰なのだろう。
最近親戚でも遊びに来ていたのだろうか?
そう思って、先生はこびり付くような気持ちの悪さを振り払う。
気を取り直して次の絵をめくる。
けれど、頭の片隅ではその三人目の大人がどうして笑っている家族の中で一人だけ無表情に描かれているのだろうと、考えずにはいられなかった。

――2週間が過ぎた。
その日は参観日で、教室の後ろにズラリと並ぶ着飾った大人たちに子どもたちは気もそぞろ。
いつもは張り切って悪さをする子もその時ばかりはカチンコチンに緊張して大人しくなってしまっている。
先生は授業の終わりに
「このあいだの図工の時間にみんな家族の絵を描いたよね」
と言った。
きゃあ、という子どもたちの歓声。
そして先生は授業参観をしている父兄たちの後ろを手で示し
「後ろの壁に貼っているのがその絵です」
と言った。
父兄たちは一斉に振り返り、我が子の作品を見ようと絵の下に貼られた名前を頼りに探し始める。
そしてお母さんたちは「いやぁ」と口々に言って、大げさな身振りで恥ずかしがる。
お父さんたちは静かに苦笑をする。
子どもたちはてんでに騒ぎ始めて大はしゃぎ。
そんな光景を微笑ましく眺めていた先生は、父兄たちに話しかけようと教壇を降りて歩き始める。
その瞬間、つんざくような悲鳴が上った。

悲鳴は教室中に響き渡り、大人も子どもも息を呑んで動きを止める。
その声の主は、壁の隅の絵を見ていたパーマ頭の女性だった。
先生が駆け寄ると、その女性は目を剥き指を鉤のように折り曲げて口元にあてたまま叫び続けている。
その視線の先には、絵の中でテーブルの端に座る三人目の大人の無表情な顔があった。

「という怪談があってな」
と師匠は言った。
大学に入ったばかりの春のことだった。
彼は大学のサークルの先輩だったが、サークル活動とはまったく無関係に重度のオカルトマニアで、僕はその後ろをヨチヨチとついていく弟子というか子どものような存在だった。
「ここはどこですか」
一応聞いてみたが、答えは薄々わかっていた。

僕たちは人気のない団地の、打ち捨てられて廃墟同然になっているアパートの一室に忍び込んでいた。
僕たちがしゃがみ込む畳には土足の跡や、空き缶、何かが焦げた跡などがある。
少なくとも人が住まなくなって5年以上は経っている様子だった。

師匠は言う。
「その三人目の大人を描いた子どもが、家族と住んでいた部屋だ」
実話なんですか。
そう聞くと、頷きながら
「もともと巷の怪談として広まってるわけじゃなくて、個人的なツテで収集した話だ」
と言って、部屋を照らしていた懐中電灯を消した。

深夜の1時過ぎ。辺りは暗闇に覆われる。
どうして明かりを消すんだろうと思いながら、じわじわとした恐怖心が鎌首をもたげてくる。
「怪談の意味はわかったよな」
と師匠らしき声が暗がりから聞こえる。
なんとなく、わかる。
母親が最後に悲鳴を上げるのは、その三人目の大人が、本来そこに描かれていてはおかしい人物だったからだ。
まったく心当たりのない人物ではない。そうならば「誰かしら」と首を捻るくらいで、そこまで過剰な反応は起こさないだろう。

知っているのに、そこにいてはいけない人物。
それも死んでいなくなった家族などであれば、それを絵の中に描いた男の子の感性に涙ぐみこそすれ、恐怖のあまり悲鳴を上げたりはしないだろう。
知ってはいるが、家族であったこともなく、しかもテーブルを囲んでいてはいけない人物。
暗い部屋に微かな月の光が滲むように射し込み、柱や壁や目の前に座っているはずの師匠の輪郭をおぼろげに映し出している。
かつてテーブルが置かれていたであろう6畳の居間に僕は身を硬くして座っている。
闇の中に、青白い無表情の顔が浮かび上がりそうな気がして、どうしようもない寒気に襲われる。

師匠が、張り詰めた空気を震わせるように囁く。
「実は、気づいていないかも知れないが、この話を聞いた人間にもある影響が自然と及ぼされる」
ふーっ、という息を吐き出す音。
僕も息を吸って、吐く。
「話を聞いただけなのに、おまえは何故かもうその顔を想像している」
心臓が脈打ち、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
「大人と、聞いただけなのに、何故かおまえはその顔を、女ではなく、口を閉じた無表情の男の顔として想像してしまっている」
僕は耳を塞いだ。そして目を瞑る。頭が勝手に、虚空に浮かぶ顔を想像している。

どこからともなく声が聞こえてくる。
それがここにいてはいけない三人目の顔だよ

ビデオ 前編

大学二回生の初夏だった。
俺はオカルト道の師匠につれられて、山に向かっていた。
「面白そうなものが手に入りそうだ」と言われてノコノコついて行ったのであるが、彼の「面白い」は普通の人とは使い方が違うので俺は初めから身構えていたが、行き先がお寺だと知ってますます緊張してきた。
なんでも、知り合いの寺なのだとか。そちらから連絡が入ったらしい。
市内から一時間以上走っただろうか。師匠は「ここだ」と言いながら、道端に軽四を止めた。
周囲は畑に囲まれていて、山間に午後の爽やかな風が吹いている。
古ぼけた門をくぐり、地所に入るとささやかな杉木立の向こうに本堂があり、脇に設けられた庭園には澱んだような池が音もなく風紋を立たせていた。
「真宗の寺だよ」
と師匠は言った。
山鳩が鳴いて、緑の深い森に微かな羽ばたきが消えていく。
右手に鐘楼堂が見えたが、屋根が傾き、肝心の鐘が見当たらない。
打ち捨てられているようだ。
「あれは鐘が戦時中に供出されてからそのままらしい」
師匠の説明に顔をもう一度そちらに向けた瞬間、目の端になにか白いものが映った気がして、先へ進む師匠を追いかけながら首を捻ってあたりを見回したが何も見当たらなかった。
その白いものが服だったような気がして、少し気味悪くなった。境内には誰もいないと思っていたから。
師匠はズンズンと本堂から反れて平屋の建物の方へ向かっていった。
住職の住む家らしい。庫裏(くり)というのだったか。

玄関の方へ回ろうとすると「こっちこっち」という声がして裏手の方から手招きをしている人がいる。
随分背の高い男性だ。俺と師匠は裏口から招き入れられ、居間らしき畳張りの部屋に通された。
「親父さんは?」
師匠の問いに「出てる。パチンコじゃねえか」と男性は答えて、「じゃあ、例の、持ってくる」と部屋を出て行った。
二人取り残されてから、俺は師匠をつついた。
「あの人は黒谷さんっていう、悪い人。親父ってのがこの寺の住職。やっぱり悪い」
なにせこの僕に、供養を頼まれた物品を売りつけようってんだから。
ニヤニヤと笑う。
俺は先日見せてもらった心霊写真の束を思い出した。
あれも確か業者から買った横流し品だと言っていたはずだ。
「ああ、ここから直で買ったのも