恐怖の泉

実話系・怖い話「アウシュヴィッツ強制収容所」

アウシュヴィッツ強制収容所とは、第二次世界大戦中の1940年から1945年にかけて、ナチス・ドイツ(当時)の占領下にあったポーランド領内に作られた強制収容所の名称です。

アウシュヴィッツ強制収容所には老若男女問わず数多くの人々が強制的に連行され、金品も自由も人権も希望も絆も生きた証も、まさに全てを奪われて虐殺、拷問、人体実験、強制労働と残虐非道の限りが尽くされました。
アウシュヴィッツで亡くなった方々の数はおよそ150万人とされていますが、当時のナチス・ドイツ占領下に点在していた全強制収容所を合わせると被害者は数百万人以上ともいわれ、その正確な数はもはや測り知ることもできません。
現在ではアウシュヴィッツ強制収容所の残された施設が世界遺産に登録されており、公開されています。

※この話には残虐な表現があります。苦手な方は閲覧をご遠慮下さい。

【アウシュヴィッツ強制収容所の正面入り口】
アウシュヴィッツ強制収容所の正面入り口写真

スポンサーリンク

ナチス・ドイツの台頭

1930年頃、第一次世界大戦の敗戦によって連合国から巨額の賠償金を請求されていたドイツは経済が崩壊し、パン1個がおよそ1兆マルクという未曾有のインフレーションが発生していました。
そこへさらに世界恐慌が追い打ちをかけ、ドイツの企業は次々と破産。失業率も40%を超えるなど、経済は混乱を極めました。

そんな1933年に政権を掌握したのが、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)でした。そのため1933年から1945年までのドイツは「ナチス・ドイツ」と呼ばれています。

ナチスは急速に経済を回復させ国民の支持を得ますが、その政策は軍事力、つまり戦争へと向いており、第二次世界大戦を引き起こします。
さらにナチス・ドイツ内にはとりわけ強い偏った人種主義思想が蔓延しており、絶滅政策(ホロコースト)という悲劇を生んでしまいました。
ナチス・ドイツはあろうことか、ユダヤ人の絶滅を企てて実行しました。その最たるものが「アウシュヴィッツ強制収容所」です。

この世の地獄

オシフィエンチム市(ドイツ語でアウシュヴィッツ)とブジェジンカ村(ドイツ語でビルケナウ)に造られた強制収容所には、ユダヤ人を主に戦争捕虜やナチス・ドイツの反対派等が強制的に連れてこられました。
収容されたほとんどの方が普通に暮らしていた一般人であり、収容された理由はただ単に「ユダヤ人である」というものでした。

強制収容所に入れられたが最後、出口は煙突の煙しかないと言われ、それはすなわち死を意味していました。
アウシュヴィッツ強制収容所にはおよそ数百万人もの人々が入ったとされていましたが、1945年の開放時には7,000人程度の生存者しか確認されていません。

【強制収容所に連れられた人々の様子】
強制収容所に連れてこられた人々の様子を撮った写真

選別
アウシュヴィッツ強制収容所に来ると、まずは選別が待ち受けていました。
労働力とみなされない妊婦、女性、病人、老人、身長120cm以下の子供等は右、それ以外は左へと、選別はいとも簡単に行われました。
右に送られた人々が長い行列の末に入れられた部屋はガス室であり、そこで大量殺害の犠牲者となる運命だったのです。

ガス室
右へ行くよう指示された者は「消毒のためシャワーを浴びる」という名目で、裸にされて狭いガス室へ押し込まれました。そして扉が閉められると壁に造られた隙間から「チクロンB」という毒ガスが投入されました。
中から響き渡っていた鳴き声・叫び声は、10分もすると一切聞こえなくなったといいます。
30分ほど後に扉が開けられ、被収容者の手で死体が運び出されました。死体は隠しもっている物品や金歯などあれば取り除かれ、燃やされました。焼却施設は毎日出る多数の亡骸を燃やすため、絶えず煙を吐き続けたといいます。燃え残った骨は砕かれ、近くのビスチュラ河へ捨てられました。
この大量虐殺を外部に漏らさないため、死体の運び出しや焼却に携わった人は定期的にガス室へ送り込まれて殺害されました。

【ガス室の様子】
ガス室の写真

強制労働
例えガス室行きを免れたとしても、その後に待ち受けているのは限界を超えた強制労働です。
髪を切られ、番号と区分を表すバッジ、囚人服のみが与えられた人々にはもはや人権など無く、使い捨ての労働力でしかありませんでした。
労働内容として代表的なものが懲罰部隊で、ここに配置された被収容者は過酷な肉体労働を強いられ、ほとんどが短期間のうちに死亡しました。
氷点下なのに服は布きれ1枚。手足は凍傷のため黒く変色して腐り、歩く度に耐え難い激痛が襲ったといいます。
仕事は線路を敷く、下水溝を作る、道路を作るといった重労働で、ペースが遅れたり失敗をしようものならばカポ(監視役)に激しい暴行を受けたり鞭を打たれました。

【過酷な環境に横たわる人々】
極度の飢餓と過酷な強制労働で身動きもとれない人々の写真

最悪の生活
被収容者の生活環境は非常に劣悪で、虱(シラミ)と排泄物にまみれていました。
もともとアウシュヴィッツ周辺自体が住み良い地域ではないため、夏は40度近くの猛暑、冬は氷点下20度の極寒にさらされることとなります。
寝床は1人用ベッドのようなものに複数人が横たわり、寝返りを打つこともままなりません。布団と呼べるものはなく、1枚のボロボロになった布きれを皆で被るのみでした。
トイレは自由に行けないため、排泄物は収容棟の床に溢れていました。
食事は朝にコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒーではありません)が1杯、昼は具無しスープ、夜はパン1個と稀にマーガリン等がつく程度でした。
当然必要な栄養がまかなえるはずもなく、多くの人々が餓死していきました。
常に病気(発疹チフス等)も蔓延しており、元医療関係の被収容者が対応にあたっていましたが、治療する設備もないため多くの方が命を落としました。
収容所の過酷な生活に耐え切れなくなった者は、脱走を防ぐための高圧電線を張り巡らされた鉄条網へ身を投じ、自殺していきました。

拷問・処刑
被収容者の監視役は「カポ」と呼ばれていました。カポに選ばれたのはドイツ内で服役していた元囚人であったり、ナチス・ドイツに協力的な被収容者でした。
カポには他人に対して残虐である資質が求められ、被収容者達を地獄へ陥れました。
暴行などは理由もなく日常的に行われ、気絶するまでの鞭打ち、長時間の起立、意味のない労働といった拷問を被収容者へ与えました。
人1人がやっと立っていられるスペースしかない独房へ入れられた者は、そこで指の爪をはがされるなど徹底的に痛めつけられ、飢えと衰弱の末命を落としました。
収容棟の中でも11号棟は「死のブロック」と恐れられ、万単位の人々が銃殺・絞殺で処刑されております。

人体実験
収容所内では非人道的な人体実験も繰り返され、多くの命が失われました。
ある者は、マラリアといった病気や毒物の研究と称して強制的にそれらを体内へ入れられ、あらゆる薬物を投与されました。当然治癒を目的としているはずもなく、多くの方が亡くなりました。
気圧を調整できる密閉された部屋へ強制的に入れられた者は、急激な気圧変化に身体が耐え切れず、無惨な姿に破壊されて命を落としました。
冷たい氷水や野外に裸の収容者を放置し、そこから蘇生を試みる実験も行われました。低体温に陥れられた体は回復することなく、死が待っていました。
健康な人の身体の一部を別の場所へ移植したり、欠損させる実験も行われました。しかも麻酔を使用しないというのですから、想像を絶する苦痛であったと推測できます。被験者はたとえ生き長らえたとしても、一生残る障害を抱えさせられました。
双子は貴重な実験体として扱われ、薬品等の比較実験を受けたり、互いの体の一部を交換したり結合されたりといったおぞましい実験が成されました。
明るみになってる人体実験だけでも地獄絵図そのものですが、戦後これらの犯罪はニュルンベルク裁判によって裁かれ、ニュルンベルク綱領の制定へ繋がります。

強制収容所の解放

ナチス・ドイツの勢いが弱まって第二次世界大戦が終わりに近づき、連合国が領内へ拡大したことで、強制収容所の存在は明るみに出ました。
それまで強制収容所の噂はドイツ国内で広まっていたそうですが、結果的にはナチスが崩壊するまでこの恐ろしい虐殺が続けられてしまいました。
強制収容所としてはアウシュヴィッツが最も有名ではありますが、他の収容所もアウシュヴィッツ同様、阿鼻叫喚の地獄が広がっていました。

そのような中でも、一部の人々にはナチス・ドイツへの抵抗がみられ、その勇気ある行動は福島県白河市にあります「アウシュヴィッツ平和博物館」でも閲覧することができます。

とても信じがたく目を背けたくなるような内容ですが、これらは実際に起きた悲劇です。
アウシュヴィッツ強制収容所は、平和とは何なのか、人が生きるとはどういうことなのか、今でも静かに語りかけてくるのです。


いま、私たちの心の中に、「優秀な人間」と「だめな人間」とを分けようとする考えがないだろうか?
みんなとちがう意見をいう人を「じゃまなやつ」だといって、仲間はずれにすることはないだろうか?
強い者にきらわれたくなくて、いけないことが分かっているのに、やってしまうことはないだろうか?
自分さえ得をすれば、「他の人なんかどうでもいい」と、思うことはないだろうか?
あの時のように…
アウシュヴィッツは、狂った人びとが、まちがえて作ったものではなかった。ドイツ人がどうかしていたのでもなかった。
ただ、自分が困った時に、もっと困っている人びとを思いやれなかった。自分さえよければ、他の人がすこしくらい苦しんでも、すこしくらい死んでもしかたがないと思っていた。
自分が優秀で正しいと思うあまり、自分がほんとうはなにをしているのか、分からなくなっていた。
もしかしたら、アウシュヴィッツで罪をおかした人びとは、みんなどこにでもいる、ふつうの人たちだったのではないだろうか?
私たちと同じように…
アウシュヴィッツはほんとうに終わったのだろうか?
ガス室は、ほんとうに消えたのだろうか?
120センチの棒は、もうないのだろうか?
私たちの心の中に、アウシュヴィッツは、ほんとうにないのだろうか?

青木 進々著『アウシュヴィッツの子どもたち』(グリーンピース出版会)より引用


アウシュヴィッツ平和博物館夜と霧

スポンサーリンク

TOP