恐怖の泉

実話系・怖い話「捨てられなかった人形」

私は男性なのですが、恥ずかしながら物心付いた時から小学6年生までずっと人形が大好きでした。
その人形は、まるでアメリカのアニメに出てきそうなアヒルのデザインで、随分と気に入っていた記憶があります。
確か当時は名前も付けていて、これほどまで愛着を持った人形は後にも先にもなかったです。

ところが思春期に入ると、やはり段々とそうした自分の趣味を恥ずかしく思うようになりました。
中学1年生の頃には初めて好きな女の子もでき、その子のことを考えると人形と常に一緒にいる自分が気持ち悪くなってしまったのです。

そこで処分をしようと思い立つわけなのですが、今までの人生を共に過ごしてきた大切な相棒です。抵抗感は拭えません。
こうしていつしかその人形は、部屋の片隅で捨てられないまま放置され、中途半端に存在する形となっていました。

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それから数ヶ月後、私は人形の供養ができるお寺の存在を知りました。
こんな場所があるのかと、当時は驚きました。
お寺に預けてちゃんとした処分ができるのであれば、私の中の罪悪感的なものも薄れると感じ、しっかり断ち切るなら今だと考えました。
私は母に運転をお願いし、そのお寺へと行くことにしたのです。

道中には薄暗い山道もあり、とても徒歩や自転車で向かえる道程ではありません。
助手席で人形を握り締めながら眺める景色には、若干の怖さがあったようにも思います。

異変が起きたのは、お寺まであと数キロという場所まで来た時でした。
突然母の車がガタンガタンと揺れ始め、慌てて車外へ出てみるとパンクしていたのです。

唖然とする私達。
まさかそこから車を放置してお寺に行けるわけもなく、ロードサービスを手配している間に供養の受け付けは終わってしまいました。

この時には、単純に不運だったとしか思っていませんでした。
ところがこれを皮切りに、その後も人形を手放そうとする度に不思議な現象や、不吉な出来事が起きるようになります。

タイヤのパンクから1ヶ月後に再びお寺へ向かおうと準備をしていると、祖父が倒れたとの一報が入りました。
原因は心筋梗塞で、もう少し搬送が遅れていたら間に合わなかったでしょうとのことでした。
ちょうど私と母が自宅を出ようとしていた際に連絡があったので、結局その日もお寺に行くことはできませんでした。

3度目にお寺へ行く計画を立てている時は、なんと肝心の人形が見当たりません。
前日までは確かに部屋へ置いてあったはずなのにも関わらず、忽然と姿を消していたのです。
結局半日探し回っても見つかることはなく、またお寺に行くことを諦めざるを得ませんでした。

ところがお寺での供養を断念した途端、あっさりと私の布団の中から見つかるわけです。
つい数時間前まで家中をひっくり返したかのように探しまわり、それでも見つからなかった人形は当たり前のようにありました。
何かおかしいな、と感じ始めたのはこの時くらいからだったと思います。

結局、私は2年間の間に計8回ほどこの人形を手放そうとしました。
しかしいずれも絶妙過ぎるタイミングで何かしらが起き、その大半は私たち家族にとって良くないことだったのを覚えています。
供養は諦めて普通に捨てようとした時もありましたが、私が転倒して手の小指の骨にひびが入ったこともありました。

こう話しても信じてもらえないでしょうし、偶然だろうとも思いたいですが、私達家族にはもう人形に何かあると思えてなりません。
それくらい、深い執念のようなものを感じる出来事の連続でした。

この出来事から約20年ほど経ちますが、今もまだその人形は実家に存在しています。
もう私の部屋はないので納屋に人形はあるはずですが、恐らくは何年も手に取られていないことでしょう。
捨てられないというよりも、捨てさせないという表現の方が正しいのかもしれません。

よく「大切にしてる物には心が宿る」という話がありますが、私はこうした経験からそれは本当なのだと信じています。
皆さんも何かしら、処分なり譲渡なりを考えている人形をお持ちかもしれませんが、その際にはくれぐれもお気を付けください。

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